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デジカメと友達

四季折々の花の写真を残したい

我が家の庭 (5月)

2020-04-30 09:35:16 | Weblog

昨年の5月1日は元号が令和に変わりました。

孫たちが帰ってきて4月30日は田村神社へ5月1日は白鳥神社へお詣りしました。あいにくの雨でしたが・・・

今年は快晴ですが、コロナの影響で誰も帰って来ません

今年も,うつぎの花が咲きました。.

ひ孫のために育てたいちごです

 

数年前の母の日に頂いた多肉植物7種のうちの一部です

キンギョソウはこぼれ種から出てきました。


香川県歴史研究会四国を学ぶ会 春の研修 延期  多田豊美

2020-04-26 01:19:43 | Weblog

研修の見どころ

令和2年4月19日  
                 
春の研修 奈良歴史民俗探訪
大和三山・天岩戸神社・藤原京跡・霊禅山久米寺・橿原市博物館

あをによし 寧(な)楽(ら)の京師(みやこ)は
咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり  
作者 小野(おのの) 老(おゆ)
奈良は日本歴史の発祥地であり、日本人の心のふるさとでもある。青垣の山々や大和三山、古社寺、天皇陵、古墳などその美しい周囲の風景などと重なって見た目では柔らかく感じ、なにかしら懐かしさを感じる。万葉集うたの里と呼ぶ人も多く、歴史や文学に関心を持つ人たちが憧れている。
世界文化遺産に登録された古社寺や文化財史跡や名勝古墳などが充満している土地である。
平安時代には蜻蛉(かげろう)日記、更科(さらしな)日記。鎌倉時代の七大寺巡礼私記などを見ると多くの文人や墨客が奈良を訪ねている。また多くの紀行文や古典などを読んでみるとその当時が連想される。
 奈良は京都と並んで歴史や文学、その上遺跡づくしで、その歴史と文化の移り変わりを千有余年にわたって積み重ねて来た。奈良は第二次世界大戦時にも焼失せず被害を受けなかったので古い建造物、美術品、文化財など、多く見学できる。
 また、古くは「万葉集」「古事記」「日本書紀」などの古典で名高い大和三山、天(あま)の(の)香(か)具山(ぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳(みみ)成山(なしやま)は神々の世界と云う語威が深く感じられる。
 古事記の神代巻に出て来る天岩戸神社は神話信仰に根深く結びついていることを実感する。
天照大御神が岩屋にこもって以来多くの不幸に見舞われて来た。それだけに
天照大御神が岩屋からお出ましになり世の中に再び光が戻ったことは誠にその意義は大きい。
 藤原京が大和三山に囲まれた地に建設され、ここが政治の始まりとなり第四十二代文武天皇が大宝一年(701)に刊部親王と藤原不比等に命じて作らせた『大宝律令国家体制』が整備され日本と言う国号が初めて定められた。この藤原京もわずか十六年余りで平城京に遷都された。
 藤原京はもともと低地帯の土地で、台風などで大雨が降ると排水に問題が生
じた。 
慶雲一年(704)遣唐使が唐より帰国した。唐の都、長安の先進的な都城の状況や形態が報告され、第四十三代元明天皇は和銅三年(710)新しい平城京に遷都して国の政治が行われた。
 奈良県は近畿地方にあり、日本国土の中央部に位置している。三重県との県境の台高山脈に源を発した小川は、西流して和歌山県に流れて吉野川(紀の川)となり、奈良県を南北に分けて流れる。
 南半分は山岳地帯の吉野山地、北半分の西側半分が奈良盆地(大和平野)であり奈良盆地は四囲を山地で囲まれ「青垣四方に廻れる国」と称えられる。奈良盆地の中央には大和川が流れる。四囲の山々から流れ出た支流を集めて西に流れ大坂府側に流れる。
 奈良盆地は我が国の古代国家の中心舞台となった所で現代においても奈良県の政治、経済、文化の中心地として人々が生活する舞台となっている。
 奈良県の総面積は3691・09平方キロ総人口は、平成十七年(2005)第七十八回国勢調査によると142万1310人となっている。
 風土の特色としては、気候が温和で風水害が少ない。一年の平均気温は15度程度。年間の降水量は1200から1300ミリ程度。
奈良は周囲を山々で囲まれた土地で夏は暑く冬は寒い盆地である。年間の降水量がやや少なく水不足に悩まされて来た。そのため溜池が多い。池は皿池と言って底が浅く貯水量が少なく用水不足は深刻で毎年水争いが繰り返されていた。
そのため溜池が多い。池は皿池と言って底が浅く貯水量が少なく用水不足は深刻で毎年水争いが繰り返されていた。
昭和三十一年(1957)に吉野川の水を奈良盆地に導水するようになり水不足は解消した。
 奈良にはこんな諺が残っている。「大和豊年米食わず」これは奈良盆地に適度な雨が降って豊作になる年には全国的に降水量が多すぎてかえって米が不足すると言う意味で盆地の水不足を象徴する諺である。
 奈良では戦国時代に筒井順慶が活躍し、支配していた。豊臣秀吉の時代には弟豊臣秀長「を郡山城主にして奈良を支配した。
 徳川時代、江戸幕府は奈良奉行所を置き奈良南部地方には五条代官所を置いて奈良を支配した。
 明治四年(1871)第一次府県統合により奈良県が成立した。ひと時ではあるが堺県と改名した。次に大阪府に統合された。
 明治二十年(1887)再び奈良県となった。奈良は古代より我が国の都が置かれた古都で観光地として名高く、日本国内はもちろんの事、世界各国から
大勢の観光客が訪れている。
 奈良名産品
  奈良漬、柿の葉寿司 大和柿、くずこ、小梅園の墨(書道用)よしの紙
● 大和三山天の香(か)具山(ぐやま)(152㍍)畝傍山(うねびやま)(198・1㍍)耳(みみ)成山(なしやま)(139・7㍍)
 大和三山は奈良盆地の中南部にある小高い丘から盆地を望むと大和三山の美しい姿を見ることが出来る。これらの山々は萬葉集に記されているように古き時代から多くの歌人によって詠われ人々に親しまれており、奈良を代表する景観になっている。
 大和三山は東,西、北に頂点をもち三角形上に位置している。平成17年(2005)形図では「天の香久山」だが名勝としては「天香具山」として登録されている。
 香具山の多武峰から延びた尾根が侵食されて出来上がったと考えられる。
天と言う言葉はこの山に付けた美称と考えられる。大和三山の中で最も神聖視された山で伊予の国風土記(愛媛県)を見ると天上界から山が二つに分かれて落ち一つは伊予国の天山(あまのやま)となり、もう一つが大和の国に落ちて天香具山になったと言われている。
畝傍山は古事記や日本書紀に伝承されている山で古事記には「畝火山」と記されている。大和三山の中で最も高く美しい見事な曲線が特徴的な山で、畝傍山の麓まで橿原神宮の森が広がって来ている。
 耳成山は万葉集では「耳梨山」と書かれている。円錐形のバランスのとれた山で萬葉集ではあまり詠われていない。山の中には式内社に定められた耳成山口神社が祀られている。
● 天岩戸神社
 天の岩戸神社の周辺は神聖視されて神話の世界を思わせる。神社は香具山の南麓にある竹林に囲まれたこの神社には鳥居はあるが神殿がない。天照大御神が御隠れになった岩穴だけがありこの岩穴が御神体となっている。
○神話伝承  天の岩戸開き
 『天の岩屋に天照大御神が御隠れになり、それ以来世の中は急に暗くなり悲しい不幸に見舞われて世の中の多くの人々や神々は大変なこととなり難渋した。
 この対策を練るために大勢の神様が集まってあれやこれやと相談した結果神様の中で智慧博士と言われている思金命(おもいかねのみこと)に岩戸開きの計画を一任してお願いした。早速、思金命は鍛冶屋の天津(あまつ)麻(ま)羅(ら)と言う人を捜し出して伊斯許(いしこ)理(り)度売(とめの)命(みこと)が鏡作りの名人天津麻羅に八咫の鏡を作らせた。
 玉(たま)祖(のおやの)命(みこと)には八咫の勾玉の玉飾りを頼んで作らせた。天児屋(あめのこやねの)命(みこと)と布(ふ)刀(と)玉(たまの)命(みこと)の二人には天香久具山へ行って鹿を捕らえて来させて鹿の肩の骨を焼いてもくもくと煙を立ちこませて占いをさせた。更に布刀玉命には八咫の勾玉の玉飾りを首に付けて八咫の鏡を掛けた御幣を持つ役割を頼み、天児屋(あめのこやねの)命(みこと)には天照大御神出現祈願の祝詞を長々と唱える大事な役割を頼んだ。
 天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)には岩戸の前で面白い神楽舞をする役目を依頼する。天宇受売(あめのうずめの)命(みこと)は岩戸の前で大きな桶を持ってきてひっくり返した上に立って裸になり天香具山から取って来た竹の葉を持って妖艶な神楽舞をした。
 集まった人々や神々は鹿の肉を焼いて酒を飲み熱狂して高笑いをし、大声で
神楽舞の歌を歌いながら舞を踊った。それは凄まじく周囲の山々に響き渡った。
  岩屋戸の奥では心を閉ざして隠れていた天照大御神も表では何をしているの
だろうと、思わず岩戸を細く開いて外の様子をそっと覗いた。
 岩戸の前には八尺の鏡を掛けた御幣を立てかけてあった鏡に映った自分の顔を間違えてこれは誰だろうと勘違いして岩戸を大きめに開いた所、神様の中では随一の力持ち天手(あまのて)力男(ぢからおの)命(みこと)が素早く岩戸に手を差し込み、岩戸を開き天照大御神の手を引いて外に出ていただくことが出来た。
 これで明るい光が末永く世の中を照らし続けるようになった』。
 現在もこの天岩戸神社へご参拝に訪れる人が多いと言われている。。
●藤原京跡(国特別史跡)   奈良県橿原市
 日本史上最初で最大の都城があった藤原京は、大和三山に囲まれた地域でその上歴史と文化の移り変わりを写し出し見学するたび何回見ても飽きることがない。
 持統天皇が遷都されたのが持統八年(694)で以後文武天皇、元明天皇と三代にわたり和銅三年(710)平城京へ遷都するまで約十六年間ここに都が置かれていた。
 「日本書紀,続日本記」によると内裏、内殿、大安殿、東安殿、面殿、新宮正殿、太極殿、正門、朝堂院、東楼、西楼、海犬養門などあったが平城京へ遷都後、和銅四年(711)に火災により全館焼失した。現在は広い敷地内に大極殿と朝堂院が復元して整備されている。
 藤原京跡には春は桜と菜の花、夏は蓮の花、キバナコスモス、秋はコスモス、
季節を追いかけるようにその表情は四季ごとに変る。この花景色は見学する人たちの楽しみの一つになっている。
 ここで藤原京を創都してこの大事業を成し遂げた、第四十一代持統天皇(女帝)について少し記してみたい。
 持統天皇は第三十八代天智天皇の第二皇女である。そして第四十代天武天皇の皇后になったお方である。天武天皇は新しい都の造営計画(藤原京)を建てていた。しかし天武天皇は朱鳥一年(686)崩御された。持統四年(690)天武天皇の皇后が即位して第四十一代持統天皇(女帝)となる。前帝の意志を継いで藤原京を見事に完成させた。
 文武一年(697)持統天皇は天皇の位を第四十二代文武天皇にお譲りされ
た。前、持統天皇(女帝)は享年58歳で崩じられこの世を去った。
持統天皇(女帝)御歌
春過ぎて夏来(きた)るらし 白栲(しろたえ)の 
衣乾(ほ)したり 天(あま)の香(か)具山(ぐやま)
 
この歌は万葉集の中でも季節感がすっきりと現れている純粋な歌で客観的に即興したものと考えられる。
 持統天皇は女帝であり万葉歌人でもある。多くの歌が残されている。
● 歴史に憩う橿原市博物館        奈良県橿原市
 橿原市を代表する遺跡から出土した資料を展示する博物館であり、縄文時代の終り頃から江戸時代まで二千数百年にわたる長い期間の出土した物を知ることが出来る。土器に触れたり、出土品の復元作業を見学できるなど、体感型の展示施設であり、常設展示室では硝子越しではなく展示品を間近に見ることが出来る。本物を充分味わえることが出来る博物館である。

 


四国を学ぶ会のアンケート(会誌10号の編集)提出

2020-04-23 00:40:33 | Weblog

1 好きな戦国武将  生駒親正

生駒親正は、信長、秀吉に仕え功績をあげ秀吉から讃岐の国17万石を与えられ讃岐の国の初代藩主になりました。高松城を築き、生駒4代で高松の基礎を築きました。生まれは岐阜県ですが親正ご夫妻のお墓は高松弘憲寺にあります。

2 家の近くの名所 旧跡(高松市由良町)

由良山には石切り場があります。皇居東庭(一般参賀の広場 約1万5000平方メートル)に敷きつめられているのは由良石です。昭和41年に「新宮殿造営用砕石報告祈願祭」が挙行され43年3月に竣工しました。
毎年行われている年賀の一般参賀をテレビで見る時、由良石を思い出してください

3 昔からの言い伝えがある話

清水神社は「雨ごいの神さん」(高松市由良町)
お甕洗い神事による雨ごい祈願。大干ばつの時、甕を取り出して清水で洗うと大雨が降ったと伝承されています

4 研修に行った場所で印象に残っている所、希望する研修地

・神武天皇陵参拝(平成14年4月) 
宮内庁職員の指示に従って4列縦隊で玉砂利を踏みました。
身も心も引き締まり俗世間にない静かな雰囲気が忘れられません。
・舞鶴引揚記念館.(平成16年11月)
シベリアに抑留された人々の体験を描いた絵画や家族へ送った手紙など。特に、「岸壁の母」のモデルになった端野いせさんの写真が涙を誘いました。

・護衛艦「あぶくま」に乗船して説明を聴いたことは貴重な体験でした。

希望する研修地    福山城とバラ公園

5 好きな歌手、心に残っている想いでの歌

岡本敦郎   「白い花の咲く頃」
昭和25年頃ラジオで良く聞いた歌です。高校時代に音楽の先生から楽譜を頂いた思い出の歌。

 



 

 


3月31日のさくら

2020-04-23 00:07:07 | Weblog

何故か新規投稿ができなくて諦めていましたが出来るようになったので日にちは経っていますが投稿しました

白山の桜3月31日撮影

長尾亀鶴公園

孫の帰省のため苺を作っていますが今年は帰れません。

 

 

 


こと比ら誌75号に投稿 (金刀比羅宮から頂いた縁起皿)   多田豊美

2019-12-30 18:15:20 | Weblog

新年あけましておめでとうございます。

こと比ら』誌(75号)に投稿しましたので今年も記念品の「縁起皿」を頂きました。

今回で10回投稿しましたので,干支の縁起皿も10枚揃いました。

                        令和初春 雅びの舞

深川製磁は、新年を迎えるにあたり、毎年干支を題材にした

作品を限定制作してまいりました。

令和最初の正月をお祝いする本作には皇室に所縁

(ゆかり)の深い雅楽をデザインテーマ―に選びました。

末広がりの富士を背景に雅びな舞を演じる演者の装束

に三鼠紋を描き、周りに千歳の松と日本の花である桜を配しました。

「鼠三匹蔵がたつ」の謂れを踏襲し、大黒様の使者

といわれ吉祥を表す白鼠を描いております。

また女性演者の装束には「令和」の隠し文字を入れました。

令和の時代が皆様にとって弥栄の年となりますよう心から

願い、伝統工芸士をはじめとする熟練の職人の手わざにより

ひとつひとつ大事に焼造しております。

                宮内庁御用達 深川製磁

金刀比羅宮奥の院箸蔵寺などを訪ねて 

徳島県三好市池田町は、四国の屋根と言われる剣山系の標高1500メートル級の高い山なみ、かたや阿讃山脈に囲まれて四国三郎吉野川の中流域を抱いた山あいの雄大で自然があふれる静かな盆地型の美しい住みよい町である。


池田町近くの吉野川

 この池田町は江戸時代末期から明治時代にかけて「阿波きざみたばこ」の生産で大いに栄えた町である。約、百軒余りの民営の煙草工場があり製造されたきざみ煙草は美しいあやめ、ききょう、わかばなどの絵が描かれた紙袋に入っていた。

 私は子供の頃、祖父の使いで刻みたばこを買いに行かされた。刻み煙草はききょうの花が印刷された紙袋に入っていたことを思い出す。

 この煙草は昭和15年頃まで販売していた。池田の街並みにはたばこ産業で繁栄し、裕福で金持ちになった商人の家が多く残っている。隣家の間には袖壁が造られ「うだつ」と言って防火の役目をしている。

 「うだつ」を造るには相当の費用がかかるため「うだつを上げる」と言う言葉の由来にもなっているようで、裕福で大金持ちの証になっている。

 徳島には「うだつの町並み」が多く、貞光の「うだつの町並み」脇町の「うだつの町並み」池田の「うだつの町並み」この三か所にある町並みを「御三家のうだつ」とよんでいる。

 吉野川中流域には池田湖と呼ぶダムがありダムの水は阿讃山脈のトンネルを通り香川用水として香川県下の農業用水になっている。

 また、香川県民の水道水として大きな恩恵を受けている。

池田町には作家司馬遼太郎の「夏草の譜」の舞台となっている白地城跡がある。また池田大橋の西南斜面には大西神社があり、この付近一帯が司馬遼太郎が「長宗我部元親の生涯」を描いた場所といわれる。

 作家、林芙美子が滞在して「旅人」を執筆した白地温泉小西旅館があり、林芙美子の自筆の原稿などを集めた資料室がある。

 こんなことで池田の町を文学の町と呼ぶ人もいる。

 私の学生時代、小学校の上島先生に誘われて友人、知人が箸蔵山参拝紀行に出かけた。目的地は阿波の池田町州津蔵谷と言う所で標高750メートルの箸蔵山に鎮座している讃岐の国、金刀比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺である。 

 山麓で歌人野口雨情の句碑を見学してから石段の登山だった。雄大な初めて見る仁王門、その真ん中を通り箸蔵寺と言う寺院であるが、珍しく第一の鳥居をくぐり、細い谷川にかかる鞘橋を渡り第二の鳥居をくぐり石段を登り本坊横の護摩堂に出た。石段は484段であったと思う。そこは普通の石段と違って登りにくかったように思った。ここには市川団十郎寄進の石灯籠がある。これは江戸時代の末期七代目、市川海老蔵が寄進したと言う。八代目市川団十郎を含む七人の息子さんの名前も刻まれている。

箸蔵寺ご本殿

 御本殿までの石段は762段であったと思う。箸蔵寺本殿では神様に参拝するのと同じ柏手で参拝するよう教えられた。本殿前で全員が揃った所で上島先生から箸蔵寺について説明があった。

その時の私は石段の上り下りは身が軽くて飛ぶように楽しくできた。

 箸蔵寺参拝の後、時間があったので池田の町を散策して箸蔵山の紀行を終え、全員バスに乗り帰路に着いたのは半世紀以上の出来事であった。

 令和元年6月(父の日)、次男夫婦に誘われて箸蔵寺へ参拝した。

年齢を重ねた今回の参拝はロープウエイによる参拝であった。947メートルをわずか3分間余りで楽に空中散歩で登山できた。

 寺の縁起などについて聞いてみると、明和3年(1766)高野山金剛峰寺の南山沙門霊水と言う人が記した「由良略記」には天長五年(826)弘法大師が種智院を創立したとある。弘法大師はその頃讃岐に帰り阿波の箸蔵山で修行中であった。その弘法大師の前に山の妖怪が出現した。弘法大師は妖怪を仏法で調伏させた。この時金刀比羅神が現れて衆生救済のため讃岐の象頭山と箸蔵山を往来するため当地に道場を建てるよう神宣があり道場を建立した。以来金刀比羅信仰の隆盛に伴い松尾寺(金刀比羅宮)と共に二大本山として栄えた。

護摩殿内の「ちょうちん」

また、「箸蔵寺縁起」によると金刀比羅神が現れてご神託を受けたのが箸蔵寺

の始まりとされる。弘法大師は金堂に一刀三礼で薬師如来さん、ご本殿には金刀比羅神を祀り、七堂伽藍を整えられた。これ以来金刀比羅宮奥の院と称して深い信仰を集めていた。

天正10年(1582)土佐の長宗我部元親の兵火に会い全山焼失したがその後 宕観阿闍梨師により箸蔵寺を復興した。

 藩政時代には徳島城主蜂須賀公の厚い保護を受けていた。 

 文化4年(1807)頃の伝承だが箸蔵山の天狗さんと呼ばれている宗休さんと言うお坊さんがいたそうな。飛ぶように早く歩くお坊さんで讃岐の金刀比羅宮へよく用事で行っていたという。 

 また、箸蔵山天狗の箸運び伝説として天狗が金刀比羅宮の御祭礼の時に使った箸を箸蔵山に運んで納めていたという伝説が残っている。

 箸蔵寺は幼児(赤ちゃん)のお箸はじめ、お食い初めの箸で現在も厚い信仰を集めている。毎年8月4日には箸供養の行事が行われている。

 箸蔵寺に参拝した折、信者さまより聞いた話ですが「物を食べる時箸を口に運ぶ。いつまでも食べ物を箸で口に運べることは健康のしるしであり、一日三度口に箸を運ぶことのできる人は誠に幸せである」と話してくださった。

 箸蔵山の上から見下ろす池田町は緑豊かな四国山脈と吉野川の雄大な景色を、眺めることができる。

 

 ロープウエイから撮った池田の風景

86歳で参拝できたことは喜ばしいことでした


9月の花

2019-09-19 08:34:58 | Weblog

今朝の(9月19日)室温25度

めっきり涼しくなりました。

秋の花が賑わっています。

オーシャンブル―

オーシャンブル― は朝顔と違って一日中咲いている。

母が詠んだ短歌

     珍しき 朝顔の苗頂きぬ

            ひねもすしぼまず 目を楽します 

                         (平成10年8月)

のしらん

 

紫蘇の花

  

 

 


四国を学ぶ会 秋の研修 徳島県・高知県 多田豊美

2019-09-17 06:16:07 | Weblog

 

秋の歴史民俗探訪

実施日 令和元年11月4日   参加者47名

川島7時20分発

徳島県の道路事情により中型バス2台に分乗して出掛ける

場所 ・徳島県三好市祖谷地方

    ・高知県長岡郡大豊町

四国の高峰剣山に抱かれた祖谷は雄大な自然を背景に平家落人伝説とそれにかかわる独自の風土を育んで来た。

日本の三大秘境と呼ばれる飛騨の白川郷、肥後ノ五箇所、阿波の祖谷渓は厳しい自然環境の中にどこか懐かしさが感じられる。

こんな祖谷渓にも奥ゆかしい風景が残されどんな人も気持ちよく受け入れてくれる優しさが漂っている。

○ 祖谷のかずら橋       (三好市西祖谷善徳)

 祖谷渓のかずら橋は、山口県岩国の錦帯橋、山梨県の猿橋と共に日本の三奇橋と呼ばれている。

 かずら橋は国指定重要文化財になっている。橋の材料はシラクチカズラ(学名サルナシ)を主材料にしている。橋の全長は45メートル、橋の巾は約2メートル、水面よりの高さは約14メートル。

かずら橋は、3年毎に橋の架け替えをしている。大正11年(1921)には祖谷川の16か所にかずら橋があったが今は善徳にかかる現在のかずら橋一つだけになっている。

 かずら橋は源氏軍の追っ手から逃げるためいつでも切り落とされるように植物のかずらで架けている。

○ 東祖谷歴史民俗資料館    (三好市祖谷京上)



 資料館には、祖谷の歴史に最も雅やかな文化をもたらしたのは、平 家と源氏の勢力争いに敗れた平家一族が、この祖谷渓を落人の里として定着しその足跡が文化財や武具、生活用具、生きて行くための慣習、衣類や書物、絵画、日常生活に使う器具類などが多く展示され往時の生きざまを学ぶことが出来る。

○ 平家屋敷民俗資料館       (三好市西祖谷小西岡)

 第五十代桓武天皇を遠祖として平の姓が下賜されて以来六代250年間平氏は武家として形づけられた。特に平氏は平忠盛にはじまり平清盛、平重盛で世の中の頂点を極めたが、わずか70年の栄華であった。武家一門で大権力を持っていたが滅亡が早かった。

 平家屋敷の祖先は安徳天皇の御典医、堀川内記と言う人であった。後年、徳島城主蜂須賀公と戦ったが敗れて罰せられた。後に罪を許されて西岡集落の名主となり西岡の姓を賜る。

 民俗資料館の屋敷や建物は昔のままで資料館には平家の盛衰と共に戦場でひるがえした八幡大菩薩の文字が入った赤旗がある。

 屋内展示場には平家の宝物類が数多くある。庭には古い歴史を物語るように椿、もくせい、もみじの古木がある。3本それぞれが樹齢八百年と言われている。庭木が平家屋敷の昔を現世に物語っているようである。

○ 八坂神社の大杉(日本一)    (高知県長岡郡大豊町)

 八坂神社の御祭神は須宇佐之男命。この神社にある大杉は樹齢約三千年と言われており須宇佐之男命が植樹されたと伝承されている。この大杉は南大杉、北大杉の二株からなっている。二本の杉が根元で合着しているので別名大豊の夫婦杉と呼ばれている。

 南大杉の根元の周囲は約20メートル樹高が約60メートル。北大杉の根元の周囲は約15・5メートル、樹高が約57メートル。

 昭和27年に国の特別天然記念物に指定されている。この大杉を見聞のため次の人が訪れている。

 作家、徳富蘇峰。 高知県出身で評論家、大町桂月。高知県出身の陸軍大将、山下奉文。

大豊町には歌手美空ひばりの遺影碑や歌碑がたたずむ大杉苑がある。

 美空ひばり(当時美空和枝)が九歳の頃大杉付近でバス転落事故があり、乗車していた美空ひばりは九死に一生を得て八坂神社に参拝して大杉に向かって日本一の歌手になれますように祈願をした。ほどなく美空ひばりは日本一の歌手になったと言う美談が今も残っている。

 遺影碑でボタンを押すと「龍馬残影」「川の流れのように」「悲しき口笛」の曲の歌が流れて来る。

 

 

 

 

 


ひ孫朝顔の栽培(昨年八栗寺で頂いた朝顔の種で)

2019-09-13 10:35:24 | Weblog

つぼみの時は紫です

 

 

 

 昨年の朝顔

昨年の恵人(八栗寺参拝5がつ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


初めての蝉取り(ひ孫3歳10か月)

2019-09-13 10:30:53 | Weblog

 

 


令和元年7月、わがやの庭

2019-07-02 13:40:07 | Weblog

7月に入り大雨の予報を聞きながらも、被害の少ない地域に感謝しています。

昨夜,小雨の中カサブランカの花がほころび始めましたので早朝軒下に入れました。

昨年の11月、公渕公園の菊花展に行き1球100円で紅白2球買いました。

 

 

5月15日トマトのなえ430円を2本買いました

わき目を育てて5本になりました。7段目の花が咲き、芯を止めようと思っていますが、今年はそのままにしてどれほど伸びるか観察してみます。

 母が好んでいた「ヒオウギ水仙」の花があちこちで咲いています。秋の七草のひとつ「フジバカマ」も増えました。