このブログを始めた時から いつかは書くつもりだった「物乞い」についての思い。
以前、ブログ「アジアンゲストハウス」のLOOさんからトラックバックを頂いた時から、いつも引っ掛かっていた。重いテーマだけに 筆が進まなかった。上記のブログの記事は旅ブログに限らず お子さんを持っている人へもトラバを送っているようで多くのさまざまなコメントが載せられています。こういうことはとても意義のあることではないかと思います。
いろいろ思ったことを一挙に書き上げましたが、相変わらず文章力がないので まとまりがありません。文の内容が飛び飛びになっているところがありますが、完璧を目指しているといつまでたっても更新できませんので、その点はご了承ください。
今回の記事は、「物乞いにお金をあげるか?」という点についてのみ書くことにします。
旅をしていると多かれ少なかれ「物乞い」に遭うことがあると思います。僕が会った物乞いは・・・
オーストラリアシドニーで 駅の近くでメッセージを書いたダンボールを片手に座り込んでいる4,5人。
インドネシアのジャカルタ・ジョグジャカルタの屋台でご飯を食べていると、手を出してくる人達。
タイからカンボジアへの国境をくぐったすぐに 5,6人の子供に囲まれる。
タイのバンコクのカオサン通りでの数人の物乞い
アンコールワットの遺跡群(ライ王のテラス・プノンバケンなど)で、片足がない人が通路に座って手をだしている。
ちょっと特殊と思われるカオサン通りの物乞いについて・・・
一人は、盲目なのに大音量の音楽をかけ、歩きながら歌っているおばさん。目が見えない人にとって音というのは重要な要素ではないのか?疑問・・・。
コンビニの前でゴザを敷き、上半身裸で腕をあちこちに振り、身体の向きもよじったりして奇妙な動きをしている男。なんらかの重い病気で身体の自由が利かないという印象だ。しばらく観察していると、ピタっと止りそばに置いてあるペットボトルで普通に水分補給をしていた。それをそっと置き、また動く。うーん・・・。
カオサンの話は 置いといて
僕の意見は、結論から言うと 物乞いに対しては「お金はあげません」です。
僕は幸運にも「(いわゆる)豊かな国 日本」に生まれて、普通の家族の下、普通の暮らしをさせてもらってきた。もちろん、現在 自分は働いており ある程度の収入を得ることが出来ている。
だから自分の価値観というのはそういう状況下で育まれたものであるし、そうそう変わるものではない。
以前、観たTV番組「あいのり」で、訪れたアフリカの村の現状を見たメンバーの女の子が、「かわいそうだ」と発言したことをうけて、ひとりの男が「オレはかわいそうだなんて思わない。あれはアレだ。自分達の基準で判断すべきじゃない」(←セリフははっきり覚えてない)というようなことを言ったら、他のメンバーから、かなりの非難を浴びていた。
面と向かった状況で「かわいそうとはおもわない」と言うものならこのように鬼畜扱いされてしまう。
「物乞い」を見たときに「かわいそう」という感情を持つことは 一般的に言えば「正しい」ことになる。しかし、本当にそれでいいのだろうか?
『物をあげると、その子はずっとそうやって生きていく事になるかもしれない。でも、あげないとその子は死んでしまうかもしれない』
(ブログ「橙色の豚」より)
しかし、旅をする人に、「物乞いをする子供」の人生の決定権までを背負わせるのは酷なことではないだろうか?
正直 (酷い!と言われるかもしれないが)自分は、その国に旅をしに来ているのであって、ボランティアに来ているのではない。
カンボジアを例にすれば、カンボジアのビザ代で950B(約2500円 手数料込)・アンコールワットの遺跡群の為に(3日券)US40ドル・ベンメリア遺跡にUS5ドル払っている。ホテルにも泊まったり、周辺の屋台などで物を買ってお金を落としている。
子供の売り子から遺跡の写真集のようなものも買った。3日目のバイタクの対応が凄く良かったのでチップも挙げた。
しかし、無条件でお金はあげない。
(話が飛びますが・・・)
中国や韓国の現在の反日の根本原因の一つに、日本政府による戦後保障という名の「資金援助」がある。中国にはODAとして6兆円ものお金がつぎ込まれてきた。それが本当に国の発展に純粋に使われてきたんだろうか?否。歴史の捏造による有形無形のさまざまな虚構を生み出し、軍備を増強し、ミサイルがこちらに向いているという訳のわからない状況。中国はカンボジアのポルポト政権時に裏から援助を行っていたりもしていた。
日本は韓国に対しても同様に有償無償あわせて5億ドル(約1800億円)の援助をおこなっている(情報ソースはこちら)。学校やインフラなどの整備に日本の税金が使われてきた。しかしその援助が今何を生み出しているのか?
戦後保障としてお金をもらえる→日本は残虐なことをしたという反日プロパガンダ→まだ賠償してない、賠償しろ!→お金をもらえる→はじめに戻る。
中国や韓国政府は「反日」であることで得をするのである。この得をする状況がある限りゆがんだ「反日」は終わらない。
日本はこの「虚構の残像」から解き放たれない限り、いつまでたっても前進しない。
物乞いを中国と韓国と比べるのはナンセンスといわれそうだが、資金援助による「ねじれ」の例えだ。
日本は、お金持ちの国と言われているが どうだろうか?国の借金は、現在719兆円にも及ぶ。もっとも貧乏な国とは言えないか?
日本人ひとりひとりはどうか?日本人の給与は、為替も考慮すればアジアにくらべれば破格だろう。しかし、それは、あくまでもアジアの国と比べた場合であって、日本国内で裕福かといわれれば、そうでない人がほとんどではないか?
だけど、「お前は海外旅行をしているんだからお金があるじゃないか!」といわれるかもしれないが、それとこれとは話が別だ。
実際、オーストラリアで過ごした8ヵ月半。2週間だけバイトして収入を得たが、それ以外は「消費生活」だ。日本で会社に勤務していた頃は、お金を払うのは、昨日働いて稼いだから とか明日も働いていてお金が入ってくるという深層心理が働きお金を使うことに対しての不安は薄い。
しかし、会社を退職し旅に出て、帰国した後のことも不透明なまま、長い間の消費生活をおくると、消費することに少なからず恐怖に近い不安が付きまとった。その消費することの不安というのは物価の安い東南アジアにおいてはかなり薄らいだが、旅している最中にはいっさいむだづかいはしていない。
宿もできるだけ安いところを選ぶし、移動手段(トゥクトゥクやバイタク)に対しても交渉して値段を下げる・・。もちろん詐欺には騙されない努力もする。どこに行っても、必要なこと以外に 余計なお金は使えないのである。お金の大切さということはつくづく感じた、これも長旅の収穫でもある。
だからこそ、無条件でお金をあげることに疑問を感じる。
「自分が物乞いより裕福だからお金をあげる、物乞いが貧しいと思うから お金をあげる。」
なにか腑に落ちない。
『インドではカーストの影響が強く、生まれたときからちゃんとした仕事につけない人もいます。
その中の一部の親には、生まれた子供の足は切断し、ワザと物乞いをさせるという話もあります。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)
働きたくても働けないという状況が問題なのは理解はできるが、その根本原因である「カースト」は、一人の旅人がどうこうできることではない。
「生まれた子供の足は切断」というのは、僕にはこれが本当かどうかを判断する材料をもっていないが、もし本当なら あまりに不幸ではないか。
ブログ「報道写真家から」(gooブログさん、たまにはこういう有益なブログが自分のサービス下にあるんだから、こういうブログも取り上げるべきなんじゃないか?)の「(10)カンボジアの地雷 余話」の記事で
『カンボジアの屋台などで食事をしていると、松葉杖をついた人や手作りのボロボロの義足をした人が近づいてくることがある。観光客へ、いくばくかの施しを求めにくるのだが、実は、カンボジアの地雷被害者への義足の供給率は、ICRC(国際赤十字協会)等の努力によって、ほぼ100%に達しているのだ。いや、だからといって、彼らが観光客を欺いているとは、思わないで欲しい。そのくらいのささやかな生きる工夫は許されたい。カンボジアでは健常者でさえ仕事がないのだから』
本来は義足をつけ歩けるようになるのに、物乞いするためにそうしない(足があるとお金をもらう率が下がる)場合があるという事実は 悲しすぎる。
『僕のタイ人の友達は、「困ってる人がいるんだからあげれば?」という感じで、いつもすぐにお金をあげます。そいつに、「親切にするのは人のためじゃなくて自分の為って考えれば?」って言われました。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)
こういう考え方は、僕は好きではない。本当に「困ってる」と全くの他人に判断がつくんだろうか?
「親切にするのは人のためじゃなくて」というが、純粋に相手に対しての愛がない「親切」はその人に対して失礼ではないかと思う。
『おまえが何かやるから、物乞いがはたらかない。という考えはエゴ。喜捨するよ。僕は。でも気持ちしだい。
インドなんかだと崇高な物乞いもいるし。なんとなく、あげたくない物乞いもいるし。働きたくても働けない人もいる』
(ブログ「アジアンゲストハウス」記事のコメント覧より)
と書かれている方がいますが、「何かやるから、物乞いがはたらかない」という考え方がどうしてエゴと簡単に切り捨てられるのか。「崇高な物乞い」というのがどういうものかは分かりませんが、結局は「喜捨する」対象の人をエゴにより選択していることになる。この考え方も 自分は疑問だ。
よく宗教で「信じるものは救われる」というが「信じるものしか救わない」神のエゴのようだ。道に 5匹の子猫が捨てられていたら 自分が気に入った子だけ選んで 助ける。
いや、目に映る範囲で 自分ができるだけのことをすればいいんだとも考え方があるし、正しいと思う。しかし「物乞いにお金をあげる」という行為は 自分の中では 相手にとって必ずしも良いこととは思っていない。
「働きたくても働けない人もいる」これは確かに問題であるが、この点は外国が支援することかどうか・・・。
『一回きりの物をあげるのが支援じゃない。そんなことよりもっと大きな支援を私達はしているんだ、と顧問のインド人教授は言いました。皆もそうだと同意しました。』
(ブログ「アジアンゲストハウス」記事のコメント覧より)
物乞いに対する根本的な解決は、教育・医療などの福祉援助。いわゆる先進国とよばれている国々ができることはコレだろうが、今回の記事は「旅人が物乞いにお金をあげるか否か」についてであるし、福祉援助については僕は論じるだけの人間ではない。
そもそも豊かとは何か?アジアの貧しいといわれている国の暮らしは本当に貧しいといえるか?発展途上国という言葉はなにを示すのか?
『物乞いにあげてもあげなくてもその人の価値観でいいんじゃないかな???そう思います。ほとんどの人たちは見えないものよりも今日の空腹。なのですから・・・・』
(ブログ「アジアンゲストハウス」さんの記事のコメント覧より)
そう・・・物乞いに出会っても 何もしない。とにかく僕は無力で冷たい男なのです。
文章の中に矛盾が生じている部分もあるかと思うしエゴを言っているかもしれない。
でも 今の自分が思うことを残しておく意義はあると思い書きました。
建設的な意見や批判コメントは歓迎ですが、「バカ~」「死ね~」とかは却下です。
読ませていただきました。
でも、やっぱし僕はあげちゃいますね。
旅行中に旅人の人に聞くと、「あげない」って人が圧倒的に多いんですけど、僕のブログのコメントでは「あげる」という人が多かったです。
僕があげるのは、自己満足です。
あげて、なんか自分がいい事したような気分になれる。
で、向こうも、金もらっていい気分になれる。
それだけですね。
でも、最初からあげてたわけではなく、最初のほうは1円も上げなかったです。
考えとしては↓と同じです。
>無条件でお金をあげることに疑問を感じる。
そうなんですけど、あげることで、心に余裕が出来ると言うか・・・そんな感じです。
>酷い!と言われるかもしれないが
それは思いません。自分のお金ですからどう使おうが自由だと思いますし。
僕のブログでも、コメント欄で議論できる事を期待していたんですけど、どうしても自分の意見を書くだけで終わってしまいますよね。
それだけでも、十分ですが。。。
たくさん意見をいただきありがとうございました。
また、議論系のテーマがあれば、どこでもイイのでトラックバックしてください。
おそらくLOOさんの旅のスタイルだと 尋ねた旅人達はバックパッカー・・もっと簡単に言えば「貧乏旅行者」ではないでしょうか?この「貧乏」ですが文字どおり 貯金が底をつきそうなくらいぎりぎりの状況で旅行している人もいるでしょうが、そうでなくてもできるだけ節約して旅をしている人たちだと思います。
こういう人たちは、日本で自分で働いて稼いで海外にきて、パックツアーなどなく 自分自身で旅の方法・行き先・対処の仕方など 一人でいろいろ責任をもって決定しながら旅をしてきたと思います。そうなるとお金の大切さも知っているし、無条件でお金を渡すことに対し抵抗を感じるのは自然なことかもしれません。だから「あげない」という答えをする人が多かったのではないでしょうか?「貧乏旅行」をしてない人とか物乞いに実際に遭っていない人とはおのずと考え方が違うと思います。
しかし、お金の大切さなど苦労がわかっているからこそ お金を渡す という考え方もできます・・・。このあたりの考えの針の先がどちらに傾くかで行動が変わってくるかと・・・。
>向こうも、金もらっていい気分になれる。
僕も純粋に相手にとってプラスに考えれればいいですが、どうも自分の目ではマイナスの方向に考えがおよんでしまいます。お金をあげる という行為でその物乞いとかかわることで その子に影響を与えるのが怖いんでしょうね。だから「見捨てる」というわけでなくて 単純にその子にとって初めから「僕はここには来ていなかった人間」として割り切って考えています。
>あげることで、心に余裕が出来ると言うか・・・そんな感じです。
自分の中では 記事のように 「理論武装」ならぬ「理屈武装」をしてある程度気持ちをスパッと切り離さないと 物乞いの人を見たときに 胸が締め付けられて その土地を純粋に楽しめません。
>また、議論系のテーマがあれば、どこでもイイのでトラックバックしてください。
少なくともこういう重~いテーマは、多分しばらく書かないでしょう・・・、心臓に悪いです。
以前、「クレクレ詐欺」というテーマで自分の詐欺体験談を書きましたが TB企画として募集したら みんなの体験談集まるのでしょうか・・・?やってみたいけどこけたらはずかしい。
記事を抜粋させて使わせていただきました、ありがとうございます。
実際に さまざまな活動をされている方には、僕のような考え方は どうのように写るのでしょうか?
ブログサービスはおもしろいブログばかりを取り上げて紹介したりしてますが 中司さんのようなブログの存在をアピールするのも意味のあることだと思います。ブログサービスがまだそういう段階にまでいたってないのでしょうか。
何かを要求されてから自分が拒絶するまでの刹那に、複雑な感情や考えが浮かんでいると思いますが、その大半が言ってしまえば“もったいない”という気持ちです。
たった2~30円のことで…と言われると、なんでだろうかと自分でも思ってしまいますが、旅に出るとどんどんケチになっていく自分がいます(元からなのかも…)。
ただ“もったいない”という気持ちの根底には、この旅のお金は一所懸命働いて自分のために稼いだお金だ、という考えがあります。
物乞いの話題から外れてしまいますが、旅をしていると、なんで働かないのだろうと思わされる人々に多く会います。自分が一番嫌いなのは、学生(本当かどうかわかりませんが)の子と話した後「お金が無くて勉強を続けるのが難しい。お金をくれないか」と言われるパターンです。東南アジアでは学生は働くことが出来ないのかも知れませんが(という事は無い気がするけど)、なぜ何時間も人と喋っている暇があるなら働かないのかと思うのです(その疑問をぶつけますが)。
はっきり言って自分には、東南アジアの人々は
あまり働いていないように見えます。
そして物乞いに対しても、どうしてもその印象を抱いてしまいます。
多分これからも‘あげない’姿勢は変わらないと思います。
ただ、僕があげなかった子供に欧米人が飲み物をあげていた姿を見て、自分が情けないと思ってしまったのもまた事実…
LOOさんの自己満足って考え方は僕は好きですね。(好きといいながらあげませんが…)
自己満足って言葉にはどうしても否定的な意味合いが含まれてしまいがちですが、もっと肯定的に使ってもいいのに、とよく思います。
私も「幸せ」にはそれぞれの人の環境の差があると思います。あいのりの人は、当然のことを言ったのに非難されて気の毒。まぁ、世間はそんなふうに動いてますけどね。
私が旅行に行くのに使うお金は、私が大変な思いをして稼いで、ほしい物を時には我慢して貯めたお金です。そんな大変さに目を向けもしないで、簡単にそれをもらえるなんて思ってもらってはこまります。『「たいへん」のレベルが違うだろう』と言われても、生きている環境が違うのだから、同じラインでなんて測れるわけがありません。
「冷たい女」と言われても私はあげません。
あ、神様についてもちょっと触れられていますが、私も同じ意見です。自分を信じてなくたって困った人を助けるのが「神様」でしょう?と思うので。
はっきりと覚えてませんが、小説「深夜特急」で青年沢木氏が中東あたりを旅しているときに、ヨーロッパ人の旅人が(彼もお金ないのに)物乞いにお金(食べ物だったカナ)をあげているのを見た時、日本人にしてみれば たった数十円の違いなのに それにこだわって値段交渉したり、意固地に物乞いにあげないという態度をとっている自分を反省するような場面があったはずです(←はっきり覚えてない)。
長旅を続けなければいけない当時の沢木氏が本当にこう思ったのか、帰国してからの思想が混じっているのかどうか判断できませんが・・・。
>「お金が無くて勉強を続けるのが難しい。お金をくれないか」
以前「クレクレ詐欺」というのを4つに分類しましたが、「同情詐欺」を追加した方がいいかもしれません。
>なぜ何時間も人と喋っている暇があるなら働かないのかと思うのです
「働く場所がない」というのは、その国と国民の努力によってなされなければならないものであって、外国から与えられるものではないはず。(外国の研究機関による遺跡の修復などの手伝いは良いことですが。)
でも彼にとっては、この「お金を外国人から貰うこと」がある意味「仕事」になってしまってるようです。だれかが同情してあげるという行為がある限りこの「職業」はなくなりません。
>この旅のお金は一所懸命働いて自分のために稼いだお金だ、という考えがあります
自分にとってお金に対する考え方は収穫でした。実は帰国してからもかなり引きずっていて、コンビニでお菓子やペットボトルのジュースなんてもったいなくて買えなくなってしまっています。
また中国や韓国の話になってしまいますが、戦後焦土と化した日本を自らの努力で経済大国とまで呼ばれるように成長した日本から、歴史を捏造してまで いまだに金を巻き上げようとするのは全く腹が立つ。もともとはお金をあげてきた過去の日本の政治家が悪いんですが(まわりまわって自虐ですが)。
賠償といって払いつづける限り「反日」は終わらない・・・って 物乞いと同じ 負のサイクルだ。
世間は「きれいごと」を言うことにも聞くことにも慣れてますから・・・。
自ら重い荷物を背負って旅をするのでなく 車で載せられスポット的に村を見るだけの人から「かわいそう」といわれてもねぇ・・・。そんな「かわいそう」と思うなら、皆で一人の男を非難してないで、あんな綺麗な服をたくさん種類持っているんだから、何枚かその村に寄付したらいいのにぃ。って思います。
>私が旅行に行くのに使うお金は・・・測れるわけがありません。
おっしゃるとおり!
>自分を信じてなくたって困った人を助けるのが「神様」でしょう?
多分、自分を信じていない人は 「困っている」ようには見えないんでしょう・・・。
土着の宗教を排除するのでなく融合(取り入れ)しながら広まったヒンドゥー教のシヴァ神でさえ、創造と破壊の力をもってますからねぇ・・・。創っといて破壊はあまりにも身勝手ですよね。
ぜんぜん鬼畜じゃないですよ(笑)普通にOKな考えです。
以下、私へのレスと思われる文章に関する返答です。
>その国に旅をしに来ているのであって、ボランティアに来ているのではない。
こういう考えは好きです。
ちなみに私もそれほど援助したわけではありませんよ。理由は同じです。
>しかし、旅をする人に、「物乞いをする子供」の人生の決定権までを背負わせるのは酷なことではないだろうか?(中略)物乞いを中国と韓国と比べるのはナンセンスといわれそうだが、資金援助による「ねじれ」の例えだ。
「人」から「国」へと論理展開されていますので、それに従います。
「物をあげると、その子はずっとそうやって生きていく事になるかもしれない。でも、あげないとその子は死んでしまうかもしれない」
引用していただいた文章ですが、「子」を「国」に置き換えてみて下さい。
「物をあげると、その国はずっとそうやって生きていく事になるかもしれない」
notra008さんが憤慨している今の中国、韓国(特に中国)の現状になります。
老子だったと思いますが、「魚を捕り与えれば一日を救う、魚の捕り方を教えれば一生を救う」という言葉があります。
今まで日本がしてきた援助は、一日を救い、「援助慣れ」させることでした。
結果、奴らはタチの悪い物乞いになり非常にウザイです。だからといって、あげないとどうなるか?
「でも、あげないとその国は死んでしまうかもしれない」
その国を起点に国際経済が乱れる。
援助の例をあげるなら、国債の引き受けがあります。
簡単にいえば借金なので、相手の倒産はシャレになりません。実際、アルゼンチンの経済破綻では世界中が大損失を被りました。ちなみに「三國志」のコーエーも損しています。
結局、こまめな援助は面倒だけど、相手が倒れたら余計に面倒。
なので、一日を救う援助をやめるために一生を救う援助をするのが、一番合理的です。
援助しないよりも、正しい援助をする方が自分へのリターンが大きいのです。援助には計算が入るのが当然です。逆に計算をしない援助は意味の薄いものになります。
これはnotra008さんのおっしゃる「人生の決定権」と関連しませんか?
「国」の論理で言えば彼らの人生の決定権に関わらない方が自分にとって酷なのです。
さて、「国」を「人」に戻します。
なお、「人」の論理は、「国」の論理に「感情」の要素が加わるので、似て非なるものです。
>しかし、旅をする人に、「物乞いをする子供」の人生の決定権までを背負わせるのは酷なことではないだろうか?
私がことあるごとに考えてしまったのは、ベトナムの子供と仲良くなったからです。
仲良くなった子供なので死なせたくないし、できれば幸せになって欲しい。
幸せになるには、彼自身が自立するしかないでしょう。それを選ぶかどうかは彼自身の問題です。
ただ、自立するには、まだ彼は幼すぎる。
彼がまだ「人生の決定権」を行使できないほど幼かったため、将来の期待をこめて彼の人生を一食分延ばした。
それだけです。
たぶん、見ず知らずの相手なら何も与えなかったでしょう。
>「自分が物乞いより裕福だからお金をあげる、物乞いが貧しいと思うから お金をあげる。」
最後の段落に関し、日本の財政と個人間格差の問題を合わせた意見と思われますが、この段落では「Japanese Money」の方ではなく、「先人が与えてくれた恩恵に頼るか、自分で何かを切り開くか」がメインの主張で、要は「周りがどうだろうと自分は自分だ」を言いたかっただけでした。分かりづらくてすいません。
またお邪魔します。
最初の頃の旅であげていなかったのに、何でだんだんあげるようになったか、と言う事ですが。
僕のブログのミャンマーの話で書いたのですが、
「誰かに親切にされたら、その分他の誰かに親切にする」
という考えが僕にはあります。
僕は旅行中にたくさんの人に親切にされています。
僕が困ったときは、多くの人が無償で自分の時間を使ってなんやかんやしてくれます。
でも、その人に直接恩返しをする事はできません。
だから困っている人がいたら、その人に少しのお金をアゲルということです。
その国(とか、旅行そのもの)への恩返しみたいなものです。
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働かないから貧乏になる。
金がほしければ一所懸命働け。
というのは正しいと思います。
でも僕は働かなくて怠けている人達が結構好きですし、そういう環境の国なんだから仕方ないのかなーと思います。
寒い国と暖かい国の違いというか・・・