古書店で買った岩波新書、日本文学の古典第2版を少しずつ読み進めている。西郷、永積、広末著の1966年第1版である。既に刊行後50余年、おそらくは今の解釈とは違いもあるだろうが、平家物語などの文学史の位置づけを学ぶのに役に立っている。きっと高校の国語、文学史の時間に習っているはずだったのだろうが、その新鮮さに微苦笑の限りだ。
さてその本の方は今は第7章、能と狂言であって、観阿弥、世阿弥の拓いた芸能の奥深さに感じ入った。本を読んでも分からないので、休日の午後、NHKの古典芸能への招待、能と狂言をお酒を飲みながらぼんやりと観賞した。随分前だが、教徒観世会館で能、狂言をみたことがあった。その時の演目は覚えていないが、感銘とともに謡も、良く見聞きすれば何とか意味がとれるものと思ったことを記憶している。
今日の番組の演目は「黒塚」。陸奥の安達ヶ原で山伏が一夜の宿を借りたところ、宿の女主人が実は鬼女だったという話である。山伏は鬼女を法力で調伏するという粗筋は古典的だが、もっと深いもののように思えた。謡には字幕が入り、副音声では解説もあるので、十分に理解しやすかった。
印象に残ったことをいくつか。まずは笛、小鼓、大鼓、謡のアンサンブルの美しさである。笛と謡が主音律(メロディ)を、そして小鼓などのパーカッションが有って、楽器の不足を合いの手とでも言うのであろうか、謡方の掛け声が補っている。
黒塚の老媼の糸車の嘆きは、人が老いることへの諦念と悲しみのように思えた。古人もまた老いの悲しみを謡うことで、昇華させたのであろう。人は悲しみを理解して共鳴することで克服できるものなのである。
観阿弥、世阿弥親子が築いた能は、今も私のような門外漢にも影響を及ぼし続けける。後世に残したい文化である。
さてその本の方は今は第7章、能と狂言であって、観阿弥、世阿弥の拓いた芸能の奥深さに感じ入った。本を読んでも分からないので、休日の午後、NHKの古典芸能への招待、能と狂言をお酒を飲みながらぼんやりと観賞した。随分前だが、教徒観世会館で能、狂言をみたことがあった。その時の演目は覚えていないが、感銘とともに謡も、良く見聞きすれば何とか意味がとれるものと思ったことを記憶している。
今日の番組の演目は「黒塚」。陸奥の安達ヶ原で山伏が一夜の宿を借りたところ、宿の女主人が実は鬼女だったという話である。山伏は鬼女を法力で調伏するという粗筋は古典的だが、もっと深いもののように思えた。謡には字幕が入り、副音声では解説もあるので、十分に理解しやすかった。
印象に残ったことをいくつか。まずは笛、小鼓、大鼓、謡のアンサンブルの美しさである。笛と謡が主音律(メロディ)を、そして小鼓などのパーカッションが有って、楽器の不足を合いの手とでも言うのであろうか、謡方の掛け声が補っている。
黒塚の老媼の糸車の嘆きは、人が老いることへの諦念と悲しみのように思えた。古人もまた老いの悲しみを謡うことで、昇華させたのであろう。人は悲しみを理解して共鳴することで克服できるものなのである。
観阿弥、世阿弥親子が築いた能は、今も私のような門外漢にも影響を及ぼし続けける。後世に残したい文化である。