僕がこの本を手にしたのは、オーストラリアを出国する2日前。シドニーの紀伊国屋で、9ドル(約720円)という日本で買うのと1.8倍もする値段で購入した。
東南アジアに行こうと具体的に決めたのは、一ヶ月前だったが、各都市にある古本屋で探しても「2巻 マレー半島・シンガポール編」は見つからなかった。
以前から、この小説の存在は知っていたし、何年か前にスペシャルでテレビドラマをやっていたのも覚えている。しかし、元来小説というものをほとんど読まない性格だったし、自分にとって「海外を旅をする」というのは全く遠い存在で興味がなかった。
しかし、「地球の歩き方 東南アジア編」のマレー鉄道についてかかれている記事でこの本のことを紹介してあり、ぜひシンガポールに着く前に読んでみたくなった。
2巻の物語は、タイの上空、これから降り立つ国に期待を膨らませている場面から始まる。
実は、この本を読むのは、これから自分がシンガポールからマレー鉄道を使いバンコクまで北上していく際の観光の参考にする為でもあったが、作者はほとんど観光地を廻らずスルーしていく。
主人公がアジアから入ってヨーロッパまで行くことは知っていたが、「深夜特急」というタイトルからして、ほとんどを鉄道で旅をするものばかり思っていたが、マレーシアくらいから車でシンガポールに入ってしまうし、飛行機にも簡単に乗ってしまう。(香港→バンコク シンガポール→カルカッタ)。
ちなみにタイトルの由来は、自分が帰国し購入した1巻の冒頭に記されている。
「ミッドナイト・エキスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エキスプレスに乗る、と言ったのだ。」
なるほど、これで納得した。2巻の終盤、主人公がシンガポールの安宿のベッドで天井のヤモリを眼で追いながら、旅に出た本当の動機を思い返しているシーン・・・
「それより、私には未来を失うという「刑」の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものはそれだった。」
「多分、私は回避しかったのだ。決定的な局面に立たされ、選択することで何かが固定してしまうことを恐れたのだ。逃げたといってもいい。」
自分がどこかで思っていた気持ちをこの一節は言い表わしていた。主人公と自分はほぼ同じ年齢であり、会社を辞めて、長期の旅に出たというところも同じ。おなじ境遇の旅人は作中の主人公の心情にみごとにシンクロさせられるだろう。
この文章以降、ミッドナイトエクスプレスに乗り旅をしている作者に、のめりこむ事になる。
主人公は、終始ほとんど観光というものをしていない。小説内で描かれていることの大部分が克明な人物描写である。
彼のスタンスは、観光地をスポット的に繋いでいくのではなく、気が向いた場所へ向かい その土地の人々と接することである。だから主人公はガイドブックの類のものはもっておらず、おおきな地図3つ(4つだったかな?)だけである。
主人公は、カンボジアには行っていないが、もし彼がシェムリアップに行ったとしても、アンコールには行かない気がする。いや、彼のことだから、年老いたトゥクトゥクドライバーに声を掛けられ、
「クメールの遺跡か・・・悪くない」
などと言って 行くかもしれない。
帰国してすぐに1巻から買い読みふけるわけだが、実は現在5巻の中盤まででストップしてしまっている。
地中海にさしかかり、どうも作者の旅のテンションが下がっているし、たしか劇中でも語っているが、「旅の感動がすさんできている」からだと思う。彼が旅をしてから小説を書くまでかなりの年月(10年くらいだったはず)が経っており、また何度かヨーロッパに足を運んで取材しなおしているらしい(小説を書き上げるのに6年を要している)。どうも文章から旅の「わくわく感」が伝わってこない。
敢えて、苦言をするなら、マカオのカジノでの描写があまりにも具体的過ぎ(大小大小なんて覚えれるわけ無い)でリアリティが無いのと、バンコクの空港を出た際に、一門無しの主人公が 英泰辞書をもっている学生に辞書を指差しながら会話するところや、李賀の一節を読んだ直後 窓の外を見ると蛍がまっていたり・・・、どうも都合が良すぎる場面が多々ある。
この本の内容が完全なノンフィクションと決めつけた場合 いくつか疑問点が出てくるが、そんなことはどうでもいい。他人に読ませる小説、いくつかの脚色があるのは当たり前だ。作中のさまざまな描写は、実際にその土地を旅した青年 沢木耕太郎 だからこそ描けたものだ。
この本は、長期の旅をしたことのない人が読めば、旅という行動を起こさせるには充分魅力的だし、旅の経験がある人は、主人公に自分を重ね、旅の郷愁に浸れること間違いない。とにかく文章が魅力的であり大変おもしろい。
深夜特急の一巻にあたる分の初出は1986年、もう20年も前の作品だ。しかし今でも売れ続けており、多くの旅人のバイブル的存在であるのは納得である。
うーん、一気に書き上げたけど、文章が支離滅裂ですいません・・・。本当はもっと書きたいことあるけど 今回はこの辺で。
今、ヤクルトの古田さんも「深夜特急」を読み始めているらしいですよ。古田さんのブログはこちら。
東南アジアに行こうと具体的に決めたのは、一ヶ月前だったが、各都市にある古本屋で探しても「2巻 マレー半島・シンガポール編」は見つからなかった。
以前から、この小説の存在は知っていたし、何年か前にスペシャルでテレビドラマをやっていたのも覚えている。しかし、元来小説というものをほとんど読まない性格だったし、自分にとって「海外を旅をする」というのは全く遠い存在で興味がなかった。
しかし、「地球の歩き方 東南アジア編」のマレー鉄道についてかかれている記事でこの本のことを紹介してあり、ぜひシンガポールに着く前に読んでみたくなった。
2巻の物語は、タイの上空、これから降り立つ国に期待を膨らませている場面から始まる。
実は、この本を読むのは、これから自分がシンガポールからマレー鉄道を使いバンコクまで北上していく際の観光の参考にする為でもあったが、作者はほとんど観光地を廻らずスルーしていく。
主人公がアジアから入ってヨーロッパまで行くことは知っていたが、「深夜特急」というタイトルからして、ほとんどを鉄道で旅をするものばかり思っていたが、マレーシアくらいから車でシンガポールに入ってしまうし、飛行機にも簡単に乗ってしまう。(香港→バンコク シンガポール→カルカッタ)。
ちなみにタイトルの由来は、自分が帰国し購入した1巻の冒頭に記されている。
「ミッドナイト・エキスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エキスプレスに乗る、と言ったのだ。」
なるほど、これで納得した。2巻の終盤、主人公がシンガポールの安宿のベッドで天井のヤモリを眼で追いながら、旅に出た本当の動機を思い返しているシーン・・・
「それより、私には未来を失うという「刑」の執行を猶予してもらうことの方がはるかに重要だった。執行猶予。恐らく、私がこの旅で望んだものはそれだった。」
「多分、私は回避しかったのだ。決定的な局面に立たされ、選択することで何かが固定してしまうことを恐れたのだ。逃げたといってもいい。」
自分がどこかで思っていた気持ちをこの一節は言い表わしていた。主人公と自分はほぼ同じ年齢であり、会社を辞めて、長期の旅に出たというところも同じ。おなじ境遇の旅人は作中の主人公の心情にみごとにシンクロさせられるだろう。
この文章以降、ミッドナイトエクスプレスに乗り旅をしている作者に、のめりこむ事になる。
主人公は、終始ほとんど観光というものをしていない。小説内で描かれていることの大部分が克明な人物描写である。
彼のスタンスは、観光地をスポット的に繋いでいくのではなく、気が向いた場所へ向かい その土地の人々と接することである。だから主人公はガイドブックの類のものはもっておらず、おおきな地図3つ(4つだったかな?)だけである。
主人公は、カンボジアには行っていないが、もし彼がシェムリアップに行ったとしても、アンコールには行かない気がする。いや、彼のことだから、年老いたトゥクトゥクドライバーに声を掛けられ、
「クメールの遺跡か・・・悪くない」
などと言って 行くかもしれない。
帰国してすぐに1巻から買い読みふけるわけだが、実は現在5巻の中盤まででストップしてしまっている。
地中海にさしかかり、どうも作者の旅のテンションが下がっているし、たしか劇中でも語っているが、「旅の感動がすさんできている」からだと思う。彼が旅をしてから小説を書くまでかなりの年月(10年くらいだったはず)が経っており、また何度かヨーロッパに足を運んで取材しなおしているらしい(小説を書き上げるのに6年を要している)。どうも文章から旅の「わくわく感」が伝わってこない。
敢えて、苦言をするなら、マカオのカジノでの描写があまりにも具体的過ぎ(大小大小なんて覚えれるわけ無い)でリアリティが無いのと、バンコクの空港を出た際に、一門無しの主人公が 英泰辞書をもっている学生に辞書を指差しながら会話するところや、李賀の一節を読んだ直後 窓の外を見ると蛍がまっていたり・・・、どうも都合が良すぎる場面が多々ある。
この本の内容が完全なノンフィクションと決めつけた場合 いくつか疑問点が出てくるが、そんなことはどうでもいい。他人に読ませる小説、いくつかの脚色があるのは当たり前だ。作中のさまざまな描写は、実際にその土地を旅した青年 沢木耕太郎 だからこそ描けたものだ。
この本は、長期の旅をしたことのない人が読めば、旅という行動を起こさせるには充分魅力的だし、旅の経験がある人は、主人公に自分を重ね、旅の郷愁に浸れること間違いない。とにかく文章が魅力的であり大変おもしろい。
深夜特急の一巻にあたる分の初出は1986年、もう20年も前の作品だ。しかし今でも売れ続けており、多くの旅人のバイブル的存在であるのは納得である。
うーん、一気に書き上げたけど、文章が支離滅裂ですいません・・・。本当はもっと書きたいことあるけど 今回はこの辺で。
今、ヤクルトの古田さんも「深夜特急」を読み始めているらしいですよ。古田さんのブログはこちら。
coyote(コヨーテ)No.8 特集・沢木耕太郎「深夜特急ノート」旅がはじまる時スイッチ・パブリッシングこのアイテムの詳細を見る |
旅する力―深夜特急ノート沢木 耕太郎新潮社このアイテムの詳細を見る |
深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)沢木 耕太郎新潮社このアイテムの詳細を見る |
全巻あります。
でも、確かに香港あたりとインドあたりはおもしろいけど、後半はイマサンですね。
大大小小・・覚えてるわけない!!けど、読んでてドキドキするから上手いって感じですねぇ。なんかまた読みたくなってきた。明日の予定はゆっくりだから、読もうかな。
このブログ書いた後、ブログをまわってると結構旅ブログやってる人、かなりの確率で読んでますね。「旅人の心情」っていうのは 何年経っても色あせることはないようです。
大大小小・・・などの克明な描写は臨場感の演出ですね。もうあの場面「沢木もうやめとけ!(もう賭けるな!)」と何度思ったことか。
この記事の日は、過去最高のアクセス数でした。この記事読んで「深夜特急」読んでくれる人いたらいいな。このブログ見て旅に行きました なんて人いたらもっとイイ。
ようやく自宅にネットが繋がり、今頃ですが、トラックバック兼、ご挨拶に参りました。
「深夜特急」は旅行のあとに読んだので、
旅行前に読んでいれば全く違った(更によい)旅になったかも?とちょっと残念・・・。
小説版の後半はあまり評判よくないようですが・・・
映像版の後半は私は結構好きで、「松嶋菜々子になりた~い」と心底思ったものです。(笑)
そうですねぇ、僕は2巻だけ旅中に読みましたが、オーストラリア行く前に全巻読んでいたら、僕の旅はカンボジアを通り越してベトナム・ラオス・中国と続けていたとおもいます。いまでこそブログを巡回し長旅の体験記などを数多く読んでて 長旅がそんなに特別なものではなくなっていますが、以前は 旅を続けることが不安で早めに帰っちゃいました。
松嶋菜々子・・・あんな綺麗な彼女が会いにきたら旅どころじゃありません。
私は最初は「そうそう、私も『旅』をしてるんだ」と思ってましたが、私のは『旅』ではなくて『旅行』だな、と、後半は思ってました。『旅』と『旅行』って、やっぱり違いますよね・・・私は違うとかってに判断しました(笑)
今日始めてこちらのブログにたどりついたので、少しずつ読ませていただきます。私もいつかアンコールに行きたい!!
最近 新規の人がコメントしてくれる人が増えて嬉しい限り。
ヨーロッパぶらぶら3ヶ月ですかぁ 憧れます。6巻全部持っていったって凄いですね。
僕は、日記には 意識的に「旅行」と書かずに「旅」と書いているはずです(何個かは旅行と書いてるかもしれないですが)。
アユタヤ1日目の日記にも書いてありますが、「観光客」と「旅人」という言葉も印象違いますね。
できるだけ「旅人」でありたいと思っていますが、いろいろな制約があるなかで必ずしもそういうわけにはいかないときもありますね。
それと僕はオーストラリアは、ほとんど現地ツアーに申し込んで周りましたし、陸路にこだわらずにバンバン飛んでますし、完全な「(ツアー)観光客」否定派ではありません。
蜻蛉さんのブログの旅のカテゴリー覗かしてもらいましたが、(記事がまだ少ないので判断しづらいですが)パックツアーじゃないようですが?ちゃんと「旅」だと思いますよ。
いつかはヨーロッパを長期の旅で行くつもりなので、これからの記事 読ませてもらって参考にさせてもらいます。
私の『旅』と『旅行』の解釈は、以下の感じなんです。
『旅』・・・自分の価値観を根本的な部分からぶち壊して変えてしまうようなもの(深夜特急のはこれ)
『旅行』・・・価値観の根本はあんまり変わらないけれど、新しい経験をして心が成長したり、考えが変わったりするもの(根本も少しは変わると思う。もちろん『旅』でも心の成長はあると思います)
伝わりますか?(笑)結局私は心が成長して帰ってきた感じの方が強かったのです。根本的な価値観はあんまり変わりませんでした(多分)ヨーロッパ旅行は個人で気の向くままに動いてました。大抵旅行は個人で行きます。あ、でも、現地で1日ツアーとかにも乗りましたけどね。
17日の記事にも共感です!でも、長くなったのでこのへんで・・・
蜻蛉さんにとって「旅行」が「旅」になるのは相当ハードル高そうですね。
価値観も壊れない、心も成長しそうにないパッケージツアーは、なんと呼びましょう?(゜ー゜)
自分の「旅」と「旅行」の違いはもっと単純なイメージなんです。
おもしろそうなのでそのうち記事に書きます、・・・多分。
第3巻(文庫本5,6巻)は、それから数年たってからでした。80年代後半から90年代初頭に旅立っていた若者の大半の人はそれを読んでいたと思います。
それ以前の人は、小田実の「何でも見てやろう」を読んで出て行った人が多いと思われます。ぼくも、小田実の影響が強かったように思います。「深夜特急」は旅先で知り合った人に勧められて読んでみました。
某会社の入社の面接で、役員に「ところであなた、深夜特急を読んだことある?同じような旅をしていたの?」と聞かれ、「はい」と答え、その会社は当然その面接で落とされました。当時は、この手の本はほとんど出版されていなかったので、大会社のお偉方でも読んでいたのですね。
のりさん、一度、小田実の「何でも見てやろう」も読んで見てください。現在40歳くらい以上のおじさんたちが、昔、旅立っていった気持ちが理解できるかも知れません。今では、探すのも一苦労かも知れませんが。
>小田実の「何でも見てやろう」を読んで出て行った人が多いと思われます。
旅先で出会った人(僕と同年代)も読んでいる人いましたよ。
深夜特急の4巻の巻末の対談でこの紀行文について触れられてますね。紀行文における言葉の陳腐化について語られてます。
「何でも見てやろう」は「理解したいという情熱は腐らない」・・と、だから時代がかわった今でも読むことができる というような内容です。
僕のこの記事でも青年沢木の「心情」がかかれているから今でも読まれている(旅の心情は陳腐化しない) というようなことを書くつもりでしたがすっかり書き忘れてます・・・。タイトルもそれを踏まえてつけたのに・・・。
>その会社は当然その面接で落とされました。
「当然」?なぜでしょうか?面接官と意気投合し合格の確率がアップしそうな気もしなくはないですが・・・
>のりさん、一度、小田実の「何でも見てやろう」も読んで見てください。
はい、いつかは読んで見たいと思ってます。
今は良くも悪くも情報があふれていて、特にビジュアル的な情報は簡単に手に入りますし、観光地もルートが整備され秘境感がなくなってしまったりしてます。
自分にとって20年以上も前の旅人の心情は、ある部分で共感し、ある部分で秘境感をあじわえるものかもしれません。しかし、いかんせんまだ「深夜特急」も読み終えていません・・・。