
真言宗の開祖、弘法大師空海はやはり凄いですね。天才と云うのは回りくどくないんですね。直接、核心に向かって行く思考が特徴的です。真言宗の教学にしてもそうです。天台はあれやこれやと行法・観法がありますが、真言宗は突き詰めれば一つです。それは「声字実相観」です。代表的な行法では阿字観があります。実相の瞑想は天台だけではなく、真言宗にもあるんですね。ご真言は実相に違いないので行法としては十分です。次に教義ですが、「釈摩訶衍論」を多用しています。竜樹作と伝えられていますが、これは間違いです。竜樹の作ではないから意味がないとするのは偏見ですね。内容的には大いに採るところがあります。私見ですが、所詮何だかんだと云っても、大乗仏教と云うものは本覚に根ざしていないと駄目なんですね。主体(行者)と客体(境=法界)の合一にあるのですから。真言は梵我一如を基本としています。端的に云えばウパニシャッド哲学直系の思想です。日蓮宗で云う下種教法は真言の場合、結縁灌頂が代表的なものとして挙げられます。この灌頂は凡夫の一心に仏が備わっていることを体感させる行法です。功徳は無量と云われています。要は無明の阿頼耶識に「貴方は仏だ!」と云うことを呼びかけ、如来蔵を覚醒させる儀式であり、行法なのです。真言の基本的な考えは本覚思想です。ですんで、仏縁に触れ真言門に帰入し修業を行うことが既に成仏しているんだと云う考えをします。私見ですが、十住心論で天台を第八に、華厳を第九としたのは、南都六宗への政治的配慮も然ることながら、本覚思想が天台以上に濃厚だったことと、西安に於いて般若三蔵から華厳教義を直伝された経緯もあるんだと思います。
日本の仏教界の原形は最澄と空海、この2人が根本です。共通点もあれば、相違している部分もあります。最澄はきちんとした枠に嵌らない教え・道理は嫌いだったんでしょうね。隋唐代の天台教学なんか完全な成仏方程式の教学です。種・熟・脱の三種教相を兼ね備えた教義で因果律もしっかりしています。一方真言宗は教判といい、非常に粗いです。しかし、直行型の修業体系です。「人は仏に成れるんだ!」とばかりに、下種などに重きを置かず軽いウォ―ミングアップの後、いきなり仏に成る観法を行います。過去世で充分訓練を受けた熏習ある行者が取り組むべきハードさです。天台も密教を取り入れていますが、台密と東密は根本的に違う部分があります。台密は「天台実相観」から離れられないですし、東密は最初から最後まで「声字実相観」です。天台が法華経を根本経典とし、真言が大日経を根本に据えている影響でしょうけども。・・・そして真言教法は古神道の言霊教義を彷彿とさせる印象がありますね。
日本の仏教界の原形は最澄と空海、この2人が根本です。共通点もあれば、相違している部分もあります。最澄はきちんとした枠に嵌らない教え・道理は嫌いだったんでしょうね。隋唐代の天台教学なんか完全な成仏方程式の教学です。種・熟・脱の三種教相を兼ね備えた教義で因果律もしっかりしています。一方真言宗は教判といい、非常に粗いです。しかし、直行型の修業体系です。「人は仏に成れるんだ!」とばかりに、下種などに重きを置かず軽いウォ―ミングアップの後、いきなり仏に成る観法を行います。過去世で充分訓練を受けた熏習ある行者が取り組むべきハードさです。天台も密教を取り入れていますが、台密と東密は根本的に違う部分があります。台密は「天台実相観」から離れられないですし、東密は最初から最後まで「声字実相観」です。天台が法華経を根本経典とし、真言が大日経を根本に据えている影響でしょうけども。・・・そして真言教法は古神道の言霊教義を彷彿とさせる印象がありますね。
私自身は、考え方が型破りな為、どうも画一的思想の天台系列とは合わないのですね。真言宗はその点、型に拘らないので、解放感があって好きです。空海上人の言葉自体、宗教臭さを感じさせず、爽やかな語り口。自らの経験から物事を語るので、不思議とシンクロし易いのです。
空海上人の思考回路は、日本人離れしちゃってる感があります。
天台系列で、唯一考え方が近いなと思うのは、禅宗ですね。
昔から、『書は人なり』と言われ、筆跡から、人の特徴が分かると言います。
最澄上人の書は、几帳面な書風で、基本に忠実です。
一方、空海上人はというと、独創的。創意工夫に長けた書風です。
空海上人の書は、書道家からは非常に評価が高く、お手本にもなっているそうです。
『五筆和尚』と呼ばれる程の書の達人で、楷書、行書、草書、篆書、隷書をこなし、更に、刷毛で書く『飛白体』、梵字迄もこなす、カリグラファーとしての一面があります。
空海上人の個性の強さが書にも現れるのでしょう。
生真面目で和を尊ぶ人には、空海上人は合わないと思います。
空海上人と合うのは、個性的で自由奔放な精神の人間だと思います。空海上人と波長を合わせるには、枠にとらわれない思考回路が必要と思われます。
>空海上人と波長を合わせるには、枠にとらわれない思考回路が必要と思われます。
確かに、お大師さんの思考はダイナミックです。教判でも各宗の要点をきちんと理解して、自分の据える宗派の下にねじ込む著作を生み出すのは、驚くべき脳力が必要です。私自身、批判的な見方も採っていますが、反面凄く尊敬もしています。鎌倉期に華厳宗の僧侶が書いた、八宗綱要なんか完全に十住心論のパクリです。鎌田茂雄先生の評でも各宗を簡潔に纏めた優れた書だとしています。東大寺では今でも八宗綱要の一般人向けセミナーを開催していますからね。
大抵、仏典の中でしか、仏法を学ばない人が多いですが、お大師様は、仏典に加えて自然や人と直に触れ、西安では、華厳や密教のみならず、その当時に西安にあった他の宗教の思想も学び取り、尚且つ、日本語以外の言語も学んでいます。記録によれば、お大師様は、中国語が堪能で、通訳無しで留学をこなしたと云います。
お大師様自身、非公認の僧侶だったため、留学期間がかなり長かったので、他の事を学ぶ時間が沢山あった事も大きなポイントです。
本来は、20年程の予定でしたが、恵果阿闍梨の遺命により、二年で切り上げて帰って来ました。ただ、これが国にとっては、罪だったらしく、太宰府送りになってしまいました。そんなお大師様を危機から救ったのは、共に留学していた、最澄上人だったと聞いています。
お大師様と最澄上人は、互いに交流しましたが、いかんせん、根本的に考え方が違います。枠から外れた事が嫌いな最澄上人と、型破りなお大師様。結果、理趣経の解説書の貸し借り問題を切っ掛けに決別する事になりました。
お大師様としては、最澄上人には、仏典以外からも色々学び、多面的な視点を持って欲しかったんだと思います。