トーキング・マイノリティ

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オルハン・パムクの『雪』 その三

2015-04-06 21:10:09 | 読書/小説

その一その二の続き
 第5章「先生、一つお伺いしても?―殺人犯と被害者の最初で最後の会話」は特に面白かった。スカーフを被った女生徒を授業から締め出した教員養成所の校長は、Kaやイペキが会話していた菓子店内でイスラム主義の男に射殺された。校長は胸部と頭部を撃たれて絶命するが、彼の身体には分厚いテープで録音機が巻きつけられていたのだ。録音機を校長の身体に取り付けたのは、国家情報局のカルス支局員だった。
 スカーフを被った女生徒の登校を禁じて以来、校長は個人的な脅迫を受けており、カルスのイスラム主義者たちの動向を探っていた協力員(情報局や警察に情報を提供する市民)たちから上がる情報もそれを裏付けていたため、国家情報局は警護の要ありと判断したのだ。

 件の校長は世俗主義者でもある半面、信心深いところもあり、神の与えた天命というものを信じる人物でもあった。彼は好物のクルミ入りのクロワッサンを食べようと思い立ち、菓子店に寄るが、見知らぬ男が近づいてくるのを見て、反射的に体に張り付けた録音機のスイッチを押す。
 暗殺者は生まれてから36年間トカットで暮らしている男で、カルスに縁もゆかりもなく、まして自殺した女生徒とは全くの赤の他人なのだ。この男は故郷の有名な公衆浴場に付属する喫茶店で火の番をしており、農学の教授でもある校長とは社会的地位も違う。そこで殺人犯と被害者との会話で、私の関心を引いた個所を一部引用したい。青字が暗殺者の台詞。

「トカットにいる貴方が、どうやって私のことを知ったのですかな?」
ああ、先生。確かに“聖典の教えに従って髪を隠したカルスの少女たちを貴方が学校から追い出した”、なんてイスタンブルの新聞は書きませんものね。でもね、美しい我がトカットには“旗”というムスリムのためのラジオ局がありましてね、この国の何処で清新な信徒が不当な扱いを浮けていようとも、それを知らせてくれるのですよ

「しかし、私は信徒を虐げた覚えはありませんよ。私もまた、神を畏れる信徒の1人なんですから」
先生、私は2日間、吹雪の中を旅してきてね、バスの中でずっと貴方のことを考えていたんですよ。先生のことだ、きっと“神を畏れている”と仰るに違いないと思っていましたよ。嘘じゃありません…もし貴方が神を畏れるのであれば、つまり聖典こそ神の御言葉と信じているのなら、先生、聖典の御光(みひかり)章のあの栄えある第31節についてのお考えを是非伺いたい
「…仰る通り、第31節には女達よ髪を覆え、顔を隠せとはっきりと書かれていますな」

 ネットでは便利なことにコーラン全章を紹介したサイトもあり、件の24章31節はこうである。
信者の女たちに言ってやるがいい。かの女らの視線を低くし、貞淑を守れ。外に表われるものの外は、かの女らの美(や飾り)を目立たせてはならない。それからヴェイルをその胸の上に垂れなさい。自分の夫または父の外は、かの女の美(や飾り)を表わしてはならない…
 どう読んでも、髪を覆え、顔を隠せとは書かれていないのだが?“外に表われるもの”とは顔や髪、手足と解釈するのが自然と思われるが、アラビア語の原文ではどうなっているのか。校長の第31節についての考えを聞いた男は、さらに質問を重ねる。

それからもう一つ。神の命じられたところに従って髪を隠す少女たちに教育を受けさせないのは、果たして正しいことなのでしょうか?
「スカーフを被った女性を教育機関や大学に入れないのは、それが世俗主義を奉じる我国の国是だからですよ」
ではお尋ねしますが、神の命令と国家の命令はどちらが上なのでしょうか?ねえ、先生
「いい質問ですね。でも、世俗主義の国ではそれらは全く別のものとして扱われるのですよ」 

じゃあ世俗主義というのは、無宗教と同じ意味なんですかね?
「そういうことではありません」
なら、宗教の命じる処に従っているだけの少女たちを、世俗主義を理由に授業に参加させないというのは、どういった了見なのでしょうか?
「…ああ、お若いの。正直に言ってしまえば、この問題について幾ら話し合っても無駄なのだよ。イスタンブルのテレビでも1日中、この手の議論をやっているけれど、果たして結論が出た例があったかね?少女たちが髪を人目に晒すこともなければ、国がスカーフを被った少女を授業に参加されることもないのだよ」
スカーフを被った少女たち、私たちが苦労して育てた勤勉で礼儀正しく、従順な娘たちから教育を受ける権利を奪うのは、共和国憲法の定める教育と信仰の自由に抵触しませんかね?先生の良心は傷まないのですか?くれぐれも正直に答えて下さいね
その四に続く

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