荒井山から

札幌は荒井山に家がある。東京-札幌-旭川-富良野-札幌と異動。室蘭を経て札幌へ。江別に行きまた戻った。もうすぐ退社だ。

おんどりゃ、惹句や

2015年06月23日 17時04分27秒 | 日記
5月15日発行の季刊「映画撮影」205号に、北の映像ミュージアムにも多大
なお力添えをいただき、昨年亡くなられた映画評論家、品田雄吉さん(留萌管内
遠別町出身)の追悼文が掲載されました。



筆者は映画評論家仲間の佐藤忠男さん。ほぼ同年生まれという佐藤さんと品田さ
んは、1950年代初めに競って「キネマ旬報」の読者投稿欄に投稿するライバ
ルだったそうです。品田さんは「キネマ旬報」、佐藤さんは「映画評論」編集部
に入って若手評論家同士として交際が始まった、と振り返っています。

追悼文で佐藤さんは「品田さんは人柄も温厚だが、作品の評価でも実に公正だっ
た。作品の客観的な評価と位置づけという点では、彼の評価が一番頼りになっ
た。キネマ旬報同人の流れをくむ映画批評の正統として、絶対に必要な存在」と
書いています。その上で「だれもが納得できるような意見を言うこと。これが実
は難しい。そんなことは私にはできない。しかし彼はやった。そして本当に権威
になった」と結んでいます。多くの映画評論家たちの座標軸でありつづけた品田
さんの存在の大きさをあらためて感じさせられます。

この「映画撮影」は日本映画撮影監督協会(JSC)の機関誌で、各カメラマン
によるさまざまな作品の撮影報告などが掲載されていて、大変興味深い内容が詰
まっています。2月15日発行の204号では、昨年、上川管内美瑛町でロケが
行われ、6月20日に公開予定の「愛を積むひと」(朝原雄三監督)について、
上野彰吾カメラマンが撮影報告を寄せています。この号の表紙は「愛を積むひ
と」の撮影風景です。



上野カメラマンは篠原哲雄監督や橋口亮輔監督の作品などを多く手がけてきたベ
テランです。道内ロケ作品だけでも「オー・ド・ヴィ」(篠原監督、2003
年、函館)、「星に願いを。」(冨樫森監督、2003年、函館)、「天国の本
屋~恋火」(篠原監督、2004年、小樽など)、「ミラーを拭く男」(梶田征
則監督、2004年、室蘭など)、「ぐるりのこと」(橋口監督、2008年、
ワンシーンだけ札幌)、「つむじ風食堂の夜」(篠原監督、2009年、函
館)、「スノーフレーク」(谷口正晃監督、2011年、函館)、「スイート
ハート・チョコレート」(篠原監督、2013年、夕張、札幌)と、おなじみの
映画が並んでいます。

報告の中で上野カメラマンは、舞台の小林家として、借りた町有地に70平方
メートルの家を建てたことや、石塀の材料に50トンもの石灰岩を愛知県から運
んだことなどを紹介しています。順撮りではないため、一度完成させた石塀を場
面の時系列に合わせて途中まで戻すという作業も行ったそうです。また、カメラ
マンの立場からは、長期の地方ロケであることからデジタル撮影を選択したこと
や、「北海道の大自然の中で人の人生をダイナミックに捉えたかったので画面サ
イズはシネマスコープを選択した」ことなどを記していて、何気なく見ている画
面が、実はさまざまなことを考え抜いてつくられていることを教えてくれます。

さらに、デジタル撮影によって、データのコピーを東京の現像所に送ると中1日
くらいでタブレット端末に映像が送信され、仕上がりに近い画質でラッシュを確
認することができたと振り返り、「以前のフィルム撮りだと、地方ロケでは地元
の映画館を借りて上映してもらうか、16ミリの縮小プリントを旅館のロビーで
映写したものである。つくづく進化を感じる」と映画撮影の変化の大きさについ
て述懐しています。

JSCの機関誌とあって、十勝岳に登る主人公の姿を撮影するのに、メーンカメ
ラ以外に、コンパクトながら大画面に耐えられる画質を備えたカメラで手持ち撮
影を行ったことや、主人公の妻が病に倒れるシーンには、蛇腹の操作でピントを
ぼかすことができるレンズを使い、意識が遠のいていく感覚を映像化したことな
どを紹介しています。こうした撮影技法の紹介はカメラマンならではのもので、
一般に多い、監督やキャストに対する演出や演技の狙いなどについてのインタ
ビュー取材とはまた異なった映画づくりの面白さ、奥深さが伝わってきます。

ロケは昨年6月から7月まで30日あまりと、紅葉の美しさを狙った10月の
10日間、12月に実景撮影と3度にわたって行われたそうです。ソニーのデジ
タルビデオで4K撮影が行われたとのことで、北海道を知り尽くした上野カメラ
マンがどんな画面をみせてくれるのか、とても楽しみです。
なお、この号では、公開中の札幌ロケ作品「鏡の中の笑顔たち」の高間賢治カメ
ラマンが、キヤノンのデジタルシネマカメラEOS C100を使った撮影につ
いても短い報告を寄せています。


またまたジャック邪険

2015年06月10日 00時11分59秒 | 日記
 「PFF課外授業」で吉雄孝紀監督作品の資料も

さまざまな映画イベントを行っているテアトル新宿で、5月30日から6月6日まで、「夜のPFF課外授業 入門!インディペンデント映画」が開かれています。篠原哲雄監督や園子温監督、熊切和嘉監督らプロの映画監督を数多く輩出している「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」関連作品を中心に、連日、ゲストを迎えて上映とトークが行われています。

初日は「ソロモンの偽証 前篇・後篇」が公開中の成島出監督を迎えてのオールナイト。成島監督の1986年のPFF入選作「みどり女」、ジョン・カサヴェテス監督「アメリカの影」など4本が上映されました。成島監督は「大学で東京に出てきて、1年間に800本の映画を、それこそ浴びるように見た。それがよかったのかも」と話し、即興演出で撮影された「アメリカの影」について「今思えば考え違いだが、その時はとても雑に撮っているように見えた。これなら自分でも撮れると思った」と映画に強く引き込まれた当時のことを振り返りました。

成島監督はPFF授賞式の後の飲み会で、審査員だった長谷川和彦監督に「俺のところで1本(助監督を)やれば監督になれるよ」と言われ、「その後5年ほど書生のようなことをやっていたが、長谷川さんは全然撮らない。今に至るまで撮ってませんけど」と話し、その後、相米慎二監督らの助監督を経て、まず脚本家としてデビューした経緯を披露しました。脚本を始めた理由について「脚本は映画づくりの第1ランナー。脚本を書いていれば映画がその後、プロデューサーと監督の戦いを経てどこへ行くかわかるし、撮影で何は譲れず、何は捨ててもいいかがわかる」と話しました。さらに、日本映画の父と呼ばれるマキノ省三監督が「一スジ(脚本)二ヌケ(撮影)三動作(演技)」と述べていることについて「この中に監督は入っていない。優秀なスタッフがいれば監督はできます」と言い、「映画監督になった人の中でも、助監督出身より、自主映画出身で自分で脚本の書ける人の方が圧倒的に生き残っている率が高い」と、映画づくりでの脚本の重要性を語りました。

さらに、主人公のモノローグ(インタビュー)で始まる「みどり女」について「この映画のシーン1カット1は、八日目の蝉のシーン1カット1と構図やサイズが全く同じ。八日目の蝉のオールラッシュを見た時に、どこかで見たことがあると思ったら、みどり女だった。これはどうしようもなく出てくるもの」と話してくれました。「みどり女」は8ミリで上映され、映画館の大きなスクリーンに30年近く前の映像が映し出されました。成島監督は「ソロモンの偽証」もフィルムで撮影したといい、「フィルム派はもう数人になってしまいましたが、できるかぎりフィルムで撮りたい」とフィルムへの愛着ぶりを語りました。

また、「最近の自主映画は、みんなうまくなっているが、突き抜けたものを感じる作品が少ない。プロの監督になるといろんな規制の中で仕事をしなければならないが、自主映画には規制がない。監督志望の人は自主映画を作ってほしい」とエールを送りました。

イベントでは、「みどり女」が入選した86年のPFFのパンフレットのコピーが配られました。札幌在住の吉雄孝紀監督のほか、園子温監督の「俺は園子温だ!!」、橋口亮輔監督の「ヒュルル…1985」、平野勝之監督の「砂山銀座」、小松隆志監督の「いそげブライアン」といった作品が並んでいます。

当時、小樽商大の学生だった吉雄孝紀監督の入選作「大麻じゃなくても良いけれど」を推薦した審査員の映画評論家、日比野幸子さんは「圧倒的なエネルギー埋蔵量を持った作品。豊穣の時代の飢餓感を荒々しく押し出してきている」と評しています。今はテレビのドキュメンタリーなどを多く手がける吉雄さんですが、また北海道を舞台に映画を撮ってくれることを期待しています。
(加藤敦)