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満蒙開拓団の幸せは?

2012-06-24 00:00:11 | Weblog
満蒙開拓団」の「幸せ」は?
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
と、機会をみつけて、人に聞いてみた。
できれば、過酷な体験をした人、
悲惨な体験した人に聞いてみたい。

満州からの「引揚者」は、
悲惨な体験をされている。

極限状態を体験した人が、
感じる「幸せ」は、本物である。
抽象や評論ではない。

満州からの「引揚者」には、
軍人」(広東軍)、
満州鉄道ほか「仕事関係」、
満蒙開拓団」(農業移民、武装農業移民)がいる。

「軍人」では、穂苅甲子男(ほかり かしお)さんを取り上げ、
「仕事関係」では、新田次郎さんの家族を取り上げて、
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
を、探ってきた。

つぎは、多くの犠牲者を出した「満蒙開拓団」である。
「満蒙開拓団」の幸せは?
機会があれば、聞いてみたい。

「満蒙開拓団」の出発風景がある。大日方(おおひなた)村、長野県。

「長野県の満洲移民」。長野県立歴史館発行から。

日の丸、鼓笛隊が先導し、移民団が続く。
それに、見送る村人も。

大日方(おおひなた)村は、
分村移民」を決断した。
多くの村人を満州に送り込んで、
第二の大日方村をつくるのである。

昭和11年の大日方村の負債総額は36万2千円にのぼった。
これは、村の予算の12年分になる。
財政再建には、「分村移民」に頼ることになる。

「分村移民」には、国から「特別助成金」が出る。
昭和12年、13年の2年間で得た特別助成金(4万7千円)は、
昭和12年の村の年間予算(3万3千円)を大きく超えた。
(「長野県の満洲移民」、長野県立歴史館発行から)

どのくらいの村民が、満州へ渡ったのか?
企画展「長野県の満洲移民」が、
長野県立歴史館、千曲市で開催された。


企画展「長野県の満洲移民」には、
町村別満洲移民一覧」が展示されていた。
よく、作ったものだと思う。
これを見るだけでも価値がある。

その「町村別満洲移民一覧」から、
大日向村の渡満者比率」を作成した。


人口2,133人の大日向村から、
664人が満州に渡った。
31.1パーセントになる。

渡満者の内訳は、
農業開拓移民が644人、
義勇軍18人、
勤労奉仕隊2人である。

そして、大日方村は、
「満蒙開拓団」のモデルケースになった。

満蒙開拓団等送出数上位県」。

「満蒙開拓平和記念館事業準備会」のリーフレットから。

長野県は、最大規模の37,859人を送り出している。
2位、山形県17,177人の2.2倍である。

「満蒙開拓団」は、全国から27万人、
その内、14%を長野県が占めた。
そして、「満蒙開拓団」で、
生きて帰れた人は約半数である。

企画展「長野県の満洲移民」の、
「町村別満洲移民一覧」から、
大日向村の帰国者比率」を作成した。


大日向村から664人が満州に渡り、
生きて帰ってきた人は327人である。
帰国者比率は49.2パーセント、半数以下となった。

残りの半数は、
死亡者332人、
残留者3人、
不明者2人である。

高校の同窓会が松本であった。
参加者は、自己紹介を含めて、
簡単なあいさつをする。

「『満蒙開拓団』で、両親と満州に渡って、
ソ連の満州侵攻に遭い、日本に引き揚げてきました」
と、切り出された大先輩がいた。

「満蒙開拓団」の「引揚者」がいる!
偶然だ! チャンスだ! と思った。

「満蒙開拓団」で、
半数の生きて帰れた人だ。
生き地獄を体験された方だ!
よくぞ、帰れたものだ!

その「満蒙開拓団」は、
農業移民の「開拓団」と、
武装農業移民の「満蒙開拓青少年義勇軍」に大別される。

「満蒙開拓青少年義勇軍」は、
15歳~18歳の青少年を募集して、
ソ連国境の奥地へ送り込む。
農業実習と軍事訓練をして、
ソ連の襲撃に備える。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の府県別送出の「番付表」がある。

「終わりなき旅」。井出孫六 著、岩波書店から。

「満蒙開拓青少年義勇軍」の送出も、
長野県が東の「横綱」である。
こんな「番付表」は、もう(蒙)御免だ!

「開拓団」は本来、農業専従の移民のはずだった。
しかし、戦況が悪化すると、17歳~45歳の男性は、
緊急補充兵として召集され、戦場に送られた。
そして、ソ連との戦いで死亡するか、
捕虜となって、シベリアへ抑留された。

取り残されたのは「満蒙開拓団」の、
女性、子ども、老人、それに、病気の男性である。
1945年8月9日のソ連の満州侵攻で、か弱い一団は、
とるものもとりあえず、地獄の逃避行を始めた。

「満蒙開拓団」27万人のうち、
日本に帰還できた「引揚者」は、
半数ほどであった。

残りの半数は、つぎの人である。
引き揚げるときの飢えと寒さ、発疹チフス、襲撃、
それに、青酸カリを飲む集団自決で「死亡」した人、
シベリアへ「抑留」されて、死亡した人、
引き揚げるときに、親子バラバラになったり、
シベリアへ抑留されて、「行方不明」になった人、
満州に残され、「残留孤児」になった人、
それに、「残留婦人」である。

残留孤児とは、13歳未満、
残留婦人とは、13歳以上の女性である。

さて、高校の同窓会だが、
参加者、各人が次々にあいさつをする。
あいさつに、質問をする習慣? はなかった。

しかし、「満蒙開拓団」の「引揚者」を、
目の前にしている、こんなチャンス! はない。
「死」をまぬがれ、
「行方不明」にならず、
「残留孤児」にもならずに、
帰ってくることができた人だ。

あいさつが終わると、思わず質問した。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

質問を受けた大先輩は、キョトンとされていた。
質問が唐突すぎた。そこで、
「自分の『幸せ』の参考にしたいものですから」
と、付け加えた。
「幸せ」とは、予期していなかった質問だったのだろう?

大先輩は、
日常の生活が、当たり前にできることです」
と、言われた。

なんだか、ピンとこなかった。
生き地獄を体験された「満蒙開拓団」の「引揚者」は、
「幸せ」という言葉を、考えたこともなく、
使うこともなかった、忘れてしまった、
と思った。

翌年の同窓会。
大先輩も出席されていた。
こんどは、近づいて聞いた。
「満州からの引き揚げは、大変でしたね?」

「1年3ヶ月かかって、飢餓状態で満州を脱出した。
群(む)れていないと襲われる。イワシの群れのように。
満州で生まれて10歳のときだった。母と2人の脱出だった」
と、言われた。

「ご家族は、無事でしたか? 再会できましたか?」
「召集されたお父さんは? 兄弟は?」
とは、聞くことができなかった。

あまりにもプライベートすぎる。
半数が亡くなる、生き地獄の逃避行だ。
一家がそろって帰還できることは、まずない。
悲惨な思いがつまっているだろう。
人に言いたくないこともある。

プライベートなことは、
大先輩が言い出さない限り、
聞くことはできなかった。

そして、去年と同じ質問をした。
「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」

「『幸せ』とは、日常の生活が、できることです。
日常の生活が、当たり前にできることです」
と、こんどは、すぐに答えていただいた。
内容は、1年前とほぼ同じだ。

しかし、違いがある。
「幸せ」という言葉を冒頭に使われたことだ。
「幸せ」を、はっきりと意識された。

さて、
「軍人」の穂苅甲子男さんは、
シベリアへ抑留され、収容所では、
飢えと極寒の中、重労働を強いられて、
栄養失調、発疹チフス、それに、
事故で大量の死者がでるなかを、
命からがら、日本にもどることができた。

「『幸せ』を感じるときは、どんなときですか?」
「生きていることに、感謝している」
と、穂苅甲子男さんは言われた。
「幸せを感じるときは?」、2012年6月3日を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2439400dce70acf2abc74aa6d9901b62

「仕事関係」では、観象台(気象庁)の家族、
新田次郎の次男、藤原正彦さんがいる。
飢えから栄養失調になり、寒さ、苦難な山越え、川越えで、
死線をさまよいながら、日本に帰還した。

「人間の『幸せ』は貧富とは関係ない。
家族がそろって生活できることが『幸せ』だった」
と、藤原正彦さんは言われた。
「満州からの引揚者の幸せは?」、2012年6月10日を参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/55ac2f7f0cdcd9b131f591a2c1ed0f5b?fm=entry_awc

満州からの「引揚者」の「幸せ」はつぎになる。
「軍人」は、
生きていることに、感謝している」。
「仕事関係」の人は、
家族がそろって生活できることが『幸せ』」。
そして、「満蒙開拓団」の人は、
「『幸せ』とは、日常の生活が、当たり前にできること」。

引揚者の「幸せ」を、自分の「幸せ」に置き換えてみる。
「その日、その日を精一杯生きよう」と思う。
地震、災害が、いつおきるかわからない。
「今日も、がんばったな!」
「1日が、終わったな!」
と、酒を飲もう。
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