今朝の中日新聞愛知県版に72歳の女性が投書を寄せていた。要旨はざっと以下のようなものである。
「最近の若者は「メチャオモシロイ」、「チョーウマイ」、「カワイイ」で会話を済ませてしまう。携帯メールの影響だろう。ちゃんと読書をしていれば、このようにはならないはずだ」
この意見には間違いがある。まず若者すべてではないということだ。少なくとも7%の若者は、まっとうな日本語をしゃべり、書けることを私は知っている。彼らがそうしないのは、多数者に合わせているからである。
言葉は連帯意識をはぐくむ。だから7%の若者は93%と同じ言葉を使って連帯しているのだ。もっと言うと、連帯しないと「空気が読めない」と思われてしまう。
「国家とは国語である」と言ったのはシオランという人らしいが、名言である。
もうひとつ、読書をいくらしても苦しいだけで、93%は上手な日本語を使えるようにならない。上手でない日本語によって日本国はなりたっているのだ。
さらに言えば、この93%は少なくとも中日新聞社の記者にはなれない。なぜ、中日新聞がこのような投書を採用したかというと、自分は7%の側にいて、93%を嗤うためである。
投書者の口を借りて、出来る者が出来ない者を嗤っているのである。
「最近の若者は「メチャオモシロイ」、「チョーウマイ」、「カワイイ」で会話を済ませてしまう。携帯メールの影響だろう。ちゃんと読書をしていれば、このようにはならないはずだ」
この意見には間違いがある。まず若者すべてではないということだ。少なくとも7%の若者は、まっとうな日本語をしゃべり、書けることを私は知っている。彼らがそうしないのは、多数者に合わせているからである。
言葉は連帯意識をはぐくむ。だから7%の若者は93%と同じ言葉を使って連帯しているのだ。もっと言うと、連帯しないと「空気が読めない」と思われてしまう。
「国家とは国語である」と言ったのはシオランという人らしいが、名言である。
もうひとつ、読書をいくらしても苦しいだけで、93%は上手な日本語を使えるようにならない。上手でない日本語によって日本国はなりたっているのだ。
さらに言えば、この93%は少なくとも中日新聞社の記者にはなれない。なぜ、中日新聞がこのような投書を採用したかというと、自分は7%の側にいて、93%を嗤うためである。
投書者の口を借りて、出来る者が出来ない者を嗤っているのである。