OK元学芸員のこだわりデータファイル

最近の旅行記録とともに、以前訪れた場所の写真などを紹介し、見つけた面白いもの・鉄道・化石などについて記します。

私の化石組標本(その13)

2013年09月30日 | 鉱物・化石組標本
私の化石組標本(その13)
My set of fossil specimens, part 13

中生代の三回目。


40 標本33-36  scale: 5cm
Specimen 33-36: Dactylioceras, Lycoptera, Orbitolina, Nododelphinula


標本33 ダクチリオセラス Dactylioceras マダガスカル産 ジュラ紀 腔腸動物
鉱物・化石ショーにいくと、マダガスカルの美しいアンモナイトがたくさん販売されていた。過去形で書いたのは、最近出品数が減ってきたから。こういう割合安い標本は、最初市場に現われてから、次第に安くなって行くことが多い。詰まり、誰もが持っているようになると、高くては売れなくなるし、競争も激しいのだろう。ついには、採算が悪くなってくるので市場からほとんど姿を消してしまう。マダガスカルのものは現在急激に減っていくところ。まもなく、属や種がていねいに調べられたデータの揃った高価なものと、非常に安い小さくて質の悪いものだけに淘汰されて行くだろう。
 この標本は、市場にたくさん出ていたころのもので、300円ぐらいだったか、とにかく安いもの。仕事では予算をもらって(高額ではない)たくさん買い込んで、殻を取り去って縫合線を見せる標本、カットして断面形を見せる標本等、学習用の標本を作ったりした。
 マダガスカルのアンモナイトの種類はたくさんあって、調べてない。このものはダクチリオセラスで、Dactylio- というのは指のこと。殻の表面の肋が途中で二本にわかれるのを指状分岐といって、そのことを指す。指状分岐の対語は挿入分岐で、二本に分かれないで、間に肋がはさみこまれることをいう。Dactylioceras の命名は、1867年、Hyatt(前出)による。
 Dactyliocerasは山口県の豊浦でも見られるが、圧縮されて平面になったものなので、厚みの観察できるマダガスカル産はわかりやすい。

標本34 リコプテラ Lycoptera 中国遼源 ジュラ紀~白亜紀 硬骨魚類
やっと脊椎動物が出てきた。2000年5月30日に、中国で採集した標本。リコプテラの産出で有名な遼源のもの。
 北京で行われた国際学会に参加したおりに、他の外国の参加者といっしょに巡検で訪れた。この旅行については、将来このブログで記すことになると思う。現地では、丘陵地のあちこちに深い穴を掘ってその底で化石を採っていた。たぶん表層のものは風化が進んでいるから避けたのだろう。穴の周りには、薄い板状に割れた頁岩の岩屑が散乱していて、その大半に不完全な魚類化石が見られた。自由に拾っていいとの話だったが、十分ぐらいで「昼食の場所に急ぐように」とせかされた。魚類数個と、ザリガニ類のカケラを持ち帰った。ザリガニはAstacus licenti という種類。Astacus属は、現生のアメリカザリガニをも含む、というか、アメリカザリガニが基本種。アメリカザリガニは一億年以上前からの古い属なのだ。


41 遼源のザリガニ化石(北京の博物館の展示)2000年6月撮影。

 リコプテラは、有名な熱河(Jehol)動物群の代表ともいうべきもので、お土産屋さんにも出ている。組標本にいれたものは不完全でいいものではないが、これはサイズの関係。遼寧省ヘの見学旅行については、組化石シリーズが終了したら「昔の旅行」シリーズで記す予定。


42 遼寧省の魚類化石産地(2000年6月撮影)。遼源ではない。
欧米の参加者たちが、化石を捜している。

 Lycopteraの命名はMüller(Mullerのuはウムラウト付き)= J. Müller (1801-1858)、ドイツ =で、1847年。Lycoはギリシャ語でオオカミのことで、同じイヌ科のリカオンなんかと関係あるらしい。一方pteraはヒレのこと。中国語では狼鰭魚となっている。満州に日本が進出した頃には、この魚について日本人の研究もいくつかある。
 なお、以前は遼源の化石をジュラ紀のものとしたが、最近は白亜紀に入れることが多い。そこで、ジュラ紀の最後・白亜紀の最初に入れた。

標本35 オービトリーナ Orbitolina 平井賀産 白亜紀 原生動物・有孔虫類
標本35から標本38までの四標本は、1967年7月21日から23日に岩手県の平井賀で採集した標本。国立公園内なので、採集に問題があったのだろうが、転石の採集だし、古いことなのでご容赦を。当時は三陸鉄道はなかったから、岩泉側からバスで入り、久慈へバスで抜けた。


43 岩手県平井賀の宮古層群の見える海岸(1967年7月撮影)

宮古層群に、オービトリーナ砂岩層というのがあって、砂岩の中に大量の有孔虫化石が含まれている。同時にトリゴニアなども入っているから、浅い所の堆積物である。
 Orbitolinaは1850年d’Orbigny = Alcide d'Orbigny(1802-1857)、フランス = の命名。Orbitというと、宇宙船や地球の軌道(周回軌道)のことを思い浮かべる方が多いと思うが、解剖の方では眼窩のこと。元はと言えば丸い円周のことなんだろうけれど。この有孔虫は円板状で、丸いからこの名があるのだろう。

標本36 ノドデルフィニュラ Nododelphinula 平井賀産 白亜紀 軟体動物・巻貝類
宮古層群の巻貝類は保存がよいので、古くから研究されている。宮古層群のNododelphinella elegans は長尾巧の命名(1934年)である。Nododelphinula 属はCossmann (前出)が1916年に命名したもの。Nodo- は節やこぶのことだろう。1804年のLamarckが巻貝のDelphinela属を設立している。ところが、これにはすでに1798年にRöding (Rodingのoにウムラウト)がAngariaという属名をつけていたのでこちらが有効名。Delphinusといえば、もちろんイルカ類の一属であるが、どこがイルカに似ているのかわからない。園芸植物にDelphiniumという属があるが、これは花がイルカの背中に似ているという。

採集した標本について
標本34 リコプテラ
 中国遼寧省遼源
標本35 オービトリーナ、標本36 ノドデルフィニュラ
 岩手県田野畑村平井賀

久しぶりに藍島に行ってきました その2

2013年09月26日 | 今日このごろ
久しぶりに藍島に行ってきました その2
Visit to the Ainoshima Isl., Kitakyushu. Part 2

体ならしのために藍島に来ている。千畳敷でリュックを置いて少し歩き回ったが化石も漂着物もあまりない、というよりやる気がない。このあと、いつもは千畳敷から反時計回りに化石層の良い所をめざすのだが、この日は時計回りに北端をまわる。化石層はほとんどないから期待できない。ねらいは今年秋のためのウォーミングアップだから、あまり行かない所でもいい。


5 藍島北海岸
5 Northern coast of the Ainoshima

やはり化石はすくない。途中ウニやツリテラの化石採集を試みたが、いいのがないのであきらめ。

礫浜に骨の漂着物がある。


6 イルカの右下顎骨。スナメリやゴンドウ類でなく、マイルカ科の小型のものだが、だいぶん風化して下顎管が露出している。
6 A weathered right dentary of a dolphin


7 鳥の脛骨(正しくは脛足根骨)。大きいのでサギ類かな。
7 A tibiotarsus of a bird (heron?)

陶片を拾う。旧陸軍の食器であろう。


8 陶片 縁辺の長さ約5センチ。
8 Fragment of a rice bowl used former army

60年以上は海の底にあったのだろうと思われるのだが、意外にも割れ口付近は丸くなっていないし、表面もほとんど摩耗していない。縁のあたりの形状はかなり立っているので碗である。縁のカーブから碗の直径を計算すると13センチ位になるから飯碗だろう。

いい運動になったので、一時半の船で帰る。ほんとうは、「化石組標本」のキリガイダマシがしょぼくれた標本なので採り直したかったが、場所が違うので出直し。
 19日・20日はふくらはぎの筋肉痛で休養。年を取ると、数日後に来る。21日には湿布のせいかほとんど解消。

お彼岸(臨時投稿)

2013年09月23日 | 今日このごろ
お彼岸(臨時投稿)

今日(9月23日)は秋分の日。わが家では、私の父の命日にもあたり、毎年お坊さんに来て戴いてお経をあげてもらう。養護施設にいる母を連れてきて、法事に同席してもらった。ことしは父の33回忌にあたるが、とくにいつもと違う行事はしなかった。お坊さんは「33回忌法要」という言葉を言っておられたようで、さらにお経も少々いつもと異った部分があった。


父の仏壇

これに先立って、15日には敬老の日の行事があり、施設の方でも午後集まっていろいろな企画をしていただいた。


敬老の日。母に花束をいただく。

施設には100歳以上が5人いて、最高齢は105歳の男性。母は第二位の101歳。ただしこれらは本年度末の年齢で母が101歳になるのは来年一月。同様に年度末までに100歳以上になる人の総数は、小倉南区で約120人だそうだ。


久しぶりに藍島に行ってきました その1

2013年09月22日 | 今日このごろ
久しぶりに藍島に行ってきました その1
Visit to the Ainoshima Isl., Kitakyushu. Part 1

秋風がたち涼しくなったので、ひさしぶりに藍島に向かった。毎年春3月から6月、秋9月から12月ぐらいに、それぞれ一回以上は島に行くようにしたい。2011年春には4回、秋に3回訪れたが、その後はサボり気味で、各シーズン一回ずつしか訪れていない。今年春も3月9日に藍島に行っただけ。
 18日、好天の日を選んだから、雨の心配はない。暑さも風のあるところでは気にならない。10時30分小倉出港。目的はいろいろあるが、まずは盛夏家にこもっていたから、体ならし。


1 小倉から藍島行き渡船
1 Ship to the Ainoshima Island at Kokura wharf

波も穏やかで、乗客も少ない。藍島の本村集落をぬける。「化石の島」だから民家の石垣にも化石が見られる。


2 藍島の石垣
2 Fossils of stone wall in Ainoshima

まっすぐ北に抜けて、千畳敷へ。台風後だから漂着物が多いかと思ったがそれほどでもない。漁網がやや多い。


3 千畳敷は干潮で干上がったばかり
3 The Senjojiki platform

しばらく漂着物と化石を探したが、質の悪いメノウ一個ぐらいで、めぼしいものはない。ウミガメの骨が数点あるくらい。これは持ち帰らない。


4 ウミガメ 手の上にあるのが左右のたぶん上腕骨、上腕骨の上に二個の脊椎骨(頚椎と胴椎)、右は背甲(内側)
4. Drifted bones of a sea turtle, two humeri, vertebrae and a carapace fragment

AKCヴォーカライズの復刻 51-60号

2013年09月19日 | 今日このごろ


AKCヴォーカライズの復刻 51-60号


音楽部バッジ

愛知県立旭丘高等学校音楽部同窓会紙「Vocalize」(ヴォーカライズ)を復刻していくプロジェクトを進めています。今回はその第五回で、同紙の51号から60号までの復刻について記します。
 今回の部分は、1961年2月から1662年3月に発行されたものです。復刻を行った私は17期ですから、旭丘高校に入学する以前の中学二年末から中学卒業の頃ということになります。
今回の復刻分はN先輩のファイルから行いました。


今回復刻した各号について。


51号 1961年2月15日 12ページ AKCヴォーカライズ合唱団員募集、招待席C=N響大阪演奏会=
(合唱団の結成は、やってみると参加者が少なく、短期間の活動であった。「招待席C」は会員を音楽会に招待して感想を聞く企画で、成果を挙げた)
52号 1961年3月12日 8ページ 随筆「ある日のこと」
(会員の随筆はいくつか掲載された。二、三の人を除くと単発的だった)
53号 1961年4月5日 18ページ 36年度役員選挙告示、編集部員に機関紙に関する反省座談会、14期生修学旅行記
54号 1961年5月25日 16ページ 37(1962)年度役員選挙結果報告、合唱団練習開始
(第一回練習のスナップ写真では14人くらいが参加したようです)
55号 1961年6月15日 12ページ 私たちの職場・ききある記
(職場の記事は、看護婦さんのお仕事について)
56号 1961年7月15日 12ページ 私たちの職場・ききある記
(職場の記事は、新入社した三人の女子社員の座談会)
57号 1961年8月10日 10ページ アンケート「夏を過す方法」
58号 1961年9月20日 16ページ 白樺湖キャンピング報告記
(ヴォーカライズではこのころから山や海への旅行をしばしば企画した。)
59号 1962年2月10日 12ページ アンケート「1962年夢のプラン」
60号 1962年3月15日 8ページ 14期生におくることば
(卒業生一人一人に先輩Aさん(5期)が送る言葉を記している。これが書けるほどしばしば出身校を訪れておられたのだ。)



次回は10月19日に、41号~50号の復元をお知らせする予定です。その後も、一月ごとに十号をさかのぼって復元していくつもりです。全部できれば、939ページ、103万字ぐらいです。現在97%ぐらい(ページ数比)・100万字まで進んでいます。最近の頁当たり字数から推定した残り字数は約2万7000字です。9月末までに入力が終りそうです。そのあと、校正やpdf化などの作業があります。
この復刻版ヴォーカライズのデジタルファイルは、同窓会のホームページからダウンロードできます。「カラスの広場」HPの中に同窓会HPが入っていますが、 ID、パスワードが必要です。
または、この下にあるコメント欄に記して、ご請求下さい。当方からも関係する方々にお送りすることができます。関係者とは、旭丘高校音楽部・およびその同窓会に入っている(または入っていた)方、そのご家族などです。「など」としましたが、なるべく多くの方に読んで頂きたいと思っています。



「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その3

旭丘高校音楽部同窓会紙「ヴォーカライズ」の復刻についてのお知らせをしていますが、同紙の内容は同窓会ホームページからダウンロードして頂くとして、ここでは、同紙に現われた当時の鉄道に関わる記事について、いくつか記しておくことにします。

「ヴォーカライズ」に登場する鉄道 その3

旭丘高校音楽部同窓会紙「ヴォーカライズ」の復刻についてのお知らせをしていますが、同紙の内容は同窓会ホームページからダウンロードして頂くとして、ここでは、同紙に現われた当時の鉄道に関わる記事について、いくつか記します。
今回、写真も一枚しかなく、長いですよ。

1965年8月8日に開催された夏のつどいは、当初2泊する予定だったが、参加者が少なく、日帰りで実行された。その報告記が、No. 85、 5ページにある。
参加者9人、私(当時大学生)も参加した写真があるし、記憶もかすかにある。名鉄電車利用で、知多の野間海岸に海水浴に行ったわけだ。では記事中の鉄道に関するところを拾ってみよう。
「新名古屋駅の改札口前に集合した…」
「名駅9時25分発河和行きの特急に乗る」
「河和からの満員バスを降りて海岸へ…」
「落ち着くやいなや昼めしに…」


記念写真 解像度を低くした。写真右端のヤセッポチが私。
参加した唯一の女性は、カメラを持っているので写っていない。ちなみに彼女は泳がなかったので、水着ではなかった。

現状との違いに注目して見ると、まず、駅名が変わっている。「新名古屋」駅は2005年1月に「名鉄名古屋」駅に改称された。セントレア開業(名鉄は中部国際空港駅)にともなう変更で、同時に新岐阜、新一宮もそれぞれ名鉄を冠した名に変えられた。わたしたち古い名古屋人は今でも新名古屋などの名に親しんでいる、というより「めいえき」かもしれない。
 この名鉄名古屋駅、名古屋人は身近すぎで特殊だとは思ってないが、大きな特徴がいくつかある。それは、開業時(1941年)から地下に設置されていること。地下鉄でない大鉄道の中心駅で当初から地下というのはあまりない。京成上野駅ぐらいかな(開業時は上野公園駅)。名古屋の先進性を示す….といいたいところだが、先取りしすぎた?ために後になって線路の増設がままならず、特殊な運用をしいられている。それが最大の特徴。名古屋人ならよく親しんでいるが、外側の二つのホームはもっぱら乗車用で、中央の島ホームが降車用(一部優等電車の乗車に使用)。つまり、上り下りの二本しか線路がないのだ。乗車ホームで待っていると、本線だけではなく、途中から別れて支線に行く列車が次から次へと最少2分間隔、1分停車で続いて出ていく。さらに、特急・準急などの区別もある。だから、ホームの指示された所で待っていないと、目的地に行く電車をとらえられない。この名鉄名古屋駅のホームに流れる案内放送はいわば「名人芸」で、実に複雑な内容を伝えている。そのせいか、放送はいまだに自動化されていない。このような運転様式の鉄道を他に知らない。普通は、支線に行く時はそれぞれ接続駅で乗り換えたり、幹線が複数の時には、別線・別ホームを設ける。
 では、現在の名鉄名古屋駅から発車する電車を調べてみよう(「名鉄時刻表Vol. 26 (2011.12)」を使用。本線・常滑線・犬山線を調べた。)。例えば平日八時から八時半の30分間。
 下り(名鉄岐阜方面) 801特急新鵜沼行き 803普通岩倉行き 805急行須ケ口行き 807ミュースカイ新鵜沼行き 809快特岐阜行き 811普通岐阜行き 813快特岐阜行き、816急行(各務ケ原経由)岐阜行き 818 急行須ケ口行き 821普通新鵜沼行き 823普通弥富行き 825特急岐阜行き 827 快特新鵜沼行き 829急行岐阜行き
 上り(豊橋方面) 800快急中部国際空港行き 802特急豊橋行き 804急行東岡崎行き 806普通常滑行き 808急行内海行き 811快急豊橋行き 813特急豊橋行き 815準急中部国際空港行き 817 急行鳴海行き 819準急神宮前行き 821特急河和行き 823ミュースカイ中部国際空港行き 826普通豊川稲荷行き 828快急東岡崎行き 830急行内海行き
これをそれぞれ一本の線路でこなしているんだからすごい! その意味で、「日本一忙しい駅」だそうだ。発車ベルの音が上り下りで変えてあるそうだが、今度行ったらよく聞いてみよう。
 話を戻して、一行は改札口に集合する。当時北改札口(JRに連絡する。1976年開設)はなく、南口はさらに後の開設だから、現在の中央改札口しかなかった。改札から入って、右に回り、新名古屋駅(当時)の外側ホーム(4番線・豊橋方面)の常滑・河和方面行きの特急に乗ったわけだ。この「特急」にも注釈がいる。1977年に追加料金が必要な「座席特急」を「特急」に変更し、追加料金のいらないものを「高速」と変更したあたりから、ややこしくなってくる。いろいろ変更があって、現在は特急に一部特別車と全車一般車の二通りがある。乗り込んだらそこは有料という場合があるので注意が要る。
 一行は、河和行きの特急に乗って終点で降りた。知多新線はまだなくて、それが開通したのは1974年6月30日。開通後なら、終点「内海」の一つ手前が「野間」。新線は少し内陸を通っているから、野間駅から海水浴場まで約1キロでつく。河和からバスだと知多半島を横切る形で、直線でも8キロくらいあるから、満員だとちょっとつらい。私は覚えていないが。なお、現在は河和から野間に向かうバス定期路線はない。少し南の内海海岸に向かう路線があり、河和から内海まで15分くらいかかる。距離は同じくらい。当時20分ちょっとくらいで運行していたのだろう。
 では、全部でどのくらい時間がかかったのであろうか?文面から、出発は9時25分、正午直前に着いたみたいなので、二時間半弱かかったことになる。現在の時刻表では(「名鉄時刻表Vol. 26 (2011.12)」を使用)では、土・休日の名鉄名古屋9時28分発の内海行き急行に乗ると、野間駅着が10時24分。野間駅から海水浴場まで15分かかるとして(野間海水浴場HPによる)、ちょうど半分の時間で移動できることになる。