この世は完璧ではない、だが自分は完璧である。
これをパラドックスに開き、
両者の関係を、運動し、揺らぎ、井戸に呑み込む。
これが村上春樹の小説であり、文学であり、芸術だ。
自分の物語は、小説でも、文学でも、芸術でもない。
そういって、小説し、文学し、芸術している。
これがパラドックスになっている。
*。
結局、これは仏教とキリスト教の問題になる。
「世界の終わり」はこの問題の展望である。
仏教は心のない、永遠の平和として描かれ、
キリスト教は、心のある、抗争系となる。
*。
こういう捕らえ方をすると、ここには解はない。
交わらないい平行線からなる免疫系、これは必要だからある。
だがこれだけでは人は生きていけない。
人の関わりは、それを超えた生態系にある。
そこでは平行線が交わる相対論の世界だ。
*。
彼にしても言語の貧困に呑み込まれている。
今サイエンスが必要だ。
ここで愛を歌っても、それは現実逃避にしかならない。
*。
キリスト教文化圏は、弱者を殺させないために、強者を殺す。
仏教文化圏にはそれがない。
心の世界に自閉しているのだ。
*。
この世を生きることは、
それを破壊する強者を、殺さねばならない。
仏教にはそれが出来ず、キリスト教文化圏にはそれが出来る。
*。
仏教は現実未生であり、キリスト教は現実に出産している。
キリスト教文化圏も、死刑廃止に至った。
殺さない文化が可能となったのだ。
その前は殺しの文化があった。
*。
人を殺さず、自分が殺される。
これが仏教の特質だろう。
これは子宮の中の論理であって、現実の論理ではない。
仏教は現実未生なのだ。
そこでは強者が人を殺める世界だ。
千年進歩のない世界だ。
即ち、現実未生だ。
*。
ここで愛に逃げても、それは現実逃避の妄想にしかならない。
日本は官能と人情に逃げた。
それは死の世界だ。
*。
日本は未だ現実に到達していない。
*。
村上春樹は、死の本能と生の本能を知らねばならない。
永遠の平和を求める心なき世界も必要だろう。
それは世界をはみ出して生きることだ。
そういう段階を経て大人になることもある。
*。
大体彼の愛では、お上の言いなりになることでしかない。
オウム真理教が正しい世界を作らねば、現実を生きられない。
このパラドックスに苦しむ。
だがこれはパラドックスではない。
それがパラドックスにすることが問題なのだ。
これをパラドックスに開き、
両者の関係を、運動し、揺らぎ、井戸に呑み込む。
これが村上春樹の小説であり、文学であり、芸術だ。
自分の物語は、小説でも、文学でも、芸術でもない。
そういって、小説し、文学し、芸術している。
これがパラドックスになっている。
*。
結局、これは仏教とキリスト教の問題になる。
「世界の終わり」はこの問題の展望である。
仏教は心のない、永遠の平和として描かれ、
キリスト教は、心のある、抗争系となる。
*。
こういう捕らえ方をすると、ここには解はない。
交わらないい平行線からなる免疫系、これは必要だからある。
だがこれだけでは人は生きていけない。
人の関わりは、それを超えた生態系にある。
そこでは平行線が交わる相対論の世界だ。
*。
彼にしても言語の貧困に呑み込まれている。
今サイエンスが必要だ。
ここで愛を歌っても、それは現実逃避にしかならない。
*。
キリスト教文化圏は、弱者を殺させないために、強者を殺す。
仏教文化圏にはそれがない。
心の世界に自閉しているのだ。
*。
この世を生きることは、
それを破壊する強者を、殺さねばならない。
仏教にはそれが出来ず、キリスト教文化圏にはそれが出来る。
*。
仏教は現実未生であり、キリスト教は現実に出産している。
キリスト教文化圏も、死刑廃止に至った。
殺さない文化が可能となったのだ。
その前は殺しの文化があった。
*。
人を殺さず、自分が殺される。
これが仏教の特質だろう。
これは子宮の中の論理であって、現実の論理ではない。
仏教は現実未生なのだ。
そこでは強者が人を殺める世界だ。
千年進歩のない世界だ。
即ち、現実未生だ。
*。
ここで愛に逃げても、それは現実逃避の妄想にしかならない。
日本は官能と人情に逃げた。
それは死の世界だ。
*。
日本は未だ現実に到達していない。
*。
村上春樹は、死の本能と生の本能を知らねばならない。
永遠の平和を求める心なき世界も必要だろう。
それは世界をはみ出して生きることだ。
そういう段階を経て大人になることもある。
*。
大体彼の愛では、お上の言いなりになることでしかない。
オウム真理教が正しい世界を作らねば、現実を生きられない。
このパラドックスに苦しむ。
だがこれはパラドックスではない。
それがパラドックスにすることが問題なのだ。