移ろいゆく日々

移ろいゆく日々
気にとめたことを忘れぬうちに

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2013-01-27 18:08:31 | 音楽・エンタメ
 古書店で買った岩波新書、日本文学の古典第2版を少しずつ読み進めている。西郷、永積、広末著の1966年第1版である。既に刊行後50余年、おそらくは今の解釈とは違いもあるだろうが、平家物語などの文学史の位置づけを学ぶのに役に立っている。きっと高校の国語、文学史の時間に習っているはずだったのだろうが、その新鮮さに微苦笑の限りだ。
 さてその本の方は今は第7章、能と狂言であって、観阿弥、世阿弥の拓いた芸能の奥深さに感じ入った。本を読んでも分からないので、休日の午後、NHKの古典芸能への招待、能と狂言をお酒を飲みながらぼんやりと観賞した。随分前だが、教徒観世会館で能、狂言をみたことがあった。その時の演目は覚えていないが、感銘とともに謡も、良く見聞きすれば何とか意味がとれるものと思ったことを記憶している。
 今日の番組の演目は「黒塚」。陸奥の安達ヶ原で山伏が一夜の宿を借りたところ、宿の女主人が実は鬼女だったという話である。山伏は鬼女を法力で調伏するという粗筋は古典的だが、もっと深いもののように思えた。謡には字幕が入り、副音声では解説もあるので、十分に理解しやすかった。
 印象に残ったことをいくつか。まずは笛、小鼓、大鼓、謡のアンサンブルの美しさである。笛と謡が主音律(メロディ)を、そして小鼓などのパーカッションが有って、楽器の不足を合いの手とでも言うのであろうか、謡方の掛け声が補っている。
 黒塚の老媼の糸車の嘆きは、人が老いることへの諦念と悲しみのように思えた。古人もまた老いの悲しみを謡うことで、昇華させたのであろう。人は悲しみを理解して共鳴することで克服できるものなのである。
 観阿弥、世阿弥親子が築いた能は、今も私のような門外漢にも影響を及ぼし続けける。後世に残したい文化である。
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松の内の間に、明けましておめでとうございます

2013-01-06 11:32:11 | Weblog
 年末年始は帰省して、大混みのなかを1月3日に移動して、4日が仕事始め。翌日が土曜日というのは気楽でした。いただいた年賀状を見たり、住所がわからなかった友人に返信を出したりしました。リサイクル店にてジャンクCDを5枚100円で、東野圭吾の本を4冊ほど購入しました。CDは高橋真梨子の1993年のベストセレクション、ポール・モーリア(Paul Mauriat)のアルバムなど。高橋真梨子の歌声は40代だと思いますが綺麗です。久しぶりにポール・モーリアを聴きましたが、アレンジなどは後年の久石譲なんかを連想させる、やはり良いものですね。読む本はいくらでもあるのですが、古書店で東野圭吾が4冊ならんでいて衝動買いです。
 帰省の時には、小林秀雄の晩年の小文集「考えるヒント」(文春文庫)を携えていった。それに実家にあった泡坂妻夫「ゆきなだれ」(文春文庫)を読み直した。「考えるヒント」を読みながら、もう少し若いときに小林秀雄の文章を読んでおけばよかったと思いました。ただ読んでも、理解が追いついたかは甚だ疑わしい。批評に関する一文では、カントのクリチックを批評・批判と訳したことの不的確さを示唆し、自らの仕事である批評を、批評対象の特筆すべき箇所を明らかにすることと述べていました。私の稚拙な理解では批評は創作の下に位置すると思っていましたが、批評がそのようなものであれば重要な仕事だと思い直したことは収穫でありました。プラトン、平家物語に関する記述も、最近その関連した読書をしたこともあって、なお印象深かった。
 泡坂妻夫は奥付きの出版年をみると学生時代に買ったものらしい。ミステリと男女の機微の謎の短編集でしたが、こんな”渋い”ものを読んでいたのかと思ってしまった。珍しく冒頭の1編には読んだ記憶があったので、積読の書ではなかったようでした。
 仕事とは全く関係のない読書であったが、仕事始めの幹部の挨拶にも仕事とは無関係の書籍の話があったので、それはそれで良いかと自らを慰めました。
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