関西の「桃園会」を主宰する深津篤史が、ハロルド・ピンター(1930-2008)作『温室』の国内初上演の演出を試みている(東京・初台 新国立劇場小劇場)。この戯曲はピンターのデビュー翌年の1958年に執筆されたが、著者自身によって封印され、1980年になってから上演に値すると判断され、ようやくロンドンで初演を見た曰くつきの問題作という位置づけとなる。封印の解かれた背景には、世界的な思想・政治の保守化、右傾化に対する危機意識が反映していることだろう。ピンターは映画ファンにとっては、ハリウッドの赤狩りを逃れてイギリスに亡命したジョゼフ・ロージー監督の『できごと』『召使い』『恋(The Go-Between)』という歪んだ諸作によって知られている作家である。
書かれてから四半世紀近く放置されたこの作品は、その空隙の長さゆえにかえって今なお鋭利さを失っていないように思える。歪曲された饒舌と伝達の不全、突如とした暴力が、つねに唸りをあげている。舞台は有楽町の交通会館のように緩やかに回転し、視点は不断に更新される。俳優の立ち位置はあやふやなものとなり、私たち観客は俳優=役柄の同一性を疑ったままとなる。写真(許諾時間に撮影)に見られるように、調度品はすべて真っ赤に塗装され、『時計じかけのオレンジ』の冷たく滑稽なロンドン、そしてあのベートーヴェンを媒介とする暴力緩衝装置を可逆的に予告しているかのようである。あるいは、フラー『ショック集団』の環境を管理者側の不安から見たとでも言うべきか。ナンセンスなダイアローグは、くり返される俳優たちのディシプリンによって他声的、複声的なノイズと化し、日常性を遙かにヒューズのとんだ状態に持って行っている。
停滞し閉塞する日本の現況において、ハロルド・ピンターのような鋭利な作家が採り上げられることじたいが稀な機会となってしまったが、深津による油断ならぬ演出は、上演機会の希少性に自足しない地点にまで達していた。この演出家には、今後も20~21世紀のレパートリーをさまざまに料理してもらいたい。
書かれてから四半世紀近く放置されたこの作品は、その空隙の長さゆえにかえって今なお鋭利さを失っていないように思える。歪曲された饒舌と伝達の不全、突如とした暴力が、つねに唸りをあげている。舞台は有楽町の交通会館のように緩やかに回転し、視点は不断に更新される。俳優の立ち位置はあやふやなものとなり、私たち観客は俳優=役柄の同一性を疑ったままとなる。写真(許諾時間に撮影)に見られるように、調度品はすべて真っ赤に塗装され、『時計じかけのオレンジ』の冷たく滑稽なロンドン、そしてあのベートーヴェンを媒介とする暴力緩衝装置を可逆的に予告しているかのようである。あるいは、フラー『ショック集団』の環境を管理者側の不安から見たとでも言うべきか。ナンセンスなダイアローグは、くり返される俳優たちのディシプリンによって他声的、複声的なノイズと化し、日常性を遙かにヒューズのとんだ状態に持って行っている。
停滞し閉塞する日本の現況において、ハロルド・ピンターのような鋭利な作家が採り上げられることじたいが稀な機会となってしまったが、深津による油断ならぬ演出は、上演機会の希少性に自足しない地点にまで達していた。この演出家には、今後も20~21世紀のレパートリーをさまざまに料理してもらいたい。
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