院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

理化学研究所の小保方晴子さん

2014-01-31 00:01:14 | 学術
 細胞を弱酸性の溶液にひたすだけで細胞をリセットできるという論文を、理化学研究所の小保方晴子研究員が一流誌ネイチャーに載せて、いまその話でもちきりである。

 小保方研究員が若くて可愛いからか、すでに報道が過熱している。

 私にはやはりこの研究結果は信じられない。学術雑誌に掲載された科学論文の8割は再現性がなく、消えていくとされている。小保方さんの研究結果も、残念ながらその部類に入る可能性が高い。

 なぜ私がそう思うかというと、溶液に浸しただけで細胞がリセットされるならば、その溶液を口から飲んだり、皮膚に塗ったりするだけで生体細胞がリセットされることになるからだ。だがもし、この論文に再現性があれば、間違いなくノーベル賞だが。

 小保方さんは早稲田大学院からハーバード大に留学したというから、そうとうな才媛なのだろう。彼女がインタビューされる場面をテレビで見て、次のことを彼女に感じた。

(1)話しながら首を縦に振ることをしない。(首を縦に振りながら話す女性は、あまり利口には見えないと、2011-05-28 に述べておいた。)

(2)語尾伸ばし言葉を使わない。(「だからぁ~、わたしはぁ~・・」と語尾をハイトーンにして伸ばす話し方が女性に蔓延しているが、これもあまり利口には見えない。)

(3)耳飾りがピアスではなく、(ネジでとめる)イヤリングである。(好みの問題だが、私くらいの年配者はピアスが嫌いだ。耳に穴をあけるのは入れ墨に似ていると感じる。)

 今後、小保方さんはテレビに追いかけられると思うから、以上の点を注意して観察してほしい。

関連語:STAP細胞

知識の盲点を補ってくれる「放送大学」

2014-01-30 06:01:37 | 教育
 第16代のアメリカ大統領リンカーンが奴隷解放を宣言したことは、あまりにも有名である。その結果、奴隷制を固守しようとする南部の州が連邦から脱退し、南北戦争につながったことまでは、なんとか知っている。

 だが、私はアメリカの奴隷制が具体的にどのように行われていたのかを知らなかった。奴隷の供給源はアフリカである。だから私は、アメリカ人の奴隷商人がアフリカに行って、奴隷狩りをして無理やり首カセや鎖をつけて、船でアメリカにさらってきたのだと漠然と考えていた。

 ところが実態は全然違っていた。アフリカの黒人奴隷は、いきなり大西洋を渡らせられたのではなく、まずイギリスに送られた。その作業を奴隷商人がやったのだが、彼らはアメリカ人ではなくアラブ人だったという。そんなことは知らなかった。

 さらにアラブ人の奴隷商人が、アフリカから黒人を調達するのに武力は使用しなかった。実はアフリカには黒人を王とする王国があり、奴隷はその王国の「資源」として、システマティックに「輸出」されていたらしい。

 以上のことを初めて知った読者も多いのではないか。私は「放送大学」の番組で知った。「放送大学」はとても面白い。漠然としていた知識を明瞭にさせてくれる。

 東京では地デジで「放送大学」が見られる。当地では見られなかったが、このほど遅まきながらBSアンテナを付けたので、BSで「放送大学」を見ている。

弁当で分かった貧富の差

2014-01-29 01:37:56 | 社会
 いま、富を表す品物といったらなんだろうか?高級外車や豪邸や高級ブランド品だろうか?いや、高級ブランドのバッグは薄給のOLでも持っているから、富の象徴ではすでにない。

 向田邦子は小学生のころ、運動会で友達と海苔巻を交換して、海苔に上等と下等とがあると知って、それにより貧富の差を理解したという。(むろん、向田邦子の海苔のほうが上等だった。)

 私の幼少時、弁当のご飯が麦飯の子がいた。私は白米しか食べたことがなかったので、麦飯を珍しいと思い、親にああいうの(麦飯)を食べたいと言って親を呆れさせた。

 池田隼人首相が「貧乏人は麦を食え」と言って顰蹙を買ったのは、それから5,6年後のことである。

 現在、弁当からは貧富の差は分からない。実際、食べ物に関しては昔ほど貧富の差がない。いまや昔の大人たちが求めていた平等な社会が一応は実現しているのだ。上流下流、正規非正規、格差拡大というけれども、昭和30年代はそんな比ではなかった。

(もっと昔は、サツマイモだけの弁当の子や、そもそも弁当を持って来られない子もいたという。)

キャロライン・ケネディ駐日大使のイルカ漁批判

2014-01-28 06:23:47 | 環境
 キャロライン・ケネディ駐日大使が和歌山・太地町の伝統的なイルカ追い込み漁を「非人道的」と批判したことが顰蹙を買っている。キャロライン大使への批判は、「駐在国の伝統文化を大使が批判するのはルール違反だ」と言うにとどめよう。

 「動物の権利」については古代から論じられており、ウィキペディアの記載を大ざっぱにまとめると、アリストテレス、デカルトは動物には理性がないから虐待OK。ルソー、カントは動物に人格はなく単なるモノだけれども、虐待には反対。ベンサムは苦痛を感じるかが問題で、成長した犬や馬より生後一か月の赤んぼうのほうが理性がないから、虐待反対。ショーペンハウアーは人間と動物は本質的に同じだから動物実験にさえ反対ということになろうか。

 このようにさまざまな議論があるのだから、さして考察を深めていない私を初めとする大衆がつべこべ言うのは身のほど知らずかも知れない。

 「動物愛護」の問題は「動物の苦痛」、「動物の人権」という観点のみならず、「生態系の保護」という「動物個人」の枠を超えて論じられたりもするから、たいへん錯綜している。生態系の観点から私はかつて天然痘撲滅をWHOが喜びをもって宣言したことを批判した。(2006-08-12)

 動物虐待は戦争やホロコーストとの関連で語られることも多い。それらは、動物虐待を野放しにすると、やがて戦争やホロコーストさえ正当化されうるというような文脈である。

 1916年、アメリカのサーカスのアジアゾウ、メアリが飼育員を残虐に殺したとされたことから、メアリは「公開処刑」された(下図)。当時の人々はこれを残虐とは感じなかっただろう。なぜなら、時代は第一次世界大戦 (1914-1918) の真っ最中で、人間が3,700万人も殺されたからである。


(ウィキペディア ”メアリ(象)”より引用。)

 とりあえず私は、動物虐待を非人道的と考える派にも、どうせ人間は動物を食べているではないかという派にも同調しない。それらはいずれも農耕の発明を賛美する農耕民族的な考え方に芯まで染まった思考だからである。

 この欄で何度も言ってきたように、人類のそもそもの誤りは農耕の発明にある。諸悪の根源である農耕を是認しておいて、捕鯨にやれ賛成だやれ反対だと論じても無意味なのだ。このブログは分かる人には電光のように分かるが、分からない人は一生分からないと、繰り返し言ってきた。だが、この記事に限っては、いつもは電光のように分かるタイプの人でさえ電光のようには分からないのではないかと恐れている。

(家畜、品種改良、ペットの擬人化や介護、シー・シェパード、ベジタリアンなど、語るべき事柄はまだたくさんある。一回では紙幅が足りないからまた後日に論じよう。)

温泉は病気には効かない!

2014-01-27 06:12:03 | 科学
 私の家は、私が小学校3年生くらいまで、風呂は薪で焚いていた。水は水道から供給されたが、薪は亡父が薪割りをやって造り、風呂を沸かすのはけっこう大変な作業だった。

 水道がない時代、水は桶で井戸から汲み上げて浴槽に入れたから、もっと労力が必要で、庶民が現在のような内風呂をもつことはあり得なかった。

 潤沢に湯を使うには温泉地に行くしかなかった。だから温泉は重用され、湯治という文化が生まれた。湯治は温泉地に逗留せねばならず、逗留という俗世間や仕事から離れてゆっくり休息することが心身に効果があったのだ。温泉に含まれる成分が効いていたわけではない。これは私が子供のころから言われていたことだ。

 つまり、いま温泉ブームが続いていて、神経痛や皮膚病に効くと言うが、あれはウソである。なんなら温泉水をタンクローリーで都会に運んで実験してみればよい。効能は証明できないはずだ。

 このほど環境省が温泉は禁忌とされていた妊娠中という項目を除外した。そういう政令があったとは知らなかった。環境省は妊婦の入湯禁忌には科学的根拠がないというのだが、片腹痛い。新たにうつ状態や自律神経不安定症という「病名」が追加されたけれども、別の「効能」を付け加えることにも実は科学的根拠がないからだ。

 一時、温度の低い温泉を熱して温泉といつわっていたとか、普通のお湯を追加していたとか、循環風呂を源泉かけ流しと称していたとか、温泉地が非難されたけれども、温泉はもともと病気には効かないのだから、非難する必要もなかったのだ。

 温泉地を非難するなら、昨今大流行のサプリメントも非難しなくてはならない。

ビットコインとは何か?

2014-01-26 06:03:09 | 経済
 ビットコインというものが出回っており、お金と同じ役割を果たしているそうだ。最近それが100倍にも値上がりしたという。中国の投機マネーによるものらしい。

 だが、そもそもビットコインとはなんなのか?誰が発行して、どういう機能をもっているのだろうか?

 先日、NHKの「クローズアップ現代」でビットコインについて報道していた。しかし、私の疑問は解けなかった。

 番組では、闇社会で利用されて、違法薬物の決済やマネーロンダリングに使用され、ゆゆしい事態だとしか言わない。ビットコインが経学済的にどういう意味をもっているのか、解説がいっさいなかった。NHKの人もきちんと理解できていないのではないか?

 ビットコインの価値に変動が起きないように、総量規制がされているという。ニセのビットコインは絶対に造れないのだろうか?ついでに言うと、スイカやマナカの仕組みもわからない。ICカードだから偽造がしにくいと言っても、駅の機械で簡単に金額を補充できるのだから、ICの仕組みをしっている人なら簡単に偽造できそうなものだ。

 番組では専門家がビットコインは「債権と同じだ」と言っていたが、それなら利用者が現金をビットコインに変えたら、ビットコインの発行元に大金がはいるはずだ。発行元がその大金に手を付けないのだろうか?株式や社債なら当然、発行元(会社)が使う。

 日銀券(紙幣)なら一応信用ができるが、ビットコインは信用できるのだろうか?どこの誰かも分からないビットコインの発行元をそんなに信用していいのだろうか?NHKの番組は、これらの肝心な部分を解説してくれなかった。

八丈島探訪記その4(歴史)

2014-01-25 06:08:16 | レジャー
 八丈島からはなんと縄文式土器が出土している。当時から人が住んでいたいうことだ。ただし、土器の土は八丈島の土ではなく本土の土だから、本土との交通があったということである。常滑焼の陶器も出土する。黒潮が本土の沿岸から八丈島方面へ大きく蛇行することがあり、近畿や東海の品物は、黒潮の蛇行によって八丈島に届いたようだ。

 古代人の人骨も出土し、埋葬されている者にはマガタマなどの装飾品がついていた。当時、八丈島には高貴な人がいて、八丈島を支配していたのかも知れない。律令時代にはもう役人が来ている。

 八丈島は島流しの島として有名だが、その歴史はさほど古くはなく、最初の流人は宇喜多秀家という人で、石田三成の系列(関ヶ原の合戦の豊臣側)である。つまり、最初のころは身分の高い者が従者とともに流されていた。宇喜多家の子孫は一度は本土に帰り、明治になってから先祖の墓を守るためまた八丈島に移り住んだから、現在でも八丈島には宇喜多姓がある。

 火付け盗賊などの犯罪者が流されたのは、もっと後の江戸時代後半からである。「島抜け」は何度も試みられたが、成功したのは一例だけだという。

 とにかく、古代から八丈島には人がいたのだから、昔の人は果敢に海の遠くまで行ったのだなと驚く。遠方に行ったまま元の地域と隔絶されると、そこに新しい文化が生まれる。たとえば樺太方面の極寒地帯には少数民族が住んでいて、寒冷地に適応した独自の生活文化をもっている。その人々も、大昔にどこからか渡ってきたのだ。

 7万5千年前に、人類がエジプトルートでアフリカを出てから(出アフリカ)、つい最近まで、極寒の地や離島に流浪の旅を続けていたことになる。人類はたくましかったのだ。現代文明人には、もうそのようなことはできない。農耕文明が発達した結果、人類は頭でっかちでひ弱になってしまったのかも知れない。

八丈島探訪記その3(食べ物)

2014-01-24 06:06:22 | レジャー
 八丈島といえば「くさやの干物」が有名である。私が幼少時、亡父がくさやを手に入れて、家で焼いたらものすごい匂いが家じゅうに立ち込めた。当時、便所は汲み取り式で、その内容をぶちまけたような臭さだった。

 亡父は、くさやを酒の肴にしてうまそうに食べた。私はご飯のおかずにはできす、端をちょっとかじっただけだった。

 八丈島では、くさやをスーパーで売っている。いろいろな魚をくさやにするのだと初めて知った。島の人は魚の種類を選んでくさやを買うのだ。それは当然のことで、私たちが普通の干物を買う時に魚の種類を問うのと同じことだ。

 八丈島は自生する「あした葉」という葉野菜を売り込みたいようだ。そこここで、あした葉を出された。てんぷらだったり、蕎麦に葉を練りこんであったりした。さしておいしいとは思わなかった。春菊やよもぎのほうがおいしいから、ヒットはしないだろう。

 島では「島ずし」という握り寿司を食べた。白身の魚を甘辛い醤油でヅケにしてあり、それをネタとして握り寿司が作られる。金目鯛など、ふつうは寿司にしないような魚を寿司にする。わさびの代わりにからしが使用してあり、面白かった。結構おいしいものだった。

 ヅケにしていない寿司も「島ずし」と呼ばれていた。ヅケにした島ずしは、これもスーパーで売っていたから、地元の人の常食なのだろう。

 旅館やホテルでは、普通の料理が出た。あした葉や地鶏がついていたけれども・・。ホテルの料理はフランス料理のフルコースで、まあおいしかった。旅館の料理は、本土の一流でない温泉旅館と同じで、たいしておいしくないものが多種類、食べきれないほど出た。食べきれないほどの料理を出すのはなぜか、だいぶ前に批判的に考察したので参照されたい。(2006-08-11)

八丈島探訪記その2(地理と産業)

2014-01-23 06:03:30 | レジャー
 八丈島へは羽田から飛行機で50分である。とても近いと感じた。都民にとっては箱根や熱海より近い。その割に観光客が少ない。往時は観光客が押し寄せたらしいが・・。

 島は西山(八丈富士)と三原山という二つの火山が合体してできているから、ひょうたん形である。周囲は70Kmで、人口は8,000人。空港から観光スポットや宿まで大した距離がないから、一層近く感じる。

 大手のレンタカー会社がなく、レンタカーは島の零細業者が古いカローラや軽自動車を貸し出している。信号機は島全体で16か所しかない。島を一周するのに2時間はかからない。

 どこからでも八丈富士や三原山が見えて、コンパクトな観光地である。観光地だから、島のGDP80億円のうち半分の40億円が観光収入である。残りは農業、漁業、織物業などで均等に分かれている。

 旅館やホテルは10か所くらいあるだろうか。それでも、最も栄えたころよりずいぶん減ったらしく、バブリーなホテルが廃墟になったまま放置されているのが、かつての栄華を偲ばせて寂しい。(下の画像)



 二つの火山と美しい海以外には大した見せ場がないが、植物が南洋的でエキゾチックだ。黄八丈の織物工房を見学した。黄八丈はきわめて高価なのに地味な布である。需要は先細りではあるまいか?

 高校が一か所ある。中学までしかない島が多いことを考えればまだ恵まれている。島の歴史がなかなか面白いのだが、それはまた後日。

八丈島探訪記その1(なかなか行けなかった島)

2014-01-22 06:14:33 | レジャー
 伊豆七島の一つ八丈島がクローズアップされたのは私が中学生のころ、すなわち1965年辺りである。

 高度経済成長が進んで、庶民も自家用車を持てるようになった。それまで旅行と言えば会社の団体旅行程度しか行けなかったのだが、なんとか近場の家族旅行ができるくらいにまでに豊かになった。

 だが、海外旅行はまだ制限されており(円を海外に持ち出さないないためだ)、為替レートも1ドル360円に固定されていた。そんなころ八丈島は日本のハワイとして脚光を浴びた。

 中学生の私は、自分もいずれ八丈島に行くことがあるだろうと漠然と考えていた。八丈島と言えば、当時は島流しの島くらいの認識しかなかったのだが・・。

 そのころ都はるみの『あんこ椿は恋の花』という歌謡曲が大ヒットしていた。「あんこ」とは「大島あんこ」といって、伊豆大島の若い女性のことで、本土の者にとって「大島あんこ」は十分にエキゾチックな存在だった。大島独特の風俗があり、椿油は大島の名産だった。「大島あんこ」の多くが椿の栽培に従事していた。それらを知らないと『あんこ椿は恋の花』という歌は理解できない。(「あんこ」は「あのこ」の訛り。)

 この歌は遠距離恋愛の歌であり、その上、「大島あんこ」が本土の男性に恋をするという、片想いの国際恋愛にも似た歌なのだ。当時、伊豆大島には船でしか行けなかった。だからこの歌は「3日遅れの便りを乗せて」船が本土へ行き、「いくら呼んでも貴方は遠い」ので、「片便り」(返事がない)なのである。

 だから、もっと向こうの八丈島はほとんど外国のようなもので、本土からは観光客が繰り出した。それにより、ただの離島で黄八丈という織物でしか知られていなかった八丈島は、大いに活況を呈するようになった。

 あれから50年、いつか行けるだろうと考えていた八丈島に、やっと行けた。

ノロウイルスの集団感染に寄せて

2014-01-21 06:03:27 | 医療
 このたびの浜松のノロウイルスの集団感染は、パンを検査する部署でウイルスの付着が起きたらしい。

 この製パン会社は衛生面には日ごろから注意を払っており、トイレから出るときには手をアルコール消毒をしないとドアが開かないようになっていたという。

 ところが感染症の専門家によると、ノロウイルスはアルコール消毒をしても意味がないという。これは私は昔から主張していたことで、アルコールを初めとする消毒薬では細菌は殺せてもウイルスは殺せない(2009-05-01)

 ところが、おとといのNHKでの「間違いだらけのインフルエンザ」という番組では、予防に手洗いをするならアルコール消毒をせよと、国立感染症研究所の研究員が言っていた。インフルエンザウイルスにはアルコールが効くらしい。

 同じ番組で、電車のつり革からはインフルエンザはうつらない、鍋料理を患者と一緒に食べてもうつらないと説明していた。インフルエンザはあくまでも飛沫で感染するので、食べても関係ないというのだ。

 番組では、うがいも意味がないと言っていた。インフルエンザウイルスは30分で粘膜内に取り込まれるので、家に帰ってからうがいをしてももう遅いという。これも私がつねづね主張していたことだ。(2007-11-21)

 ただ、マスクは飛沫を防ぐ意味があるらしい。だから、インフルエンザの予防になるという。私はマスクの網目よりもウイルスは小さいから、マスクは意味がないと主張したが、それは撤回する。飛沫はマスクの網目より大きいからだ。

「ツルカメ算」という名称

2014-01-20 05:37:09 | 教育
 小学校6年生の時、ツルカメ算を習って混乱した。

 ツルカメ算を復習してみよう。ツルとカメが合わせて5匹います。足の数は全部で16本です、さてツルとカメは何匹ずついるでしょう、という問題だ。

 解き方は、動物が全部ツルだと仮定する。それだと、2本が5匹だから、足は10本となって16本より6本足りない。それはツルの足がカメの足より2本少ないからである。よって、マイナス6本はツルとカメの足の差の2本を数えていないから出てくる。だから、カメは3匹である。

 ここで、ツルの足が2本、カメとツルの足の数の差が2本というように、性質が違う2という数が複数出てくるから子供は混乱するのだ。

 3円の切手と5円の切手が合わせて10枚あります、という問題なら混乱がなくなる。ツルカメ算という名称がよくないと、ツルカメ算が理解できた時に思った。

センター試験の前身の前身

2014-01-19 06:20:33 | 教育
 センター試験は国公立私立を問わず多くの大学が利用しているそうだ。センター試験の前身である共通一次は、国公立だけが利用していた。最初のうち、東大は共通一次を採用せず、独自に一次試験をやっていたように思うが記憶違いか?

 共通一次には、さらにその前身があったことをほとんどの人は知らない。それは1968年に試験的に行われた。内容は知能検査が主だった。従として学力検査があった。能力検定テスト、略して能検テストと呼ばれた。

 当時浪人中だった私は、弘前大学の医学部が能検テストを採用するかもしれないと言われていたので、受けた。(万一、弘前大を受けることになったら困るから。)

 知能検査はあからさまな知能検査で、努力すればできるようになる性質のものではなかったから、大学生が反対した。学生運動が盛んなころで、大学生の「能検テスト反対」の大合唱となり、国民も支持したので、能検テストは廃止になった。

 このときのテストは、当時まだ珍しかったマークシート方式で、そこでの文部省の経験が共通一次の下敷きとなった。英語の試験ではヒアリングも行われた。当時はヒアリングなんて、どこの高校もやっていなかったから、まったく聴き取れなかった。ほとんどの受験生がそうで、当局は時期尚早だということが分かったと思う。

 試験は誰でも緊張するが、私の場合、緊張すると吐き気がするので困った。ある大学の受験のとき、試験中に吐きそうになり、よほど退席しようと思ったが踏みとどまった。その大学は合格した。少しくらい緊張しても、頑張れば何とかなることを学んだ。

元の旧漢字に戻せ

2014-01-18 06:03:33 | 日本語
 昨年、台湾旅行をしたときにほっとしたことがあった。それは漢字が読めることだ。中国の漢字は省略されすぎていて読めなかった。台湾は旧漢字をそのまま使用しているので、読めたのだ。

 ひるがえって、わが国を考えると、不徹底にも一部だけ漢字が変わっている。區が区、氣が気と変えられてしまった。でも、これはまだ読めないことはない。だが、晝を昼と読める人がどれだけいるだろうか?そもそも、どうやったら晝が昼に変えられるのか分からない。

 躰を体にしてしまったから、私は幼少時に体と休との区別に苦労した。新漢字のほうが覚えやすいことは決してない。

 漢字の改変は戦後に起こったことだ。誰も反対しなかったのだろうか?文字を変えるのは大変なことなのに、戦後のどさくさで通ってしまったのだろうか?まったく、あさはかな行為だった。

 私の高校の教師で、旧漢字を手放さない人がいた。私はそれを何とも思わなかったどころか、守旧派として立派だと思った。

 漢字の簡略化は合理的なようでいて、そうでない。たとえば學なら、子を興こすと分かる。でも、学ではなんにも分からない。

 元の旧漢字に戻せ!新仮名遣いも歴史的仮名遣いに戻してほしい。俳句結社ホトトギスは新仮名遣いを許さない。口語もまず認めない。格調が下がるからである。これは見識である。新仮名遣いや口語体の俳句が文学として成立するようになるには、あと100年はかかるだろう。文化とはそういうものだ。

 以上のことは、しばしば言われてきたことだろうが、国民的な復古運動として力を持ったことがないから、言ってみた。

システムエンジニアという職種

2014-01-17 06:15:35 | コンピュータ
 私が大学生のころ、すなわち1970年代初めには、システムエンジニアは大変な高給取りだった。今の価格なら年収4,000万円ほどになるだろう。

 なぜかというと、コンピュータ技術者が細分化されておらず、システムエンジニアはプログラミングはもちろん、システム設計や、果てはマシンの修理までしなくてはならなかった。すべてができる人材は少なく、売り手市場だった。彼らには数学科出身者が多かった。私が大学でコンピュータを教わった先生も数学の助教授だった。

 システムエンジニアはスピードを速くするために、アセンブリ言語でプログラミングした。だから、トランジスタで組まれた回路の、どこがレジスタでどこがスタックかといった知識が必要だった。

 コンパイラはすでに実用化されていた。システムエンジニアはコンパイラの中身を知っていた。そのため、彼らはXの2乗と書くべきところを、X*Xと書いた。Xの2乗と書くと、コンパイラはXのπ乗でも計算できるルーチンに入ってしまい、計算時間が何十倍もかかるからだ。X*Xなら掛け算のルーチンですむ。

 今、システムエンジニアは高給取りではない。現在の高給取りは、ビッグデータを扱える人物である。それでも5年後には普通の月給取りになるだろう。それだけ技術の進歩が速いということだ。