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満蒙開拓青少年義勇軍のトップは長野県

2013-06-02 00:18:25 | Weblog
満蒙開拓青少年義勇軍」を送出したトップは、長野県である。
どうして長野県がトップなのだろうか?
これが、つぎの私の関心である。


「満蒙開拓青少年義勇軍」として満州に渡った人は10万人である。
出身都道府県別のトップは長野県で6千600人が渡っている。
全体の6.5%で、ダントツである。
2位広島県、3位山形県、4位新潟県、5位福島県が続く。

「長野県」が作成したポスターがある。
満蒙開拓青少年義勇軍募集」。

往け若人! 北満の沃野へ!!」、
「詳細は市町村役場へ」。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、
15歳~19歳の青少年を募集し、
茨城県の内原訓練所で、3ヶ月訓練してから、
「北満」、つまり、ソ連国境の奥地へ送り込み、国境警備にあてた。

長野県が独自に製作したポスター、
「満蒙開拓青少年義勇軍募集」から、
長野県は「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集に、
力を入れていたことがわかる。

しかし、どうして、
長野県がトップであるのか?
対象となる15歳~19歳の青少年は、
長野県だけではなく、日本全国どこの県にもいる。

国民精神総動員強調週間」。戦争ポスター。

特輯放送番組
「2月11日から2月17日まで」
「日本放送協会(NHK)」

「国民精神総動員」で、
戦争遂行の思想教育を徹底した。
戦争遂行に駆り立てた。

軍国主義教育を行い、
「天皇陛下のために命を捨てる」精神を叩き込み、
少年は、「少年航空兵になる」、
少女は、「お国のために尽くしたい」、
と、軍国少年、軍国少女を育てた。

この軍国主義教育も長野県だけの特徴ではない。
日本全国で行われてきた。しかし、
「満蒙開拓青少年義勇軍」のトップは、長野県である。
これには、「信濃教育会」が積極的に関わっていた。

満蒙開拓平和記念館」の、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を説明するパネルには、
つぎが書いてある。


「満蒙開拓青少年義勇軍」に応募した動機は(1941年の調査)、
1番が教師の指導による、3,422人、54%、
2番が本人の意志による、2,469人、39%、
3番が父兄の奨めによる、429人、7%、
とある。

さらに、つぎも書いてある。
拓務省は文部省と提携して、
「お国のため」であるとして
少年に満洲を目指さしたこと、さらに、
県からの割当で、教師が半ば強引に進めたケースもあった、
と、説明がある。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の募集は、
各県、村、学校ごとに割り当てられた。
候補とされた少年は、校長室に呼ばれて、
入隊を決意するまで3日、立たされたという。
半ば強制的な募集で、割り当てをこなす。

「信濃教育会」は、どうしてここまでして、
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出したのか?
できれば、「満蒙開拓青少年義勇軍」の人に聞いてみたい。

その「満蒙開拓青少年義勇軍」の人だろう?
と、思う人が「満蒙開拓平和記念館」の中にいた。
「満蒙開拓青少年義勇軍」に関する展示を見ている。
展示の見方が私とはちがっていて、
「満蒙開拓青少年義勇軍」について、
どうであったのか? 初めて知るのではなく、
自分のことが、どのように展示されているのか?
を見ているのである。
それに、記者のインタビューに答えているから、
間違いなく「満蒙開拓青少年義勇軍」の人だ。

しかし、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
生き地獄」に遭い、
多くが死亡や行方不明という状況だから、
生き延びて日本に帰国できたその人とは、
話のきっかけがつかめない。

長野県における旧郡市別義勇軍送出数および犠牲者数マップ

「満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」、大月書店発行から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」として長野県から、
6,939人が送出されて、1,360人が犠牲となった。
犠牲者は20%になる。
義勇隊員とは、「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
満州に渡ると、訓練所に入って「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばれた。

その「満蒙開拓青少年義勇軍」の人とは、
展示室で会った。そして、隣の資料室で本を見ていると、
そこでも会った。そして、話をすることができた。
85歳だというが、お元気そうだ。それに、
記憶力がしっかりしている。
きのうのことのように話をする。

「満蒙開拓青少年義勇軍」とは、話には聞いたことがある。
それが、目の前にして話をしてもらっている。
「こんな幸運があるだろうか!」
1時間半も話をしただろうか。

先生に説得されて「満蒙開拓青少年義勇軍」に入った。
満州に行けば、20町歩がもらえる、ということだった。
「満蒙開拓は国策で、君の幸せを約束するものだ」と言われた。
茨城の「満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所」へ行って、
3か月の軍事教練を受けた。
「お前たちは覚えが早い。成績優秀だ!」
と、ほめられて、満州に渡った。
その前に、松本にいったんもどった。
駅前から本町をパレードした。
鼓笛隊が入った華やかなものだった。
あれは、壮行会でもあり、「信濃教育会」が成果を示し、
さらに「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り込む宣伝でもあった。

朝鮮(北)に渡るのに2週間かかった。
船酔いがひどかった。
ソ連の国境近くに配備された。
国境の警備だった。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、「関東軍」の組織の下にあった。
「関東軍」の命令通りに、匪賊から「満州開拓団」を守り、
「関東軍」の兵站部隊として輸送、弾薬、食料補給をした。

満州で義勇隊訓練所に入って3年間の訓練期間を終えると、
義勇隊開拓団」を作って、20町歩がもらえる、
やがて、「大陸の花嫁」をもらえる、というのは嘘だった。
満州で3年経っても「義勇隊開拓団」になることはなかった。

そして、戦局が悪化した。
「満州開拓団」を守る「関東軍」は南方に渡って、いなかった。
「満州開拓団」の男は、ねこそぎ動員で、非常召集された。
武器は手りゅう弾だった。それと、鍬の柄だった。
ソ連が襲撃してきた。ソ連は連発銃だった。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の38銃では、勝ち目はなかった。
38銃とは、明治38年に製造されたことからきている。

ソ連の襲撃で仲間は銃弾に倒れた。生き延びた者は、
武装解除されて、捕虜となってシベリアの収容所へ入れられた。
3交代でレンガ作りをさせられた。

シベリアの収容所では「赤化教育」が行われた。
「天皇制の悲惨さを知らないのか?」
と、頭の良い人を選んで、赤化教育をする。
教育を受けた人は、収容所の日本人を、作業後に赤化教育をする。
捕虜がするレンガ作り、
木材の伐採などの強制労働をしなくてもいい。
普段は宣伝や壁紙などを作っている。

「関東軍」の上層部は、だれもソ連の捕虜にならなかった。
戦局の悪化を知って、いち早く日本に戻っていた。

加藤完治が「満蒙開拓青少年義勇軍」の責任者だった。
だが、戦犯にならなかった。
米軍の取調べで、
「大和魂とは?」
と、聞かれて、
「大和魂とは、人に親切にすること」
と答えた。

そして、「信濃教育会」の話をした。
「信濃教育会」で教員の、「赤化事件」がおきた、
と、すらすらと話す。
軍の意向に合わなかったら、「信濃教育会」が弾圧される。

「赤化事件」とは知らなかった。なんだろう?
満蒙開拓青少年義勇軍と信濃教育会」という本に書いてあった。大月書店。


「長野県教員赤化事件」とは、教員による、戦時体制に反対する左翼活動。
「教育勅語」に基づく忠君愛国の教育政策から、現在の言葉でいえば、
人権尊重、民主的人間形成、平和教育の実践に努めた。

特高警察は徹底的に弾圧した。
1933年2月4日に86名を検挙したことを手始めに、
7か月にわたって検挙取調べは600余名におよんだ。
一般教員137名のうち、起訴29名、懲戒免職6名、論旨退職27名・・・、
校長は56名のうち、論旨退職5名、既退職8名、鑓責8名・・・。
これで、長野県下の左翼活動は壊滅状態になった。

「信濃教育会」は、「赤化事件」を、
「我が信州教育における一大不祥事」
と、とらえて挽回をしようとした。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の大量の送出に、
全力をあげていくことになった。
「信濃教育会」は長野県に割り当てられた、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に力を注ぎ、
各村の学校長は割当をこなした。

31名を送り込んだ先生がいた。
「満蒙開拓青少年義勇軍」を送り出す「興亜教育」の見本とされた。
「信濃教育会」は、「興亜教育大会」を松本で2日間開催し、
3千人の教職員を動員して、「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出の実践を学んだ。

31名を送り込んだ先生は、すぐに出世した。
教頭を飛び越えて、校長に抜てきされた。

そして、長野県の郡市別の結果は
満蒙開拓青少年義勇軍・長野県郡市別送出番付表」に見ることができる。

「中国残留邦人」-置き去られた60余年。岩波新書、井出孫六 著。

勧進元は「信濃教育会」である。それに、「各郡市教育会」である。
郡市別に「満蒙開拓青少年義勇軍」送出の「番付表」を作成した。

東の横綱「下伊那郡」は、
「満蒙開拓平和記念館」の阿智村があるところ、
西の横綱「東筑摩郡」は松本周辺、
東の大関「諏訪郡」は富士見村があるところ、
西の大関「上水内郡」は長野周辺。

東の横綱「下伊那郡」にあたる飯田、下伊那の、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の「応募の動機」がある。1941年。

「満州移民 飯田下伊那からのメッセージ」。
飯田市歴史研究所編、現代史料出版から。
応募の動機は、学校の先生の勧めが77%と断然多かった。

「信濃教育会」は「番付表」を作成して、
郡市の「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出を競っている。
これらで、長野県の「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出が、
ダントツだったわけがわかった。

軍国主義の圧力のもとで、
「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出に、
大きく関係した「信濃教育会」は、
「満蒙開拓平和記念館」の設立にあたって、
積極的に協力している。
「平和の尊さを次世代に語り継ぐ」という、
「満蒙開拓平和記念館」の趣旨に賛同して、
「信濃教育会」は、200万円を寄付している。
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