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ニギハヤヒと大国主の関係

2011-08-18 07:21:31 | 宗教観
 以前、自分のブログ(http://blog.goo.ne.jp/nanshiko1116/7)でニギハヤヒは大国主?と書いたが、再度検証して別々の神様と考えた方が良さそうであるので補足したい。素戔嗚と大国主の系譜は比較的分かり易いのに、ニギハヤヒに来ると非常に難解になる。それは何故か?・・・とどのつまり、それは日本の正統な王様がニギハヤヒであるからである。ニギハヤヒとは何者であるか?私は出雲系とは違う外来の人格神と考えている。

 先住民の出雲族が日本の王と認めたニギハヤヒの実力と活躍は記紀には記載されなかった。ただ、神武天皇のくだりの箇所にニギハヤヒであろうと思われる業績が改編して書かれているように思う。古代の氏族で注意すべきは、鴨、海部、秦氏である。ニギハヤヒを外来勢力としたのは、出雲族とは違う別勢力と考えられるからである。ニギハヤヒは出雲族の王様の姫に入り婿したと考えた方が氏族の系譜を検証した時、筋が通るように思われる。

 原田史観では大神神社の祭神はニギハヤヒとしているが、合祀が解かれ伊勢に移った今となっては、これは間違いであろう。大神神社は大国主の幸魂・奇魂を御祭祀している。(出雲大社は荒魂)出雲大社の逆注連縄、これはニギハヤヒの直系でない者が日本の王位に着き、国土に数々の疫病・天災が襲って以降、天皇家が怨霊封じのために行ったものとされている。(当時の天皇家は朝鮮半島から来た完全な外来勢力である)

 また神名はその働きにより変化するんで、上記に挙げた私の個人的な立て分けが当てはまるかどうか。・・・例えば、大神神社の前宮司、藤田氏がいたころ、霊能のある神社の信者さんが熊野大社に参拝出来ないことを気にしていたら、熊野の神様から「私はこの神社にも居場所を設けている」との霊夢を感得しているからだ。中心的御祭神以外にも沢山の神様が関連し、移動しているようである。

 先に挙げた神名であるが、天照大神は内宮の祭神で有名だが、神が大きく動き絶対的な権限を持つ時天照皇大神とも呼ばれ、宇宙の中心的な神である天之御中主神と同等になる。国常立命も大国常立命に変化すると天之御中主神とこれまた同等の意味合いを持つ。大国主命に名前が多いのもその働きが多岐に亘っているためである。思うに大物主命とは大国主命とニギハヤヒの合同の力の顕現を意味する神名なのかも知れない。

 呪禁術には大物主命の力は必要不可欠のようである。安倍晴明が祭祀の中心においた神は泰山府君であるが、泰山府君は先に挙げた大神神社の祭神、三輪明神と同一視されていた。古代卑弥呼の時代よりも遡り、三輪山麓は日本の祭祀・行政の中心地であった。ニギハヤヒの血脈を引く王たちが三輪山を重視して本拠を置き、その霊力を畏怖しつつシャーマン的色合いの濃い政を行っていたのであろう。

 記紀で分かるのは、出雲族との婚姻の記載である。これは、天皇家が鴨氏ら先住王朝の末裔を如何に尊重していたかと云うことの表われである。幾ら武力があっても、血筋と云う根拠が無いと先住民の信任が得られなかったのであろう。古代の天皇家に女帝が誕生した経緯も、女系の方が血筋が上位であったことを、当時の人は知っていたからであろう。

 私は大阪の藤井寺に在住しているが、天皇陵が生駒、葛城山系を望む羽曳野、藤井寺に点在しているのもここに原因しているように思う。つまり、先住民は外来勢力である天皇家の墓が大和(奈良)にあることを快く思わなかったのではないかと。継体天皇も大和に住む先住勢力から本当の王位継承者かどうか疑われて、御陵を遠く都から離れたところに築かざるを得なかった。天皇家も先住民に気兼ねしたのではないだろうか。

 その代りと云っては何だが、天皇陵を外国の使節が来た時に有効活用した配置にしている。当時、仁徳天皇陵の眼前に広がる堺の湊が船着き場であった。今の中央環状線が当時の国道1号線で、北側にあるもう一つの道が今の堺・大和高田線である。この2本の道が竹之内街道を経て、大和に至る道程である。堺から竹之内に至るまでに目にする王族墓の数は、勢力を誇示するのに十分である。話が逸れたので本題に移りたい。

 ニギハヤヒとは何者か?であるが、出雲族に認められた外来勢力で、ユダヤ10支族の末裔であり出雲族の王妃に入り婿した王様と考えていいと思う。神代からその子孫が多いのは、素戔嗚、大国主、そしてニギハヤヒである。ニギハヤヒの子孫では鴨氏が血統的に一番勝れている。物部氏は臣下の娘を母とするんでその下に位置する。海部、尾張、津守氏などは各豪族の王妃との間に出来た末裔と考えている。

 津守氏は住吉大社の宮司を代々務める家柄。海部、三輪、鴨氏など、ニギハヤヒの子孫は現在でも神官職を務めている家が多い。陰陽師の賀茂氏も鴨氏の分かれなんで、幽界に関連した役職にニギハヤヒの血脈は不可欠なのであろうか?役行者も鴨氏出身である。素戔嗚、大国主の出雲の血とニギハヤヒの天孫の血を核とし、応神天皇の時、多くの人が渡来した秦氏の血との混合が現在でも日本の神官の殆んどを支えている。

 ここで祭祀神であるが、素戔嗚、大国主は人体を持たない半物質の神。ニギハヤヒは人体を持つ神と個人的には考えている。日本神話は祖孫一系、神から始まり、人体を持つ人の歴史が一体となって構成された奇妙奇天烈なものである。記紀はこれを大真面目に前提として取り入れている。読む側も同じように考えるとしたら、前記のように成らざるをを得ない。(神全てをを人格神化したものと捉える方法もあるが)

 ニギハヤヒの有縁の地は畿内、特に大和、丹波、丹後地方に多い。(わが田舎、愛媛県もニギハヤヒに纏わる県名である)そこで伊勢神宮の天照であるが、原形としてはニギハヤヒがこれに当たると見て間違いないでしょうね。元伊勢・籠神社の神官自体がニギハヤヒの子孫ですし。古代より自分の祖先である氏族の長を祭祀するのが慣わしですしね。

 籠神社の神官にインタビューして、結局ニギハヤヒと海部氏の系譜祖先とは別だとか、あるいはニギハヤヒと天火明命は別だったとかで言い包められているけど、そんなこと言える訳ないでしょうに(笑)。日本の神道は今も天皇家中心なんですから。「いやー、あれは朝鮮から来た外来でね、うちのニギハヤヒが本当の日本の初代天皇さんなんですよ」なんて云った日には、今の生活は瓦解してしまいますからね。その辺理解しないと。

 それと、今の天皇家は幕末期、大久保利通と岩倉具視が孝明天皇を暗殺した後、長州にいた後醍醐天皇の末裔を据えた偽天皇である。と云っても今の天皇皇后両陛下は素晴らしい人格者なので安心ですが。・・・あくまでも血筋的にです。血筋で云えば、後伏見天皇を祖とする旧宮家こそ正統ですね。(個人的には、出雲王族・ユダヤ10支族の王の末裔である、京都の上・下賀茂神社の社家こそ血筋としては一番と考えていますけどね)

 先に挙げた後醍醐天皇の末裔の件ですが、私の同僚にもいてます。四国は高知県が実家なんですが、田舎に系図があるそうです。まあ、日本人で旧家の分かれの家系は、大なり小なり、天皇家や古代豪族の血脈を引く家が殆どです。驚くに値しませんね。

 因みに、徳川家は源氏を幕府設立のために名乗りましたが、本来は鴨氏出身です。家康が天下を獲れたのは、偏に出雲神のご加護、復権を目指す神力を感じずにはおれませんね。秀吉が政権を奪取してからの家康は、ホントしょぼい感じでしたからね。

 ニギハヤヒはどこで祀られているか?なんですが、伊勢神宮の内宮・天照こそニギハヤヒでしょうね。本来は。今、世間で天照と云えば女神と考えられている。あれは持統天皇の国策が歴史書にも及んで改編されたんです。素戔嗚は傍若無人な悪神に、大国主は天皇家に国譲りしたとか、ニギハヤヒは物部氏の先祖で神武天皇の国土平定に寄与したとか、みんな嘘ばっかり書いてるんですよね。

 国常立命・素戔嗚命・大国主は国祖神です。その勅命を帯びたのがニギハヤヒ命です。古代氏族で気骨のある三輪逆なんかは持統政権に文句をはっきりと云ってる。確かに天皇家の最大の暴挙は真実の神様を隠蔽しようとしたことにあるでしょう。それと、ニギハヤヒ命ですが、本拠地は三輪山麓に住まいしてたんでしょうね。他、ニギハヤヒを祭祀する神社で有名なのは京都にある上・下賀茂神社ですね。

 伊勢神宮は外宮・内宮の2つに分かれているんですが、外宮には国常立命、内宮には天照大神が祭祀されている。顕・幽の双方の王を御祭祀しているんですね。幽はエホバともヤハゥエ、天之御中主神、あるいは大国常立命とも呼ばれる根源的な唯一絶対神。顕は天照大神、本当の名はニギハヤヒ命。実は天照は男神ではないか?と推察されている研究者も多い。吉田兼好が書いた徒然草に内容的にも男神ではなかろうかと思われる記載もある。

 出口王仁三郎の著作を検証すると、丹波から御神体が運ばれて伊勢に御祭祀される経緯や、元々綾部にあったとする説もある。この御神体は恐らく外宮の神様のことであろう。内宮の御神体、つまりは倭姫命が大和、三輪を出発点に畿内のあっちに行き、こっちに行きして漸くお祀りした御神体は内宮の神様であろう。この内宮の御神体こそニギハヤヒの御魂が投影されたものだったと考えられる。

 では何故、大和から遠く伊勢の地へ移さねばならなかったか?それは外来勢力である崇神天皇が、前政権である出雲王朝の王様の御魂を大和から分断する狙いがあったと考えられる。祭祀の対象物の存在自体、旧勢力の吸引力にもなるのでそれを嫌ったんだろう。大神神社と伊勢神宮との同体説は古くから云われており、能の演目「三輪」でも知られている。

 崇神天皇と云えば、先住民の奉祀する神、大物主命に祟られて苦労したんだが、この方ほど神罰で辟易した天皇さんもいなかったように思う。祟神天皇が祟られた原因の1つに鴨王家抹殺を挙げておきたい。葛城山麓に王朝があって、中央集権的な政ではなく各豪族の共同体のような国家だった。記紀に神武以降葛城王朝の天皇の名前が出てくるが、それらの業績・出来事は全く記載されていない。

 この王朝は鴨王が中心で、住居は葛城山麓、政は三輪山麓で行われていた。それを覇道政治を目指す祟神天皇により鴨王が住まいする葛城山麓が攻撃された。鴨王族は這う這うの体で逃げ出し、各地に四散した。私が葛城の高鴨の地で感じるのは、この時の鴨一族の無念さである。(すいませんね、根拠のない自分の霊感も交えてしまって・・笑)鴨王の近親者らは今の京都府に移住を余儀なくされた。

 祟神天皇は後に改心して出雲系の神を祀るように鴨氏などに命令するんだが、こんなことは記紀には一切記載されていない。天皇家と出雲神との霊的鬩ぎ合いは、その後もずっと続くのであるが恐らく大概無体な征服、統治を行っていたんだろうな。記紀に記されている天皇家は、①天地創造からニギハヤヒまで②葛城山麓に都を置いた葛城王朝③崇神天皇からの三輪王朝④河内王朝以降の4つに区分される。

 ②の神武天皇から始まる葛城王朝、所謂欠史八代こそはニギハヤヒの末裔が天皇として君臨していた箇所である。系譜的に神武をニギハヤヒとすると、出雲族の王妃との婚姻など考えても辻褄が合う。③の崇神の登場はAC3C中期前後と考えられ、卑弥呼以後の混乱期に乗じて政権を奪取したのであろう。この頃の出土品からはこれまでにない凄惨な戦いの姿が確認されている。

 因みに祟神天皇を祖とする三輪王朝はそれまでの因果が廻り、王朝は絶えている。神武天皇の業績はニギハヤヒに酷似していると考える。複数の大王家の歴史を記紀に取り入れ、恰も万世一系の如く創作しているが、元々今の天皇家は応神天皇を祖とする征服王朝である。

 大本教では「神のはじめの御立腹は初代天皇であるニギハヤヒ命の末裔が天皇でなく、外来勢力が天皇になったことである」と開祖は教示した。最後に秦氏ユダヤ10支族説ではなく、ニギハヤヒのユダヤ10支族説を採用する根拠を挙げる。

 それは鏡と壺である。其々籠神社に御神体として管理されていたが、現在伊勢神宮に祭祀が移ったとされている。倭姫命がお祀りしていたのは八咫鏡。度会氏が丹波から伊勢に持ち込んだ御神体はマナの壺である。八咫鏡は古代ヘブライ語で神鏡の表面に文字が記載されている。マナの壺も王権の象徴で、イスラエルを起源とする。世界にも稀な前方後円墳はマナの壺を模していると云われている。

 外宮は丹波から来た度会氏が担当していたが、伊勢神宮の祭主権は徐々に藤原氏の血縁者が、その任を占めるようになったことにも触れておきたい。藤原氏は鎌足を祖とすると云われているが、実は天智天皇の血筋を受け継いでいる。これはあまり知られていないんで記載しておきたい。勿論、藤原氏内部の人間はそれを知っているんで、不比等以来の傍若無人な権力闘争を繰り広げる正統性を見出していたんでしょうね。

 それと、渡会氏は別名、出口氏とも云い、遠く遡れば大本教の出口ナオらと同族の関係にある。祭主権も出雲族と天皇家との鬩ぎ合いが窺えるんで面白い。余談だが、リクルート事件で首相の座を棒に振った、三重県選出の故藤波氏(官房長官だったこともある)は伊勢神宮の神官を務める(藤原氏を祖とする)家柄で、地元では名士で通っていた。社家出身のためか、人物も清廉で期待されていたのに残念なことであります。

 以上殆んどが私見と仮説と独断に満ちた歴史史観であるが、仮説をさも真説のように論を進めるのは欧米人の得意とするところなんで、私も真似てみました、あしからず(笑)。
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