OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

私の旅行データ 36 鉄道乗車 6

2024年04月25日 | 旅行

B-3・B-4 大宮支線と西浦和支線

旅77 武蔵浦和駅

 武蔵野線の西浦和駅と武蔵浦和駅の間の北側から二つの連絡線が大宮方面に伸びている。西浦和から大宮までの「大宮支線」と呼び、4.9kmの距離が設定されているが、乗車料金の計算には使用されない。新幹線・埼京線と交差するところに埼京線中浦和駅がある。この駅では埼京線だけに駅設備がある。交差のすぐ南(上の路線図でBのところ)に「別所信号所」があって、東側から別の支線「西浦和支線」が合流する。どちらも複線で、西浦和支線から来た列車は大宮支線を立体交差で乗り越えるがすぐには合流しないで、新幹線陸橋の北まで並行したあと合流する。大宮支線は新幹線の北でトンネルに入って北浦和駅付近で東北本線の下に入る。トンネルを出るのは上の地図からはずれた与野駅のすぐ先。また、この大宮支線を通る「むさしの号」・「しもうさ号」の掲載ページには、営業キロの欄が無い。図の大宮支線の長さは約3390メートル、西浦和支線の長さは約690メートル。
通過列車 
大宮支線 前述の「むさしの号」が通る。<西浦和駅から大宮駅へ> 平日2本、土・休日4本。<大宮駅から西浦和駅へ> 平日3本、土・休日3本。
西浦和支線から大宮支線へ 「しもうさ号」が通る。<武蔵浦和駅から大宮駅へ> 平日3本、土・休日3本。<大宮駅から武蔵浦和駅へ> 平日3本、土・休日3本。
関係年表
JR東北本線 1883年7月28日 日本鉄道上野・熊谷間開業。1885年3月16日 大宮駅開業
JR武蔵野線 1973年4月1日 武蔵野線府中本町・新松戸間開業。
大宮支線 1973年4月1日開業
西浦和支線 開業時期不明
私の武蔵野線乗車 1994年10月23日 
私の大宮支線・西浦和支線乗車 2010年12月12日
 この日のルートと時刻は記録がないが、確かにこの二つの連絡線に乗車した。その時のことは、2011年3月5日付のこのブログに書いた。前日に真岡鐵道に乗車して、全国の鉄道を完乗したが、この日は池袋にいて、夕方からこれらの連絡線を計画的に乗車した。完乗した次の日に、初めての線路を乗るという、矛盾した日だった。

B-5・B-6 新松戸の二つの連絡線
 武蔵野線と常磐線が交差する新松戸に、二つの連絡線がある。武蔵野線の下り(東行き)から常磐線の下り線に連絡する線(北小金支線)と、武蔵野線の下り(東行き)から常磐線の上り線に連絡する線(馬橋支線)である。両方とも複線。武蔵野線の連絡線は、貨物列車を東京周辺に入れないように外を回す目的だから、内側に向かって連絡する後者は稀な例。

旅78 新松戸駅付近の連絡線の接続図

 馬橋支線は、北小金支線と途中で合流する。北小金支線の長さは約1540メートル、馬橋支線は合流部分から馬橋方向に約1480メートル。
 この連絡線を走る定期列車はなく、臨時列車が複数回通ったことがあるだけ。私は通ったことがない。
関係年表
北小金支線・馬橋支線 1973年4月1日開業

B-7 田端付近の湘南新宿ライン
 池袋方面から山手線外回りで田端に着く直前で、東北本線下り方面に複線で連絡する線である。湘南新宿ラインの一部であるが、山手貨物線の一部としたほうが良いかもしれない。

旅79 田端の山手線・東北本線連絡線

 首都圏ではこういうところがいくつかあって、私が完乗を目指して作った路線名リストではでてこない。理由は、並行する線路は重複しないように数えているから。他にも品川付近などに疑問のあるところがある。この線には「湘南新宿ライン」など数多くの列車が走っている。2004年のデータでは64本となっているが、おそらくそれよりもかなり多い。
 ここで面白いのは、カーブ部分は現在トンネルを通っているが以前は地表だったらしいことが道路のカーブでわかること。その時にも複線かそれ以上らしく、ちょっと離れた二本の道路が円弧を描いている。その間の弧状の土地にアパートらしい2階建ての住宅が9棟ほど等間隔で建っていて、周辺の住宅の配置と大きく異なる景色を作っていること。JRがこの用地を売却したのだろうか?それにしても下に線路があるのだから、基礎工事の問題(だから2階までしか無いのか?)や、通過する鉄道の振動などが気になる。この連絡線の地図上での長さは約610メートル。私はここを遅くとも2014年12月6日に草津温泉からの帰りに通過した。
 ここについてデータは省略する。

古い本 その166 平牧動物群 1

2024年04月21日 | 化石
 恐竜の古い論文に興味を持ったために、「古い本」シリーズの本来のテーマからはずれて随分別の道を進んでしまった。一旦分岐点に戻って私が以前入手した化石論文コピーの紹介をしよう。古い方から紹介してきて、「古い本」82で、Desmostylusの話に区切りをつけ、Gilmoreの亀の論文に入ったところで恐竜の迷路に踏み込んでしまったのだった。1910年ごろに戻ることになる。古い論文を紹介して、それに関連するものを列記していくことになる。目標は今から100年前まで。1910年から1925年ごろまでだからそれほど多いわけでもない。
 それに入る前に、最初の頃の「古い本」引用の形式がいい加減なので、ここでちゃんとした形で示しておく。
古い本 その6(2020.5.7)
○ Matsumoto, Hikoshitiro, 1926. On two new Mastodonts and an archetypal Stegodont of Japan. Science Reports of the Tohoku Imperial University, Ser. 2, vol. 10, no, 1; 1-11, pls. 1-5.  (日本産二種のマストドン類と一種の古形のステゴドン類新種)(Gomphotherium annectens関連)
古い本 その8(2020.5.19)
○ Makiyama, Jiro, 1938. Japonic Proboscidea. Memoirs of the College of Science, Kyoto Imperial University, Series B, 14(1): 1-59.  (日本の長鼻類)(Gomphotherium annectens関連)
古い本 その17(2020.7.28)
○ Shikama, Tokio, 1966. Postcranial Skeletons of Japanese Desmostylia. Plaeontological Society of Japan Special Papers, No. 12: 202 pp. (束柱類の体部骨格) (Desmostylus japonicus, Paleoparadoxia tabatai関連)
古い本 その18(2020.7.28)
○ Shikama, Tokio, 1966. On Some Desmostylian Teeth in Japan, with Stratigraphical Remarks on the Keton and Izumi Desmostylids.  Bulletin of the National Science Museum, vol.9, no.2:119-170, pls.1-6. (日本産束柱類数種の歯と気屯と泉の束柱類の層序学的指摘)(同上関連)
以上 改訂する。

 ここから岐阜県の瑞浪層群・平牧層群の中新世脊椎動物群に関連する論文を幾つか挙げる。まずはこの論文。
○ 佐藤傳蔵, 1914.  美濃産古象化石に就て.  地学雑26(30l): 21-28, pl. 2.
 岐阜県可児郡御嵩町上之郷から産出した長鼻類化石について記したもので。日本の中新世長鼻類の最初の報告である。著者の佐藤傳蔵(1870-1928)は、1898年から東京高等師範学校教授として、地質学・鉱物学を教えた。研究対象は非常に広く、資源や温泉、さらには考古学的遺跡の調査も行った。
 論文の主内容は、1913年11月に東京高等師範学校本科博物学部二年生の修学旅行で訪れた東濃中学(現在の東濃高校)に保存されていた長鼻類化石を見て、その所見を述べたもの。「予の浅学なると本邦に於ては這般(これら)の化石に関する文献に乏しきと、且修学旅行の都合上旅程を急ぎし為め其の観察の頗る疎漏なるとにより・・」と謙遜しているが、内容は現在から見ても的を得ている。佐藤はこの象の種類については「Tetrabelodonに属する者の如し」として、属の推定に止めている。そして、アフリカに祖先を持つこの類が、中新世の初めにユーラシアの東端の日本にまで分布を広げたことを強調している。この標本をどの属に含めるのかについてはその後多くの研究者が変更を重ねて混乱していたが、現在は統一された見解がまとまってきている。
 文末に、標本の斜め写真がある。

620 佐藤, 1914. Pl. 2. 上之郷産の長鼻類上顎(口蓋側)

 この標本は現在瑞浪市化石博物館に所蔵されている。現在の取り扱いは、Gomphotherium annectens (Matsumoto) である。学名の変遷については「古い本 その6」(2020年6月7日)から「その8」(2020年5月19日) でくわしく記したので、繰り返さない。この日本の種類はヨーロッパのGomphotherium angustidens (Cuvier) を代表とする多くの種のうち最も東から報告されている。
 そこで、G. angustidensの命名の経緯を調べておこう。この種類は、先にMastodon 属の中に種名が命名され、あとで属名が変更された。論文の年代順に見ていこう。長鼻類の命名史を調べるのなら、下記の論文に頼るしかない。
○ Osborn, Henry Fairfield, 1936. Proboscidea: A Monograph of the Discovery, Evolution, Migration and Extinction of the Mastodonts and Elephants of the World. Vol. 1. Moeritherioidea, Dinotherioidea Mastodontoidea. American Museum Press, New York. (長鼻類)
 2冊に渡る著作で、今回関係があるVolume 1の最後のページは802ページ、最後の文中図はFig. 680 (!)という大きな数字である(vol. 2はvol. 1から通しの数で、最終ページは1,675、最後の文中図はFig. 1,244。Vol. 2には30 Platesもある)。

621 Osborn 1936. Proboscidea カバー

622 Osborn 1936. Proboscidea Volume 1. Title

 関係するTrilophodonの部分はvol. 1の249ページから始まる。参考文献も豊富で、しかもリストの各論文に、その論文で現れる新属・新種などとその登場するページも記してあるから、今回のように命名史を調べるのに都合が良い。注意しなければいけないことは、各論文の年号のところで、例えば次にここで解説するCuvier, 1806年のものには「1806.3」と書いてある。これは1806年3月の意味ではなく1806年の3番目の意味である。現代ではこういう場合には「1806a」のようにアルファベットを付す。
 この著者はよく知られているように非常に細かく分類する手法で、読破は難しいが、幸いなことにここで知りたい種類は模式種など筆頭に出てくるものだから、見つけやすい。

私の旅行データ 35 鉄道乗車 5

2024年04月17日 | 旅行

 次は、同一鉄道会社の連絡線について。ほとんどはJRである。
B-1 青森 
 東北本線(現・あおい森鉄道)と奥羽本線を、青森駅を介しないでつなぐ連絡線。青森駅はかつて青函連絡船の接続駅だったから、海に向かって行き止まりになっている。貨物線には定期列車は通っていないが、一時的に本州から北海道に向かう(またはその逆)夜行列車が通過した。当然営業距離の設定は無く、青森経由として料金計算がされていた。本線と分離している連絡線は図の赤点の間約730メートル。

旅73 青森駅南の貨物線

 連絡線部分は単線電化。私がここを通ったのは、2010年12月10日で、前日上野駅を出発した特急「北斗星」であった。青森駅を通過するというアナウンスがあったかどうか知らないが、夜中に気付いたらこの線で信号待ちの停車をしていた。真っ暗だったから写真を撮っていない。

旅74 函館駅の下り「北斗星」 2010.12.10

 上の写真は青函トンネルをくぐって、早朝函館に着き、機関車を付け替えて出発するところ。私はここで下車して、恵山に向かった。そんなわけで、この貨物線の通過の時刻は努力目標「昼間に通る」に反するが、たまたま出会った夜行のそれも工事に伴う臨時経路変更だからレアな経験であって、ちょっと嬉しい。

旅75 青森駅付近 2014.12.5 上り「北斗星」から撮影

 上りの北斗星に乗車したのは2014年。青森駅付近は大雪(私の感覚では)で、駅南のスイッチバックのところで撮った写真。もちろんこの時には貨物線を通っていない。

 次の5件は、武蔵野線に関連した連絡線。武蔵野線は、もともと首都の周囲に貨物のバイパスとして作られた路線で、そのために放射状に出る幹線との間に多くの連絡線が作られている。ここで扱うのは旅客列車が通過する路線だけであるが、いずれも営業距離は設定されていない。そのためあるブログでは「乗ったのに実績ゼロ」と嘆いておられる(ブログ「いかさまトラベラー」参照)。私も幾つか乗車したが、実績ゼロである。幾つかは臨時列車が運行されたことがあるし、別の幾つかは毎日定期列車が通っている。これらの旅客列車の通ったことがある連絡線を武蔵野線の西側から順に見ていく。

B-2 西国分寺
 中央線下り立川方面から武蔵野線上り新秋津方面に連絡する線。これら二つの線は、西国分寺駅で立体交差(中央線が下)し、新秋津方面に向かう武蔵野線は950メートルほど北(下の接続図のB)で長いトンネルに入る。トンネルに入って2.5kmほどで新小平駅に達するが、この駅は地平に開けた溝のような構造で、線路は空が見えるが地表より低いところにある。新小平駅を出るとトンネルに入って、さらに長いトンネルとなる。
 連絡線の中央線側は、西国分寺駅の約670メートル西の、道路が越えるところの西にトンネルの入り口(図のA)があり、すくなくともその部分は単線。中央線上りの下をくぐって一続きのトンネルで北に方向を変え、武蔵野線とトンネルの中で合流するようだ。合流位置は地図では正確に読み取ることができない。ようするに、この連絡線では中央線と並行する部分を除いてすべて地下に線路がある。乗っても何も見えないから感激しない。営業距離は例によって設定されていない。地図上での距離は、カーブの部分が約1.1kmで中央線・武蔵野線との並行部分を含めると2.4kmほどだが、正確には地図にないからわからない。おもしろいことにJTB時刻表の索引地図(首都圏拡大図)では、各路線を太めの実線で記しているのにこのカーブ部分は二重線で描いている。この表記は、他の武蔵野線連絡線も同じ。図の赤点の間は,約1020メートル

旅76 西国分寺駅

 現在、この連絡線を1日に数本の列車が旅客をのせて運行している。形式的には毎日運行している列車はなく、土曜・休日運転の列車と土曜・休日運休の列車がある。列車番号は別々になっている。中央線上りは八王子発、国立まで各駅に停車し、連絡線を通過して武蔵野線の新小平から北朝霞まで各停、次の項で記す別の連絡線に入って、大宮までの運転である。逆方向のものを含めて、「むさしの号」という愛称がつけられている。面白いことに、武蔵野線の府中本町から大宮まで行く(中央線や今回の連絡線を通らない)3本(2本は土曜・休日運休、1本は土曜・休日運転)の列車も「むさしの号」を名乗るが、このルートを逆行する「むさしの号」は無い。列車番号は、平日のものが下二桁20番台、土・休日のものが30番台(1本は40)となっている。この「むさしの号」の時刻を掲載しているJTB時刻表のページには、営業キロの表示がない。
 
通過列車 国立から新小平へ(平日)2本 同(土・休日)4本
 新小平から国立へ 平日(3本) 同(土・休日)3本 
(JTB時刻表 2024.3月号 p.698))。本文参照
関係年表
JR中央本線 1889年4月11日 甲武鉄道新宿・立川間開業。1973年4月1日 国鉄西国分寺駅開業
JR武蔵野線 1973年4月1日 武蔵野線府中本町・新松戸間開業。
JR中央本線・武蔵野線連絡線 1973年4月1日開業。2010年12月4日から定期列車が運行される。
私の国鉄中央本線東線西国分寺駅付近乗車 1983年8月3日
私の武蔵野線乗車 1994年10月23日 
私は2023年12月6日にこの連絡線を通った。

廊下のダウンライト

2024年04月13日 | 今日このごろ
廊下のダウンライト

 我が家は2000年に建築したから、少しずつ問題が生じている。今回は一階の廊下のダウンライトの話。
 二灯あるが、すぐに片方は必要ないとして、球を外していた。昨年点灯していた方の球が切れたから、外していたものに替えた。20年以上持ったから、あと20年は期待できるのだが、その後のことが心配になった。
 最初から付けていたのは、9Wの「ツイン蛍光灯」という球。

ツイン蛍光灯 9W

 ご覧のようにソケット側に4本の「脚」がでていて、回して取り付ける形(EX-10q)。同じものが手に入るのか、電器屋さんを訪れた。それは簡単に見つかったのだが...
 店員さんによるとこの蛍光灯型の球はすでに生産を終えていて、まもなくなくなるという。それは私の想定内で、同じようなもののLED球が発売されているだろうと思っていた。ところが、この4脚のソケットがなくなるというのだ。代わりとしては電球型のネジ込み球があるという。通常このサイズの代替のものは26mmのもので、消費電力は1.4Wと大幅に少ないから「電気代も得になりますから」という。しかしそのためには天井側の器具の取り換えが必要である。器具さえ手に入れば簡単そうだが、屋内配線を素人がいじるのは法律に反する。電気屋さんに工事してもらうと、一万円では済みそうにない。
 そこでネットで調べて、電球型に切り替える変換ソケットがあることがわかった。値段は安くて数百円。新しいLED球が1100円。

変換ソケットにLED球を付けたもの

 ところで、LEDに替えると電気代はどのくらい変わるのだろう? 料金を1kWhあたり15円(夜間)として、365日かける6時間かける(9w−1.4w)かける15円(/kWh)わる1000(kWからWに)はおおよそ250円(年間)。大したことないなあ。

古い本 その165 ドーバー海峡のトンネル 追記 下

2024年04月10日 | 化石

 参考のため、日本の学術誌で最近話題の植物学雑誌は1887年の創刊。ここで調べたのは私に関係する地質学関連で、最も古い学術誌は地質学会の「地質学雑誌」(1893年創刊)ではなく、地学雑誌(1889年創刊)が先。それより前に「地学会誌」(創刊号:1884?、2号1888)というのがあるようだが、入手できなかった。

616 地学雑誌創刊号 1889 本文最初のページ(上半)

 上のページは地学雑誌の最初の部分で、著者は小藤文次郎(1858−1935)。東京大学の地質学者。
 地学雑誌・地質学雑誌とも、最初の頃のものには解説書のようなものを除くと化石関連の記事は少ない。地質学雑誌で最初の化石関連の記事が次のもの。
⚪︎ 神保小虎, 1894. 北海道第三紀動物化石畧報. 地質学雑誌. Vol. 2, no. 14: 41-45.

617 地質学雑誌 Vol. 2, no. 14. P. 41.

 文頭に、地名表記に関する但し書きがある。「文中北海道の地名に限り余が立案の「補欠かな」を用ゆ. 其他異国語にカカル名刺は原語を加フ、化石名にはかなを附せず所謂補欠かなとはカナを右に寄せてかなの母音を失ひたるを示す.縦令ばShakを「シャク」と書くの類なり.」(原文はカタカナ主体。一部句点を加えた。)「補欠かな」がよくわからないが、他で使われた例を知らない。実際に出てくる北海道あたりの地名は、カラフト・カムチャッカ・アリュート・モーライ驛・ポロナイ炭山・シャマニ ぐらい。23件の文献が記してあるが、すべて外国の論文であり、「其他の書籍は種属の」リストに示すとしている。58種の軟体動物化石学名がしるしてあるが大部分は属名だけ。18種に対して種名またはaff./cf.名が出ている。その18種には命名者が記載されている。当然外国の研究者の命名であるが、次の3種だけはYokoyama(横山又次郎)の命名した種である。 <5 Nucula poronaica. 6 Venericardia compressa 29 Tapes ezoensis> これら3種の記載が掲載されたのは次の論文であるが、神保の論文には出典が書かれていない。
⚪︎ 横山又次郎, 1890. 本邦白亜紀動物群要論(承前). 地学雑誌, vol. 2, no. 14:57-62(no. 14となっているが、これは通算番号で、ネットのアーカイブでは巻ごとに更新してno. 2としている。)
 この論文の58ページにこれら3種が「新種」として出てくる。いずれも幌内石灰岩(または幌内石灰岩球産)である。その地層の年代については「白亜紀に属するや蓋し疑を容れず」とし、さらに有孔虫の種類をヨーロッパの白亜系のものと比較しているから、横山はこの種類の年代を白亜紀と考えていたようだ。ところが4年後の神保の研究では鮮新世と考えているようだから、ずいぶん違う。なお、神保はこれらの種の標本をベルリンで弁別したという。標本はMunch Museumにあると、「Databese」にも書いてあるのだが....。「Database」としたのは次の論文。
⚪︎ Ogasawara, Kenshiro, 2001. Cenozoic Bivalvia. In Edits. Ikeya, N., Hirano, H. and Ogasawara, K., The database of Japanese type specimens described during the 20th Century. Special Papers, Palaeontological Society. No. 39: 223-373.
 この論文にもちろん上記の3種類が出てくる。ところが初出論文はYokoyama, 1890 としながら、雑誌名の引用は「Palaeontogr., vol. 36, nos, 3-6」としているのだ。それが次の論文。
⚪︎ Yokoyama, Matajiro, 1890. Versteinerungen aus der japanischen Kreide. Palaeontographica. Beitraege zur naturgesichte der Vorzeit. Band 36: 159-202, Taf. 18-25. (日本の白亜系からの化石)
 確かにここに記載があって、その各種名見出しに「n. sp.」 としてある。この号は二冊に分けて発行されていて、該当する部分の表紙に「1890年3月発行」という日付が記されている。一方地学雑誌の方は、各ページに「明治23年(1890年)2月25日發兌」という柱がある。「發兌」(はつだ)は発行のことだからこちらが1月違いで早いことになるが、記載もないからOgasawaraがドイツの方を新種の提示としたのは妥当だろう。ちょっと気になるのは地質年代を誤っている点である。幌内層は1901年矢部の命名だから、横山の論文の時代にはまだ定義されていないが、現在は始新世頃の地層とされる。

618 Yokoyama, 1890. p. 163

 上の図は、Yokoyama, 1890のp. 163 に掲載されている「蝦夷の地質図(B. S. Lymanによる)という図。Benjamin Smith Lyman(1835−1920)は「お雇い教師」の一人でアメリカ人で専門は鉱山学。この図はデジタル化の問題のためかよく見えない。左上の凡例は、上から「新旧の沖積層」「新期火成岩」「利別層」「古期火成岩」「Horumui層」「神居古潭層」で、たしかに上ほど新期の地層のようだ。凡例があるのだが、どこがその区分かわからない。細かい線は走向だろうか。いずれにしても、白亜紀層をそれよりも上位と区別する気持ちは見えない。「Horumui層」は不明。1966年に命名された中新統幌向層かもしれないが、時系列が合わない。
 日本の古いジャーナルという横道を長く辿ってきたが、あまり私の興味ある方向に進んでこない。最後に一つだけ眼をひいた文献を紹介してこのテーマから離れよう。それは地質学雑誌の1898年の号にある次の論文。
⚪︎ 矢野長克, 1898. 東京近傍第三紀介化石目録. 地質学雑誌. Vol. 5, no. 58: 387-395.

619 矢野長克のミスプリント

 著者名はもちろん「矢部長克」のミスプリントであろう。矢部長克(1878-1969)は、この論文の1898年に20歳になるのだから、東京帝国大学に在学中(1901年卒業)。学生なのだから名前が知られていなくても当然だろう。むしろこの年齢で学会誌に単著の論文が出る方が珍しい。雑誌中で(後に)この件についての正誤表があったかどうかはわからない。地質学雑誌のネット上のアーカイブは、一冊全部をディジタル化したものではなく、論文別だからそういう事務局の?記事は出てこない。どこかに正誤表があったかもしれない。幸か不幸かこの論文には新種記載はない。内容は、東京付近の多くの地点の貝類化石の種名リストである。地点別に番号が付いていて、重複があるだろうが述べ169種に上る。ただし最初の3地点は他の論文にあるとして省略されている。うち70種ぐらいは種名まで書いてあるが、すべて外国人によって命名されたものである。