トーキング・マイノリティ

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オルハン・パムクの『雪』 その二

2015-04-05 21:10:11 | 読書/小説

その一の続き
 主人公のKaは42歳の詩人。本名はケリム・アラクシュオールというのだが、彼自身はこの名を嫌い、名前と名字の頭文字を取ってKa(カー)と呼ばせることを気に入っていた。『雪』では終始Kaと表記され、オルハン・パムクの親友という設定なのだ。つまり、パムクがKaのメモやノート、彼の家族、知人の証言を元にこの作品を仕上げたかたちをとっている。私が見た文庫版上巻の裏表紙では、本の内容をこう紹介している。
12年ぶりに故郷トルコに戻った詩人Kaは、少女の連続自殺について記事を書くために地方都市カルスへ旅することになる。憧れの美女イペキ、近く実施される市長選挙に立候補しているその元夫、カリスマ的な魅力を持つイスラム主義者“群青”、彼を崇拝する若い学生たち…雪降る街で出会うさまざまな人たちは、取材を進めるKaの心に波紋を広げていく…

 祖国に戻る前の12年間、Kaはドイツのフランクフルトに住んでおり、その理由も移民ではなく政治亡命者としてだった。彼がドイツに亡命したのは、政治的コラムのために有罪になったためだが、実際に件のコラムを書いたのは別人だった。70年代終わりまでは小さな政治新聞には何を書いてもよく、誰彼となく告訴され懲役刑の判決が降されても、実際に刑務所に入れられることはなかった。
 だが、軍部による1980年9月12日クーデターで情勢は一変、住まいを転々と変えていた者までもが逮捕されることになる。70年代のトルコは左右の政治対立による政治テロが激化、政治経済共に混迷を極めていた。イスタンブルの裕福な家庭に生まれ育ったKaは、親西欧の根っからの世俗主義者だが、このような階層出のインテリが左翼思想に惹かれ、左翼活動に走るのは70年代の世界的な潮流だったのだ。

 左翼活動家と当局にマークされ、Kaのようにドイツに政治亡命したトルコ人はおそらく何人もいたのだろう。逮捕されたのは左翼だけでなく、イスラム主義者や右派のトルコ民族主義者も対象とされた。『雪』の時代背景は90年代となっているが、トルコ初の女性首相タンス・チルレルの名が出てくるため、90年代半ばと思われる。ちなみにチルレル元首相の夫はやたら“手数料”を取っていたことが『雪』に描かれており、この辺はイスラム圏初の女性首相であるパキスタンのベナジル・ブットも同じなのだ。ブットの夫は“ミスター・10%”の綽名を奉られたという。

 それにしても、この小説に登場するイスラム主義者には、かつては左翼活動家だった者がいるのは興味深い。Ka憧れの美女イペキの元夫がそうだが、この者だけが特異だけではないはずだ。宗教否定の共産主義からイスラム主義とは、一見極端な転向に感じられるが、元から一神教と共産主義は相性が良いのだ。池内恵氏の処女作『現代アラブの社会思想』にも、アラブの思想家たちがマルクス主義からイスラム原理主義に傾斜していく様が描かれている。
 
 舞台となるカルスは日本では全く馴染みのない街だが、古くからアルメニアグルジアなどのコーカサス諸国、ロシア、或いは中央アジアアナトリアを結ぶ通商路の交差点として栄えてきた。トルコ人、アルメニア人クルド人などが住み、ロシア商人や知識人も往来した国際色豊かな街でもあった。街の名カルス(Kars)も、アルメニア語起源と言われる。
 同時にカルスはオスマン帝国と帝政ロシアの領土争いの地でもあり、支配者が変ると民族対立が起きることもあった。『雪』ではトルコ人とアルメニア人が激しく闘ったことが記されており、1921年トルコ領として確定されて以降のカルスからアルメニア人は一掃された。小説には帝政ロシア期の建築物や今や無人となったアルメニア人の教会や邸宅への描写が見られ、往時の繁栄を伝えている。現代ではすっかりひなびた辺境の街と化したようだが。

 では、カルスはトルコ人だけの街になったのかと思いきや、住民の4割がクルド人という。カルスの地元紙『国境の街』オーナー、セルダルの次の話から、トルコの複雑な民族問題が浮かび上がる。
「でも、最近じゃあ、俺はアゼルバイジャン系だ、おれはクルド人だ、俺はテレケメ人だ云々というようになってしまいました。ああ、テレケメ人というのはカラパパク人とも呼ばれていますがね。まあアゼルバイジャン人の兄弟みたいなもんです。クルド人だって、昔は“俺たちは何々部族だ”とは言いましたが、クルド民族なんてもんがあるとは知らなかったんですよ…」

 他にもトルクメン人、ロシア皇帝が流刑にしたドイツ人も住んでいたが、出自だけで偉ぶる輩は1人もいなかった、この手の誇りはトルコの領土の分断と崩壊を目論むエレヴァン(アルメニアの首都)やバクー(アゼルバイジャンの首都)やらの共産主義者どもが、ラジオで吹聴したと断言するセルダル。そのせいで、「今じゃ皆が皆より貧しく、しかしより居丈高になってしまったんですよ」
その三に続く

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