移ろいゆく日々

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気にとめたことを忘れぬうちに

相対性理論 A.アインシュタイン 内山龍雄

2017-07-23 06:28:25 | Weblog
 アインシュタインの相対性理論。理科系で飯を食ってきたが、実はあまり良くわかっていなかった。ニュートン力学と電磁気学の時空表現、そして重力理論との統一的扱い、こういったことだろうか。でも、原著論文はもちろん解説書をきちんと読んだこともなかった。
 岩波文庫から、内山龍雄(うちやま りょうゆう)先生が、アインシュタインの相対性理論の第一論文の訳と、その解説をだされている。少しまじめに読んでいる。読まずに死ねるか、という感じである。アインシュタインの偉業は、さまざまなところで語りつくされているだろうし、そのことを書く能力もない。ここでは、本書を読んだ印象を書こうと思う。
 一つは、19世紀末の物理学のパラダイムを改めえ知らされた。当時は、光の波動性を説明するために、真空にはエーテルが満たされていて、それが媒介となっている説が正とされていたことだ。それを取り払うという発想が飛躍を生んだのだと思い知らされた。ちなみにエーテルという概念を知ったのは、SF小説からであるのは間違いない。A.ヴァン ヴォークト(本当はヴォートと発音するらしい)の「宇宙船ビーグル号の冒険」だったか、E。E。スミスのレンズマンリーズだったか。最近のことは覚えないが、案外記憶がでてくるものだ。
 もう一つは、その意味でアインシュタインの相対性理論は、ほとんどはそれに近い業績をあげた人がいたということだ。例えば、ローレンツの収縮仮説、ローレンツ変換などは、アインシュタインよりも先に提出されている訳で、ただこれはエーテルという概念に基づいていることから、相対性理論とは呼べないということである。ほとんど手がかりをもっていたが、アインシュタインのような「飛躍」ができなかったとも言える。
 そして、「相対性」の意味だ。時空間はそれまで考えられてきた「絶対的」なものではなく、「相対的」な理解が出来るということだ。当時の概念では、エーテルに満たされた時空間(真空)は静止した(絶対的基準となる)ものが常識だったのだ。アインシュタインは、それを「相対的」なものとして力学、電磁気学、重力の統一的な理解を示したこと、これが偉業なのだと感じた次第である。
 邦訳とはいえ、第一論文を読んでおく(本当は「相対性理論」の全容はいくつもの論文からなっている)ことは意味のあること、このことを岩波文庫という入手性の高い媒体で提供された、全く内山龍雄先生に感謝申し上げたい。日本は、自国語で知の本質に触れることができる幸せな国なのだ。
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食文化と宗教のこと

2017-07-02 18:34:27 | Weblog
 随分と大きい表題だが、書く中身はごく些細な印象である。インドでは、ヒンズー教徒の原理主義者(どこの宗教にもいるらしい)が、同国ではごく少数のイスラム教徒を神聖な牛を手にかけて食すという理由で、襲うことがあるらしい。2014年以降でも20数人が命を落としているので、根深い深刻な問題である。
 人間は霊長類の基本に漏れず雑食動物であって、なんでも喰らう。中華料理の話になると、中華料理で四足で食えないものは机と椅子であるなどというジョークもあるぐらい。だから何でも食うのは実は基本なのである。では、宗教の名の下になぜ禁忌の食が生じるのだろうか。やはり宗教行為に関わる部分と実際に関わる部分の両面からなると思われる。
 キリスト教では、聖餐としてパンとぶどう酒が挙げられる。パンは小麦から、小麦は神聖な穀物なのである。これは文明の基礎が小麦にあるから。本邦でも五穀を奉じる訳で、特にお米は素朴に神聖である。「ご飯は残さずに食べなさい」と言われて育った人は多いと思うし、これはもう刷り込まれた真実である。南米ではとうもろこしは神聖な食べ物で、またかけがえのない主食なのであった。
 では肉類はどうであろうか。我が国では比較的肉類を食しないように思われるが、これは人口が急増した江戸時代の話で、その時代でも薬食いと称して肉類は珍重された。動物が動物性たんぱく質を主たる肉類を食わねば、生きてはいかれるまい。少なくとも手っ取り早く、体の組織となる栄養を吸収する必要がある訳で。ちなみに、成人の必要なたんぱく質の摂取量は、体重1kgあたり1から1.2g程度。筋肉を付けたい人は1.2gから1.5g程度、それに良質のトレーニングの組み合わせになる。お肌の肌理を整えたい人も、まずはたんぱく質は不飽和脂肪酸とともに欠かせないものだ。
 さて必要なたんぱく質の量、これを植物性たんぱく質だけで摂るのははなはだ困難である。世にはベジタリアン、菜食主義者がいるではないか、という人があるかもしれない。これは仕組みがあって、腸内細菌叢が良く整っていて腸内の乳酸菌などが何とか必要なたんぱく質をつくって必須アミノ酸を補っていると思われる。ようは数年、ないし生涯にわたって、そのような菜食主義の体質を作りこんでいくことになる訳だ。それとても、栄養の摂取にはしっかりとした知識と実践が必要なのである。
 ではヒンズー教では何故牛を神聖な生き物としたのだろうか。これは全くの想像だが、素晴らしい栄養源である牛乳を提供し、労働力を提供する(ヒンズー教では牛を使役する習慣はないと思うけど)牛を文明に必要欠くべからざる動物としたのであろう。
 一方のイスラム教では、アラブ民族に発する教えで、砂漠の酷暑の中、食べるもの、そしてその捌き方を厳密に定めて人々の福利に供した。イスラム教は最も優れた実際の教えなのだと思う。アルコールを禁忌としたのも合理(僕はここは受け入れられないけど)がある。結果として、厳格なハラールをつくった訳なのだが、基本は雑食であって、そこはぶれている訳ではない。
 さて、かたや神聖な動物、かたや合理としての食習慣、となると折り合うところは人の理性となる。順々に説いて理解して、ただただ融和するしかないと思う。それにしても、インドの人たちが大英帝国の支配下であったころ、結構つらい気持ちだったのだろうと改めて思う。
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泉鏡花 眉かくしの霊

2017-07-02 16:59:12 | Weblog
 江戸末期まで眉引きというお化粧があったらしい。平安時代の貴族女性までさかのぼるが、眉毛をぬくか剃るかしてその上に眉墨でうすく眉を引く。明治中期には廃れていたというので、大正13年の本作では時代は違うのだが、話も末に出てくる柳橋の芸者、お艶の眉化粧、懐紙で眉をかくすところ、これが話の鍵になるようにおもったので、少しつたない説明だが、眉かくしの解題をしてみた。
 文学的な位置づけについては、岩波文庫版では吉田精一の解説に詳しい。これに異を唱えようという意はごうもなく、これを読んで感じた個人的読書感を少し記す。
 怪異譚などというと古い言葉のようにおもっていたが、最近でも結構多いものかとおもう。西尾維新の「化物語」などのジュブナイル(とは最近はいわず、ライトノベルズ)ではこれを真正面に据えているし、森見登美彦の作品などもそうだろうか。いや遡れば、折口信夫の「死者の書」もその範疇に入るのかもしれないし、これは堀辰雄が絶賛している。してみると、怪異譚は明瞭な系譜が本邦の文学史にもあって、泉鏡花の「眉かくしの霊」も口語体の成功例に挙げられるのだろう。
 中仙道、奈良井の宿に逗留した境何某という男の話なのであるが、ごく平凡な旅の話が、古い宿場町の季節を外れたひっそりした時期の風情と趣きが背景になっていて、美しくも妖しい気配を徐々に高まるあたりが、泉文学の味わいなのだろうとおもわれた。女性の眉化粧への情念ともいえる思いが、それに重なっていると思うのだが、自分にはそのあたりの知識に欠けるいるので、初めに書いた調べものをしてみた。そういえば落語であれば、まくらの部分で、噺と下げに関する時代風俗や歌舞伎など絵解きを面白おかしくやる、やはり落語は良く出来ているとも感じた次第。
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高野聖 泉鏡花

2017-07-02 12:35:32 | Weblog
 先にあげた丸谷才一「文章読本」(講談社文庫)、第八章「イメージと論理」の中で、イメージの喚起に色の名前を使わずにものの名前を使って、色に関わるイメージを呼び起こすという文章技術のくだりがある。そのさらに複雑な応用例として、色の名を露骨に使うことによってさらに話を婉曲にするというややこしい例として、泉鏡花の「高野聖」が引用されていた。兄の書架の中にあったと記憶する泉鏡花「高野聖」も読んだことはなく、口語体で書かれていたのに驚いた。どうやら幸田露伴「五重塔」あたりとごっちゃにしていたらしい。
 確か”積読”の山の中にあるはずとごそごそと探したら、岩波文庫版の「高野聖・眉隠しの霊」が出てきたので、読本を読み終えた後に呼んだ。引用部分はその冒頭であることが確認できたが、明治33年の泉鏡花の代表作は思ったよりもくだけた口語調で、江戸文学を、例えば上田秋成を口語体にすればかくなるのではないかと思わせた。あとでネットで調べると、鏡花は江戸文学を愛好したとのこと。この小説は28歳のときのものであった。
 物語の題材は今でいう怪異譚、これを実写で映像化、映画化するのは些かグロテスクだろうが、アニメーションにすると美しい作品ができあがるのに違いないとひとり納得をした。短編に近い文章なのだろうが、冬の福井路で夏の木曽路の話をする、孤家の婦人(おんな)の美しさと怪しさ、妖しさは実写よりも、アニメーションのデフォルメを見る側の脳でイメージに変換した方が印象であろう。丸谷才一が「イメージと論理」の章で鏡花を引くのには、それなりの訳があると思った次第。
 こうやって、青少年期に読んでおけばよかった本を最近になって初めて手に取っているのは、少しばかり残念ではある。折角の読中読後の印象も、日々の勤めの間にさっぱり忘れ去られて身につくものではない。まあそれでも死ぬまで読まずに済ましたよりはましかと、自分に無理やりに言い聞かせる。
 それにしても、日本語の本質を随分とあやまって理解してきた、あるいは理解せずにきたように思われてならない。日本語は、確かに不明瞭さがあって曖昧さがのこるきらいはあるが、特に文語体文章においては実に豊かな感情表現が重畳的に行われる。口語体文章は、百年余りの歴史からか、形式的美文を廃し過ぎたからか美しさでは文語に未だ追いつかないことがあるが、それでも近代化に堪える論理思考の礎となる言語であったことは、民族にとって全くの幸いであった。そしてその美しさは、日本語を母にする民族にとって恵みであった。
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