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日蓮聖人の教えから、浄土教に改宗した偏屈居士です。
現在はご先祖が帰依した、浄土真宗本願寺派に属しています。

井上日召師の悟り。

2020-02-09 17:48:28 | 日蓮・富士門流
井上日召師は日蓮宗の正式な僧侶では無かったとは云え、一寺院の住職を勤めお題目も欠かさず唱え、参禅していた御仁です。血盟団の思想的役割を担っていたリーダーの一人で、血盟団事件後無期懲役の判決を受けています。数年後特赦で刑務所を出所しています。20歳頃から座禅に親しみ、38歳頃に悟境に近いものを得ましたが、山本玄峰師には印可されませんでした。彼が真に悟りを得るのは獄中で歎異抄を読み、自身の我執を截断した後のことです。(後に玄峰師から日召師は印可ok )

日蓮系の僧侶でも悟道の境地を得た人は法華三昧や座禅を行として取り入れていますね。
平塚雷鳥も若いときに参禅の功徳で、見性前に起こる大歓喜を全身に受けています。彼女はそれ以上突っ込んだ行はしませんでしたが。思うに、悟道を得るためには有相と無相、内観と外観の両方が必要なように思います。有相行とは唱題・読経、無相行とは座禅です。内観とは自身の仏性を見つめる観法で、外観とは自分をこの世で成立・維持させている絶対的なものに対しての帰依です。

富士の信者を見ると、御本尊をヤフオクで購入したり、板本尊や日蓮本仏論で馬鹿騒ぎしたり、創宗戦争で罵りあったりと、全然高尚な感じがしませんからね。フィジカル?と云うか、結局「欲」ですよね。日蓮正宗は創価学会員を自宗に戻すのに躍起だけれど、要は寺院経営上お金が欲しいわけです。
しかし、その考えは甘いですね。大半の学会員は宗門には戻りませんわ。→だって、現代人は直接的なアドバイザーを求めており、寺信心で自己を啓発しようとする人は少ないからです。

日蓮本仏論ですが、日蓮は名字即の因位に成仏の根幹を見出だしたわけです。百六箇抄や本因妙抄、御義口伝はそれを述べているんですね。日蓮→上行菩薩→その根本は元初の名字仏と奥へ奥へと進み、法華文底の真意を伝えているんですね。普通の読解力があれば誰でも解るはずなんですが、他門流は自宗門を否定する結果に繋がるんでわざと歪曲・否定しています。日蓮の教えが排他的なのは、法華の初心信者は諸縁に動かされ、折角発心しても下種として根付かないのを怖れるため、権教・爾前を否定するわけです。

云うなれば三大秘法の御本尊は発心下種のため必要な本尊です。名字から観行即を目指す場合、これは富士流で云えば釈迦仏教の教義がどうしても必要なんですね。即ち修禅を中心とした行法が必要不可欠です。今の禅宗で見性している僧侶を私は知りませんが、少し前までは居たんですね。
本当の禅宗は八宗の要と云われ、信仰の悟域を量るためとても大切だったんですね。書籍で云えば白隠禅師の著作は絶対読むべきものです。

日蓮系信者にしても信心の置き所の位を云えば、御本尊に執着しているのは下位で、真の道心は禅宗で云う見性を出来なくても云いので志向している人が上位かと思います。
ただ見性は並大抵のことでは成就しません。座禅で魔道に入る人も数を知りませんから。船に喩えると波に漂い目的地以外の場所に流される感じですね。日蓮信徒にとって波に漂わず不動で居るためのアンカーが御本尊であり、大聖人への信仰心かと思います。

修禅による三昧行をするにしても、悟道には大信力が不可欠と云われています。日蓮信徒は絶対的な信仰心を持っている人が多いので、基本条件は満たしているんですね。後はやるかやらないかの違いです。しかし、悟境を判断・指導出来る師が今の時代に居るか?なんですね。修禅は霊的な開発にも繋がるんで、下手をすると精神障害を起こす危険もあります。新興宗教なんかは大体がこの方法で霊的な物を背負い込んで教祖やそれに近いものになっています。霊友会も実情は一緒です。

支部長クラスになると霊友会独自の霊能開発を行として行うんですね。
霊友会から立正佼成会や色んな教団が分派したのは、支部長クラスがミニ教祖になったからです。
その源泉は霊能開発で自身に取り込んだ霊力なんですね。人を教団に繋ぎ留める力は一つには教義・組織ですが、もう一つは教団が抱える霊力にあるんです。良い教団には良い霊団が憑いていますが、悪い教団には悪い霊団が憑いています。→霊団なんて?って軽く考えている人、それは宗教の怖さをご存知無いに等しいですよ。

日本仏教では血脈・法脈って云うのが重視されています。チベット仏教でもそうなんですが、これは何だと思います?→霊脈です。霊団が発信源でその力を頂いているんです。密教では血脈が無ければ祈祷の現証を得られ無いとされています。日蓮系で富士門流が喧しく云っていますが、そもそも在家教団に仏教の血脈は無いんです。寺院の檀家になり始めて僧侶から血脈の一分を頂くわけです。ならば、S学会には霊団が憑ていないのか?なんですが。

これは昔から云われているんですが、S学会は魔の霊団が憑いていると霊能力者たちは言いますね。
だから力があるんですよ。でも悟りとか高い次元に導く霊団では無いんですね。その逆です。
教義や理屈も大切ですが、その教団が過去にどの様な歴史を踏んでおり、どの様な人達が帰依していたか、その教団で信者は栄えているかなど調べた上で信仰しても良いのではないかと思います。

その教義が天地自然の理に沿っているか。→これがポイントですね。
日蓮の教えを表面だけで理解するとマジでカルト教祖と同じです。狂信教祖と同じなんですね。
日蓮の真意を咀嚼してこそ、本当の日蓮教義かと思います。ただ今の富士門流全体を俯瞰しても、残念ながら偏った教義としか思えませんね。それは日蓮が無相行と私達が仏天から受ける法界力(浄土の言葉を借りれば本願力)をきちんと説明していないからなんですね。

簡単に云うと、禅宗と浄土の教えが日蓮教義には必要なわけです。日蓮の教えは法華経の有相行のみ取り出して密教化したものです。法華経は有相・無相行の両方を完備し、自行の内観・法界力を恃む念仏等、中道を本旨とした円満な教えでありますから、日蓮の教えのみで一括りにするのは無理があるんですね。初心の法華信徒は日蓮教義で良いでしょうが、悟道を目指す人はそれで満足すべきではありませんね。

富士門流が天台・禅宗・真言宗など批判しているのを見ると、自身の背丈が低いのを自慢している印象を受けてしまいます。これら各宗派の中にも極少数ではありますが、真面目に仏道修行をしている僧侶も居てるんで、日蓮信徒は自身の身の丈を考え自嘲すべきです。富士門徒で浄土真宗の教学を学ぶ者は殆ど居ないと思いますが、心ある人は真宗学に触れるべきですね。日蓮教義だけでは偏った見方しか出来ません。真宗学を学ぶことで教学の幅も出来、今の日蓮正宗の愚かさにも気づくはずですから。

日蓮正宗と浄土真宗を比べると法華と浄土の対極に位置していますが、驚くほど考え方がよく似ています。双方とも一元化した教義であること。「信」に基づいた教義であること。神祇に不寛容であること。神霊に疎いこと。鉄の鎧のごとき教義構築がなされていること。「事」を重んじ、「理」を重視しないことなどです。ただ、悟道を考えた場合、理と事が融け合って悟りを成就しているように思います。台宗の霊空上人は浄土の行で理事の合一を説いていますが、私は霊空師の教えが本物だと考えています。→(「行」理論に関して、霊空上人は私自身本当の師匠と仰いでいます。)

禅宗は行体系が「理」に走りすぎていますが、やはり「事」が起点となり一気に悟りを開いているように思いますね。日蓮・法然・親鸞の教えが「事」行を中心とした教義なのは、初心の行者に配慮したものと推察します。ぶっちゃけ、日蓮の教えの何たるかを理解したら、念仏の行→天台念仏と真宗の信の念仏、2つ掛け合わせた念仏に専念すべきです。天台念仏は勿論霊空上人の念仏です。これって結局、天台真盛宗から密教を外した教義と変わらんのだか、私はこれが末法衆生で道心のある人が取るべき、最高の仏道修行だと考えていますけどね。

法華宗には田村芳朗師と云う、僧侶で偉い仏教学者がいましたが、この先生は天台・法華以外に浄土にも明るい凄い人なんです。→私の勝手な思い込みなんですが、田村先生の行法観は法華・浄土不二だったんでは?と。法華や浄土一本槍の僧侶、学者の論はやはり偏った見方が多すぎて読んでいても今一つですが、田村先生の論文は読みごたえがありますね。やはり、本物の仏教学者は違いますわ。

法然上人の専修念仏は阿弥陀念仏に執着し過ぎて、他の聖教類を否定する誤解を招きました。一方日蓮聖人も法華に専一過ぎて、機根の乏しい末法衆生に重要な阿弥陀念仏を信徒から遠ざけてしまいました。本当は両方必要な教義なんですがね。→未だにどちらか一方に執着する信徒が多すぎるのが誠に残念です。ただ、日蓮は天台系の浄土念仏はそれほど批判していないんですね。千観、良忍は天台念仏で特筆すべき僧侶ですが、その念仏教義に関しては何も語っていません。千観に関しては祈祷の効を褒めているくらいです。

当時の仏教界各宗派の矛盾した教義への痛烈の諫言こそ、日蓮の本意と受け止めるべきではないかと思います。また、日蓮独自の法華一念信解での立正安国の主張です。→日蓮が説いた各宗派への批判や種熟脱の三種教相、日蓮が持っていた上行菩薩としての使命感、これらの教義は在世当時整理体系化されたものではなかったが、後世の弟子たちが思い思いに組み立て今日に於ける日蓮系の分派を生んだものと考えます。日蓮が元々抱いていた教義を掘り起こし、近代の仏教学と照らし合わせて論を展開しているのが身延系です。一方、後世の弟子たちが構築した日蓮教義をそのまま日蓮本人が直説したと考えているのが石山を代表とする富士ですね。

学問探求の姿勢として身延系は正しいんですが、重要御書まで真筆では無いからと何でもかんでも削除する有り様で。→身延は自身に相伝が無いものだから、近代の学問に託つけて日蓮の真義を埋没させる畏れがありますね。
コメント (70)
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