OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

2024年9月のカレンダー

2024年08月29日 | 今日このごろ


 先月のカレンダーはOwenの“History”にある図で、Iguanodonの歯の生え方を調べた。もう少しわかりやすい標本があるので、同じ論文から取り出した。標本は同じくBeckles氏のコレクションにあって、正確な産地は記されていない。Fig. 1がここで調べる右下顎で、内側としてあるから、反転像ではない。産地は明確でない。他の化石は、Figs. 2-4は上顎の歯、Figs.5-7は下顎の歯。Fig.8はもう一つの右下顎舌側、9はかなり壊れた頭骨の側面観。10は拡大した歯で、スケールは10以外に対応する。スケールは原文にはなかったので、本の高さから計算した。
 Fig.1の下顎は、かなり骨が傷んでいるが、そのために歯の生え方がわかりやすい。全部で8本ぐらいの歯が使われていて、その舌側に次の歯が用意されている。歯の頂部は揃っているのかと思ったがそうでもない。ただこの標本は磨り減った歯があまりにも少ない。本当はFig 8のように頂部が磨り減って密集していたのではないか。いずれにしてものちの時代のハドロサウルスのように多数の列の歯が同時に磨り減って、連続した咬合面をつくるということはない。ハドロサウルスの例としてProsaurolophusを見てみよう。

9-2 Horner, 1992, Plate 34. Prosaurolophus blackfeetensis Horner. 左下顎

 この図は、上から頬側、舌側、背側と右に前面観である。スケールは描き直した。なお、前面観は奥行きの深い図で、正射影ではないからスケールは上手く対応しない。Coronoid process(筋突起)が奥にあるために低く描かれている。中央の舌側の図で、古い歯がすり減るよりも前に新しい歯が出てきているのがわかる。咬合面は密集した何代もの歯が磨り減って一つの面を作っている。その面は背側にあるのだが、背側に向いているのではなく側方に傾いている。図にはないが、上顎の咬合面はもちろんこれに合うように内側を向いていて、互いに押し付けるように骨の可動性がある。

9-3 Horner, 1992, Plates 36, 42. Prosaurolophus blackfeetensis Horner. 左下顎歯

 このような構造になるために、一つ一つの歯の形態には大きな変化があった。例えば、歯根の方向が歯冠部分に対して斜めであること、また歯冠の切縁にある鋸歯はやや目立たなくなる。Honerの本ではこれを「papillae」と呼んでいる。この言葉は突起であるが先端が丸くなっていることを示している。それでも基本的な形態にはIguanodonと共通性がある。例えば歯冠内側の中央にある縦の隆起で、Honerの本ではCentral carinaと呼んでいる。他の鳥盤類恐竜でもよく見られる形態である。

9-4 Horner, 1992, Plate 34. 一部を拡大 Prosaurolophus blackfeetensis Horner. 左下顎歯の咬合面

 咬合面では、2から3列の歯が密着して一続きの面をつくる。それぞれの歯の外縁にはエナメルがあって内部の象牙質よりも硬いから、食べ物の咀嚼に役立つ・・・というが、この図ではそこに稜はない。ハドロサウルス類の歯のエナメルは見たときの印象が他と異なって、光沢がない。実はそれほど硬くないのかもしれない。この図は顎を頬側から見た図で、ということは咬合面は背側を向いているのではなく、かなりの高角度で頬側を向いていることがわかる。
 John Robert Horner (1946年6月15日生まれ) はアメリカの古生物学者。恐竜研究で有名)
9月の論文
○ Horner, John Robert, 1992. Cranial Morphology of Prosaurolophus (Ornithischia, Hadrosauridae), with Description of Two New Hadrosaurid Species and an Evaluation of Hadrosaurid Phylogeneric Relationships. Museum of the Rockies Occasional Paper, No.2: 1-119. Including plates 1-49. (Prosaurolophus(鳥盤類、ハドロサウルス科)の頭部骨学。ハドロサウルス類の2新種記載とハドロサウルス類の系統関係の評価)
○ Owen, Richard, Sir, 1849-1884. A History of British Fossil Reptiles. Volumes 1 and 2. Cassel & Company Limited, London, vol. 1: pp. 1-657, vol. 2: Plates Chelonia 1-48, Lacertilia 1-10, Ophidia 1-5, Crocodylia 1-45, Dinosauria 1-85. (イギリスの化石爬虫類の歴史)

私の旅行データ 42 鉄道乗車 12

2024年08月25日 | 旅行

C-5 伊予鉄道

旅98 伊予鉄道市内線 南堀端

 伊予鉄道市内線には、1か所の3複線三角形のところがある。時刻表の記載ではすべての渡り線を通過する系統がある。私は、Nが通過したかどうか不明、他の二つは通過した。

 路面電車の渡り線の続き。
C−7・C-8 長崎電気軌道

旅99 長崎電気軌道 市民会館と西浜町

 長崎電気軌道には二か所の3複線三角形のところがあった。市民会館分岐では、Nを通る3系統とSEを通る5系統の他に、国土地理院の地形図やgoogle map、それに衛星写真ではWという線があるが、street viewでは存在しない。昔あったのが廃止・撤去されたようだ。
 西浜町では、Wを通る5系統とSを通る1系統のほか、Eを朝夕だけ通る便がある。
 私は2016年3月16日に各線を乗車したが、市民会館ではNとSEは通過、Wは通っていない。なお、この停留所は、2018年8月1日に「公会堂前」から「市民会館」に改名された。さらに近日中に「市役所」と再改名されるらしい。
 長崎については、昨年訪れて調査したのでその結果を後で記す予定。

 路面電車について、ここまでは全て3複線三角形型のものである。

C-9 土佐電鉄

旅100 土佐電鉄 はりまや橋

 ここは複線の平面交差で、各方向同士の渡り線がある。ただし、その内の一つだけ(NW)が複線で、残りは外側だけの単線となっている。時刻表では、直進する便についてしか記載されていない。
 私は、1965年6月25日に南北線を通過した。東西線を通ったのは2007年2月3日で、その時にはこの渡り線の存在が気になって、周辺の商店でこの線を通過する電車があるのかどうかを取材した。それによると、早朝と深夜に、各線の車両が車庫を出入りするためにここを通るということだった。4つの渡り線のどれをいつ通るかは聞いていない。
 土佐電の車庫や引き込み線を地図で見ると、一番大きな車庫は南に行った桟橋車庫前駅の西側にある。他にはりまや橋の西では終点の伊野の北側、中間の蛍橋付近の南側、東の終点御免町付近にスペースがあるが、それほど広くない。たぶん一車両ぐらいを各終点に置いておいて他は南端から順次西へ、または北に送り込んでいくのだろう。インターネットでは、朝8時過ぎにNWの渡り線(複線)に両側から、そして同時にSEに東から一両の電車が入ることがあるそうだ。

鉄道の平面交差(参考)
 はりまや橋の交差点は日本の路面電車で最も複雑なものであろう。とくに高角度での二線の平面交差は路面電車以外を含めても数少ない。私が知っているのはこれ以外に2か所ある。松山市大手町駅前では、伊予鉄道高浜線(郊外電車)と、同環状線(路面電車)が、平面交差する。どちらも複線で、渡り線はない。また名古屋市港区大江町では、名鉄築港線が貨物線(両方とも単線)とクロスする。この線は、JR線路から名鉄線に車両を入れるための重要なルートとなっている。

旅101 JR線路と名鉄線の連絡

 JR東海道本線で、笠寺駅に運ばれてきた車両は、駅西のヤードAに入る。そこから西南西に伸びる名古屋臨海鉄道の東港線に入り、南に向きを変えて名古屋臨海鉄道東港駅(貨物駅)のヤードBに入る。そこで最初の方向転換(笠寺駅でもすでに方向を変えていることが多い)、北に向かって名古屋臨海鉄道の東築線を進む。途中名鉄築港線との平面交差Cがある。この線は山崎川の南で行き止まり(D:名古屋臨海鉄道築港駅)で、そこで2度目の方向転換。すぐに西に曲がって渡り線で名鉄築港線東名古屋港駅付近に止まり3度目の方向転換し、2度目の平面交差を経て名鉄常滑線大江駅に着く。笠寺駅から大江駅までのヤード以外は単線である。ずいぶんややこしいが、平面交差部分は単線同士の交差で、はりまや橋の交差とは雲泥の差がある。はりまや橋の関係線路は9本、東名古屋港は渡り線を入れても3本。なお、日本車輌の豊川製作所でつくった車両もここから入るが、名鉄にとってはるかに簡単な豊橋の共有線路を通して名鉄本線に入れない理由は、新車を牽引する電気機関車の制限速度が低いからだそうだ。
 東名古屋港の交差に関係する路線で、定期旅客列車が通るのは名鉄築港線だけ。だから私の「全鉄道に乗る」という目的ではそれに乗るだけという単純なもので、2006年9月4日に乗車した。名鉄大江駅には場内改札があって、当時タブレットによる運行管理が行われていた。見たところ乗車した1編成(当時2両)しかなかったからそれをしなくても良さそうなものだ。見たところ乗車した1編成(当時2両)しかなかったからそれをしなくても良さそうなものだが、貨物列車が通ることがあるようだ。旅客電車の終点の東名古屋港駅の西に線路が延びていて、大江埠頭まで続いている。そこで線路は岸壁に並行した二本に分かれているから、何らかの輸送は行われている。

古い本 その172 平牧動物群 7 

2024年08月21日 | 化石

 Vanec, 1877が本当にBunolophodon属の命名をしたのかは疑わしいが、確かにこの言葉が出てくるところがある。文末に系統樹のような分類図が示してある。

640 Vacek, 1877. p. 45 の文中図.表題なし

 すぐ上の文章を翻訳しておく。「最後に、この記事で提示された観点に従って、これまでに知られているヨーロッパのマストドン属の種類の概要を把握すると、次のようなグループ分けを想像することができる。」
 「マストドン属」とはっきり言っている。一番下の欄がそれで、二つに分かれてZygolophodonBunolophodon になっている。ちなみにOsbornではこの二つの名称のどちらも、この論文で初出の属としている。Vanek はこの二つを亜属のような扱いで記している。文中に新属とか新亜属というような主張があるかどうかは知らない。文中には「Zygolophodonten」「Bunolophodonten」の語はたくさん出てくるが、属扱いには見えない。図ではこの二つの「分類群」の上にそれぞれ種があって、「M. tapiroides Cuv.」というように記してあり、分類名上に亜属のような記入はない。当然、新亜属だとしても模式種の指定はここにない。もちろんannectensは記載前だから出てこないが、入れるとすればM. angustidensが一番近いのだろう。この図の縦の点線は進化系列だろうと思うが、横の点線はなんだろう? 同時代ということだろうか。7枚の図があり、その中のTaf. 4とTaf. 5がMastodon angustidens の図である。

641 Vanec, 1877. Taf. 4. Mastoon angustidens Cuv.
Fig.1;原位置にある下顎門歯、
Fig. 2; 壊れた左下顎骨の第一大臼歯の歯根後部、第2及び第3大臼歯の上面観。骨は描いてない
Fig. 3;萌出していない左下顎第3大臼歯 と Fig. 3a; その前面観
Fig. 4;強く摩耗した右下顎第1大臼歯 の上面観 と Fig. 4a ;その内側
Fig. 5;二本の下顎門歯(先端から約200mmでの)断面
ディジタルファイルでは、Fig.番号が読みづらいので、数字を書き込んだ。またFig. 5 は薄くて見えないので画像処理した。その内部は原本では白色である。

642 Vanec, 1877. Taf. 5. Mastoon angustidens Cuv.
Fig.1;右上顎第3大臼歯上面観、 Fig. 1a; その内側観
Fig. 2; 未萌出の右上顎第3大臼歯最前稜前面観
Fig. 3; 左上顎第2大臼歯上面観、 Fig. 3a; その外側
Fig. 4; 左上顎第1大臼歯上面観、Fig. 4a ;その外側
Fig. 5;右上顎最初の置換歯上面観
Fig. 5a; その内側
Fig. 6; 左上顎の牙、エナメル帯が部分的にダメージを受けている
Fig. 7;上顎の牙の異なる位置における断面
ディジタルファイルでは、Fig.番号が読みづらいので、数字を書き込んだ。

 この図版説明は結構難解で、臼歯を後ろから順に説明していたりするから、現代風に書き直した。また臼歯の「上面観」(von oben gesehenなど)というのは、歯の歯冠側の意味だから上顎臼歯では腹側になる。さらにpraetritenとposttritenというのは、臼歯の横稜の先に摩耗する側と後で減る側という意味で、マストドン類に特有の用語である。
 Michael Vacek (1848−1925)はオーストリアの古生物学者。

 では次の属に進もう。
5. 属Serridentinus Osborn 1923
 鹿間は、次の論文でannectensSerridentimus属に含めて記した。
○ 鹿間時夫, 1937. 日本産化石長鼻類の標本産地及び文献. 斎藤報恩会時報. No. 122: 9-28.
 この論文は表題のように象化石の産出地のリストで、その初頭にSerridentinus annectens (Matsumoto) が記録されている。そういう文章だから、この属を適用した理由や、Serridentinus属の出典が書かれているわけではない。Serridentinus属を記載したのは次の論文。
○ Osborn, Henry Fairfield, 1923. New Subfamily, Generic and Specific Stages in the Evolution of the Proboscidea. Amer. Mus. Novitatus, no. 99: 1-4. (長鼻類の進化に現れる新亜科、新属、新種)
 下記の多くの新亜科・新属・新種を提唱した論文。
p. 1 Moeritheriinae, new subfamily, Winge- Osborn
p. 1 Zygolophodintinae, new subfamily
p. 1 Cuvieronius, new genus
p. 2 Serridentinus, new genus
p. 2 Prostegodon, new genus, Matsumoto
p. 2 Serridentinus simplicidens, new species
p. 3から4 Triliphodon progressus, など5つのnew species (省略)
 属Serridentinusの記事はたった3行。模式種はMastodon productus Copen など5種が列記してある。こういう場合には最初のものを模式種にするのだろうか。アメリカの南西海岸に特徴的に産する、として、形態的にはTrilophodon と臼歯の先に鋸歯が現れるとしている。その通りなら、annectensはこれに合わない。「Trilophodon全種の観察が必要」となっている。この論文には、図はない。
 このようにannectensを属Serridentinusに入れた理由はよくわからない。

 あとは現在使われている次の属が残る。
6. 属Gomphotherium Burmeister, 1837.
 これについては「古い本」168ですでに記した。

直方の跨線橋 3

2024年08月17日 | 鉄道

 転車台を転用した直方の跨線橋の現状を見て、もう一つの疑問は、煉瓦積みの橋台がコンクリートでかさ上げしてあること。さらに、レンガの橋台の最上部に少しだけ突き出した石材の橋げた支持台が見える。その位置はガーダーの真下である。かさあげをすると神社側は多少道路を土盛りするぐらいだが、東側では石段の段数を増さねばならない。どう解決したのだろう?

8 橋台にある支持石(破線円内) 2024.7.30

 これがあるからといって、レンガ橋台設置の時期が転車台が来た時(1974年以降)と同じかどうかわからない。かさ上げは電化した際の架線の高さのためとするブログがある、折尾・桂川間の電化は2001年10月6日で、転車台の廃止から少し時間が経っているはず。どこかに置いていたのだろうか。
 この跨線橋の幅や高さに関係しそうなできごとを列記しておく。
1 1906.11.11 直方・勝野間を複線化 複々線化の時期は分からなかった。
2 1974年より後 西口付近の転車台の撤去
3 1997.8.27 電化事業起工式
4 2001.10.6 折尾・桂川間電化
 複々線化の時に橋の長さを長くしなければならなかったはず。また電化の時にはすでに複々線だった(のちに筑豊本線の上下線と平成筑豊鉄道の上下線に分割)はず。あといくつかの歴史がわかれば、このあたりの関係は分かるだろう。

 わからないことばかりだが次の諸点はほぼ確認できたので列記しておく。
1 多賀第3跨線人道橋の側面ガーダーは、直方駅西口付近に1974年以後まであった転車台の転用である。
2 両側のガーダーだけではなく、転車台全体ががそのまま使われている可能性がある。
3 この人道橋が回転台を持ってきた時にかさ上げされた可能性もある。かさ上げされたのは、1997年8月よりも後2001年よりも前。

追記
 跨線橋を見に行かれる方、とくに鉄道好きの方は、直方市石炭記念館にある鉄道関連の屋内・屋外展示物を見逃さないように。屋外展示に次のものがある。
蒸気機関車 C11 131 

9 C11 2024.7.30撮影 
 1938.2.22 製造 1942年から直方区 1951年ごろ門司港区に移動 1971.1.07廃車 1974年に直方市に無償貸与

蒸気機関車 コッペル32号 

10 コッペル32号2024.7.30撮影 
 貝島大之浦炭鉱(宮若市)で動いていたドイツ製蒸気機関車。1925年貝島炭鉱がドイツから購入 1976年8月炭鉱が閉山。軸構成は見たところ前輪1 動輪3 従輪1または0のタンク車。貝島炭鉱は宮田線(1989.12.23廃止、1982年6月に乗車)の磯光駅から引き込み線を使って石炭の搬出を行っていた。なお、「コッペル」は製作会社 Orenstein und Koppel の名であって、型式名ではない。同社の蒸気機関車30型式ほどもあって、日本にも多くの種類の「コッペル」が入っている。同社の蒸気機関車には炭水車ではなくて、ボイラーの両側にある箱を水や石炭の収容に用いる「タンク車」が多い。カタログを見たが、直方のコッペルに当たる軸構成の型式は見つからなかった。特注したものか、日本で改造したのか、単にカタログに漏れたのか。軸構成だけで見ると1934年か1935年に中国に納入した機関車が近いが炭水車付きだし軌間も異なる。同社の製品リストには直方石炭資料館の機関車がリストに掲載されているが、同社の機関車作成時の記録ではなく、現在の静態展示写真と軌間が記してあるだけ。石炭記念館に設置してからのデータである。
石炭車 セム 1 C11に連結してある。


11 石炭車 セム1号
石炭車の1号車ではあるが木製だったのを鉄製に改造してある。石炭の搬出のために底の部分に蓋があって落とせるようになっているのを見逃さないように。「セ」は石炭車、「ム」は貨物車に対するサイズの等級の内最大のもの。

砂運車 ロト22号 コッペル32号に連結してある。貝島炭鉱で、採掘を終わった坑道に砂を充填するために使われた。ロトの語源は調べていない。
貝島大之浦炭鉱の人車など 

12 坑内で使用された人車と救急車を繋いだもの。
 今回写真を撮り忘れたところがあって、駅の北にある現存する転車台。いずれ見に行こう。跨線橋ひとつで、色々と調べると興味ふかく、ずいぶん愉しませてもらった。
 いくつかのブログを拝見して情報をいただいた。たとえば「趣味人Tの伝言」「機関車データベース」「今昔マップ」「地理院地図」「List of Orenstein & Koppel steam locomotives(in Wikipedia)」など、また直方石炭記念館の職員のIさん・Mさんに色々教えていただいた。各関係の方に御礼申し上げる。

直方の跨線橋 2

2024年08月13日 | 鉄道
 直方駅にあった三つの転車台について、写真はあまり見つからなかった。直方市石炭記念館の展示写真に次のものがあるが撮影場所や時期が不明なのが残念。

4 直方機関区の転車台 (時期不明)。直方市石炭記念館展示写真

 明らかにスルーガーダー転車台だから西口の転車台に違いない。撮影したカメラの位置が、すぐ南にある場内跨線橋と考えると、撮影方向や高さ、バックに写る線路の配置もだいたい合う。他の転車台にはこの高さから撮影する足場がなさそう。さらにガーダーの形状から跨線橋の側面はこれと考えてよさそうだ。1974年までは西口の転車台は存在したし、多賀神社横の跨線橋は、少なくとも1969年の地形図でも「橋」として表記されているから、最初から転車台転用の橋ではなかったことになる。写っている蒸気機関車はたぶん「49664」で、この番号の機関車は1920年に製造され、仙台管内で使われた後1940年に弘前区から直方区に移管された。1972年に休車となった時にはデフがないという記録があり写真と矛盾しない。1972.11.21廃車。(この部分はブログ「機関車データベース」を使わせていただいた)年代もよく合う。
 なお、ネットにある古い地形図(5万分の1)のうち、1969年測量のものと1984年修正のものには、西口の転車台の位置に小さな米印のような記入がある。線路の間に記入してあるが、たぶん転車台を示すもの。1984年にもあるからそれを信じると西口に転車台は1984年に存在したことになる。5万分の1地図に20mの転車台を記入すると、直径0.4ミリだから、表記するのにはやや小さすぎる。私が保管している5万分の1「直方」図幅は1990年発行のもので道路以外は「1986年修正」となっている。西口の転車台の場所は駅名の標記「のおがた」の位置あたりのせいか転車台の記入は見えない。

 ここで初めて実際の跨線橋を見てみよう。側面の山形の形はこれまでに書いてきたようにスルーガーダー(下路橋)の形態である。現在の橋では、内側にそってフェンスが設置してある。ガーダーの上面にはリベットが並んでいて古い鉄製の構造にふさわしい。側面からの写真や、フェンスの根元を見ると、跨線橋の底面と上にある通路の面との距離は結構高く、60ないし80センチほどもあるように見える。正確には測ってみないとわからない。

5 ガーダー上面 2024.7.30

 二つほど問題があって、この跨線橋はガーダーだけを使って底面は作り直したのかもしれないとするネットの記事がある。跨線橋の幅が広すぎることと底面の鉄組みが細すぎるというのが根拠だが、これについては現地で幅を測ればそれだけで解決しそうな気がする。

6 石段から見た跨線橋 2024.7.30

 この写真で見ると、仮にフェンスの高さを1メートルとするとちょうどその2倍くらいの路面幅がある。それに付設されたフェンスの基礎の幅、ガーダーとフェンスの間隔が両側にあるからガーダーの内径は3メートルぐらいとなる。

 そこで、20メートルの下路転車台の幅は普通どのくらいか調べてみた。次の論文に図面が載っていた。
⚪︎ 友永和夫・奈良一郎 1960 国鉄転車台の改良について.  第15回土木学会年次学術講演会講演概要集 4部門,103-104.
 2ページの講演要旨で、転車台をバランス型から3点支持型に改造することを論じたものだが、「第1図」にバランスト型20m下路転車台として側面図と平面図がある。

7 転車台平面図 友永・奈良, 1960 図1の一部.

 この図には幅に関する数字が書いてない。立面図の長さの20メートルから計算すると平面図の格子の幅(おそらくガーダーの内外中心線の左右距離)は約3.8メートルとなる。そうすると、「この跨線橋の横幅が転車台と比較して広すぎる」という主張はやや疑問がある。今度訪れて計測してみよう。少なくとも現在の幅は転車台の普通の幅の範囲内であり、少しだけ広げるために、ここで多大な労力をかけて改造する動機はなさそう。

訂正
 前回の文に誤りがあったので訂正する。次の部分である。
「跨線橋の下には4本の線路があって西側の3本は筑豊本線、東端の1本は平成筑豊鉄道が単線として使っている。」
「4本の線路は西側の二本が筑豊本線、東側の二本が平成筑豊鉄道のそれぞれ複線である。」が正しい。
 反省としてどうして間違ったのかを白状しておこう。平成筑豊鉄道は伊田線・糸田線・田川線の3線(他に門司に門司港レトロ観光線(第二種鉄道事業者)がある)があるが、この跨線橋のところの伊田線だけが複線で、他は単線である。HPにあった単線部分の列車写真が記憶にあったことが一つの原因。もう一つは、跨線橋の遠景写真を撮るために一つ北にある別の跨線橋に上がった時に、西から二本目の(筑豊本線下り線)線路上に電車が停車していたこと)(前回の写真1)。それで根拠なくその線が留置線だと早合点した。電化されているのは2本だけなのだから気づかねば。
 この間違いをご指摘くださったMさんに感謝する。