移ろいゆく日々

移ろいゆく日々
気にとめたことを忘れぬうちに

大阪W選挙の行方 注目は投票率

2015-11-22 17:00:23 | Weblog
 日本にはなかなか地方自治が根付かない。
 沖縄県翁長知事は一人気を吐いているが、これは米軍基の地移設問題に根ざしたもので、仮に移設を阻止しても普天間基地が残るし、沖縄振興の一手につながる何かが欲しいところだろう。政治家にとって、理念や信念と実益をどのように結びつけるか、が重要なように思う。
 全く違うことではあるが、本日が投票日の大阪W選挙と呼ばれる大阪府知事選、大阪市長選もおなじ側面がある。しかも沖縄県よりもそもそも低次元の争いになっていて、しかも日本に及ぼす影響は沖縄と同じぐらい大きいものがある。
 大阪は、東京との二極である京阪神地方の中核であって、本来は日本の経済、政治、文化の中心地、牽引役であってしかるべきである。しかしこの三十年ほどの間、はっきり言って無能な政治家と、一部の働かない市役所や府庁の役人、それにこれも一部の行政に只乗りする住民という三重苦にあって、日本の牽引役どころか地域の地盤沈下を加速させてきた。
 橋下前知事、現市長が大阪維新の会を立ち上げて、大阪都構想を旗印に大きな運動を起こしかけた。しかし、手法のまずさもさることながら、何よりも国政に色気を出しすぎる橋下氏の下では、やはり大改革にはたどり着けなかった。既存政党は、それこそなりふり構わずに呉越同舟、一丸となって大抵抗勢力と化した。
 端下氏のだめなところは、大阪でことを為す前から国政に色気をだしたこと、それに世の中の流れが読めていないこと、そしてそもそも信念に欠けることであろう。折角の大阪都構想も、地方官僚をしっかり味方につけてその具現化を図らなければならない時に、国政に手を出し、口を出し、顔を出ししては、反対勢力に足元をすくわれる。そもそも、器を大阪とに入れ替えただけで、二重行政がなくなってたちどころに景気浮揚が図れるなんてことは幻想だ。都構想実現の過程で進められる大胆な構造改革こそ、その本質がある。やる気のある地方官僚諸君を抜擢、奮起をうながして政策実現することが重要であったのに、十分な準備を完了まで行えずに今年5月の信任選挙で僅差の敗北をきした訳である。
 さらにここから橋下氏の迷走は続いた。政治家を引退するだの、維新の党を脱退するだの、子供のようなリアクションをとった。そもそも論でいえば、国政の都合から維新の党を売り渡したことが失敗の主因であったのだろう。
 今回の大阪W選挙は、捲土重来を期しているのだろうが、何故維新の党をみっともない形で割ったりしたのだろうか。国政には必要なことかもしれなかったが、大阪W選挙にとってはマイナスではあってもプラスではなかったろう。この点でも端下氏は、流れを読めていない。
 しかし、この大阪W選挙の注目する点はそこではない。その投票率にある。大阪府民、大阪市民がいったいこの地域をどうしたいのか、その意思表示をするぐらいの心がけがあるのかにある。どんな結果であれ、投票率の上がらない地域、自治体の未来は暗い。日本の地方自治が根付かず、そして停滞を加速するのだろう。大阪の地盤沈下は、日本の一側面である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知識のつながり 知らぬことの多い世の中

2015-11-22 11:04:51 | Weblog
 本を読んでいると、気になることが出てくる。
 夏目漱石の「彼岸過ぎまで」の中で、確か主人公の乗った市電の向かいの席の紳士が「菜根譚」という本を読んでいるというくだりが出てくる。新潮文庫版だったか、注釈がついてあって、明治時代後期に読まれた市井での行き方などを書いた中国の書籍、とあった記憶している。
 その後、某大手古書店で、岩波文庫版の「菜根譚」が廉価にあったので購入した。明代だったか儒、仏、道などから取材した市井の生きる知恵集のようなものであった。この要約はちょっと内容を陳腐にしすぎたかもしれない。
 この「菜根譚」も読み下し文だけでなく翻訳と丁寧な注釈があって、出典となる文などが引いてある。論語ぐらいなら手元に岩波文庫版があるので、これもあたることができる。明治時代以前の日本人は、四書五経を学の基礎としていたそうなので、この菜根譚ももっと身近に読めたのかもしれない。この前、易教の上下巻を別々に岩波文庫版で揃えることができた。手元においておくだけだろうが、ひとまず良しとする。
 また例えば、与謝蕪村の「蕪村句集」(岩波文庫)に目をとおしていると、これも句のいくつもが、和漢朗詠集や伊勢物語など古典から想を得て、あるいは言葉をもらって、詠まれていることに気づかされる。伊勢物語は、上下巻で講談社学術文庫かを入手できたので、これを手元で紐解くことができる。そういえば、法政大学学長の田中優子先生が、樋口一葉の「たけくらべ」の話しを林修氏とテレビでしていたときも、筒井筒の話しが話頭にのぼって、そこでも手元にある伊勢物語で中身を確認することができた。ちなみに、田中先生の話を聞いていると、いかに「たけくらべ」を皮相的にしか理解できていなかったかが思い知らせれる。
 もちろん、今の時代は上にあげたような程度のことは、ネット環境があればよく。実物の本がなくても情報を得ることはできる。むしろ音楽や映像に至っては、本ではあたることが出来ないので、ネットのほうが遥かに有効ですらある。
 それでも、手元に本があって、気になることがあったときに、その原典にあたることが出来るのは少し嬉しい。子供のように並んでいる状態が望ましい。ほとんどは、自分の物の知らなさにがっかりすることではあるのだけれども、それでも本が並んでいることは在り難くはある。
 第二次世界大戦後、10年度ほどたって出版業が復興してきたとき、日本文学全集や世界文学全集の類が結構売れたそうだ。実家にも亡父が買ったらしい古い全集がいくらか残っている。その当時も読んだことはなかったが、今はその憧れのような気持ちが少し分かる。もともと遣隋使や遣唐使、そして時代は下って日宋貿易、日明貿易のころも、日本はその貿易で多く書籍を求めたそうだ。
 頭に残りもしない知識は無に等しく、それを求めることは時間の浪費のようにも思える。それでも、知への憧れはやむことを知らない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

就職・採用活動に思うこと

2015-11-21 18:03:57 | Weblog
 今年の日本経団連が新規大学卒の採用活動方針の評判が悪かった。この10年ほど多様化する企業採用で、就職活動のために長期間にわたって学生諸君が時間を費やさねばならなくなっており、明らかかに学業に、大学の教育活動に支障がでている。この点を改善するために、日本経団連が所属する大手企業を中心に、4年生の四月からセミナーなどを行い、学生諸君の本格的な就職活動は、夏休み期間になるように”配慮”した訳である。
 しかし、企業側の採用担当は何年間あるいは十数年かにわたってその仕事に携わるが、学生諸君は自分自身のこと、人生の節目でもあるだろうし、先輩の情報や習慣が役に立たないことに大いに戸惑ったようだ。加えて、上記に動きに参加しない企業は従来どおりの採用活動を行ったことから、学生諸君にとっては就職活動の長期化となってしまった。さらに、採用を決めた企業からは、その後の就職活動を阻む、いわゆる「オワハラ」が横行したことも、話題になった。
 就職活動はいつの世も若者にとっては一大事ではある。夏目漱石「吾輩は猫である」の中にも学卒者の月給と就職のことが話頭にのぼっているし、江戸時代も浪人の奉公先探しは大変だったようだ。昭和、平成と時代は経ても、若者を悩ませることには違いない。
 勤務先の会社でメンタルヘルスの講習があったときに、講師である産業医が「今の学生は就職活動が大変で、そこで最初のストレスの洗礼を受ける」みたいなことを指摘していた。早くから就職情報会社が動きだし、web上でエントリーシートの書き込み、会社説明会でスクリーニングがあるとかないとか、様々な情報が飛び交う。理系の学生では長期の休みに「インターンシップ」と称した就労体験があるが、学生諸君にとってもこれは事実上の採用活動の一環と捉えている。
 間接的にではあるが採用活動に関わってきた期間があった。今より10年ほどの前の話ではあるが、当時の学生諸君には「どこの会社に行くかよりも何をするか」という点と、「今やりたいことはそれ以外は受け入れられないということか」という点を問うてみた。所詮、企業にはいれば、何をやるかなんて思うようにいくはずはない。一方で、行きたい会社って何で選ぶのかという話しである。本当に拘るのであれば起業することだろうが、会社で禄を食む人間には言われたくないだろう。
 ただ、何物にも属さずに考え、発言できる立場は人生の中でもかけがえのない貴重な時期だ。企業選びの就職活動に忙殺されるのは気の毒ではある。ただ、今年が勝負の学生諸君にとっては何の慰めにならないかもしれないが、就職時期がずれたことは皆同じ条件なので、それで有利不利が生まれた訳でない。そして、不況の年に比べれば今年が特別に悪いという訳ではない。
 物事をちょっと違う視点で眺めてみるような、そんな鷹揚な気持ちを若いうちから養ってほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図解・気象学入門

2015-11-03 09:23:44 | Weblog
 講談社ブルーバックスの1冊。2011年3月初版で、著者は古川武彦、大木勇人である。気象研究所の主任研究官だった方とサイエンスライターの組み合わせで、多様な気象に関わる事象を原理原則も含めて平易で視覚的な説明がなされている。大学の物理化学の講義に出てくる内容もあるが、じっくり読めば中学生、高校生諸氏も十分読めるのではないか。あまり知識の前提がないように工夫されていると思う。
 さらに良いのは、最新の気象データに基づいていること。出てくる図説は2000年以降の最新の知見に基づくもの。気象図も2010年のものを使っているなど、これから10年以上陳腐化しにくいデータを使っている。折角の解説も、四半世紀も半世紀も前のデータだとそれが真であるにせよ、長く手元に置きたいとは思わないかもしれない。
 それにしても、自分の気象や気候に関する知識が浅はかだったことを改めて思い知らされる。日本は自然災害の多い国土をもっており、それは季節の多様さ、四季の美しさと裏返しのこと。この国で楽しく暮らすには、やはり気象、気候の知識は欠かせない。
 加えてこれからさらに議論と対策が必要な、地球気候変動問題がある。考えるまでもなく、気候変動問題をより良く理解するには、まずは気象、気候の知識が必要である。温室効果ガスとしてCO2が取り上げられるが、実は水蒸気(H2O)の方が遥かに大きいことが知られている。直接の原因はH2Oにあるのだが、CO2の存在はその一種の平衡状態を押し上げる効果があると考えられているのだ。解き明かされていないことは多く、だからこその大きなリスクと考えるべきだろう。この問題は、古気候学(例えば「チェンジング・ブルー」、大河内直彦)や地球科学(「地球の中心で何が起こっているのか」、巽好幸)なんかとともに気象・気候学の知識がそもそも必要だろうと改めて思った。
 そして、これは中学生、高校生そして文系も含めた大学生や社会人に広く読まれるべき本だと感じた。
 この手の書籍はなかなかに版が伸びない。でも特にこれから大いにこの問題に直面する若い世代に読んでほしい、手元において理解の助けにしてほしい、そんな一冊であると強く感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝!石川佳純W杯銀メダル!!

2015-11-01 16:59:01 | Weblog
 佳純ちゃん(馴れ馴れしいゾ、ちゃん付けも失礼だけど)頑張ったね。銀メダルは快挙です。決勝で負けたのは悔しいでしょうけど、是非次の励みにしてください。中国勢を始め世界の壁は大きく厚いのですから。福原愛ちゃん、惜しかったけど、あなたが先輩の背を追ったように後輩はどんどん育っています。卓球男子の活躍も期待します。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭の良い人はたちが悪い 再び

2015-11-01 08:45:36 | Weblog
 橋爪大三郎、大澤真幸の「ふしぎなキリスト教」、講談社新書を読んだ。キリスト教もまた凡なる日本人である私にはわからない。
 私個人にも、キリスト教とは関わりがある。実は私はヨゼフにも、そしてイエス・キリストになったこともあるのだ。気がふれた訳ではない。かよった幼稚園がカソリック系で、中には教会があって毎週お祈りもしたし、十字も切れるようになった。クリスマス前になるとキリスト生誕前後を聖劇があって、そこで年少組のときにキリスト生誕の大団円となる幼いイエスを、そして年長組のときにヨゼフをやったということだ。なかなかに畏れ多い。そして、その後の宗教的経験は重ねられることはなかった。合掌。
 前掲の書は、キリスト教に関わる対談で、一神教、旧約聖書とユダヤ教、旧約聖書成立時のユダヤ人、そこから分かれたキリスト教、新約聖書の成立、旧約聖書との二重構造、東方正教とローマ教会、そしてプロテスタントの成立あたりを、ざっくりと”雑談”したもの。両者とも社会学者だが、橋爪先生はプロテスタント系のキリスト教徒、それに大澤先生が質問する形、疑問に答えるという形式だ。
 読めばご両所が頭の良い人だということが分かる。両聖書はもちろんマックス・ウェーバーなどの様々な書を引きながら、素人では思い至らないような内容を議論している。
 この本で勉強になったことは多々あった。一神教の考え方、旧約聖書の成り立ち、史実としてのイエス・キリスト、そして新約聖書の成立、ヘブライ語で語られたイエスの言葉がギリシャ語からラテン語に書き換えられた過程、東方正教の分離とローマ教会の成立など一段の理解として役に立ったと思っている。
 ただ頭の良い人の癖として、思いつきも真であるかのような語り口や、私は間違っていないという確信的な言動は負の印象を強くもつ。
 キリスト教、ユダヤ教を語る上で、他宗教、たとえば仏教や儒教(この書では宗教として書かれているが哲学的側面の方が大きい)を引き合いに出すが、その言及内容は極めて粗雑だ。イスラム教の扱いもつまみ食い程度で無視に近い。書籍の上での扱える限界であるなら、言及は慎重であればよいのに、頭の良い人は自信過剰で傲岸不遜である。
 不思議なことは、扱っていないことも多いことだ。中世の十字軍そして魔女裁判、そしてアメリカやアフリカ大陸進出における布教と植民地支配の関係、奴隷貿易、いずれもキリスト教の負の側面と思われることだ。
 一番の疑問は、最終段にある「ルネッサンスから自然科学の成立は、キリスト教の地域であればこそ生じたものだ」とする見方だ。放談の流れではあるのだろうが、議論は雑を超えて偽に近づく。ローマ教会の神学がアリストテレス哲学、論理学、自然科学に強く影響されていることを認めておきながら、キリスト教が自然科学の成立の基盤になったとは論理の矛盾を感じざるをえない。ギリシャ哲学はキリスト教以前で、ユダヤ教の影響は一切ない。自由と民主主義、資本主義の発生と成立がキリスト教に立脚しているというなら、社会学者としては偏りが大きすぎるのではないか。共産主義がキリスト教のアンチテーゼであろうことも言及はない。
 これらのことを、この小冊の中で断定的にばっさりと言い切ってしまうあたり、頭の良い人はたちが悪いとおもってしまう。
 この文は、トーマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548-1611)のミサ曲を聴きながら書いている。日本でいえば桃山時代、今に通じる美しい曲が信仰に基づいて織り成された。その文化の重畳は尊敬と傾聴に値する。であれば、その敬意が批判とともにあって謙虚と断定への躊躇いがあれば、その論は良いと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする