長田家の明石便り

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聖書が告げるよい知らせ 第30回 聖なる都への招き

2023-01-04 11:04:28 | 聖書が告げるよい知らせ

聖書が告げるよい知らせ

第三十回 聖なる都への招き

黙示録二一・一‐八

 

新約聖書の最後に置かれているヨハネの黙示録は、紀元一世紀も終わろうとする頃、使徒ヨハネがその宣教活動のためにパトモス島へ島流しにされていたときに見せられた幻を書き記しています(黙示録一・一、九‐一一)。この幻を通して、神様は、この世界が世の終りに向かってどのように進んでいくのかをお示しになりながら、迫害下にあった当時のクリスチャンたちを励まされました。この書の最後に登場するのが、聖なる都の幻です。この都は、信仰者のために神が備えられた最終ゴールです。

 

一、聖なる都の出現

 

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。(黙示録二一・一、二)

 

 この都の出現は、まず、宇宙的な更新の出来事と共に起こることが示されています。イエス・キリストの再臨の後のことでしょう。この世界が終わりを迎えるとき、神様は天と地全体の更新を行われます。「先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」とありますから、部分的な領域の更新ではなく、天地全体の更新です。古い天と地とが消え去った後、新しい天、新しい地が現れる中で、この都が天から下ってくると言います。

 ですから、この都は、現在、地上に見られる色々な都とは全く別のものです。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙示録二一・四)現在、地上では様々な涙が流されています。この世界には死、悲しみ、叫び、痛みが満ちあふれています。しかし、この時、神様はそのようなもののない都を出現させてくださると言います。

 以前、子どもの集会で、この箇所からメッセージをしたことがあります。「神様はこのような都を用意してくださっています、このような都に私たちを入れてくださいます」とお話ししました。ふと見ると、目の前の小学生の女の子が涙を流していました。何か辛い経験をしていたのかもしれません。

 悲しみと痛みに満ちたこの世界で生きる私たち。信仰者であっても、悲しみや痛みと無縁では生きられません。しかし、私たちは永遠にこのような世界に留まるのではない、神様はそのようなもののない都を備え、そこに導き入れてくださる…これは、聖書が告げるよい知らせではないでしょうか。

 

二、聖なる都の本質

 

 しかし、この都について、信仰者である私たちはただひたすらその出現を待っているだけなのではありません。そのことは、この都の本質がどういうものであるかが理解できると、分かってきます。

 

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。(黙示録二一・三)

 

 都の本質は、これらの言葉によって表現されています。神様が人と共に住む都、人が神の民として生きる都、神ご自身が彼らの神として共にいましてくださる都です。ですから、人間の罪や悲しみが満ちた今の世界であっても、私たちが日々神様と共に生きる歩みを続けるならば、私たちはこの都の恵みを先取りして生きていると言えます。

 これらの言葉の最初には、「神の幕屋が人々とともにある」ともあります。幕屋とは、神様がイスラエルの民に造らせたもので、その場所に神様はご自身の臨在と栄光を現わされました。ソロモン王の時代になると、しっかりとした神殿が建てられ、神様への礼拝がささげられました。「神の幕屋が人々とともにある」とは、栄光に満ちた神様の臨在が人とともにあるということでしょう。そこでは神様への礼拝が自然とささげられることになります(黙示録二二・三、四参照)。聖なる都とは、そのような場所だということです。

 「聖なる都」は「新しいエルサレム」とも表現されています(黙示録二一・二)。エルサレムはイスラエルの都ですが、ヨハネがこの黙示録を書いた時代、エルサレムの街はローマ軍に滅ぼされていました(AD七〇年)。そうした時代に、ヨハネは世の終わりに現われる新しいエルサレムの幻を見ました。そこでは神の栄光が輝いていました(黙示録二一・一一)。「この都には神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである。」ともあります(黙示録二一・二二)。この都には命と光が満ちていました(黙示録二二・一、五)。

その昔、預言者エゼキエルも、エルサレムの町がバビロンによって滅ぼされた時代に生きました。そして、彼もまた、神殿回復の幻、聖都エルサレムの回復の幻を見ました。エゼキエル書は次のような言葉で結ばれます。「この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる」(エゼキエル四八・三五)。

 以前、小さな教会堂を訪ねたことがあります。礼拝堂の中には聖書のみ言葉が掲げてありました。「エホバ此(ここ)に在す」とありました。エゼキエル四八・三五でした(文語訳聖書)。私たちが週毎、日毎に神様の臨在を覚え、神様を礼拝し、「神がここにいます」という信仰を持って生きる時、私たちは聖なる都の恵みを先取りして生きていくことができます。

 

三、聖なる都に入る者

 

 この都にはどのような人が入るのでしょうか。ヨハネに告げられた言葉はこのようなものでした。

 

また私に言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録二一・六‐八)

 

 「渇く者」、すなわち、神様と共にあることを慕い求める者がこの都に入ります。「ただで」とあります。これまで神様に背を向けて生きてきたとしても、神様に顔を向け直し、悔い改めと信仰によって神様に近づくなら、神様はこれまでの罪過ちを御子イエス様の血潮のゆえに赦し、「ただで」この都に導き入れてくださいます。

「勝利を得る者は」ともあります。信仰のゆえに戦いもあるでしょう。当時のような迫害の中に置かれることはなくとも、罪の誘惑、世の惑わしを受けるでしょう。しかし、「勝利を得る者は、これらのものを相続する」、聖なる都に入れて頂くことができます。

 この都に入れない者については、罪深い生き方のリストが挙げられていますが、その最初には「臆病な者」が挙げられています。戦いを避け、神の招きに背を向ける臆病さは、この都の入口に立つことを不可能にします。

神様は私たちをこの都に招いてくださっています。この招きに信仰の勇気をもってお応えしませんか。

(このシリーズは今回で終りです。お読みいただき、ありがとうございました。)

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