枕元に小林秀雄訳の「地獄の季節」新潮文庫、をおいて半年以上になる。なかなかに読み進まない。全く難解で心に入ってこない。末尾の解説記事は2度、3度と読み返した。1870年代の普仏戦争の後のパリで書かれた散文詩、その時代に理解が追いつかないのか。詩といえども言葉の連接であるはずなのに、脈絡がないようにしか感じられなくて、感動の予感すらない。
これが二十歳前後の若者であったなら、さほどの違和も焦燥も感じないであろう。解らなければ「解らない」で放置できた。そして実際放置してもかまわないし、その行為には得心がいった。ところが今の年齢となっては困る。今わからないにしても「解る見込み・可能性」が欲しい。きっとこのまま理解できないままに過ぎる、死に至るという予感がする。
小林誠先生のノーベル賞受賞内容に関する講演記事を読んだ。もちろん、その根幹・本質がわかるはずもないが、素粒子を構成する6種類のクォークと対称性の破れについての功績だと解した。対称性の破れを示すことができれば、現在の宇宙空間が反物質ではなく物質で構成されていることに繋がるのかと思った。思ったに過ぎず、理解したわけではないが、このまま放置しても生きている間にもう少し先に進めそうな気がする。それだけでちょっと満足できる。
ところがランボーは困る。訳文なのだから、ここの言葉の意味は辞書を引けば解る。文法は日本語なのだからわかる。小林秀雄の訳なのだから、何某かの感銘があるはずだ。そう、解らなくても少しの感動があれば、次に繋がる、再読の可能性がある。再読の約束が欲しいのではなく、再読した時にひょっとすると感動するかもしれないという予感が欲しいのだ。しかしその予兆もなく本書は読了の証の書架に置くこともままならない。このようにして、積読の書は積み重なる。
これが二十歳前後の若者であったなら、さほどの違和も焦燥も感じないであろう。解らなければ「解らない」で放置できた。そして実際放置してもかまわないし、その行為には得心がいった。ところが今の年齢となっては困る。今わからないにしても「解る見込み・可能性」が欲しい。きっとこのまま理解できないままに過ぎる、死に至るという予感がする。
小林誠先生のノーベル賞受賞内容に関する講演記事を読んだ。もちろん、その根幹・本質がわかるはずもないが、素粒子を構成する6種類のクォークと対称性の破れについての功績だと解した。対称性の破れを示すことができれば、現在の宇宙空間が反物質ではなく物質で構成されていることに繋がるのかと思った。思ったに過ぎず、理解したわけではないが、このまま放置しても生きている間にもう少し先に進めそうな気がする。それだけでちょっと満足できる。
ところがランボーは困る。訳文なのだから、ここの言葉の意味は辞書を引けば解る。文法は日本語なのだからわかる。小林秀雄の訳なのだから、何某かの感銘があるはずだ。そう、解らなくても少しの感動があれば、次に繋がる、再読の可能性がある。再読の約束が欲しいのではなく、再読した時にひょっとすると感動するかもしれないという予感が欲しいのだ。しかしその予兆もなく本書は読了の証の書架に置くこともままならない。このようにして、積読の書は積み重なる。