興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

楼門屋根裏の落書きで候 魚吹八幡神社大掃除より

2009年12月31日 | 魚吹八幡神社

                

 魚吹八幡神社で27日に行われた年末大掃除では、興浜は主に楼門の清掃を担当させて頂いている。

 下の写真に写っている魚吹八幡宮の扁額の下から屋根裏に入る事ができる。

 普段は施錠されているが、秋祭りの電気工事をする時に一緒に入らせて頂いた。梁に書かれている文字がタイトル写真である。

 楼門の屋根替えを昭和3年に行った時に、痛んだ梁の部分を交換する木材に、大正3年に大鳥居を建てる時に使った木材を使用した跡であろうか。

 興浜興伸会と興浜青年団の清掃風景を含めての今年最後の投稿となりました。

 今年も一年ありがとうございました。

 来年もよろしくお願い申し上げます。

        

      

                         

     

     


魚吹八幡神社壮青年会 第6回大掃除

2009年12月30日 | 魚吹八幡神社

 27日(日)の午後、今年も魚吹八幡神社の大掃除が行われた。

 年々参加者も増え200名以上の有志が集まりあっという間に魚吹八幡神社のお掃除が終了し、新年を迎えるだけとなった。

     

     

     
 楼門では鳩の糞との格闘である。
 最初の頃はジェット洗浄機で掃除をしていたのだが、重要文化財という事で全て雑巾を使っての手拭きである。



     
 本殿と本殿まわりの掃除風景。

     
 拝殿の屋根の上でも鳩の糞と格闘中。

     
 馬舎まわりは、おみくじをはずして掃除中。

     
 厳島神社も掃除中。

              
 放生池が一番手間のかかる大仕事である。
 
     
 神輿殿は掃除がおわり注連縄を取替え中。

     

     
 新社務所も内側と外側から窓を拭いている。

     
 掃除がほぼ完了して、拝殿前の注連縄が取り替えられている。

     

     
 大屋根から境内東側の望む。
今年の秋祭りの前に設置した、屋台据付用の板石が綺麗に見える。

     
 15時、放生池の掃除のみを残し、澤宮司から終了の挨拶。

写真提供 魚吹八幡神社


大覚寺 寺宝展より お気に入りの獅子

2009年12月24日 | 大覚寺

 この獅子をのぞきこんでいると、大覚寺の方丈さんが「ええ感じやろ。」と声を掛けて頂きました。

 「これは何ですか。」と問うてみると、ずっしりと重いこの獅子を持ち上げて、足の裏の部分を僕に見せながら、いつもながらのやさしい口調で「大きな香炉の蓋の取っ手やったのかなぁ。」と仰られた。

 確かに獅子の足の裏側は、蓋の部分から取り外されたような形跡を残していました。

 浄土宗西山禅林寺派の管長になられれば、このように気軽に声を掛けて頂き質問をする事も無くなるのでしょうか。良き思い出となったひと時をつくってくれた、お気に入りの獅子です。


大覚寺 寺宝展より 丸亀藩京極家で候

2009年12月16日 | 大覚寺

 興浜村は江戸時代、寛永14年(1637)から龍野藩京極家が、又万治元年(1658)からは、京極家が四国丸亀藩に移ってからは、飛び地として陣屋が築かれ明治時代まで京極家が治めていた。

 大覚寺は京極家が四国丸亀藩に移ってから参勤交代の時の本陣であった。

 そのため、京極家の平四つ目結紋入りの道具類が今も大事に残されている。

 丸亀市が発行している『丸亀 郷土の歴史を彩った人々』を参考に一番下の写真の掛け軸を描かれた丸亀藩京極家二代目の藩主京極高豊公について書いてみる。

 
明暦元年(1655)に播磨龍野藩主であった京極高和の次男として生まれる。万治元年(1658)、京極氏は播磨龍野から讃岐丸亀へ移封となる。寛文2年(1662)に父の死により家督を継いだ。
 京極家は、代々風流を好む家柄であったが、高豊公もまた茶の湯を好み、京都の焼き物の名人仁清(じんせい)に命じて茶の道具を作らせた。
 
34歳の時には丸亀と多度津のほぼ中間に「中津万象園」を造った。この庭園にはもちろん茶室もつくられたようだ。
 
絵筆を執らせてもなかなかの達人だったということだ。
 
「中津万象園」の普請から七年後の元禄七年(1694)高豊公は参勤交代を無事に終えて丸亀へ帰る途中、ほうそうを病み播州加古川の宿で40歳で亡くなった。

 右側の平四つ目結紋入りの道具は香合というものであろう。

 香合:澤田運輸建設(株)カレンダーより
 ふた付きの香入れ容器で、漆器、陶磁器、貝製等がある。
寺院で用いる大形のものは堆朱や鎌倉彫等の漆器の大香合が多い。小形のものは長方形の歯黒箱・方形の白粉箱・円形の薫物箱など流用された。なかでも陶製の型物香合が珍重された。


大覚寺 寺宝展より 青面金剛明王之像

2009年12月13日 | 大覚寺

  

 先月の11月11日に姫路市内において「こころの祭」が開催されたが、大覚寺の寺宝展も今回は「こころの祭」に合わされたようだ。

 平成18年4月27日に投稿した、金刀比羅神社 合祀記念碑 の記事に本町橋南側にあった湾洞神社を明治41年9月18日に合祀した事を書いた。

 金刀比羅神社には神道として祀られていた猿田彦を合祀したのだが、仏教として祀られていた青面金剛は大覚寺にお預けとなった。

 青面金剛については、ここ最近は3~4年に行われる寺宝展で見る事ができる。

 大覚寺総代である長澤啓文氏からの聴き取った話しを紹介する。
 丸亀藩陣屋の舟付場(旧本町橋南側)ほとりに、興村々有の福寿院庚申堂と付属の参籠会所が有った。
 揖保川流域の各村落の修験道の先達衆が集まる福寿院山行講々元会所でもあった。
 元治元年の記録によると大先達篭屋太右衛門と有り、大峰信仰の拠点であったが、明治新政府の廃仏稀釈・神仏分離の令による大峰信仰の禁止、又無住のお寺やお堂の取り壊しの令により庚申堂にも苦渋の選択を余儀なくされた。
 当時京都方面より修験者、陰陽師、神官職の澤山氏が篭屋宅を宿に年2回修行に来て居られ、長澤太郎右衛門ら村役協議の上、庚申堂と屋敷一切を澤山氏に任し庚申堂の護持を願い定住をお願いした。
 了承されて庚申堂に澤山氏は定住する事になった。
 湾洞神社の神像猿田彦之命は、関町にあった恵美酒神社神社と共に金刀比羅神社に合祀されたと思われる。


青面金剛(しょうめんこんごう) 『広辞苑』より
①顔の色が青い金剛童子。大威力があって病魔・病鬼を払い除く。六臂三眼(ろくひさんがん)の忿怒相(ふんどそう)をしている。
②俗に民間で行われる庚申会(こうしんえ)の本尊で、猿の形相をしているもの。
 

 左の二体の童子が青面金剛の両脇に配されていたのだろう。

 

 

青面金剛が納められている箱の裏側に合祀された事が書かれている。

 


永観堂 画仙堂

2009年12月06日 | 大覚寺

 興にある大覚寺は現在浄土宗西山禅林寺派に属している。
創建当時は真言宗であったが、永正年中(1504~21)に真言宗から浄土宗に転宗された。

 その本山である浄土宗西山禅林寺に一昨日大覚寺の「お経と法話の会」のメンバーで日帰りツアーがあったのだが、興ちゃんは仕事の為断念した。

 メンバーのひとりであるMさんに永観堂境内にある画仙堂の写真を撮影して来てもらうようお願いした。それには訳がある。

 興が誇る日本画家である小野周文の師匠である長安義信について調べる為に赤穂の田淵記念館に行った時に購入した『赤穂ゆかりの画家 鈴木百年・松年』にはこう書かれている。

 鈴木松年(しょうねん)は日本画家であった百年の長男として嘉永元年(1848)6月14日に京都四条堺町西に生まれた。名は世賢、幼名は百太郎と称した。画号は初め百僊、32歳頃松年に改めた。
 祖父の鈴木図書が天文学者で赤穂に生れているので赤穂にゆかりがある。
 父百年は安政元年(1854)27歳の時、皇居炎上に伴う造営に際し、杉戸に「月下の鹿」・「菊に鶉」・「杉に白鷹」・「批把花に狗子」を描き、襖・地袋等の絵を描く。文久元年(1861)34歳の時、皇女和宮降嫁の土産品として屏風に四季の草花を描く。
 松年は明治32年52歳の時、天龍寺法堂の天井画を描く。明治38年58歳の時、三千院客殿の襖絵を描く。信心深い面があったとされ、それゆえ大正3年67歳禅林寺永観堂に画仙堂を上棟したのだろう。
 その時画仙堂の天井画を松年は息子松僊に託している。
 松年が亡くなった翌年の大正8年、松僊は画仙堂で父松年と祖父百年の追悼展観を行った。

 その鈴木派の業績を今に残す画仙堂は現在は内部非公開であるが、年に一度の寺宝展の為一昨日は公開されていたようである。ただ内部での写真撮影は禁止という事であったようだ。

 興浜の渡邊鼎は松年と同じ嘉永元年生まれで、小野周文はひとつ年上である。鼎、周文ともに大正3年頃は興に戻って来ていたはずだ。鼎は大覚寺顧問として大覚寺の古文書の整理をしていた時期に、大覚寺の総本山である永観堂では鈴木松年が画仙堂を寄進していたという事だ。

 Mさんが撮影された天龍寺と天龍寺の塔頭寺院のひとつである宝厳院の紅葉写真も見事であるので掲載する。

 先に書いたが、天龍寺にある法堂の天井画「雲龍図」も鈴木松年が描いていた。描いていたという過去形であるのには理由がある。傷みが激しくなり平成9年に加山又造画伯によって描き換えられた。図案は違うが同じく「雲龍図」である。

 メンバーは知らず知らずか鈴木松年の足あとを追った形となったようだ。