興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

橋で候9 網干大橋

2010年12月04日 | 橋梁



 兵庫県神戸市長田区から岡山県岡山市北区の146.3kmの国道250号線は、瀬戸内海に沿って走る為通称「浜国(はまこく)」と呼ばれている。

 その浜国が揖保川を越えるべく架けられたのが、網干大橋である。

 タイトル写真である、ランガー部分はまさしく網干のランドマーク的存在で、遠方から車で来る友人に網干を説明するのに好都合の構造物であったが、車にナビが搭載されている現在ではその必要もなくなったが、このランガーと中学校の修学旅行で見た西海橋のアーチが興ちゃんを橋の世界に誘いこんでくれた。

 現在西行車線である南側の橋と東行車線の北側の橋は建造年月が違う。

 昭和61年までは南側に架かるランガー橋のみで、昭和35年3月の竣工である。
橋梁形式は東側より3径間連続合成鈑桁(ばんげた)・下路ランガー橋・単径間合成鈑桁。
幅員は7.5mで支間長は、3径間連続合成鈑桁が3×32m・下路ランガー橋57m・単径間合成鈑桁28mで橋長は183.33m。
老朽化に伴い、近年よくコンクリート床版の補修工事をしていたようであるが、平成18年にランガー橋の床版をHSLスラブに置き換える工事をする事で一連の最終工事となったようである。
来年より南側にアルミ製の桁を張り出し歩道にする工事が始まるようだ。

 調べてみると国道に指定されたのは昭和31年7月10日という。
国道に指定された時はまだ網干大橋は架かっていなかったので、通り抜ける事ができない歯抜けの国道であったようであるが、当時としては珍しくない事であったと推測する。

 北側に架かる橋は昭和61年1月竣工である。
橋梁形式は東側より単径間非合成鈑桁2連・3径間非合成連続鈑桁。
幅員は9.5mで支間長は、単径間非合成鈑桁2連が2×31.6m・3径間非合成連続鈑桁が32m+57.8m+29.3mで橋長は183.33m。
こちらは北側に歩道がある。

 南側に架かる西行車線の古い橋 

 

 
 この塗装歴板からわかるように、塗り替え塗装の時期がランガー部分が平成8年でその他の桁が平成19年と11年の差がある為、ランガー部分が薄くなっている。

 

 

 北側に架かる東行車線の橋 

 

 

 

 

 
 西側からの写真。右側が西行車線、左側が東行車線。

 
 揖保川右岸下流側より

 
 揖保川左岸上流側より

 
 揖保川左岸下流側より

 
 東側より下流側の西行車線を望む

   
 東側より下流側の西行車線を望む

 
 東側からの写真。右側が東行車線、左側が西行車線。

 
 揖保川左岸で網干大橋下流側で現在工事中の道路付け替え工事。


橋で候8 真砂大橋(まなごおおはし)親柱

2010年09月22日 | 橋梁
 林田川が揖保川と合流する手前の真砂橋(まなごばし)の下流側に新たに架かった真砂大橋(まなごおおはし)の親柱の施工がやっと終わったので、橋の親柱について簡単に書いてみる。

 『
橋で候6 境橋』 で書いているが、境橋は江戸時代に網干の丸亀藩興浜村龍野藩新在家村の境に架けられたので境橋と名付けられた。

 この真砂大橋は現在の行政区では東側の太子町吉福と西側のたつの市揖保町真砂の境に架けられた。

 親柱の銘板の配置については、兵庫県の共通仕様書に従い施工されたのであるが、この親柱の文字の揮毫(きごう)について触れておきたい。

 江戸時代の境橋の親柱の文字は、興浜側と新在家側とは異なっている事が4月30日に投稿した『
橋で候6 境橋』から解る。もちろん夫々の村の者が書いたのであろうと推測される。

 今回の真砂大橋についても同じである。
太子町長とたつの市長にそれぞれ依頼して書いて頂いている。

 橋名板の下に御影石で造られた橋飾板(きょうしょくばん)は、道路起点側である太子町側は聖徳太子ゆかりの斑鳩寺の三重塔にちなみ三重塔が刻まれている。道路終点側であるたつの市側は童謡赤とんぼの作詩者である三木露風の出身地にちなみ赤とんぼが刻まれている。


 ① ②

 ③ ④

橋で候7 横河重陳の石碑を訪ねて

2010年06月07日 | 橋梁

 3月21日に投稿した、橋で候 二見横河公園3の石碑の碑文の中に、この公園の隣の菩提寺観音寺にある重陳の巨碑は、市指定文化財である。と書いてあったのでもう一度訪ねてみた。

 タイトル写真の大きな石碑がそれで、4面全てに碑文が書かれてあるが、すでに風化しており解読は困難である。

 住職にお願いして石碑の拓本から読み取ったものを頂いて帰った。

 詳しくは後日になるが、横河家のご先祖である横河重陳が、寛永元年(1624)、大坂城桜紋の石垣築造の時、備前犬嶋から、縦4間、横8間の巨石を切り出して海上を大坂城に運び、人々を驚かした。桜門前の巨石がこれである。という事が書かれてあるようだ。

 真砂大橋の工事の担当部分が無事終ったという事もあり、横河グループの創業者である、横河民輔氏の墓参りも兼ねての訪問であったが、住職さんに聞けば、兄弟である民輔氏と震八郎氏以降のお墓は、北に少し行ったところにある大三昧にあるとの事だったので、そちらに向かった。





 
横河家の菩提寺である観音寺。
  

 


 
元々お寺の墓所にあったようだが、庫裡の横に移動されたようだ。

 

 
横河グループ創業者である、横河民輔氏のお墓。

 

 
 



大三昧にある、横河家の墓と、大きな石碑。
後日解読していく予定である。

 真砂大橋の現況をデジブックでご覧下さい。
 高欄は他社施工であるので、高欄設置前の写真となります。



 



橋で候6 境橋

2010年04月30日 | 橋梁

 おかげさまで、今月は忙しい日々でブログの更新もしていなかったのだが、ひとつだけでもと思い姫路市網干区興浜と新在家に架かっていた境橋の事を書いてみる。




昭和40年頃の境橋。無断ではありますが、掲載させて頂きました。

           
  発起人は両村(興浜・新在家)で匿名希望という事だ。
            
  石工は現在の岡山県児島の義兵衛とある。

                
 右側のコンクリート部分が、橋が架かっていた部分で現在の網干川支線である。
興浜地区と新在家地区のこのあたりの雨水がこの水路に落ちて興浜墓地の南側を通り海に流れる。

 

   
 古い写真から解読すると、左の写真の「さかひはし」は興浜の南側、「境橋」は新在家の北側。 
右の写真の「境橋」は興浜の北側、は「さかひはし」新在家の南側。

 普段は気が付かないが、興浜側と新在家側で親柱の文字を書いた方が違うようだ。

 境橋は江戸時代に架けられた為、上流側に漢字で橋名を、下流側にひらかなで橋名を書いてあるが、現在の橋にはルールがあるので少し紹介しておくと、現在の公共工事で橋を架ける時は、
兵庫県が発行している土木工事共通仕様書に基づいて仕事をする。

 その中の橋名板の項目で下記のように設置するようにと明記されている。


橋で候5 橋名板について

2010年03月28日 | 橋梁

 タイトル写真は、姫路市網干区興浜と新在家に架かっていた「境橋(さかいばし)」である。

 境橋については後ほど記事を掲載する予定であるが、その前に橋について少し勉強していこう。

 今回は、橋の親柱に記された「橋名板」についてである。

 タイトル写真の境橋は江戸時代に築造された橋の為、親柱そのものに橋名を刻んでいるが、現在の橋の場合、石やコンクリートで製作した親柱に別のプレート状の石等をはめこむのが主である。

 橋名を記した文字についてが今日の主題である。

 境橋は「さかいばしと発音するが、「さかひはし」と記されている。

 ばしであるはずであるが、濁点を付けずはしと表記している事には意味がある。

 かわの文字に濁点がつくと川が濁り、濁流が流れる洪水を連想し、村に災いが来ると忌み嫌って濁点をつけないという、昔の人の知恵であり、苦労して完成した橋が永く人々が往来できるようにと祈りを込めたのであろう。

 このような伝承はすでに途絶えており、現在においては「ばし」と表記された橋は沢山ある。哀しい事であるがこれも時代の流れなのだろうか。 

大阪に行った時に撮影した橋の写真にも濁点はなかった。

     

  

 親柱に取付けられた橋名板は「おほえはし」とあるが、信号のプレートにあるように実際は「おおえばし」である。

       
     
  淀屋橋(よどやばし)も親柱の橋名板は「よどやはし」である。


橋で候4 JR大久保駅構内掲示板

2010年03月25日 | 橋梁

 二見横河公園から5kmほど東に行ったところにJR大久保駅がある。

 この駅の構内にある列車時刻表掲示板に横河橋梁製作所の足跡を発見。

 調べてみると、大久保駅の開業は姫路駅と同じ明治21年12月23日。ちなみに現在のJR山陽本線である山陽鉄道の開業は明治21年11月1日である。

 支柱には、横河橋梁製作所以外に、鐵道院(てつどういん)と大正2年の文字が刻まれている。

 想像すると、大正2年に地元出身の横河民輔が経営する横河橋梁製作所が駅構内のホームとホームを結ぶ、跨線人道橋(こせんじんどうきょう)を造り、現在の橋上駅に変わった時に当時の遺産として、部材の一部を使用して掲示板の柱として保存したのだろう。



                     


橋で候3 二見横河公園 3

2010年03月21日 | 橋梁

 石碑にはめ込まれた銅版に横河家の歴史が記されています。

 写真では読みづらいので解読してみました。

 


             二 見 横 河 家 に つ い て

 古くから、歌枕として多くの宮廷歌人に親しまれた二見の浦を見はるかすこの地は、横河家本邸跡で、横河家および横河グループ関連事業の発祥の地である。

 横河家は、宇多源氏である近江の佐々木の党の一族で、南北朝の頃、十一世弥三左衛門重光は、宇佐八幡宮において、神息の剣を賜わり、播磨の強賊を平らげた武将で、その功により室谷郷を得たので、室谷を姓とした。重光が太祖で、正慶2年(1333)に没し、鬼貢神として、東二見に祀られている。

 室町時代に公孝は、別所氏に属して武功をたて、姓を横河と改め、文明4年(1472)に観音寺本堂横に法船寺を建てた。

 室谷安重は、元亀年中(1570~73)に二見を襲った海賊の将と戦って共に戦死したため、兄重定は、残族を泉州田川まで追ってこれを降伏させた。郷民は、慈父のように敬慕した、兩今、家の白壁を塗り変えて赤壁としたので、赤壁の家と呼ばれた。

 重定の子重陳は、慶長6年(1601)16歳の時、池田輝政に仕えて船大将を命ぜられ、水夫百余人を指揮した。高砂築城の時、重陳は、龍山から巨石を切り出して使用し大いに賞せられた。同19年11月、大坂冬の陣に重陳は、池田忠雄の船大将を勤め、伯楽渕において、敵将平子主膳を討ち取ったので、この戦、一番槍一番首の功として、家康と忠雄とから感状を、忠雄の母良照院から感文を授けられた。

 寛永元年(1624)、大坂城桜紋の石垣築造の時重陳は、備前犬嶋から、縦4間、横8間の巨石を切り出して海上を大坂城に運び、人々を驚かした。桜門前の巨石がこれである。

 この公園の隣の菩提寺観音寺にある重陳の巨碑は、市指定文化財である。

 横河秋涛は、安定の長男で、西洋医学を志し、江戸に出て、杉田、坪井の二大学者について、蘭学を学び、嘉永3年(1850)、帰郷して、西洋医術による新医療を開始したので、患者や門生が次々と絶えず、地方医療の発展に貢献した。秋涛は、温順篤好の人で、和漢洋の学に通じ、著書に「開化の入口」、「医統歌」が、遺詠集に、「播陽風土詩」がある。

 秋涛の長男規一は、司法省、大審院に奉職の後、三井組に入り、八王寺銀行、冨士製紙会社の創業に尽して、斯界の発展に尽瘁した。

 横河震八郎は、秋涛の第二子で、明治3年大坂開成学校に学び、さらに各地で医学を修めて神戸市において開業した。わが国初の西洋医学による小児科医で、伝染病隔離病棟、その他を多数設置して、社会に貢献した。

 正五位工学博士横河民輔は、秋涛の第三子で、明治23年に、帝国大学工科大学造家学科を卒業し、わが国最初の、鉄骨構造建築物である旧三井本店を建てた。民輔は、横河工務所を開設して、日本を代表する多くの鉄骨建築物を建てた。また、横河橋梁製作所、横河電機製作所(現横河電機株式会社)他を設立した優れた大事業家であり、母校帝大工科大学講師も勤めた。その他博士は、財団法人尚徳学園理事長として、女子高等教育の向上に貢献した。さらに東洋古陶磁にも造詣が深く、帝室博物館(現東京国立博物館)顧問、文部省国宝保存会委員として活躍した。

 横河一郎は、震八郎の長男で、ドイツに留学して、電気計器の研究に当った、横河電機製作所の代表者として、同社の基礎を作り上げた努力の人で、人情味豊かな人であった。

 横河英は、一郎の妹で、神戸女学院、日本女子大学英文科を卒業して、大井家に嫁いだが、夫の死によって復籍した。大正11年、父の協力を得て、この横河家本邸と庭園を開放して、「コドモのお里」を開園し、二見家庭塾も開いた。戦後は、市社会教育委員、市公民館運営審議会委員として、十余年の永い間、深い学識と広い教養をもって社会活動に尽した。

 ここに、われら横河家の由来を記録し、祖先の御霊に捧げ、永く市民の憩いの場として、この地を、明石市に送るものであります。

昭和62年3月

三 十 九 世 横 河 安 雄                                      
       大 井 淳 道                                      
横河電機株式会社代表取締役社長    横 河 正 三                                      
株式会社横河橋梁製作所代表取締役会長 岸 本   實
               


橋で候1 二見横河公園 1

2010年03月14日 | 橋梁

 去年の年末より縁がありまして、たつの市揖保町真砂において、横河工事(株)が施工している真砂橋で仕事をさせて頂いております。

 その様子については、「土木で候」で少し紹介していますが、これを機会に郷土の橋について書かせて頂く予定です。

 学校を卒業後、4年と2ケ月お世話になった横河工事(株)は明治40年2月11日に横河民輔が創設した横河橋梁製作所(現 (株)横河ブリッジ)の工事部門会社です。

 明治29~35年にかけて本格的な鉄骨軸組構造で造られた三井銀行本店は、鉄骨構造技術の先駆者である横河民輔が三井銀行の嘱託から三井元方に採用され直営で完成させた日本を代表する建築です。その後明治36年に横河工務所を設立しその4年後に横河橋梁製作所を設立されました。

 横河民輔の信念は、「誠実であれ。よいものをつくれ。」であったと言われています。

 下の写真は、横河民輔の生家であった場所を昭和61年に明石市に寄付し、現在小公園となった二見横河公園です。

     

     

    

    

    

つづく