東京都豊島区高田という場所は、都内でも屈指の急な坂道があるエリアです。
神霊山金乗院も急な坂道にある真言宗豊山派の寺院です。実はここ、江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っていることで知られています。
自宅近所の目青不動から始まり、目黄、目赤、目黒の各不動尊を回り、最終の目白不動へたどり着けました。すべて世界最先端の骨伝導機器とともに回りました。
目白不動のある金乗院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされています。永順は1594年(文禄3年)没なので、創建は天正年間と推定されています。
最初の頃は、中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称していましたが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となりました。
江戸時代までは近隣の木之花開耶姫社の別当なども務めていました。徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額がありましたが、太平洋戦争の戦災で焼失してしまいました。
目白不動尊については、元々は金乗院のものではなく、1キロほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺という寺院にあったものでした。
東豊山新長谷寺と書いて「とうぶさんしんちょうこくじ」と読むこの寺院は、やはり同じ宗派の真言宗豊山派でした。
この寺院にあった不動明王像は、唐から帰国した弘法大師・空海が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像です。
全国に広まる弘法伝説の一種といえますが、貴重な不動明王像といえます。
その貴重な像が武蔵国関口(現在の文京区関口)に住む者の手に渡ったといわれています。しかし、その詳細や年代は全くの不明で、謎のままです。
、
江戸時代の元和4年(1618年)に奈良・長谷寺の僧・秀算によって中興され、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の命令によって長谷寺の本尊と同じ十一面観音像を造り、本堂などを建立し新長谷寺と命名しました。
寛永年間には、3代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名が贈られました。これ以降、この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになりました。
これは地名にも影響を与え、新長谷寺一帯の高台が目白台と呼ばれるようになったのです。
現在でも目白や目白台の地名が残り、著名人も住む場所になっています。
5代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けることになり、ますます寺院としては発展することになりました。
しかし、新長谷寺は今に残ることができませんでした。
やはり太平洋戦争の影響です。
戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺になってしまったのです。
そこで本尊の目白不動が金乗院に移されることになったわけです。
大僧正・天海による結界の一つが江戸五色不動霊場だといわれます。
最後に、この目白不動に来れて、骨伝導きくちゃんを使って周囲の音声も含めて骨で聴きました。
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まずは江戸五色求道霊場は結願です。
神霊山金乗院も急な坂道にある真言宗豊山派の寺院です。実はここ、江戸五色不動のひとつ、目白不動尊を祀っていることで知られています。
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目白不動のある金乗院は、開基である僧・永順が本尊である聖観音菩薩を勧進して観音堂を作ったのが始まりであるとされています。永順は1594年(文禄3年)没なので、創建は天正年間と推定されています。
最初の頃は、中野にある宝仙寺の末寺で蓮花山金乗院と称していましたが、後に護国寺の末寺になり神霊山金乗院となりました。
江戸時代までは近隣の木之花開耶姫社の別当なども務めていました。徳川光圀の手によるものとされる木此花咲耶姫の額がありましたが、太平洋戦争の戦災で焼失してしまいました。
目白不動尊については、元々は金乗院のものではなく、1キロほど離れた関口駒井町(現在の文京区関口)にあった新長谷寺という寺院にあったものでした。
東豊山新長谷寺と書いて「とうぶさんしんちょうこくじ」と読むこの寺院は、やはり同じ宗派の真言宗豊山派でした。
この寺院にあった不動明王像は、唐から帰国した弘法大師・空海が出羽・湯殿山(一説には羽黒山)に行き修行を行っていた際に造られたといわれている像です。
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寛永年間には、3代将軍・徳川家光により、新長谷寺の本尊である不動明王像に五色不動のひとつとして『目白不動』の名が贈られました。これ以降、この不動明王像は目白不動明王と呼ばれるようになりました。
これは地名にも影響を与え、新長谷寺一帯の高台が目白台と呼ばれるようになったのです。
現在でも目白や目白台の地名が残り、著名人も住む場所になっています。
5代将軍・徳川綱吉や桂昌院の帰依を受けることになり、ますます寺院としては発展することになりました。
しかし、新長谷寺は今に残ることができませんでした。
やはり太平洋戦争の影響です。
戦災で壊滅な被害を受け、1945年(昭和20年)に廃寺になってしまったのです。
そこで本尊の目白不動が金乗院に移されることになったわけです。
大僧正・天海による結界の一つが江戸五色不動霊場だといわれます。
最後に、この目白不動に来れて、骨伝導きくちゃんを使って周囲の音声も含めて骨で聴きました。
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