移ろいゆく日々

移ろいゆく日々
気にとめたことを忘れぬうちに

奇跡の生還「第一幸福丸」

2009-10-31 17:50:00 | Weblog
 土曜授業から帰宅した息子と世間話をしていて、小生が勤務する会社の業績が今年度は大幅な赤字だと話すと、「やっぱり」といって思いのほか暗い顔をしました。子供にも今日本が不況に直面していることが感じられるものなのでしょうか。実を言うと、小生の勤務する会社は8年ほど前に潰れる寸前までその業績が悪化し、その後様々な経緯や施策でなんとか蘇りました。なので、私としては少々の赤字では驚かない、というつもりで話したのですが。もちろん景気循環というにはあまりな世界的な金融不況ですし、本来あまり傷んでいないはずの日本経済が大きく落ち込むという状況であります。国家財政の不健全さ、対応策の不十分さ、迷走する政治など、様々な要因が影響していると思います。ただ、報道のあり方が、不況の一辺倒であることも気になります。報道・マスメディアも、民主社会の中では一大権力であることを自覚して欲しいものです。一般庶民は、すべからく頑張っているのですから、元気が出る報道もバランスするほうが良いですよね。
 だから、明るいニュースを取上げるのも良いかと思った次第。一昨日の報道で、転覆して乗組員8人が行方不明になっていた第一幸福丸から3日ぶりに3名が救出されたというニュースがありました。船長が死亡、なお4人が行方不明で心配されるところですが、遭難後漂流する船内に3日間も取り残され、船内の空気だけで生き延びたのはまさしく奇跡です。もちろん奇跡には僥倖がつきものですが、特筆すべき点が3つあります。一つは遭難者の冷静沈着さ、知的判断、そしてそれに苦難への忍耐です。もう一つは、救助者の使命感と熱意です。そして何よりも、遭難者・救助者双方の諦めない強い意志だと思います。
 家族との再会を果たした生還した方々の笑顔と家族・仲間の喜びをみると、出来ることから始めよう、諦めることなく強い意志と希望が持てるのではないでしょうか。
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いまさらedy

2009-10-28 22:25:30 | Weblog
 地方在住者なので、Suicaに代表される電子カード・電子マネーの類には無縁でした。でも、今年に入って東京出張、それも東京圏内を移動することが結構多くなってきたのでSuicaを購入。便利なものですね。
 それに味をしめて、と言うわけではないのですが、電子マネー・edyの利用も始めました。お財布携帯という手もあるのですが、携帯を新機種に換える気もしなかったので、とある提携カードのedy機能付きというものを利用しています。
 現金を入金するわけではなく、クレジットカードで溜まったポイントをedyに換金しています。使い出すと実に便利なものですね。性格が関西人ですから、財布をあけて小銭をまとめて出すのはさほど苦ではなく、電子マネーのメリットとリスクを考えた時に魅力を感じなかったのですが、実際に使ってみてedyで簡単に支払いが済んでしまうのは実に助かることを実感しました。コンビニを利用する機会が出張時、荷物を多く持っている場合が多いので、特に利便性を感じます。
 それに、ポイントなどを溜めて電子マネー化しているので、ほんとうの”懐”は痛みません。ポイント制って、発行する側にとっては、利用者に一時的に支払いを免除してもらっている一種の借金、ということになるのですが、彼らにすれば、その借金の間に一稼ぎできれば良い訳ですよね。一種のファイナンスになるのかな。カードに記録された電子情報が”お金”というのも奇妙な気がします。しかし、これもお金に価値を与えているのは、このお金は皆が広く認めた”価値”、つまり”信用力”だと思えば、実体の有無は関係ないということをこの電子マネーを使うと実感させられます。
 解らないのは、日本銀行がもっている通貨供給という経済を制御する武器が機能不全にならないかということ。電子マネーって実態がない訳で、それが今までの現金と比べて何十倍もの速度で流通すれば、通貨供給量に影響するぐらいの量にならないのでしょうかね。そんな埒もないことも考えさせてくれます。
 そういえば、前の出張の時に山手線の漫画雑誌のつり広告に、「テレカ・トレカが当たる」ていうのがありましたが、トレーディングカードはともかくも、テレフォンカードって今時あるものなのでしょうか。これも価値をカードの中に押し込めたものではありましたが、使い道は”専用公衆電話”のみ。僕の机の中には、未使用のテレカが20枚ほどあるのですがね。でも昔のアイドルのテレカならいざ知らず、今となっては何の価値もないことになります。そういえば、その中に1枚、友人の結婚式の二次会でもらった新郎新婦の名前のはいった「結婚しましたテレカ」があります。その後、彼らは泥沼の離婚裁判を経て別れちゃったのですが、僕の机の中の価値のないカードには、まだ彼らの名前が仲良く並んでいます。
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未来写真

2009-10-18 18:56:10 | Weblog
 未来写真というサイトで、このブログのハンドルネームの写真を見てみました。「はっ?!」という感じです。
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漁師さん

2009-10-17 09:34:17 | 社会・エコロジー
 大都市圏のごく普通のサラリーマンの家庭で育ったので、漁師を若干でも身近に感じたのは、就職して転勤してとある漁港の近く(と言っても車で30分ぐらいは離れていますが)に住むようになってから。でも知人に漁師はいないので、実際のところ、かつて賑わった漁港もすっかり寂れたという印象をもっただけです。それでも、板子一枚下は地獄というように、大変な職業だなぐらいは思っていました。
 今朝のNHKで ハイビジョンふるさと発「嵐の気仙沼~宮城・港町の特別な一日~」を見て、漁師に敬意と親しみを持ちました。日本近海で長期の漁に出ている漁船は、漁場を台風が通過する時だけは、休漁して気仙沼漁港などに避難します。台風という”天災”で得た”陸”でのたった一日の休日を過ごす漁師達とそれを支える人達のドキュメンタリーです。
 最近はすっかり寂れた気仙沼漁港も、この時は日本各地の数百艘もの漁船で大賑わいします。漁期には、水揚げと言っても2時間ほど寄港すればすぐに出漁する生活の漁師も、丸一日の休日なのです。銭湯で久しぶりの湯船につかり、パチンコに興じ、知人・友人と酒を交わす漁師達の顔は、空模様とは違って晴れやかそのものです。銭湯や雑貨店の女主人は、彼らの良き母親役・相談相手です。最近の漁船にはインドネシアからの研修生達が乗り込んでいて、そこで3年間働けば大学に進学する学費が得られるそうです。そんなインドネシアの若者達が漁労組合の一室に集まって、net経由で故郷の家族・恋人とつかの間の再会を果たします。気仙沼出身の19歳の若者は今年高知の漁業会社に就職しましたが、女手一つで育ててくれた母親を遠洋漁の最中に亡くし、その墓参りに行きます。北海道出身の若者は2年前に立ち寄った気仙沼で知り合った女性と今秋結婚するのですが、束の間のデートを楽しみます。各地各船の船頭達は、一堂に会して直近の漁業情報を交換します。農水省発表の漁獲高は減少していないのですが、それは彼ら漁師の赤字すれすれの必死の努力による水揚げで、水産資源は確実に激減しているそうです。統計では現れない実態です。40年働いて7人の孫がいる宮崎の漁師は、青畳の香りが好きだと言います。一年の10ヶ月以上を船の上で過ごす漁師だからこそ、家族と家への思いを”青畳の香り”に例えるのでしょう。
 地方経済、水産資源、外国人、若者の就業、そして人と人の繋がり。何だか様々な日本の側面・課題・思いが鋭く切り取られて、それでも頑張る漁師達とそれを支える人達に敬意と共感を持てる、何だか心に染みる良いドキュメンタリーでした。
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明確な理念とシンプルな方法と

2009-10-14 00:12:00 | Weblog
 政権交代で感じることは、「政治の話題は取上げない」を旨としている当blogでもそれに近い話題を取上げたくなること。政権交代が「普通のこと」なのだから仕方がないのかとも思います。
 でタイトルは、「子供手当て」に関してです。今春行われた「定額給付金」でも、所得制限を設けるで随分と議論になりましたが、この「子供手当て」に関しても同様の議論が出ているようです。
 今までの一般的な減税は税金控除とか還付の形式をとっていたのですが、ここにきて給付形式が取上げられるようになってきました。この「子供手当て」に関して言えば、扶養控除・配偶者控除を廃した財源で「子供手当て」を給付するものです。低所得者で子供がいる世帯に「厚い」ことになりますので、考え方として「子供」を軸に所得の再分配を図る仕組みといえます。
 対象となる子弟のいない世帯で配偶者控除が廃された場合には確実に増税となる訳ですが、「社会で子育てを支援するから」という理由でその増税を理解してもらおうというものです。加えて、大学生は「手当て」の対象ではなく、これらの子弟がいる世帯では負担感があるといえます。
 「給付」に所得制限を設けることは仕組みをさらに複雑にするのでが、扶養者の所得によって「子供が区別される」という理念から外れたおかしな事が生じます。よもや所得の多い扶養者が「手当て」を貰えないからといって、子弟への教育態度が変わることはないのですが。
 もう一つ、これに公立高校の授業料無料化があります。これについても相当の財源も別に求めることなると思いますが、まさかこれに扶養者の「所得制限」を設けるとは思えません。
 本当に効果的な税の使い方としては、就学意欲があるのに金銭的理由で高等教育を断念せざるをえない学生諸君の支援ではないでしょうか。高等教育を受けることで、より高収入が期待できる職業についたり、より社会への貢献が高い仕事に従事してもらえば、税金を使った甲斐があるというものです。
 国家財政が破綻の危機にある今日、本当に「ばら撒き」を制度化してしまってよいものか、子供達に大きな負の遺産を背負わせるのであれば、本末転倒というべきでしょう。
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続・梶井基次郎

2009-10-12 07:27:39 | 音楽・エンタメ
 2009年8月29日のブログで梶井基次郎を取上げました。遅読な私もその文庫版(角川文庫)の読了に漸くと近づいている訳ですが、本書は夭折・寡作であった作家の主要作を網羅しています。事実上の処女作である「檸檬」から遺作となった「のんきな患者」までを年代順に収録しています。加えて「瀬山の話」など習作数編と詳細な解説が載っており、梶井の文の多くがnet経由の「青空文庫」で読める時代とはいえ、本書の情報の質と量は充実したものです。
 その角川版を読んでの感想なのですが、一連を読むことによって旧制高校時代から、放蕩への自責と疾病への苦悩が作品の陰影を深めていることと、東京帝大時代、伊豆での療養時代、そして帰阪後の末期と作風が変遷していることが読み取れます。都会での刺激的な生活を過ごした初期は若々しい内省と掌編ながらも一種劇的な展開を持っているのに対して、山深い宿での長期の療養生活の頃である中期には天然自然への興味や観察が作品への広がりを見せます。社会科学・共産主義への興味を持ちかつ故郷で母親と過ごした末期は、絶望しがちな療養生活の中で周囲の日常の事象・平凡たる市井の仕組みや人に目を向けたむしろ社会性のある作風になります。
 彼がもともとは理系の志向があり自然科学に造詣があることも、諸作品に表現の奥行きと考察の的確さを与えているように思います。「Kの昇天」における光の扱いや、「冬の蝿」の自然風景の描写と心象風景の重畳、「のんきな患者」における民間療法に対しての暖かい視点をもった滑稽を感じる態度にもその証左が読み取れます。
 習作である「瀬山の話」は「檸檬」以前にかかれたもので、その断片には「檸檬」の原型があります。この習作を読んで、始めて「檸檬」の主人公は作者自身というよりも、「友人・瀬山」という虚構の投影を経た人物であることに気づかされました。この瀬山なる虚構は自身のある部分の分身であるかもしれませんが、やはり私小説的という理解ではないとの思いを強くしました。
 凡庸な読み手である私には、「檸檬」と「習作・檸檬」では圧倒的に「檸檬」の劇的効果が勝っており、「習作」を掲載することは梶井の研究目的以外にはむしろ梶井の価値を損なうことになりはしないかと危惧しました。が、優れた読み手であれば、むしろその両者の対比は有益なのかもしれません。
 そうしてみると、梶井の作品をnetを通して触れることと、編集者の手になって一連の作品を書籍という媒体を通して読むことの意味の差は存外大きなものでありそうです。書籍は「活字が紙に記された文章」を超えた魅力を持っており、貴重であると確信されられました。
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大臣は法律ではない

2009-10-06 23:25:12 | Weblog
 このブログでは政治問題は扱わないことにしているが、どうも亀井金融・郵政担当大臣は、かなり勘違いをしているようだ。一市民、一評論家であれば持論を披瀝するのは結構なことだ。しかし、現在は我が国の重責を担う大臣なのだ。モラトリアムにせよ、郵政民営化凍結にせよ、郵政会社社長の更迭にせよ、自分の発言をメディアに垂れ流すのではなく、法案や政策に反映するべきだ。その権限を今や有している訳で、自身の発言の重みと責任を受け止めるべきだ。つまり、自身の発言が株価や為替にすら何らかの形で影響を及ぼしていることをもっと自覚して欲しい。
 ただ、私がもっと驚いたのは、本日2009年10月5日付けの毎日新聞web版の「「家族間の殺人事件増加」で経団連を批判」という記事だ。衆議院選前のことではあるらしいが、「家族間殺人」の「増加」は、日本の大企業が「下請けいじめを行った結果」「リストラなどで」「派遣切りなどが横行した」ためで、「企業は責任を感じなければだめだ」という内容を日本経団連御手洗会長に言ったということだ。しかも、このことは本日付の自身の講演の中で語ったというのだ。
 大臣という要職にありながら、なお評論家のような発言を続けるのは本当にいかがなものか。上記の発言内容の是非はさておいても、本当にそのように思うのであれば、しかるべく法律に則り、企業に影響力を行使すれば良い訳である。まるで自分の考えが法律であるかのような発言は本当に慎まねばならない。つまりは、亀井大臣に求められているのは、確かな実行力であり、正に彼はその権力を手中に収めているのだから。風呂屋談義をしている場合ではない。

追記 今日(2009.10.6付け)でも亀井大臣の日銀への圧力とも取れる「日銀は寝言を言うな」発言が報道されています。日銀の判断が亀井発言で影響されることはないと思いますが、日銀の独立性を侵すとも取れる不用意な発言です。大臣の資質を問われかねない内容です。
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ニュースサイトの見出しに疑問

2009-10-04 07:33:13 | 社会・エコロジー
 新聞や雑誌の見出しは、記事の要約や重要語句の明示と記事に読者を誘導する惹句の二つの側面があるのは周知の事です。本来は、これらは記事の象徴的な語句で読者の読否の判断を求める機能を持っています。
 このような考え方に真っ向から勝負を挑んだ?のは夕刊スポーツ紙です。夕刊紙はある意味で健全な商売で、娯楽性のある記事を帰宅途中の給与所得者達に提供することで利益を挙げる業務形態ですよね。したがって、駅の新聞スタンドで一瞬のうちに読者を釘付けにするキーワードを大見出し=看板のイメージで提供します。さらには新聞スタンドでは新聞を重ねたり折り込んだりして陳列するので、露出される面の見出しが”雌雄を決する”ことになる訳ですし、見えない側に結論がきても”かまわない”訳です。露出面側に「○○監督辞任~」非露出面側に「~今夕にも議論か」とやっても、購読者との暗黙の了解が成立するようになりました。
 一方、このような手法は一般紙や有名どころの雑誌ではタブーなはずです。最近では雑誌を中心に発行部数が減少しており、どうも名が体を現さず的な見出しと記事も目立ちますが。
 さて、最近問題に感じているのが、ニュースサイト・ポータルサイトの記事見出しです。正直な感想は「実に酷い」の一語に尽きます。リンクは張りませんが、某ポータルサイトに「中日、巨人を破り5年ぶり優勝」とありました。読む気も起こらなかったので内容は確認しませんでしたが、おそらくは日本プロ野球イースタンリーグの優勝であり、この場合は「イ・リーグでは中日優勝」とでもしておくべきでしょう。前者は14文字、後者は11文字で記事へのミスリードは減るはずです。でももっと酷いのは、明らかに確信犯的見出しです。一例はこのgooのサイトに「子供が生まれたら夫の死亡保険金は5000万円以上必要」という記事見出しです。でも本文を読めば、実はこの見出しは35歳未満の未婚女性に聞いたアンケートの最も多かった回答であり、さらにその記事の筆者は、保険は家計とのバランスを考えて設定するものであると述べた上で、そんな保険を設定すると保険料は日割りで2000円程度、そんなに払いますか?という正反対な内容なのでした。
 動画サイトなんかに行くといわいる”つり動画”というのがあって、ちょっとエッチなサムネと見出して視聴者を”釣って”おいて、そのスケベ精神を揶揄するといった形式にはじまって、現在では「面白い見出しで釣って」「予想もしない展開で落とす」というジャンルが確立されるまでに至りました。その質はバラバラですが、それは動画サイト・作者のご愛嬌で、暗黙の了解に立脚した粋な関係といえるでしょう。
 ニュース・ポータルサイトで記事見出しと記事を読んでいると、始終違和感を感じます。確信犯的な見出しは気になりますし、ユーモアのセンスやモラルの低下も少し不安になります。でも、日本語を操るプロである記者・著者・編集者の日本語力の低下?と思うと少々暗澹たる気持ちになります。
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国産リージョナルジェット機MRJ

2009-10-03 17:23:19 | 科学・教育
 国産飛行機といえば、YS-11が思い浮かぶ。第二次世界大戦後、宇宙航空機産業は、その研究開発を完全に禁止され、10余年の遅れを取ってしまった日本が、その遅れを取り戻すべく開発されたYS-11。初飛行は1962年(昭和37年)でしたが、180機を受注し、海外にも販売されました。しかし、商業的には成功を見ず、累積赤字を解消すべく製造会社も清算し、新たな会社の元で後継機YS-33、YXも開発を進めるも、結局は途中で断念することになりました。技術力の問題というよりは、商業ベースまで育成するスキームや、1970年以降の欧米との政治的な駆け引きによる撤退もあったように思われます。
 これもWikipedinaからの引き写し的になりますが、国産機で極めて頑健な機体である一方で、出力不足などの運行のし難さや居住性などの旅客機としての機能の低さが欠点として挙げられていたようです。
 この後、民間旅客機の製造は、小型機を除いてなされなかったのですが、三菱飛行機が国産ジェット機としてMRJを開発・販売するに至りました。全日空からの25機の受注に加え、漸く米国航空会社から100機の受注にこぎつけたようです。損益分岐点が300~400機、機体要因の事故など様々なリスクはありますが、成功に向けての一歩を踏み出したといえるでしょう。商業的に痛いのは、日本航空の経営難でしょうね。本来なら全日空と並ぶ国内顧客になるはずでしたでしょうに。
 現在100人乗り前後の地域交通の担い手となる航空機として、低燃費(従来より20%減)や快適性を兼ね備えたモデルとして期待されています。是非成功を期待したいところです。
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アルベール・カミュ 異邦人

2009-10-03 09:58:19 | 音楽・エンタメ
 本当は学生の時に読んでおいたらよい本を、今更ですが少しずつ読んでいます。フランスの20世紀半ばの作家、カミュの「異邦人(窪田啓作訳、新潮文庫、改訂版)」を読了しました。第一次世界大戦前、仏領アルジェリア、アルジェで生まれた作家の処女作です。この後の「ペスト」などの著作と文壇での活躍で若くしてノーベル文学賞も受賞しています。
 この「異邦人」は、裏表紙の要約には、「母の死の翌日に海水浴に行き、女と関係を結び、映画を見て笑い転げ、...」、「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追及した」となっていました。
 でも私が読んだムルソーは、少し印象が違います。確かに過去への郷愁や感情に乏しく、失った母や自分が関与した犯罪とその結果に対しての感情的表出も欠落しているものの、そのような態度は、むしろ閉塞感から無気力になった若者が、感情の乱れに対する強い自己防衛の有り様に思えます。就学の挫折からか他者や社会への無関心は際立ちますが、愛人への性的感情や隣人や友人との心的交流を拒絶してるわけでもありません。そういう意味で、精神的抑圧や欠落に落ちいった若者を主人公とする不条理の文学とも異なるように思いました。
 読み解くべきは、北アフリカの乾燥した強烈な太陽の夏という気候の中でのムルソーの異邦人性であり、故郷ではあってもキリスト教世界ではないアルジェの中での仏人であるムルソーの異邦人性であり、キリスト教仏人社会での中での無心論者であるムルソーの異邦人性であるのではないでしょうか。
 彼の犯罪は、今の倫理に照らして憎むべきものでありますが、裁判で彼が断罪されたのは彼の犯罪ではなく20世紀半ばのキリスト教社会への非恭順であったと感じました。そして、その後の欧州でのキリスト教社会秩序の変容の様を認めれば、無神論的日本人である私の観点から見たときに、現代におけるムルソーは異邦人ではなくなりつつあると思いました。
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