銀ステ根なし草

銀のステッキ旅行・スタッフの雑記帳

楠木正成に迫る!

2017年10月20日 | Hの生きる喜び、それは

ひと昔なら「楠木正成」の名前を知らない日本人はいなかったと言われます
命をかけて、天皇に忠義を貫く
それが日本人の模範とされてきたのです

が、私の時代の歴史の教科書はというと・・・
名前こそチラリと登場しますが、印象には残らない程度

鎌倉幕府を滅ぼしたのは、新田義貞
その後、後醍醐天皇による天皇中心の政治「建武の新政」という新しい時代があり
続いて足利尊氏により室町幕府が開かれた・・・

このどれにも楠木正成が関わってくるというのに、教科書ではほとんど紹介されることなく
私は詳しくは知らなかったのです、、が!

今日、毎年ご一緒させていただく「スケッチ旅行」の行き先が「千早赤坂村」であり
ここは楠木正成生誕の地であるということから

昨日からにわか知識をギッチリ詰め込みました

詰め込みながら、何度涙しそうになったか!
こんな忠義にあつい武将が、日本歴史上、他にいただろうかと思えるほど

裏切られてもなお、天皇に忠誠を誓い
完全な負け戦と分かっていながら、天皇への忠誠を貫くため
最後の戦いの場所である湊川へ、死を覚悟して赴いたその精神

詳細割愛しますが・・・うーん、かっこいい!

そこには天皇に誓うという忠誠心をこえた「義」の心があったと言われます

明治期に「武士道」を記した新渡戸稲造は、「忠」よりも「義」を上位としました
主に忠であることは大切なことであるが、それよりも大事なことは
「主が道を誤ったときに諌めること」

湊川に殉じた楠木正成は、天皇が誤った道を歩んでいることを死をもって示したのです
(建武の新政は武家ではなく、天皇家・公家が中心であったため、
武家から不満が高まり、また、性急に改革をすすめたため、民衆の年貢や労役は重くなる一方だった)
いうなれば、正成は天皇に殉じたというよりも、己の「義」に殉じたのです

「忠」よりも「義」を重んじたのです・・・

実は昨日からずっと、正成に関することを調べ続け
NHKのバックナンバー「その時、歴史は動いた」~楠木正成~を
何度も見て胸にせまるものあり、今もまだそれを引きずっています・・・

今日、スケッチ旅行で千早赤坂村に行きましたが、
皆さんが一生懸命 有名な棚田をスケッチしている間も


道の駅で買い物されている間も、
金剛山をクロッキーされている間も
心ここにあらず(ごめんなさい!)

ここが正成の生まれた地で、ここで兵を挙げて、この地で激戦が繰り広げられたのか・・

思いを馳せるとなお、想いが募ります

敵方となってしまった尊氏でさえ、正成の死を惜しみ、
湊川の戦いでとった正成の首を丁重に扱い、故郷河内に運ばせ
「正成首塚」として河内長野「観心寺」に葬られています

皆さんがお寺のスケッチをされている間、私はすぐさまこの首塚に行き
じっと手をあわせました

主に「忠」であること、善道を貫く「義」、
日本人が昔から培ってきた、日本人ならではの心だと思います

千早赤坂村はおだやかでした
正成が倒幕から自刃までのわずか数年、新政権のもと、
この地で束の間の平和な日々を過ごしていたと記述に残されています 

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【期日】2017年11月1日(水)~2日(木)(1泊4食)
能登演劇堂「肝っ玉おっ母と子供たち」

◆概要◆

長く果てしなく続く戦争の中、幌車を曳いて軍隊に付き従い、戦況を睨み町から町へ行商して稼ぐ女商人・アンナ。女手一つ、三人の子どもの「肝っ玉おっ母」として戦火を渡り歩き、がむしゃらに生きるその逞しさ、やがて彼女たちを飲み込む、救いのない運命―。戦争の本質を描き出すベルトルト・ブレヒトのこの異色の反戦劇に、1988年、無名塾は挑戦しました。約30年を経て、今こそこの作品を、この母親役を、どうしても演じなければならない。

仲代達矢のその強い想いのもと、無名塾はひとつになり、命の重さと戦争の愚かさを伝える名作に再び挑みます。

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