「ウォーキング三昧」in 滋賀

「ウォーキング三昧」は2013年3月以来発信して来ましたが2019年5月1日、「スローライフ滋賀」に移行しました。

【滋賀・近江の先人第14回】質素倹約、陰徳善時を実行、近江の豪商「星久」の祖・ベンチャーキャピタルの先駈・松居久左衛門 (3代)(東近江市)

2019年02月28日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
3代松居久左衛門 (まつい きゅうさえもん、明和7年(1770年)-安政2年(1855年)は、江戸時代末期の近江の大商人、「松居久右衛門」家の分家「松居久左衛門」家三代目。後に遊見と号した。

分家 松居久左衛門家
松居久左衛門 (初代):2代久右衛門の子、通称久五郎が分家。屋号は『星久』。
松居久左衛門 (2代目)行願
松居久左衛門 (3代目)遊見:明和7年(1770年)-安政2年(1855年)幼名久三郎。
小杉五郎右衛門を商人として立ち直らせた逸話が残る。貧民救済や道路補修など社会事業に尽くす、堅実な商売を行った。

初代松居久左衛門は、江戸中期の18世紀半ばに本家の松居久右衛門家の3男で分家独立した。松居家は代々農業を種に農閑期に行商をしていた。

3代目松居久左衛門は、明和7年(1770年)近江国神崎郡位田村(現滋賀県東近江市五個荘竜田町)に2代目久左衛門の嫡子として生まれ、幼名を久三郎と言った。文化6年(1809年)39歳の時、父行願が死去し、3代目久左衛門と名乗った。

3代久左衛門は25歳で家業を相続したが、子供の頃から農業のかたわら父と生糸、綿布、絹布、麻布等の行商に出て商いを覚えた。
商いは近畿、尾張、遠江で繰綿、麻布を仕入れ信州、上州、江戸で売り捌き、帰りに生糸、絹布、紅花を仕入れ上方で売った。また、江戸と京都に出店を持ち、屋号「星久」とした。これは、朝、まだ星のあるうちに家を出て、夜、星をいただいて帰るという、勤勉と忍耐の商売をするという意味。

事業は麻布、糸絹、金銀の3つに分け、京都は呉服太物、生糸で、信州や上州で仕入れ、貸付は町人が中心だった。京都店は文化文政年間、大坂店は弘化年間、江戸店は嘉永年間以前から設置していたようだ。

豪商になった久左衛門だが、平素の生活は質素倹約に徹して、蓄財に努めた。
しかし、有事に際しては多額の出費を惜しまなかった。天保大飢饉や東本願寺焼失、京都御所焼失の際は、それぞれに数百両もの寄付をし、凶作で年貢不納の者があれば、そっと代納しておいてやるなどの慈善行為には枚挙にいとまがない。
また、後進の有能な湖東商人に対して資金援助を行うなど慈善事業だけでなく、ベンチャーの育成にも力を尽くした。
江戸期から150年の歴史の松居家の久左衛門遊見は、自分のみの富裕を望んだのではなく、商機を郷里の人々と共有しようとした。その考え方は、彼の信仰する仏教の教えに基づくものであった。この遊見の考え方は、自家に富をもたらしただけでなく、商人を目指す多くの後輩を育てることに繋がり、地域社会へ貢献するものとなった。

文化12年(1815年)から文政7年(1824年)の9年間で大名貸により久左衛門家では1万6千5百両が損失がでた。久左衛門家は各大名に対して、金額の大小により半額から全額献上を申し出た結果、大名貸の半分程度は回収を行う事ができた。
以降、久左衛門家では一切大名貸を禁止し、明治維新の混乱から大名家より全く資金が回収できず倒産する商人が多かった中、久左衛門家は踏み留まることができたという。
幕末明治維新を乗り越えた「星九」松居家は京都室町の繊維商社として隆盛だったが、しかし、平成12年(2000年)、経営破綻した。
(注釈:日野商人で大富豪だった中井源左衛門家は仙台藩等への大名貸し倒れで衰退を余儀なくされている)
また、
久左衛門は熱心な仏教徒で、代々先祖がそうであったように久左衛門も『遊見』との法号を用いた。久左衛門の一生は、豪商でありながら、夫婦・4人の子供・下男下女4人で6畳4間の質素な家に暮らし、木綿を着て食事は麦飯と一切生活上の華美を嫌った。
しかし、貧民には金品を貸し与え立ち直りの切っ掛けとするよう働きかけ、道路や橋梁の補修に資金を出すなどして、一生懸命働こうとしている人には暖かく、そして皆のためになることにはお金を積極的に用いた。
安政2年5月22日(1855年7月5日)久左衛門は大往生を遂げた。


初代松居久左衛門が商人として信用を得るきっかけとなった有名な逸話
小杉五郎右衛門(近江五個荘の同郷で、江戸時代後期の近江商人。小杉五郎右衛門家中興の祖であり、コスギの遠祖)が加賀国での徳政令により売掛金の回収ができなくなった時、松居久左衛門は「商人は得をするだけではない。損をした時こそ真の商人が生まれるものだ」と言って諭した。
結果、五郎右衛門は立ち直り、「徳政令で諸国の信用を失った加賀は物不足で困っているはず、今なら現金商売で大きな利益を得られる」と考え、その結果、物は高く売れ巨利を得たと言う。
ある日地方の知人が近江の本宅に来て、家と衣類の質素な事に驚き、商品を納めた蔵が立派なことにまた驚いた。商売の元手になるのは商品で、「商品を丁重に扱わねば商家に栄はない」と言う持論を持っていた。
久左衛門は声高に使用人を叱ることはなかった。使用人が商売に失敗しても暖かく迎え、物事を大切に良くした時は大いに褒めて僅かだが褒美銭を与えた。掃除が行き届いている時にも褒美銭を与えた。久左衛門は、「常に善行を認めてこれを褒賞すれば、自然に全ての人が忠実になるものだ」との考えに立っていた。

(以上、Wikipedia等を引用)

梅の花開花

2019年02月26日 07時00分00秒 | 東近江ローカル散歩


この所大分暖かくなり2月25日(月)の午後、曇り空で少し風もあったが東近江市の徳円寺、中野神社周辺を散歩した。
今回の散歩の途中で大きめの1本の梅の木に花が咲いているのを偶々見つけた。
また、ところどころに水仙も咲いていた。この分で行けば東近江の桜の開花は早いかも知れない。

日本の民間飛行家の先駆者「荻田 常三郎」の顕彰碑

2019年02月24日 09時32分16秒 | 東近江探訪

↑荻田常三郎の顕彰碑

荻田常三郎(おぎた つねさぶろう)は、滋賀県愛知郡島川村(後の八木荘村、現・愛知郡愛荘町島川)生まれの「民間飛行家」の先駆者である。
大正3年(1914年)にフランスで飛行ライセンスを取り、自費で購入した飛行機で、大正3年(1914年)に兵庫で凱旋飛行をしている。
アメリカのライト兄弟が1903年(明治36年)に世界初の有人動力飛行に成功したが、萩田の飛行はわずか10年後の快挙であった。
1914年、故郷の滋賀でも成功し、八日市の「沖野ヶ原」に飛行場と飛行学校の夢半ばで不慮の墜落事故で亡くなった。

民間飛行家のパイオニアを讃えて東近江市の延命公園に、夢の沖野ヶ原飛行場の方向に向けた顕彰碑が建てられている。
詳しくは別途、「滋賀・近江の先人」でも紹介予定である。


【滋賀・近江の先人第13回】明治富豪26人の一人にも数えられた近江の豪商・薩摩治平衛(滋賀県豊郷町)

2019年02月22日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
薩摩 治兵衛(さつま じへえ、天保2年(1831年) - 明治42年(1909年)、幕末-明治時代の近江商人。極貧から身を立てた豪商。屋号は丁字屋。


薩摩治兵衛は、天保2年(1831年)近江国犬上郡四十九院村字南町(現滋賀県犬上郡豊郷町四十九院)に生まれ、幼名を与三(惣)吉と言った。
父茂兵衛は農業を営んでいたが、治兵衛が9歳の時に死去、田畑と家も売却し、母と弟と3人で村外れの茅屋に住い、僅かばかりの田畑を小作して極貧の生活を過ごした。
再三再四、母に江戸に行き商人になりたいと申し出、
天保12年(1841年)、10歳の時、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)の外池太右衛門の店へ出仕する。一人で野宿をしながら十数日かけて武蔵国まで向かったという。
嘉永2年(1849年)、18歳の時、近江国小田苅村出身で江戸日本橋堀留(現東京都中央区日本橋堀留町)にある、呉服木綿商の豪商「小林吟右衛門」(通称丁吟(ていぎん))の店に丁稚奉公に入った。

治兵衛はよく働き、盆暮れの休みも仲間の丁稚が遊びに行くところ、家で読み書きの稽古に励み、また給金・小遣いも主人に預け、1両、2両と母に仕送りをし、28歳で店の若衆頭となったが、煙草も酒もやらず、朝早く起きては丁稚と共に拭き掃除を行い、夜は燈火の下で仕事に励み、羽織も毎晩たたみしわ伸ばしをし清潔な装いを守っていた。

誠実な仕事ぶりから取引先からも絶大な信用を得、主人は雇い人の模範と一目置き、娘を嫁がせ別家を立てさせ通い番頭として取り立てた。しかし、妻の我儘が原因で離縁となったが主人は罪は娘にあるとして、引き続き番頭として遇した。ただ、治兵衛は既に離縁となった事から別家を返上し、住み込み番頭と自らなった。
2番番頭にまで進み仕入れの一切を任されるようになり、38歳の時に治兵衛は主人に暖簾分けを願い出、許された。

慶応3年(1867年)35歳、江戸日本橋田所町(現中央区日本橋富沢町)に和洋木綿商店『薩摩屋』「丸丁字」を開いた。
しかし、新たに店を立てるに際し、主家の小林吟兵衛からの資金支援はなく、先輩奉公人であった杉村甚兵衛より2千両を資本として借り入れた。毎朝3時に起き、仕事に東奔西走した結果、杉村からの借り入れは1年程で返済する事が出来た。

新しい商品仕入れにも敏感で、横浜で金巾(かなきん、キャラコ)を目にし、世の中に流行ること事間違いなしと、未だ攘夷の雰囲気が残る中、外国商人より積極的に仕入れ大いに利益を得たと言う。
また、横浜、東京にも支店を設けた。幕末の混乱期を商才と努力で乗り切った。
明治15年(1882年)50歳、大阪紡績会社(東洋紡績の前身)の設立に参加。
明治19年(1886年)に駿河台北田賀街に本邸を置き、
明治21年(1888年)には東京日本橋に本店(薩摩商店)を新築し、「木綿王」と呼ばれ長者番付にも名を連ねるほどの豪商になった。
明治32年(1899年)には『薩摩屋』は996千円の売上税を納め、日本一の大店となり、明治富豪26人の一人にも数えられた。
商いの利益が莫大なものとなってからも母や郷里を思う心は変わらず、飢饉のたびに郷里の人々を救う。彼の姿勢は生涯変わることがなかった。
明治32年(1899年)68歳、長男に家を譲り隠居後は治良平を名乗った。隠居後も店務を指揮監督し、多額の公益事業に寄付し郷土の村民を助けた。
明治42年(1909年)2月22日、心臓麻痺のため神田区駿河台袋町の別邸で死去。78歳没。

二代目薩摩治郎八
明治14年(1881年)に初代治兵衛が51歳の時の後に二代目になる治郎八が誕生。明治33年(1900年)19歳で治兵衛を襲名した。
2年後には大阪に支店を開業し事業拡大を図ったが、金融恐慌などの影響で昭和9年(1934年)53歳の時、薩摩商店は閉店した。

初代薩摩治兵衛とその末裔
数多ある近江商人の栄光の中で、薩摩治兵衛と薩摩商店の名前が取り上げられることは余りない。
その孫であり「バロン薩摩」として知られる「薩摩治郎八」も、近江商人という系譜の中で語られることは少ないようだ。薩摩家は、「近江商人」として忘れられた存在と言えるのだろう。
薩摩治兵衛は、天保元年(1830年)、犬上郡四十九院村(現在の豊郷町四十九院)の貧しい農家に生まれた。
早くに父を失い、極貧の家族を助けるために10歳で奉公に出て、勤勉に働き、暖簾分けされて木綿商として日本橋に店を構えた後も、幕末の混乱期を商才と努力で乗り切り、明治期には「木綿王」と呼ばれ、長者番付にも名を連ねるほどになる。

そんな薩摩治兵衛が忘れられたのは、薩摩商店が、戦後まで生き延びることができなかったためだろう。
明治42年(1909年)に初代薩摩治兵衛が亡くなり、世界恐慌が訪れた後、商売を存続することができず、昭和9年(1934年)頃には廃業を余儀なくされたのである。


薩摩 治郎八(さつま じろはち、1901年(明治34年) - 1976年(昭和51年)、初代薩摩治兵衛の孫は、日本の実業家、作家で大富豪として知られた。
その華麗で洒落た浪費ぶり(フランスにて、10年間で約600億円使ったという)から、「バロン薩摩」と呼ばれた。

「薩摩治郎八」は、大正9年(1920年)に渡英。のちにパリに移り、父である二代目薩摩治兵衛から潤沢な仕送りを受けながら、戦前のパリ社交界で華々しく文化人と交流した。その豪華さから、爵位があったわけではなく、渾名として「バロン薩摩」と呼ばれたという。
昭和4年(1929年)には、薩摩家の資金でパリ国際大学都市に日本館を建立し、フランス政府から叙勲を受けるなど、日仏の文化交流においても活躍し名を残した。
第二次世界大戦中も含む約30年間の殆どをフランスで過ごした治郎八は、昭和26年(1951年)に帰国。その後は、本場ヨーロッパで培った豊富な知識を活かした執筆活動などをしていた。また、浅草で踊り子をしていた女性と結婚、晩年は夫人の故郷徳島で暮らし、昭和51年(1976年)に世を去った。

尚、その破天荒な人生は、生前には獅子文六や瀬戸内晴美によって小説化され、2000年代に入っても「『バロン・サツマ』と呼ばれた男 薩摩治郎八とその時代」(村上紀史郎著・藤原書店)などの書籍が発刊行され、知る人は多い。
しかし、治郎八については、近江商人の後裔としてではなく、日本橋の富豪の御曹司として語られることが多いようである。
成功後、貧窮者を救済する制度をつくるなど地元にも貢献したため、初代治兵衛の故郷である豊郷町四十九院には、主に初代と二代目治兵衛の遺品や資料が多く残され、同町の「先人を偲ぶ館」に保管されている。
本書は貧しい中から近江商人として成功した初代、それを受け継ぎ、息子の豪奢な生活と文化事業を支えた二代目、そして「バロン薩摩」と呼ばれた三代目までの約150年を一つにまとめた初めての書籍である。

薩摩治兵衛の出身地である豊郷村(現滋賀県豊郷町)は、伊藤忠の伊藤家をはじめ、現在に続く成功を収めた近江商人を多く輩出した土地だ。
「初代が築いたものを、企業として軌道に乗せられたかどうかが、後の成功を分けた。成功した伊藤家と薩摩家のような対照的な家がこの豊郷にあるということが面白い」。

<Wikipedia、近江を築いた人びと・上引用>

【滋賀・近江の先人第12回】陶磁器商人豪商・辻惣兵衛(滋賀県日野町)

2019年02月19日 06時56分02秒 | 滋賀・近江の先人
辻惣兵衛(日野屋)は、1830年(天保年間)、関東持ち下がり商売で巨万の富を築いた近江日野商人の一人。

1861年(文久年間)には、奧州南部、盛岡、大坂に呉服店を開き、また手広く金貸業も営んだ。
辻惣兵衛家は幕末から昭和時代前期に、陶磁器商として活躍し、江戸、瀬戸、明治8年(1875)年頃に多治見にも出店した。
盛岡には「日野屋惣兵衛」の大店を構え、奥州盛岡の南部藩より山蔭焼の経営を委託されたこともあったそうだ。

豪商、辻惣兵衛にこんな謂われもある。惣兵衛は伊豆の三島で醸造業の店を出し、商売に励んで冨を蓄えた。
これを故郷に持ち帰りたいが、惣兵衛は儲けたお金を故郷に持ち帰るため度々三島と日野の間を往復したが道中、大金を持ち歩きすることは山賊や盗賊がいるためなみ大抵のことではなかった。
そこで松の盆栽の鉢の底へ小判を隠し、故郷へ無事に持ち帰ることが出来た。神のご加護のおかげと境内にその松を植え千両松と呼ばれた。今も馬見岡綿向神社にそびえ立つ。

幕末から昭和(戦前)にかけて、陶器商(陶磁器商の屋号がカネ大)として活躍した辻惣兵衛家が辻惣製の名で製作した陶磁製品が多数あるという。この頃には辻惣兵衛は大阪の陶磁器商となっていた。
辻惣兵衛と焼き物の関わりは南部藩で山陰焼き廃窯後も大阪で陶磁器販売業を手がけ、明治期以降は瀬戸、美濃を拠点に国内、海外向けの製造販売も行い、酒器セットや辻惣の銘や菊水マークのポット、ミルク入れ、カップ&ソーサーなどの洋食器も手がけている。

しかし、盛岡では同じ近江日野出身の庄野玄三と並ぶ豪商だった戦後の豪商辻惣兵衛店は衰退したのかその後の足取りが掴めない。
もう少し追跡調査研究の必要がありそうだ。

江戸後期-明治時代の近江の書家/国学者(長野主膳の門弟)・島村紀孝の自宅

2019年02月17日 10時36分02秒 | 東近江探訪


江戸後期-明治時代の書家・国学者で現・東近江で私塾「松廼舎」を創設し、地域で師弟教育に捧げた「島村紀孝」1807年(文化4年)-1895年(明治28年)の自宅が東近江市金屋町に残っている。

島村家は代々商業を営み、教育者の家柄であった。
祖先は近江守護佐々木氏の家柄で祖父の時代から詩歌、国典に親しみ、父からも教えを受け、当時は石田梅岩の「心学」が盛んで、島村家でも心学舎を経営していた。父を助けて家塾で師弟の教育をしていた。
37歳の時、坂田郡志賀谷村(山東町・現米原市)の高尚館の長野善言(井伊直弼の腹心長野主膳(しゅぜん))に国学を学んでいる。島村の私塾「松廼舎」では子弟を教育し、その名声をきき、門人は千人を越えたと言う。

島村紀孝・桜川大龍のお墓がある金念寺(東近江市)

2019年02月15日 12時11分40秒 | 東近江探訪

↑東近江市金屋町の「金念寺

2月13日(水)午後、約60年ぶりに東近江市金屋町にある「金念寺」を訪れた。

金念寺は亡き母の実家に近く、子供の頃、寺の近くで夏の盆踊りがあったの時、何度か行ったことがある。大変賑わっていた記憶がある。
勿論当時は、江戸末期の郷土の国学者「島村紀孝」と「桜川大龍」のお墓があることは知らなかった。

島村紀孝は彦根藩井伊直弼大老の腹心「長野主膳」の門弟だった。一方、桜川大龍江州音頭を創った人とである。いずれも現東近江市出身であった。
両名についてはこのブログの「滋賀・近江の先人」で別途、紹介予定である。


↑島村紀孝の顕彰碑





↑桜川雛山の碑

↑江州音頭の拙文

【滋賀・近江の先人第11回】小町紅の行商から甲府を拠点に身を興す塚本家本家・塚本定右衛門(東近江市)

2019年02月12日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
塚本定右衛門 (初代)(1789年(寛政元年)-1860年(安政6年)71歳没、近江国五個荘町(現東近江市)生まれ。江戸時代後期の近江五個荘出身の紅花商人。
塚本商店、総合繊維商社ツカモトコーポレーションの創始者。屋号は『紅屋』で歴代当主が代々襲名した名称。ワコールの本家筋にあたる。

塚本定右衛門 (初代)定悦:
江戸時代後期の近江商人。1789年(寛政元年)布洗いを生業とする父、半農半商だった塚本浅右衛門教悦の三男に生まれ、兄弟5人中で一番優秀だった。
当時、近江では麻布の製織が盛んで浅右衛門家は末端の作業である布洗い業で生活は楽ではなかった。
1807年(文化4年)19歳の時、そこで家業は兄弟に任せ、京都から「小町紅」を仕入れ、若くして関東へ行商を行った。
特に、「甲府」で繁盛し、当時柳沢吉保は昔、近江国神崎郡に飛び地を持っていた縁もあり、
1812年(文化9年)23歳の時、甲州甲府に「紅屋久蔵」という小間物屋を開店した。(これが繊維商社の現ツカモトの創業年)
定右衛門の商売は文化度が高く、流行の先端商品を関西で仕入れ、関東で販売した。利益は地元で還元し歓迎され、開業5年で商売も軌道に乗り繁盛に繋がっていった。

初代塚本定右衛門を創業主とする本家(紅屋。塚本呉服店、ツカモトコーポレション)は、“太物商”と呼ばれる綿織物や麻織物を扱う商家となった。明治から大正、昭和にかけて東北六県を商圏に治め、繊維の卸業者としてはこの地方の最大手になっていった。
仙台市の商工業者の高額納税者に名を連ね、大正期の仙台の呉服太物組合の三人の幹事の一人として「塚本呉服店」の名が残っている。
五個荘の呉服太物店を継いだ2代目塚本定右衛門は、明治22年に日本橋伊勢町を本店として塚本商社を設立し、ツカモトコーポレーションの基礎を築いた。
株式会社ツカモトコーポレーションは、1812年(文化9年)、 初代・塚本定右衛門(つかもと さだえもん)が、甲府柳町に小間物問屋『紅屋』を創業してから、 2011年度で200周年を迎えている。

ツカモトの沿革
http://www.tsukamoto.co.jp/abouttsuka/enkaku.html

因みに、ワコール創業者の塚本幸一家も同じ塚本本家の分家である。
幸一の祖父初代塚本粂次郎は塚本定右衛門や粂右衛門と兄弟であり、1889年(明治22年)、仙台市大町(現在の青葉区大町)に分家として塚本商店の看板を掲げた。
ワコール創業者の塚本幸一も京都で父の呉服商「嘉納屋商店」を手伝っていたが塚本本家の末裔の一人である。
また、近江商人夫人としての女子教育の「淡海高等女学校」を創設した「塚本さと」は初代塚本定右衛門(塚本家本家)の5女である。

【滋賀・近江の先人第10回】婿入りして豊田グループの総帥になったトヨタ自動車初代社長・豊田 利三郎(彦根市)

2019年02月07日 07時00分00秒 | 滋賀・近江の先人
豊田利三郎(とよだ りさぶろう、1884年(明治17年)3月5日 - 1952年(昭和27年)6月3日、68歳没は、滋賀県彦根市出身の実業家、トヨタ自動車の初代社長。



豊田利三郎は、豊田の創始者豊田佐吉の婿養子(長女愛子の夫)で、豊田自動織機製作所及びトヨタ自動車工業の初代社長である。但し、トヨタ自動車工業の実質的な創業者は、佐吉の実子で利三郎の義弟にあたる豊田喜一郎であるとされる。
因みに、豊田家は佐吉→喜一郎→章一郎→章男(現社長)の順となる。

利三郎と豊田との関係
三井物産綿花事業部長で、後に東洋棉花株式会社(後のトーメン、現在の豊田通商)の創業者・初代社長となる実兄の児玉一造が豊田佐吉の自動織機事業の理解者であったことから、1915年(大正4年)に豊田家の婿養子に迎えられた。妻の愛子は喜一郎の妹であるが、利三郎自身は喜一郎より年上であるため、旧戸籍法のもとでは、喜一郎の義兄ということになっている。

創業者の佐吉は発明の才能には恵まれていたものの経営には疎かったので、商才に長けた利三郎を迎え入れることは願ったりかなったりだった。
この頃の豊田は、佐吉が背水の陣で臨んだ栄生の織布工場が成功し、どうにか経営基盤を確立しつつある頃だった。栄生の工場は1918年(大正7年)、法人化して豊田紡織株式会社となった。社長は佐吉で、利三郎は常務に就任した。佐吉は発明に没頭していたので、実際の経営は利三郎に任されていた。利三郎は、豊田グループの総帥として経営手腕を発揮した。

一方、11歳年下の佐吉の長男喜一郎と利三郎は、性格が全く異なっていた。自動車開発に関しては、推進派の喜一郎と慎重派の利三郎ということで、事あるごとに衝突した。だが、経営の才能は利三郎にあり、利三郎が慎重に経営の舵取りをしたからこそ、喜一郎も自動車にのめり込むことができた。だから、利三郎あっての喜一郎であった。

豊田利三郎は、
1884年(明治17年)、滋賀県彦根市生まれ、旧姓児玉利三郎
神戸高等商業学校(現神戸大学)卒業。東京高等商業学校(現一橋大学)専攻科卒業(商業学士)する秀才。
卒業後、伊藤忠商店(現丸紅)に就職。翌年に新設されたマニラ支店の初代支店長を歴任。
1915年(大正4年)に豊田家の婿養子に迎えられ、伊藤忠商店を退職。
1926年(大正15年)11月18日の豊田自動織機製作所設立に際し初代社長となり、
1937年(昭和12年)に同社自動車部が独立してトヨタ自動車工業が設立されるとその初代社長となった。その後、1941年(昭和16年)1月に喜一郎に社長を譲って会長となる。
1952年(昭和27年)6月3日、68歳にて死去。喜一郎が同年3月27日に死去しているため、彼の後を追うような形になった。

生前、利三郎は喜一郎が死んだとき既に病気で寝込んでおり、葬式にも出られる状態ではなかった。元社長の豊田英二が喜一郎の葬式の経過を名古屋の家に報告に行ったが、その時、利三郎は「とにかくトヨタは乗用車をやれ」と床の中からうめくように言った。
トヨタが自動車をやることに一番反対した人が、死ぬ間際に「トヨタはいまごろトラックばかりやってはいかぬ。何が何でも乗用車をやれ」とハッパをかける。私は利三郎に向かって「乗用車は今準備を進めております。間もなく完成するので、必ず見て下さい」と励ましたが、利三郎は遂にこれを見ることなく他界したとある。

新生の豊田を守り、トヨタ自動車の創業と乗用車の発展に尽くした見事な近江商人の一生だった。