平成22年11月21日参加者76名
天候に恵まれ秋の研修が無事終わりました。
● 須磨浦公園「敦(あつ)盛(もり)塚」
平敦盛は清盛の弟、経(つね)盛(もり)の末子で笛の名手として知られています。
寿永三年(1184)一の谷合戦で源氏の武将熊谷(くまがい)次郎直実に討たれ
ました。その時敦盛はわずか十六歳でした。
○この青年武将を供養する「敦盛塚」を現地ガイドの川島様に案内と説明をして頂きまし
た。
● 一の谷合戦
平家は生田の森、一の谷に陣をしいて都の形勢をうかがっていました。当時の海岸線は
「赤石の櫛渕」といわれて多くの谷と尾根が交互に連なって谷は東から一の谷、二の谷、三の谷とよばれていました。
一の谷は鉢伏山が海にせりだし地形的には前が海、後ろが絶壁となっていて平家は源氏の防御に絶対的と自信をもっていました。
寿永三年(1184)二月六日、源義経は自軍を二隊に分けて土肥実平に大軍をあずけて一の谷に進軍させました。
義経は少数の兵を連れ背後の鵯(ひよどり)越(ご)えに向かい絶壁を坂落としして
平家の不意をついて大勝利をしましたが・・・
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)と安徳天皇は平宗盛の平家軍に守られて讃岐の国屋島にの
がれました。
○ ゴンドラに乗り海抜246mの鉢伏山上の展望台へ
撮影のまずさで空の色が変わりました。(逆光の修正)
展望台でガイドの川島様より、源平一の谷合戦の話を聞く。
展望台から明石大橋を望む
昼食は須磨離宮公園で
● 須磨離宮公園
在原行平が須磨に流された時、月見をした月見山があります。ここに西本願寺大谷光瑞の
別荘がありました。
別荘は明治天皇が神戸沖での観艦式高覧のため天皇の離宮とするため明治四十年
(1907)買い上げられ大正三年(1907)に完成して離宮となりました。
2階の食事場所からガラス越しに1階の食事風景を。
● 須磨寺 (真言宗須磨寺派十八大本山、西国二十四番札所)
仁和二年(884)光孝天皇の勅命により聞鏡上人によって開かれました。
正式名称は、上野山福禅寺、当時は七堂十二坊の大寺院でありましたが、幕末には本堂、
大師堂、仁王門だけの寺となりましたが、明治時代中期に再建され現在の寺のようになり
ました。
なかでも大師堂には弘法大師が祀られ毎月二十日、二十一日は縁日で参拝客が多い。
須磨寺
ガイド 様から説明を聞く
須磨寺の紅葉
源平の庭 敦盛像
熊谷直実像
宝物館で青葉の笛を見学
● 湊川(みなとがわ)神社
鎮座地 神戸市中央区多間通三丁目1番1号
御祭神 楠正成公
配祀 楠正行 楠正季 菊池武吉 以下ご一族十六柱
摂社 楠正成公夫人
※ 御墓所
元禄五年(1692)徳川光圀公が家臣佐々(ささ)介(すけ)三郎(さぶろう)宗淳に命じて碑石を立て、光圀公自ら「嗚呼(ああ)忠臣(ちゅうしん)楠子(なんし)の墓」と書いています。
※ 殉(じゅん)節(せつ)地(ち)
延元六年(1336)五月二十五日、楠正成公以下ご一族が「七生滅賊」を誓われて殉節された場所(国指定文化財)
● 六甲山((931・3㍍)
六甲山地は西は塩屋・須磨間におこり、ゆるやかな弧を描きつつ東は宝塚に
至り武庫川に向かって低くなっています。
東西約3〇キロメートル南北部は約1キロメートル北東部は約8キロメートル
古代は霊峰で修業の地とされ早くから寺院がありました。
その寺院は摩耶山に(699メートル)仂(とう)利(り)天上寺(てんじょうじ)(真言宗)があり安産祈願の寺として信仰されました。弘法大師が唐から帰朝したとき唐の武帝が作った摩耶夫人の像を持ち帰り安置したことにより摩耶山と呼ぶようになりました。
再度山(ふたたびさん)には(470メートル)大龍寺(真言宗)があります。
延暦年間(784~806)弘法大師入唐に際し求法を祈り帰国後再び入山したので
再度山とよぶようになりました。
六甲山が本格的に開発されたのはイギリス人のグルーム氏が明治二十八年(1895)山荘を建てたことにはじまり、それ以来多くの山荘が建ちました。避暑地、休養地、登山などさまざまな道が開かれ、また、グルーム氏が大正元年(1912)日本で最初のゴルフ場を六甲山に作りました。
日光のいろは坂以上の坂とカーブ。バスの窓から撮ったのですが私の手が窓に写り見苦しい
ですが良い思い出になります。
バスからの紅葉もすばらしかったのですが、カメラの使用のまずさで、うまく撮れなかった
のが残念です。
六甲山 展望台からの夜景気になっていましたが何とか撮れました。
朝七時に川島を出発し、盛り沢山の研修をし、須磨離宮公園ではバラの花が美しく至福の時
間を過ごさせて頂きました。公園のバラ管理の方の話では今日が一番美しい時だとお聞きし
ました。天気に恵まれ、お世話して下さった皆様にも恵まれて、良い研修が出来ました。
夜八時過ぎに川島に着きました。
天候に恵まれ秋の研修が無事終わりました。
● 須磨浦公園「敦(あつ)盛(もり)塚」
平敦盛は清盛の弟、経(つね)盛(もり)の末子で笛の名手として知られています。
寿永三年(1184)一の谷合戦で源氏の武将熊谷(くまがい)次郎直実に討たれ
ました。その時敦盛はわずか十六歳でした。
○この青年武将を供養する「敦盛塚」を現地ガイドの川島様に案内と説明をして頂きまし
た。
● 一の谷合戦
平家は生田の森、一の谷に陣をしいて都の形勢をうかがっていました。当時の海岸線は
「赤石の櫛渕」といわれて多くの谷と尾根が交互に連なって谷は東から一の谷、二の谷、三の谷とよばれていました。
一の谷は鉢伏山が海にせりだし地形的には前が海、後ろが絶壁となっていて平家は源氏の防御に絶対的と自信をもっていました。
寿永三年(1184)二月六日、源義経は自軍を二隊に分けて土肥実平に大軍をあずけて一の谷に進軍させました。
義経は少数の兵を連れ背後の鵯(ひよどり)越(ご)えに向かい絶壁を坂落としして
平家の不意をついて大勝利をしましたが・・・
三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)と安徳天皇は平宗盛の平家軍に守られて讃岐の国屋島にの
がれました。
○ ゴンドラに乗り海抜246mの鉢伏山上の展望台へ
撮影のまずさで空の色が変わりました。(逆光の修正)
展望台でガイドの川島様より、源平一の谷合戦の話を聞く。
展望台から明石大橋を望む
昼食は須磨離宮公園で
● 須磨離宮公園
在原行平が須磨に流された時、月見をした月見山があります。ここに西本願寺大谷光瑞の
別荘がありました。
別荘は明治天皇が神戸沖での観艦式高覧のため天皇の離宮とするため明治四十年
(1907)買い上げられ大正三年(1907)に完成して離宮となりました。
2階の食事場所からガラス越しに1階の食事風景を。
● 須磨寺 (真言宗須磨寺派十八大本山、西国二十四番札所)
仁和二年(884)光孝天皇の勅命により聞鏡上人によって開かれました。
正式名称は、上野山福禅寺、当時は七堂十二坊の大寺院でありましたが、幕末には本堂、
大師堂、仁王門だけの寺となりましたが、明治時代中期に再建され現在の寺のようになり
ました。
なかでも大師堂には弘法大師が祀られ毎月二十日、二十一日は縁日で参拝客が多い。
須磨寺
ガイド 様から説明を聞く
須磨寺の紅葉
源平の庭 敦盛像
熊谷直実像
宝物館で青葉の笛を見学
● 湊川(みなとがわ)神社
鎮座地 神戸市中央区多間通三丁目1番1号
御祭神 楠正成公
配祀 楠正行 楠正季 菊池武吉 以下ご一族十六柱
摂社 楠正成公夫人
※ 御墓所
元禄五年(1692)徳川光圀公が家臣佐々(ささ)介(すけ)三郎(さぶろう)宗淳に命じて碑石を立て、光圀公自ら「嗚呼(ああ)忠臣(ちゅうしん)楠子(なんし)の墓」と書いています。
※ 殉(じゅん)節(せつ)地(ち)
延元六年(1336)五月二十五日、楠正成公以下ご一族が「七生滅賊」を誓われて殉節された場所(国指定文化財)
● 六甲山((931・3㍍)
六甲山地は西は塩屋・須磨間におこり、ゆるやかな弧を描きつつ東は宝塚に
至り武庫川に向かって低くなっています。
東西約3〇キロメートル南北部は約1キロメートル北東部は約8キロメートル
古代は霊峰で修業の地とされ早くから寺院がありました。
その寺院は摩耶山に(699メートル)仂(とう)利(り)天上寺(てんじょうじ)(真言宗)があり安産祈願の寺として信仰されました。弘法大師が唐から帰朝したとき唐の武帝が作った摩耶夫人の像を持ち帰り安置したことにより摩耶山と呼ぶようになりました。
再度山(ふたたびさん)には(470メートル)大龍寺(真言宗)があります。
延暦年間(784~806)弘法大師入唐に際し求法を祈り帰国後再び入山したので
再度山とよぶようになりました。
六甲山が本格的に開発されたのはイギリス人のグルーム氏が明治二十八年(1895)山荘を建てたことにはじまり、それ以来多くの山荘が建ちました。避暑地、休養地、登山などさまざまな道が開かれ、また、グルーム氏が大正元年(1912)日本で最初のゴルフ場を六甲山に作りました。
日光のいろは坂以上の坂とカーブ。バスの窓から撮ったのですが私の手が窓に写り見苦しい
ですが良い思い出になります。
バスからの紅葉もすばらしかったのですが、カメラの使用のまずさで、うまく撮れなかった
のが残念です。
六甲山 展望台からの夜景気になっていましたが何とか撮れました。
朝七時に川島を出発し、盛り沢山の研修をし、須磨離宮公園ではバラの花が美しく至福の時
間を過ごさせて頂きました。公園のバラ管理の方の話では今日が一番美しい時だとお聞きし
ました。天気に恵まれ、お世話して下さった皆様にも恵まれて、良い研修が出来ました。
夜八時過ぎに川島に着きました。