正統な仏法を鑑みれば、法脈というものは非常に重要である。サイトを覗くと非常に重要と思われる文が載っていたので、そのまま引用したい。
>大石寺と北山本門寺はなぜ袂を分かったのですか?
大石寺を開創した日興は永仁六年(1298年)二月に重須の地頭、石川孫三郎能忠が宗祖御影堂・天照太神垂迹堂を建立寄進したのを機に重須に移り初代住職になりました。
その後、民部日向の弟子だった寂仙房日澄が帰伏後に重須初代学頭になり二代目は三位日順が学頭になっています。
創建当時は同じ初代住職を日興が勤めたこともあり、その後暫くの間は両寺は良好な関係にありましたが、文明十四年(1483年)に大石寺と同じ日興門流の小泉久遠寺との間に「血脈相承」に関する論争が起きた際に、重須の日淨は小泉久遠寺の日郷の末流こそ宗祖日蓮・派祖日興の正嫡であると主張して小泉久遠寺を「正嫡」とすることに賛同した為、それが契機となって大石寺と袂を分ったようです。
大石寺では現在の北山本門寺を「重須談所」と称して、半ば大石寺の付属機関であるかのように言っていますが、「重須の寺」は檀那の地頭が南条氏ではなく石川氏であり、初代住職に日興が就任し学頭まで置いていますから創建当初から大石寺と同格の独立した本山格の寺院であると見たほうがよいでしょう。
その後重須の寺は永正十二年(1515年)日国の代に駿河国の太守、今川氏親の許可を得て正式に「本門寺」と名乗りました。
この大石寺と北山本門寺が対立する契機となった大石寺と小泉久遠寺との間に持ち上がった「血脈問題」とは、日興に大石寺を譲られた日目が弟子の日郷と日尊を伴なって「天奏の途上(京都の天皇に仏法を説きに行く旅の途中)」美濃国垂井で元弘三年(1333年)11月15日に遷化した為、その後、師日目の遺志を受け継いだ日郷・日尊は天奏を遂げ、その後、日尊は京都に残り要法寺系の初代となり、日郷は師日目の遺骨の一部を奉じて大石寺に帰りましたが、自らが師から後事を託されていたのに大石寺では既に新田氏の一族出身の日道が住職に就任していた為、師の留守中に勝手に住職に就任した日道を非難して、自らは日目の正式な跡目として大石寺蓮蔵坊に入り塔中の東側の大徳方の支持を得ました。
大石寺は西の大坊の日道と東の蓮蔵坊の日郷の二人の「法主」が並び立つ異常事態となったわけです。
後に大石寺側は「これは血脈問題ではなく、単に東坊地の所有権を巡る争いに過ぎない」と問題の本質を振り替えていますが、これは相伝には寺地の相続をともなうのは当然のことから、大石寺側の勝手な言い分に過ぎないようです。
その後、大石寺内の形勢が南条家出身の日道に傾いたこともあって、日郷は弟子を連れて飽く迄も師日目の正式な跡目として小泉久遠寺に入り、次いで安房国(千葉県)吉浜に法華堂を建てて、師日目から相伝した本尊、聖教類聚を奉安したのが現在の大本山保田妙本寺です。
日郷はとても公正に人物を評価することが出来た方だったようで、自分の跡目を南条時綱の子息である日伝に相承して、正平八年(1353年)4月25日に遷化しました。
日郷の遷化によって一旦は大石寺の跡目をめぐる「血脈相承」の問題は終息したかのように見えましたが、日目から日道への「血脈相承」はなんら外形的な証拠が無く、大石寺は「内付」であると主張していましたが、大石寺内でも日道が正嫡であるとこを訝る声が上がり、再び小泉久遠寺が血脈の正統性を主張するに及び、兼ねてから不信に思っていた重須(北山本門寺)の日淨は小泉久遠寺に賛同したと言う訳です。
この大石寺日道と日郷の其々の末流の対立は、その後70年余の長きに亘り、今日まで影響を及ぼし続つ゛けていることは、北山本門寺と小泉久遠寺がともに大石寺の「唯授一人血脈相承」を否定し、「本門戒壇大本尊」の絶対性を認めていない事からも理解できます。
また、日郷の末流である大本山保田妙本寺は、一時は創価学会の戸田城聖の働きかけにより日蓮正宗に属しましたが、鎌倉日桜師の代に、日郷師の遺風を仰いで大石寺と再び袂を分かちました。
私は院生時代に保田妙本寺に仕事でお伺いする機会を得ましたが、日桜師には進んで貴重な資料を提供くださり『万年救護大御本尊』を始め数々の重宝を目の当りにしています。
「日郷上人」以来の資料は、その全てが当時のものであり、何も飾らず有りの侭を後世の伝えんとした「日興上人」の謹厳実直な精神に触れる思いがしました。
鎌倉日桜師は「私のところは今の時代に何一つ隠し立てする必要はありません」と仰せになられたことを懐かしく思い出します。
それに引き比べて、本尊や古文書の調査を頑なに拒んで、それでも次から次へとボロが出る何処かの「総本山」とは比べることすら失礼かも知れません。
私は部外者の一人ですが、ひょっとすると「日目上人」の正式な跡目は「日郷上人」だったかも知れませんね。
『日興跡条条事』は改竄文書ですし『戒壇本尊』は「日蓮聖人」の図顕本尊ではないようです。
ご参考まで。
鎌倉日桜師には高僧に相応しく安祥として御遷化遊ばされたそうです。
(rsd37264さんがヤフーの知恵袋で回答した文です)
次に紹介する文面も非常に興味深い。この「直人」さんという先生は凄いね。断りも無く勝手に掲載させていただく。(ほんと、すいません。)
What an endless road
日興門流教学教団史の解明を目指して…の直人さんのブログにも以下の重要な記載がある。
1. Posted by 誠人 2008年08月25日 22:21
直人様
この件は仰る通りかなと思ってます、巷間話題になっています大石寺の板曼荼羅の件も含め、深い再考・検証が必要であると思っています、特に大石寺は周辺の他門流から昔から「作り法門の寺」と云われていると保田・妙本寺の御住職が語っておられたのを聞いた事があります、ですから北山(重須)の「本門寺根源額」件もやはり?と云うのが実感です。
2. Posted by 直人 2008年08月25日 23:45
誠人さん、こんばんは。
気軽に「さん」でお願いします。
>大石寺…「作り法門の寺」と云われていると保田・妙本寺の御住職
妙本寺ではそう評されているわけですか。
私は妙本寺の方と交流がありませんから「作り法門」の定義が今ひとつ分かりませんが、初耳でした(よく似た評を聞くことはありますが、妙本寺ではありませんでしたから。)
ただ、大石寺にしてもその昔は偽書である各種相伝書を用いて自山の正閏性を示すことはなく、むしろ、『本門戒壇の大御本尊』を前面に出すことによって興門他派の相伝論を斥けんとしていたわけです(大石寺第十四代・日主師『日興跡条々事示書き』)。
>北山(重須)の「本門寺根源額」件もやはり?
これは上掲のものでしょうか。
重須本門寺にはこうしたものがもう一点あり、永仁六年の成立とされる『本門寺棟札』(『垂迹堂棟札』とも『本門寺根源棟札』とも称される)があります。これは本間日諄師の『日興上人の風光』にその写真が載りますが、永仁六年前後の日興文書、日興書写本尊の筆蹟を対照すると明らかに偽筆であることが諒解されます。
『本門寺棟札』については日妙偽作説もありますが、日妙書写本尊と対比したところやはり異筆で、重須本門寺の動向からして重須本門寺第三代・日恩師の頃の偽作だろうなと推考しています。
ちなみに『本門寺額』は日妙師かその周辺だろうと思います。
3. Posted by 誠人 2008年08月26日 00:55
直人さん
早速「さん」で呼ばせて頂きます、勉強不足で表現も曖昧で申し訳ありませんでした、「作り法門の寺」と云うのは直人さんが仰る通り、大石寺の正当性を示さんが為に戒壇様を含めた相伝書等々の事を指していると思われます、かつて私の友人が日蓮正宗を離脱後の千葉県保田の妙本寺を訪れた際に貫主の鎌倉日桜師が「大石寺はね、昔から『作り法門の寺』として有名だったですね。次々と自分たちで法門を作っちゃうんだから、ひどいもんですよ。」と語っていたそうです。
※本門寺根源額は本門寺棟札の勘違いでした、すみませんでした。
4. Posted by 直人 2008年08月26日 06:04
誠人さん、こんにちは。
>表現も曖昧
いえいえ。誰しも経験することですから気になさらる必要はないかと思います。
>鎌倉日桜師
参考になりました。
ただ、大石寺に限らず妙本寺や要法寺といった興門他派も同門先師の所論とは異なる教学意識を形成してしたことも事実ですね。
けれど、大石寺の宗祖本仏論なんかは妙本寺第十四代・日我師の教学意識を踏襲したものですから鎌倉師がそういう風に評されたのも何となく理解できます。
ほんと、驚きです。正統な継承者なんて、何を今更って言われてしまいそうですが、仏法と云う意味において「法脈」は重要だと思うんですね。・・・
正統な法脈を保田妙本寺とした場合、大方の富士門徒は傍流ってことになりますね。唯一無二と豪語していた血脈は嘘だったことになります。・・・いやはや驚きの一言です。
>大石寺と北山本門寺はなぜ袂を分かったのですか?
大石寺を開創した日興は永仁六年(1298年)二月に重須の地頭、石川孫三郎能忠が宗祖御影堂・天照太神垂迹堂を建立寄進したのを機に重須に移り初代住職になりました。
その後、民部日向の弟子だった寂仙房日澄が帰伏後に重須初代学頭になり二代目は三位日順が学頭になっています。
創建当時は同じ初代住職を日興が勤めたこともあり、その後暫くの間は両寺は良好な関係にありましたが、文明十四年(1483年)に大石寺と同じ日興門流の小泉久遠寺との間に「血脈相承」に関する論争が起きた際に、重須の日淨は小泉久遠寺の日郷の末流こそ宗祖日蓮・派祖日興の正嫡であると主張して小泉久遠寺を「正嫡」とすることに賛同した為、それが契機となって大石寺と袂を分ったようです。
大石寺では現在の北山本門寺を「重須談所」と称して、半ば大石寺の付属機関であるかのように言っていますが、「重須の寺」は檀那の地頭が南条氏ではなく石川氏であり、初代住職に日興が就任し学頭まで置いていますから創建当初から大石寺と同格の独立した本山格の寺院であると見たほうがよいでしょう。
その後重須の寺は永正十二年(1515年)日国の代に駿河国の太守、今川氏親の許可を得て正式に「本門寺」と名乗りました。
この大石寺と北山本門寺が対立する契機となった大石寺と小泉久遠寺との間に持ち上がった「血脈問題」とは、日興に大石寺を譲られた日目が弟子の日郷と日尊を伴なって「天奏の途上(京都の天皇に仏法を説きに行く旅の途中)」美濃国垂井で元弘三年(1333年)11月15日に遷化した為、その後、師日目の遺志を受け継いだ日郷・日尊は天奏を遂げ、その後、日尊は京都に残り要法寺系の初代となり、日郷は師日目の遺骨の一部を奉じて大石寺に帰りましたが、自らが師から後事を託されていたのに大石寺では既に新田氏の一族出身の日道が住職に就任していた為、師の留守中に勝手に住職に就任した日道を非難して、自らは日目の正式な跡目として大石寺蓮蔵坊に入り塔中の東側の大徳方の支持を得ました。
大石寺は西の大坊の日道と東の蓮蔵坊の日郷の二人の「法主」が並び立つ異常事態となったわけです。
後に大石寺側は「これは血脈問題ではなく、単に東坊地の所有権を巡る争いに過ぎない」と問題の本質を振り替えていますが、これは相伝には寺地の相続をともなうのは当然のことから、大石寺側の勝手な言い分に過ぎないようです。
その後、大石寺内の形勢が南条家出身の日道に傾いたこともあって、日郷は弟子を連れて飽く迄も師日目の正式な跡目として小泉久遠寺に入り、次いで安房国(千葉県)吉浜に法華堂を建てて、師日目から相伝した本尊、聖教類聚を奉安したのが現在の大本山保田妙本寺です。
日郷はとても公正に人物を評価することが出来た方だったようで、自分の跡目を南条時綱の子息である日伝に相承して、正平八年(1353年)4月25日に遷化しました。
日郷の遷化によって一旦は大石寺の跡目をめぐる「血脈相承」の問題は終息したかのように見えましたが、日目から日道への「血脈相承」はなんら外形的な証拠が無く、大石寺は「内付」であると主張していましたが、大石寺内でも日道が正嫡であるとこを訝る声が上がり、再び小泉久遠寺が血脈の正統性を主張するに及び、兼ねてから不信に思っていた重須(北山本門寺)の日淨は小泉久遠寺に賛同したと言う訳です。
この大石寺日道と日郷の其々の末流の対立は、その後70年余の長きに亘り、今日まで影響を及ぼし続つ゛けていることは、北山本門寺と小泉久遠寺がともに大石寺の「唯授一人血脈相承」を否定し、「本門戒壇大本尊」の絶対性を認めていない事からも理解できます。
また、日郷の末流である大本山保田妙本寺は、一時は創価学会の戸田城聖の働きかけにより日蓮正宗に属しましたが、鎌倉日桜師の代に、日郷師の遺風を仰いで大石寺と再び袂を分かちました。
私は院生時代に保田妙本寺に仕事でお伺いする機会を得ましたが、日桜師には進んで貴重な資料を提供くださり『万年救護大御本尊』を始め数々の重宝を目の当りにしています。
「日郷上人」以来の資料は、その全てが当時のものであり、何も飾らず有りの侭を後世の伝えんとした「日興上人」の謹厳実直な精神に触れる思いがしました。
鎌倉日桜師は「私のところは今の時代に何一つ隠し立てする必要はありません」と仰せになられたことを懐かしく思い出します。
それに引き比べて、本尊や古文書の調査を頑なに拒んで、それでも次から次へとボロが出る何処かの「総本山」とは比べることすら失礼かも知れません。
私は部外者の一人ですが、ひょっとすると「日目上人」の正式な跡目は「日郷上人」だったかも知れませんね。
『日興跡条条事』は改竄文書ですし『戒壇本尊』は「日蓮聖人」の図顕本尊ではないようです。
ご参考まで。
鎌倉日桜師には高僧に相応しく安祥として御遷化遊ばされたそうです。
(rsd37264さんがヤフーの知恵袋で回答した文です)
次に紹介する文面も非常に興味深い。この「直人」さんという先生は凄いね。断りも無く勝手に掲載させていただく。(ほんと、すいません。)
What an endless road
日興門流教学教団史の解明を目指して…の直人さんのブログにも以下の重要な記載がある。
1. Posted by 誠人 2008年08月25日 22:21
直人様
この件は仰る通りかなと思ってます、巷間話題になっています大石寺の板曼荼羅の件も含め、深い再考・検証が必要であると思っています、特に大石寺は周辺の他門流から昔から「作り法門の寺」と云われていると保田・妙本寺の御住職が語っておられたのを聞いた事があります、ですから北山(重須)の「本門寺根源額」件もやはり?と云うのが実感です。
2. Posted by 直人 2008年08月25日 23:45
誠人さん、こんばんは。
気軽に「さん」でお願いします。
>大石寺…「作り法門の寺」と云われていると保田・妙本寺の御住職
妙本寺ではそう評されているわけですか。
私は妙本寺の方と交流がありませんから「作り法門」の定義が今ひとつ分かりませんが、初耳でした(よく似た評を聞くことはありますが、妙本寺ではありませんでしたから。)
ただ、大石寺にしてもその昔は偽書である各種相伝書を用いて自山の正閏性を示すことはなく、むしろ、『本門戒壇の大御本尊』を前面に出すことによって興門他派の相伝論を斥けんとしていたわけです(大石寺第十四代・日主師『日興跡条々事示書き』)。
>北山(重須)の「本門寺根源額」件もやはり?
これは上掲のものでしょうか。
重須本門寺にはこうしたものがもう一点あり、永仁六年の成立とされる『本門寺棟札』(『垂迹堂棟札』とも『本門寺根源棟札』とも称される)があります。これは本間日諄師の『日興上人の風光』にその写真が載りますが、永仁六年前後の日興文書、日興書写本尊の筆蹟を対照すると明らかに偽筆であることが諒解されます。
『本門寺棟札』については日妙偽作説もありますが、日妙書写本尊と対比したところやはり異筆で、重須本門寺の動向からして重須本門寺第三代・日恩師の頃の偽作だろうなと推考しています。
ちなみに『本門寺額』は日妙師かその周辺だろうと思います。
3. Posted by 誠人 2008年08月26日 00:55
直人さん
早速「さん」で呼ばせて頂きます、勉強不足で表現も曖昧で申し訳ありませんでした、「作り法門の寺」と云うのは直人さんが仰る通り、大石寺の正当性を示さんが為に戒壇様を含めた相伝書等々の事を指していると思われます、かつて私の友人が日蓮正宗を離脱後の千葉県保田の妙本寺を訪れた際に貫主の鎌倉日桜師が「大石寺はね、昔から『作り法門の寺』として有名だったですね。次々と自分たちで法門を作っちゃうんだから、ひどいもんですよ。」と語っていたそうです。
※本門寺根源額は本門寺棟札の勘違いでした、すみませんでした。
4. Posted by 直人 2008年08月26日 06:04
誠人さん、こんにちは。
>表現も曖昧
いえいえ。誰しも経験することですから気になさらる必要はないかと思います。
>鎌倉日桜師
参考になりました。
ただ、大石寺に限らず妙本寺や要法寺といった興門他派も同門先師の所論とは異なる教学意識を形成してしたことも事実ですね。
けれど、大石寺の宗祖本仏論なんかは妙本寺第十四代・日我師の教学意識を踏襲したものですから鎌倉師がそういう風に評されたのも何となく理解できます。
ほんと、驚きです。正統な継承者なんて、何を今更って言われてしまいそうですが、仏法と云う意味において「法脈」は重要だと思うんですね。・・・
正統な法脈を保田妙本寺とした場合、大方の富士門徒は傍流ってことになりますね。唯一無二と豪語していた血脈は嘘だったことになります。・・・いやはや驚きの一言です。
それは、富士教学の根幹とされているものが実は「日隆聖人」由来の教学にあるということです!
日隆聖人の教学に独自の板本尊論・法主絶対・唯一主義を持ち込み、独自の教学を完成させました。
まさに立正の学者が批判しているのは正鵠を穿つものであります。
富士門流が反省すべき点は正嫡を盾にとって真理を覆い隠してはいけないということです。
>>本尊の比較は何を基準としていますか。法華経に基ずくものであるならば其れを明記して欲しい。
これも各宗・各派分かれるところです。もちろんご存知でしょうに。
天台からこれ(日蓮の三秘)を見れば、法華経の何処にも書かれていない。日蓮の創作にしか過ぎない。となっています。確かに彼らの言い分も無理からぬことです。普通に読めば、何処をどう読んでも三大秘法にはたどり着きません。
当家はお題目をご本尊と位置づけます。何故なら、理屈はともかく日蓮大聖人を当家の信徒は信じているからです。台宗は認めなくても当家では認めます。
それに無上の付加価値をつけようと(自宗最高を啓蒙したいがため)するために「これが唯一だ!」というところに大きな間違いがあるのです。
ご本尊は所詮対境、「鏡」です。過去に仏教は内観する教えであると師僧から教わりました。
ご本尊の力用を借りて、仏を見る。謂わば池の月を愛でて、自身の天月を悟るところにその妙味があると考えますが?
ブログ主様とご連絡が取りたいのですがメールアドレスは公開されていますでしょうか?
ただ富士門流の宗教談義に関しては、申し訳ありませんがご勘弁下さい。(笑)
結論は既に当ブログに記載している通りです。巨人の星という漫画があります。富士門流はだいりーぐボール2号と同じです。もとネタは隆門の教学なのです。
台宗の圧迫、傾倒する同門僧侶、先学の影響が原因で蓮祖の真意は閉ざされました。しかし日隆聖人の出現で、始めてその難解な教えの真意が陽の目を見ました。
詰まるところ、富士門流が主張する唯授一人などと云う秘法・秘伝は後世隆門の教学に加上した産物なのです。
これを打ち込んだ人は大方、私が保田妙本寺のことを書いていたんで、鳥本逮捕に触発された宗門在家なんでしょうね(笑)。
鳥本が保田妙本寺に目を付けたのは慧眼です。しかし、欲を絡めてはいけない。彼の間違っているところは、アホ(日顕)と云えども師匠に逆らっていることである。
どんなアホでも、親は親なんですからね。逆らうのなら、法名も返上して一から出直さないとね。
↑人の悪口を平気で記載する愚かな方が何を言っても信用出来ないわ
私は子供の頃からお会いしてきたし接してきたし
人の悪口どころか御慈悲の深い方です。
離脱僧がいかほど嘘をついてるか一目瞭然です
大聖人様の御名代であられる方を軽視しては中傷誹謗する精神は私には理解不能ですね
御法主上人猊下様になられる方々は皆、仏様が御選びになられてるのですよ
その方をキチガイ団体の創価学会のように中傷誹謗、軽視するなんてね
犯罪者の鳥本氏を囲む邪宗保田妙本寺の精神は大丈夫かと疑いますね
鳥本氏は猊下様を裏切り離脱したが挙げ句に放火魔と化しましたね
周囲は困っただろうに…
あなたもこのままでは地獄へ墜ちますよ
人は必ず終わりが来る…
生老病死の死が訪れる…
後生…恐るべし
死後の裁きで後悔しても遅いですよ…
早く邪宗を辞めて正しい日蓮正宗 法華講の信心をしていきなさい
#あなたも地獄に落ちますよ。
これは、富士大石寺の名文句です。いや、カルト宗教の名文句ですね。今生きている、この現世自体、既に地獄ですけどね。
#法華講の信心をしなさい。
お断りします。私は富士門流の信仰から、完全に離脱しました。長くブログも更新しなかったのは、再度宗教について熟考していたためです。
そもそも、富士門流は尼崎流(日隆上人)の教学をベースにしています。妙本寺の僧侶がそれを本興寺で学び、加上したのが、要我教学です。更にそれを加上したのが、石山教学です。正当な日蓮宗の学者は、石山教学を採用致しません。日蓮宗の望月先生は日隆教学こそ、大聖人の本意に叶う教えであると、理解された一人です。あなた様はもっと勉強するべきですね。石山教学をマトモに信じている、あなたの頭を疑います。
私は本門法華宗信徒ですが菩提寺は元法華宗本門流です。
すみませんご質問させて下さい。
観心の本尊となるとやはり日蓮聖人が現された文字曼陀羅が本尊として勝れる本尊なのでしょうか?
理論上は本尊義については一大秘法である上行所伝本因下種の七字の分解であることは分かるのですが、実際にお寺に行きますと、文字曼陀羅の全面に一塔二尊四士が奉納されておりまして、一塔二尊四士は文字曼陀羅の木像化で法本尊にあたる事は分かったのですが、日蓮聖人の花押にも梵字のバンやボロンを模様化されたようなので、理屈は抜きにして観心において文字曼陀羅が最勝の本尊のように思っておりますが探玄様はどのように思われるでしょうか?
また一塔両尊四士本尊のどこを見ながら唱題すべきでしょうか?やはり主題の妙の字のところでしょうか?
どうぞよろしくお願いします