トーキング・マイノリティ

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砂漠の反乱 その一

2014-01-24 21:42:08 | 読書/ノンフィクション

 昨年12月14日、映画『アラビアのロレンス』ロレンスを演じたピーター・オトゥールが死去した。享年81歳。リバイバルだが、まだ未成年の頃この作品を観て、すっかり虜になった私にオトゥールの訃報は寂しかったし、またも青春時代に憧れたスターが逝ってしまった。それだけ私も年を食ったのだ。ちなみに上の画像はロレンスに扮したピーター・オトゥールではなく、ホンモノのロレンスである。

 映画『アラビアのロレンス』はロレンスの自伝的著書『知恵の七柱』をベースにしており、この本は日本では東洋文庫から出版されている。『知恵の七柱』は学生時代に2回、社会人になってから1回見ており、“奇書”と呼ばれるだけあって実に面白かった。私が読んだのは 初版1926年の普及版だが、東洋文庫から新たに完全版が出ており、行きつけの図書館にあったので最近読み返している。
 特に第2章「反乱の気分」には、戦場という極限状態における人間の在り様が詳細に描かれていて考えさせられる。平和状態が長引くほど、非常時と平和時では倫理観さえ違ってくることさえ分らなくなりがちになる。以下長文となるが、「反乱の気分」から私が興味深いと感じた個所を引用したい。

物語の中の悪事は、周囲の状況を思えば、容赦は無理でも分かってはもらえるかもしれない。何年もの間、我々はむき出しの砂漠の中にいて、無情な天のもとでお互いがいい加減に生きていた。日中は太陽の灼熱に我々は沸騰し、叩きつける風には目もくらんだ。夜になると露にまみれ、星々の無数の静寂にわが身の卑小さを恥じるのみだった。
 我々は自由――人類の信条の第二番目、人の力を食いつくす貪欲な目標、かつての野心の光栄も溶暗してしまうほどの高遠な希望――に献身した、閲兵もなければ宣伝もしない、極めて自分中心の軍隊であった。

 時の経過とともに、この理想を求める戦いの必要は条件抜きの強迫観念となって我々に取り憑き、疑問を挟む余地も与えず大車輪で増幅していく。否応なしにそれは信念となった。我々は己を売り渡してその奴隷となり、一本の鎖に繋がれた囚人となっていて、自分の中身を良し悪しもろ共差し出してその聖性に捧げようと腰をかがめた。
 普通の奴隷の心情も恐るべきものだ――彼らは憂き世を捨てている――だが、我々は体はおろか魂までも、抑えがたい勝利の渇望に引き渡してしまった。我々は自分自身の行動で、道義も、意志も、責任も、風に舞う枯葉のように振り払ってしまっていた。

 いつ果てるともしれない戦闘は、命を気にすることは自分のも他人のも念頭から奪ってしまった。我々の首にはロープが、頭には賞金がかかっていて、捕えられればおぞましい拷問が待っていることを示していた。毎日、誰かが死んでゆき、残った者は自分が神の舞台で踊る知覚を具えた人形に過ぎないと知っていた。
 全く我々の仕事の監督者は冷酷なもので、傷付いた足がよろめきながらも道を歩ける間は冷酷であり続けた。弱った者は、疲労で死にかけている者を羨んだ。成功の見込みはあまりにも遠く、失敗は手近にあって確実であり、それが大きい時は労苦から解放してくれるからだ。

 我々は神経が張りつめているか、だらけきっているか、或いは気持ちの在り様が高揚の頂点か落ち込みの底辺か、そのどちらかで何時も生きていた。この無気力状態は辛かった。生きているのは目に入ることだけのためで、どんな遺恨を人に与えようがこちらが我慢しようが、頓着しなかった。
 肉体感覚などはつまらないこと、一過性のものだったからだ。残忍性、倒錯感、肉欲などの激発も我々を悩ますことなく、上の方をさっさと越えてゆくのだが、たまたま襲ってくるこういった些事を束縛するはずの道徳律などは、いつも以上に弱々しい言葉に違いないのだった(58-60頁)。
その二に続く

◆関連記事:「英雄か、スパイか?
アラビアのロレンス完全版

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