アインシュタインの相対性理論。理科系で飯を食ってきたが、実はあまり良くわかっていなかった。ニュートン力学と電磁気学の時空表現、そして重力理論との統一的扱い、こういったことだろうか。でも、原著論文はもちろん解説書をきちんと読んだこともなかった。
岩波文庫から、内山龍雄(うちやま りょうゆう)先生が、アインシュタインの相対性理論の第一論文の訳と、その解説をだされている。少しまじめに読んでいる。読まずに死ねるか、という感じである。アインシュタインの偉業は、さまざまなところで語りつくされているだろうし、そのことを書く能力もない。ここでは、本書を読んだ印象を書こうと思う。
一つは、19世紀末の物理学のパラダイムを改めえ知らされた。当時は、光の波動性を説明するために、真空にはエーテルが満たされていて、それが媒介となっている説が正とされていたことだ。それを取り払うという発想が飛躍を生んだのだと思い知らされた。ちなみにエーテルという概念を知ったのは、SF小説からであるのは間違いない。A.ヴァン ヴォークト(本当はヴォートと発音するらしい)の「宇宙船ビーグル号の冒険」だったか、E。E。スミスのレンズマンリーズだったか。最近のことは覚えないが、案外記憶がでてくるものだ。
もう一つは、その意味でアインシュタインの相対性理論は、ほとんどはそれに近い業績をあげた人がいたということだ。例えば、ローレンツの収縮仮説、ローレンツ変換などは、アインシュタインよりも先に提出されている訳で、ただこれはエーテルという概念に基づいていることから、相対性理論とは呼べないということである。ほとんど手がかりをもっていたが、アインシュタインのような「飛躍」ができなかったとも言える。
そして、「相対性」の意味だ。時空間はそれまで考えられてきた「絶対的」なものではなく、「相対的」な理解が出来るということだ。当時の概念では、エーテルに満たされた時空間(真空)は静止した(絶対的基準となる)ものが常識だったのだ。アインシュタインは、それを「相対的」なものとして力学、電磁気学、重力の統一的な理解を示したこと、これが偉業なのだと感じた次第である。
邦訳とはいえ、第一論文を読んでおく(本当は「相対性理論」の全容はいくつもの論文からなっている)ことは意味のあること、このことを岩波文庫という入手性の高い媒体で提供された、全く内山龍雄先生に感謝申し上げたい。日本は、自国語で知の本質に触れることができる幸せな国なのだ。
岩波文庫から、内山龍雄(うちやま りょうゆう)先生が、アインシュタインの相対性理論の第一論文の訳と、その解説をだされている。少しまじめに読んでいる。読まずに死ねるか、という感じである。アインシュタインの偉業は、さまざまなところで語りつくされているだろうし、そのことを書く能力もない。ここでは、本書を読んだ印象を書こうと思う。
一つは、19世紀末の物理学のパラダイムを改めえ知らされた。当時は、光の波動性を説明するために、真空にはエーテルが満たされていて、それが媒介となっている説が正とされていたことだ。それを取り払うという発想が飛躍を生んだのだと思い知らされた。ちなみにエーテルという概念を知ったのは、SF小説からであるのは間違いない。A.ヴァン ヴォークト(本当はヴォートと発音するらしい)の「宇宙船ビーグル号の冒険」だったか、E。E。スミスのレンズマンリーズだったか。最近のことは覚えないが、案外記憶がでてくるものだ。
もう一つは、その意味でアインシュタインの相対性理論は、ほとんどはそれに近い業績をあげた人がいたということだ。例えば、ローレンツの収縮仮説、ローレンツ変換などは、アインシュタインよりも先に提出されている訳で、ただこれはエーテルという概念に基づいていることから、相対性理論とは呼べないということである。ほとんど手がかりをもっていたが、アインシュタインのような「飛躍」ができなかったとも言える。
そして、「相対性」の意味だ。時空間はそれまで考えられてきた「絶対的」なものではなく、「相対的」な理解が出来るということだ。当時の概念では、エーテルに満たされた時空間(真空)は静止した(絶対的基準となる)ものが常識だったのだ。アインシュタインは、それを「相対的」なものとして力学、電磁気学、重力の統一的な理解を示したこと、これが偉業なのだと感じた次第である。
邦訳とはいえ、第一論文を読んでおく(本当は「相対性理論」の全容はいくつもの論文からなっている)ことは意味のあること、このことを岩波文庫という入手性の高い媒体で提供された、全く内山龍雄先生に感謝申し上げたい。日本は、自国語で知の本質に触れることができる幸せな国なのだ。