戦争を語りつぐ証言ブログ

<戦争を語りつぐ60年目の証言>サイトの管理人・スタッフから、
取材の近況や関連情報をお届けします。

ブログ移転のお知らせ

2007-01-06 11:22:13 | Weblog
 2007年の新春を期してブログを移転しましたので、ご了解下さいますようお願いします。
 戦争証言サイトの表紙から新しいURLにリンクしていますが、直接ブログにアクセスして下さった方は、お手数かけますが下記URLをコピーして移動して下されば幸いです。
 http://blog.canpan.info/shougen60/

 新しく移転しました CANPAN ブログは、広い意味で社会貢献を目的とする個人・団体を会員とする日本財団が運営していますので、その会員として活動することが最適と判断した次第です。

 今後とも相変わらずのおつき合いをよろしくお願いします。


年末に放映された戦争関連番組から

2006-12-31 10:44:42 | Weblog
 年末に放映されたテレビのなかで、やはり戦争に関連ある番組に関心があって視聴した。その感想の一端をメモしておきたい。
●12/28の10ch(読売テレビ)18:30からのスクープで「お前は誰だ? 金正日が恐れる男=リ・ジュン」から。
 ジャーナリスト石丸二郎氏との出会いが機縁となった脱北者の青年がジャーナリストになることを自覚し、再び北朝鮮に潜入する。祖国の実態を世界に知らせるために、石丸氏から与えられたビデオカメラで決死の取材を各地を廻って撮影した最近のビデオテープを編集・放映したもの。
 配給制度の崩壊とともに飢餓寸前で栄養失調になった民衆の姿。集積場で拾い集めた落ちこぼれの肥料やゴミ捨て場の空ビンを売って食糧を買う人々。孤児となった子供たちがスリや万引をして生きている姿。起き上がる元気もなく横たわる下級兵士の近くで踊りまわる人々。そこには自由を渇望する姿がある。警察官に刃向かう若者の姿も映されている。
 核実験後に決行した労働党幹部への取材で「強盛大国とは核保有国になることだ」という言葉が発せられる。夏のミサイル発射実験といい、軍事力を高めるために莫大な予算をかける金政権の現状は、明らかに民衆の犠牲において権力を維持・強化することが目的であり、それは戦前戦中の日本の姿でもあった。
 北朝鮮で唯一人のジャーナリストリ・ジュンは、誰もが自由平等になり、家族が安心して暮らせる国になるまで、明日を信じて取材を続ける決意を固めているという。
 改めて北朝鮮の実態を知るために、図書館で『北朝鮮・狂気の正体=金王朝の謀略と崩壊の行方』(深田祐介・萩原遼/扶桑社・2003刊)を借りて読むことにする。
 
●同じく10chで12/29、18:30からの「太田総理と秘書田中」では、前にも紹介した爆笑問題・太田光の共著「憲法九条を世界遺産に」がテーマとなっていた。政治家やタレントたちが議員となって総理の提案を議題に討論したあと投票で賛否を決める段取りになっているのだが、憲法九条改定には15対13で改定賛成が多かった。太田は口角泡を飛ばして憲法擁護の主張をしていた。
 一つ意外だったのは、ゲストとして出演した硫黄島生き残りの高齢者が、硫黄島の激戦は地獄であったと言いながら軍備賛成の意見を述べたことであった。靖国神社へA級戦犯が合祀されていること、孫が軍隊に徴兵されることも賛成という。その理由を詳しく聞けなかったが、歴史観に問題があると感じた。歴史から学ばずに同じ歴史を繰り返してはならないと思う。
 硫黄島生き残りの兵士が遺した「祖父の硫黄島戦闘体験記」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
にアクセスして、もっと詳しい情報を確認することにしたい。

●2ch(NHK)12/30の「ようこそ先輩・課外授業」で金子兜太(85才・俳人)がトラック島の激戦で生き残った体験を小6の生徒たちに語りながら、餓死寸前の日本兵たちの体が縮んでいって葉っぱのようになったこと、いのちが一番大事であること、この世の中のあらゆるものが生きていること、自然のすべてと抱き合って伝わってくるものを俳句に詠む体験学習を教えていたのが感動的であった。
 

シベリア引き揚げ終了50年

2006-12-22 14:03:24 | Weblog
 毎日新聞(12/21付)夕刊の次の見出しに目がとまった。
「民捨てた国許さない」
「厳寒での重労働、帰国後拘束も」
「京都在住 林さん 国相手に訴訟準備」
 記事の前文は下記の通り。
<シベリア抑留者を乗せた最後の引き揚げ船が、京都府舞鶴市の舞鶴港に到着して26日で50年になる。25、26の両日、同市である記念集会へ特別な思いで参加する人がいる。関西の元抑留者らで作る「棄兵・棄民政策による国家賠償をかち取る会」代表で同府向日市の林明治さん(82)だ。抑留の原点は、国の「棄兵棄民政策」にあったとして、国賠訴訟の準備を進めており「国が国民を捨てた過ちを認めない限り、戦後は訪れない」と語る>

 61年前の昭和20年8月、日本の無条件降伏を要求したポツダム宣言を受諾する1週間前に、ソ連軍がとつぜん満州国境に侵入した。日ソ不可侵条約を一方的に破棄した行為であった。当時、国境周辺にいた軍隊および民間人およそ60万人は捕虜となり、5年後に引き揚げが終わるまでシベリア各地に抑留され、厳寒のなか苛酷な労働に従事した。その間に死亡した人数は約6万人といわれているが正確にはわからない。
 シベリア抑留生活の証言は、当サイトにも5人分が収録されている。殆どの兵士は、列車が日本へ帰国するために走っていると騙されて、気がついた時にはシベリアに到着していたという。
 
 戦争が終わったにもかかわらず、なぜ日本人を数年間も抑留して強制労働をさせることが国際的に容認されたのか、戦後の日本政府がなぜソ連に抗議しなかったのか。その理由が私には不可解であった。
 ところが前記の新聞記事によれば、当時の関東軍総司令部が旧ソ連元帥にあてた報告者の写しが動かぬ証拠として遺っているという。その中には「(軍人は)帰還までの間は、極力貴軍(ソ連軍)の経営にお使い願いたい」と書かれていて、日本政府の出先機関が抑留を認めていることになる。これはまさに「棄兵棄民政策」に当たるというのが国家賠償訴訟の理由とされている。
 この60万人にも上るシベリア抑留者と、北朝鮮による拉致事件に対する政府の対応は無関係とはいえない。政府が重い腰を上げて北朝鮮に対して抗議したのは20年も経ってからであった。
 国民を守るために国家が存在するというのは必ずしも真実とはいえず、国家が国民を捨てることもあり得ることを承知しておかなければならない。

朝鮮戦争とは何だったのか

2006-12-21 10:09:46 | Weblog
 56年前の朝鮮戦争が戦後の日本経済再生のきっかけになったという話はずっと前から聞いていた。それがどの程度本当なのか、事実を確かめたことはなかった。
 最近、その戦争で3年間に400万人以上の死者が出たと知って驚くとともに、いま一度その実態を確認してみたいと思った。4年にわたる大平洋戦争でも日本人の死者は310万人というのだから、それより多い人数になる。
 朝鮮戦争は終戦後5年目の1950年に南北朝鮮を舞台に始まり、勝敗が定まらないまま3年間続いた結果、元通り38度線を境目にしてようやく休戦が成立した。そして半世紀後の今また北朝鮮が紛争の表舞台に登場している。
 日本が主役となった大平洋戦争を知らない世代が大半を占める現状にあって、朝鮮戦争についても殆どその実態が知られていない。
 朝鮮戦争の実態を知るにはGoogleで検索すれば、すぐに知識は得られるが、神谷不二著『朝鮮戦争』(中公新書・1966初版)という優れた文献がある。これらの資料をもとに、改めて史実をふりかえってみたい。
 
 開戦は1950年(日本の敗戦後5年目)6月25日、北軍が38度線南下して3日後にはソウルへ入城するという電撃的な作戦で始まった。明らかに社会主義による南北統一を狙ったソ連が陰から糸を引いていたといわれている。
 当時の歴史的背景をみると、2年前(1948)に朝鮮半島は、金日成の朝鮮民主主義人民共和国、李承晩を大統領とする大韓民国に分裂し、それぞれ独立を宣言した。
 アメリカではトルーマン大統領が再選され、スターリン独裁下のソ連は翌年(1949)には原爆実験に成功し、中国では蒋介石の国府軍が負けて台湾に逃れ、毛沢東による中華人民共和国が成立した。一方ヨーロッパではNATO(北太平洋条約機構)が成立している。
 当時のアメリカはヨーロッパ情勢を重視し、朝鮮については殆ど目を向けようとしていなかった。ところが韓国軍が釜山まで追い詰められるに及んで傍観できなくなり、日本占領軍の総司令官であったマッカーサー将軍に韓国救援を一任する。それとともに国連は幾度となく緊急に安全保障理事会を開いて朝鮮情勢を討議し、ソ連の欠席のまま国連軍を編成し、マ将軍が総司令官に就任する。国連軍には米軍を主力として16ヵ国が参戦したという。
 マ司令官の仁川上陸作戦(ソウル近くの海岸から敵の背後を衝いた)によって韓国軍は劣勢を挽回、逆に38度線を北上して平壌を攻略し、一気に全土を制圧する勢いを示した時、こんどは中国が乗り出してきて義勇軍を送り込み、再び38度線以南まで攻め込んだ。「アコーデオン戦争」と呼ばれるほど一進一退の戦況となり、その間アメリカは38万人の軍勢を投入したといわれる。マ司令官は再三にわたり台湾の国府軍投入を要求し、満州など中国本土の根拠地を空爆する作戦を強行しようとして、戦争拡大を望まないトルーマン大統領と対立し遂に解任される。
 南北の休戦会談は1年後の1951年夏に始まるが、双方とも主張を譲らず、その後も有利な条件を確保するために小競り合いを繰り返して会談は180回以上に及び、2年の年月を要して漸く1953年7月27日、戦争前と同じ38度線を境界とする休戦協定に署名し、現在に至っている。
 
 この間、国連が重要な役目を果たしていたことは確かであり、休戦協定もインドの提案に沿って成立した。ソ連の拒否権が欠席のため発動されない中で大多数の加盟国が決議に賛成して国連軍の編成を支持することになった。
 この戦争は米ソ冷戦時代の幕開けとなり、社会主義と自由主義の政治イデオロギー対立の時代が続くことになる。
 北朝鮮が38度線を越えて韓国を統一しようと企図した時、もしアメリカが朝鮮を見放していたら、今頃は全土が金正日の独裁下に支配されていることになる。その一方で、もし韓国の李承晩大統領が北を統一しようとした意図を受け入れていたら、ソ連の参戦を呼び世界大戦になっていたかも知れない。その意味で、トルーマン大統領が中国への空爆を避けて、マッカーサーを解任してまで戦争拡大を阻止した苦渋の決断は正しかった。
 その後、ソ連・東欧の崩壊に見るように社会主義イデオロギーの時代は終わり、中国もまた市場主義経済を積極的に取り入れている。
 政治イデオロギーの時代は終焉した。それに代わって、イラク戦争に見られるように宗教イデオロギーの対立が表面化しているのが現在といえないだろうか。
 実際にイデオロギー(思想・主義・正義)としては自由主義や民主主義は、文字通り強固な団結や統一には向いていない。まして武力で押しつけるものではない。アメリカは朝鮮戦争では受身ではあれ社会主義イデオロギーを阻止することに成功したが、ベトナムやイラクでは失敗した。本当の社会改革は武器によって成功するのではなく、個人の自覚による変革に待つしかないだろう。

 朝鮮戦争は日本経済復興のきっかけとなったとされるが、当時の日本はまだ復興の途上で生活が苦しく、戦争特需が直接日本経済をうるおした影響は小さいものだとも言われている。むしろ休戦後の復興のための需要が大きかったと思われる。筆者は休戦後1955年頃の日本の経済状況についてある程度の体験はあるが、当時はたいへんな不況の中で職探しに苦労した記憶がある。
 朝鮮戦争を通して北朝鮮・中国の脅威を痛感したアメリカは、日本の再軍備と自由主義陣営としての早期独立を検討しなければならない状況になり、1950年7月警察予備隊の結成を命じ、ついで、1951年9月8日に日米安全保障条約(1960年改訂)及びサンフランシスコ平和条約の締結。その後の自衛隊設立(1954年6月)の要因になった。

 それにしても北朝鮮が「民主主義人民共和国」を名乗っているのが不思議でならない。独裁政権でありながら何が「民主主義」なのか「人民共和国」なのか、名と実の矛盾も甚だしいが、正反対の名称を付けても政治的には通用するのだろうか。
 ひるがえって日本を「美しい国」と呼ぶ安倍首相が名実ともにふさわしい政権になるのかどうか、呼び名だけに惑わされてはならないであろう。


<戦艦大和=生還者たちの平和希求>

2006-12-12 09:54:16 | Weblog
 毎日新聞夕刊に標記のタイトルでナマの証言が連載されている。大和と運命を共にした約3千名の将兵の陰に九死に一生を得た少数の生存者を探し出して、現在の心境を語りつぐ有意義な企画である。

 その12/11付の記事は「教壇で語り継ぐ体験」と題する84才の元小学校教員・大村茂良さんのストーリー。大村さんは今も戦艦大和と運命を共にした戦死者の名簿を仏壇に供え、毎朝手を合わせてお経を唱えている。

<大村は、海から見た、転覆して赤い船腹をさらし、スクリューを天に向けた大和の姿が忘れられない。「ああ、まだ船の中には沢山の人がいる」そう思った瞬間、大和はごう音と共に爆発した>という一節もある。

 戦後は教師として子供たちに大和の体験を話しつづけてきた。そして大和が撃沈された命日には毎年慰霊碑に参拝しているが、靖国神社には行くまいと決めている。その理由は、
「戦争を指導した人たちにどうしても手を合わせる気にならないんです」

 最後に語った一言に(さもありなん)と共感を覚えた。ここにもA級戦犯合祀の大きな影響がある。犠牲者として祀られている戦死者たちの霊も、戦争指導者が合祀されていては決して居心地がよくないだろうと推察するのは間違いだろうか。

12月8日 開戦の日

2006-12-09 10:34:00 | Weblog
 今から65年前の昭和16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃によって大東亞(大平洋)戦争が始まりました。アメリカ国民に対して、5年前の9・11同時テロと同じくらいの衝撃と憤激を与えたことは間違いない突発事件でした。

 大本教においては、昭和10年12月8日、治安維持法違反および不敬罪で弾圧されました。すなわち、出口王仁三郎聖師以下幹部が検挙され、京都府綾部市・亀岡市の本部施設建物ことごとく破壊されたのです。
 この事件は、大本においては〈12月8日の仕組〉と言われ、大日本帝国が潰れる〈型〉とされたのです。事実、その後、6年後の大本弾圧の日、昭和16年12月8日に大日本帝国は対米英戦争に突入し、昭和20年8月15日敗戦となり、潰れていったのです。

 この大弾圧は大本に限らず、その後の宗教・政治・思想の自由を徹底的に禁圧した軍部権力の横暴を象徴する事件といえます。
 ちなみに3年前の自衛隊イラク派遣が決定したのも12月8日でした。
 12月8日は戦争や破壊に因縁の深い月日なのでしょうか。

「独裁者」と「ねじ曲げられた桜」

2006-11-28 11:20:03 | Weblog
 半月ほど前のことだが、NHKテレビでチャップリンの知られざる生涯をテーマにした番組があった。エピソードや作品の一部を織り交ぜた1時間半の番組を観ながら私は、改めてチャップリンの透徹したヒューマニズムと先見性に深い感銘を覚えた。
 中でもヒットラーをモデルにした「独裁者」の演説シーンの全部を無性に観たくなったので、レンタルビデオ店を何軒か探し回ったのだが、どの店にもチャップリンのビデオは置いてなくて、未だ望みを達していない。ずっと昔一度は観た覚えはあるのだが、今は記憶が薄れてしまっている。
 私がテレビで視聴した限りでは、一人二役の主人公に扮したチャップリンは、次のような強烈な言葉を語っていた。
「今日の悪魔は愛国心だ! 愛国心がさまざまな問題を引き起こすのだ! 事実、ドイツ国民の愛国心がヒットラーを生み、そして・・・」
 あとは残念ながら覚えていない。さらに映画のラストシーンでは、予定していた台本を変更して長時間の大演説をぶつシーンが圧巻だ。その中で、現実を超越した平和への希望を熱烈に語りかけるチャップリンの姿を見ることができる。
 ヒンケル(モデルはヒットラー)が地球の地図を描いた風船を手玉に取って遊ぶシーンはあまりにも有名だ。この「独裁者」は、丁度ナチスが猛威を揮っていた戦争の最中にアメリカで制作・上映されたという。
 ナチスが崩壊した後、アカ狩りの旋風に巻き込まれたチャップリンはアメリカ国籍を取得することを潔しとせず、最後まで世界市民という立場を貫いた。
 何とかして「独裁者」のビデオを探して、もう一度観たいと願っている。
 
「愛国心」といえば、『ねじ曲げられた桜ー美意識と軍国主義』大貫恵美子著(岩波書店刊・2003)という優れた研究書があることを、メーリングリストno_more_warの情報で知った。
 著者は象徴人類学者でアメリカ・ウィスコンシン大学教授というから、愛国心と桜の関係を分析するには最適の学者に違いない。
 早速この本を読みたいのは山々だが、なにぶん4000円もするので一寸手を出せないのが本音である。その代わり、ネットでこの本の内容を紹介しているサイトを知ったので、ぜひ下記URLをコピーして訪ねてみられることをおすすめしたい。
●『ねじ曲げられた桜』の大貫恵美子さんに聞く
 身近な美意識、国家が利用/情に訴える象徹に抵抗感薄く (朝日新聞 2003年6月12日)
 http://www.kisweb.ne.jp/konan/onuki-asahi/onuki-asahi.htm
●ブログ散歩の変人『ねじ曲げられた桜』
 http://sabasaba13.exblog.jp/4052212/

「共謀罪」法案の危険性

2006-11-14 11:19:38 | Weblog
 12日の日曜日、朝10時からのテレビ朝日サンデープロジェクトで「言論シリーズ=再び共謀罪を問う」が放映された。
 この法案に対して言論の自由を禁圧される危険性を強調する理由は十分にある。明らかに犯罪やテロにつながる悪事を相談することは未然に防止しなければならないとしても、政府権力にとって「都合の悪いこと」を防止するために悪用される可能性があることは否定できない。
 最近の実例として、需要の少ない静岡空港の建設に反対して農地の買収に抵抗する農家の4人が、もし共謀罪が成立すれば県にとって都合が悪い理由で逮捕されるかも知れないと訴える姿が映し出されていた。
 
 過去にさかのぼると、戦争末期に言論を弾圧した横浜事件がある。雑誌に掲載された論文の内容に問題があるとしてジャーナリスト60人が検挙され、旅館で撮った1枚の写真を証拠に拷問を受けて自白を強要された約半数が有罪判決、4人が獄死した。戦後、遺族らが再審を請求したが、当時の治安維持法が廃止されたとして最終的に却下されたという。
 
 戦後もこうした事件は完全になくなったわけではない。沖縄の公安警察官自身が出演して、特定の政党を調査するためにスパイに育て上げた高校生が10年後に苦悩のすえ自殺したが、公安当局は知らぬ顔で抹殺した、と反省と怒りをこめて証言していた。
 公安警察がスパイ・盗聴などの捜査方法を実行するためには、共謀罪は何よりの味方になることは間違いない。前に予告した元特高警察の体験者(当サイトの証言者)も4時間の取材を受けて顔を出したが、僅か数秒ほど証言しただけで画面が変わってしまった。
 他にも元刑事や弁護士などが出演して、それぞれの立場から共謀罪に反対の発言をしていた。
 
 この法案の成立を進めている政府自民党の責任者は、テロ防止が目的だから市民団体を対象にしないと主張していながら、国際的な謀略に限定すべきとする提案を拒否しているのは、明らかに国内の反政府活動を対象にしている、と取材を担当したキャスターは語っていた。
 民主主義の根幹をなす自由とは、まさに権力からの自由であり、そのために言論の自由を守ることにある。この基本的な姿勢を失ったマスコミや国民は、もはや独裁権力を容認しているとしか言えない。
 中間選挙でブッシュ大統領の共和党にノーを突きつけたアメリカ国民は、さすが民主主義の原理を失っていないと拍手を送りたい。

『戦争で死ぬ、ということ』を読む

2006-11-06 13:49:57 | Weblog
 今年7月に発行された岩波新書の1冊。著者はノンフィクション・ライターの島本慈子。知人からすすめられて初めてこの本が出版されたことを知り、期待しながら一読した。
 期待に違わず戦争の実態を知るためには欠かせない資料である。著者は1951年生まれだから、戦争を知らない世代に属している。その自覚にもとづいて戦争の全体的な実像を確かめたいという目的でこの書を執筆したという。事実、巻末の参考文献には、テーマごとに合計376冊もの著者・書名が列記されている。じつに周到な取材と豊富な文献を裏づけとした労作である。
 
 もちろん戦争を体験した高齢者の証言に意味があることはいうまでもない。しかしどうしても個々の体験が中心だから主観的となり、全体像は背景に遠ざけられぼやけてしまうことは避けられない。
 ところが戦争を知らない世代の著者は、戦争の全体像を等距離の視点から確認しようとしている。しかも米英敵国やアジア諸国の側からも、加害者としての日本人に焦点を当てている。あくまで客観的に事実だけを丹念に集めた点に、本書の特長があり価値があることは間違いない。
 
 第1章は「大阪大空襲」=当時15才の手塚治虫「昭和20年の日記」などの資料を紹介しながら、淀川を首だけの死体が流れていく悲惨な情景の記録を紹介している。敗戦前日の8月14日の大空襲の真下で防空壕に入っていた作家・小田実の生きざまにも触れている。
 
 第2章は「伏龍特攻隊」=戦争末期の自爆戦術によって戦死した特攻隊員は多いが、その中でも15才を過ぎたばかりの少年隊員で編成された伏龍特攻隊があったことを初めて知った。
 なんと少年隊員に潜水服を着せ酸素ボンベを背負わせて海底に潜らせ、棒の先につけた機雷で敵艦の船底を突いて爆発させ自爆するというマンガ的な攻撃方法である。実行する前に敗戦になったのは幸いであったという他はない。
 
 第3章「戦時のメディア」=今年90才になるジャーナリストむの・たけじの取材が中心となっている。むの氏は戦後「たいまつ」を発行しつづけた反骨の人である。その会話の一節──
<国会で有事に備えて国民保護法をつくるといっているけれどね、一九四五年三月十一日の朝、私は大空襲を受けた東京の下町を歩き回りました。死体が道路にいっぱいだった。戦争って一晩で十万人が死ぬんですよ、あんた。誰がどうしてそれを助けるの。要するに、戦争が起こってしまえば助けようがない。本当に国民の安全を守ろうと思ったら、戦争をやっちゃだめなんだよ。やってしまってから助けるなんてことはできないということを、三月十日(東京大空襲の日)は教えている>
<恨みをかうからだめ、怨みをかわないようにやればいい。よそから攻められないような日本をつくればいい。原因を取り除くことが安全対策なんだと、あの戦争が教えたはず>

 第4章「フィリピンの土」=1946年にアメリカからの独立が予定されていたフィリピンに侵攻した日本軍は、独立の邪魔をして現地人全体から怨みを買うことになった。大平洋戦争は東南アジア諸国の独立を促進する結果となったという言説は、少なくともフィリピンでは通用しないことが理解できる。
<米軍の本格的な反攻がはじまると、それに呼応してゲリラの活動はますます激しくなり、戦場の日本軍将兵は「もはやフィリピン中ゲリラだらけ」「一般住民とゲリラとの見分けがつかない」「フィリピン人がみな敵に見える」という心理状態に陥っていく>

 つづく各章では、戦時中に日本側が原爆を製造するために努力した記録、それより先に原爆を投下された広島で子どもたちが見た情景、戦争を応援するチアガールの役目を果たした女性の反省、日本軍が実戦で使用した毒ガス製造工場の秘密と後遺症、そして最後に第8章の9.11世界貿易ビル爆破テロ事件に遭遇して死んだ2人の日本人青年につながっていく。著者は被害者の父親と同級生の悲痛な心境を取材している。
 当時、自爆テロはカミカゼ特攻隊を連想させるという説が世界に流された。両者の違いを云々する前に、今も世界からテロを根絶できない原因を追究しなければならない。
 前回に取り上げた『戦争中毒』同様の不完全な紹介に終わったが、戦争を知らない世代が戦争を知るために書いた資料として、戦争体験者とは違った面から戦争の全体像を認識するための貴重な情報であることは間違いない。
 著者は「あとがき」の終わりに次の一節を書きとめている。
<この本を、戦争で死んだ人々に。
 そして、私と同じく、戦争を知らない人々に>

『戦争中毒』を読む

2006-11-03 17:12:48 | Weblog
 先月14日に開催された大阪平和映画祭の会場で買い求めた標記の図書『戦争中毒=アメリカが軍国主義を脱け出せない本当の理由』ジョエル・アンドレアス著/きくちゆみ監訳(合同出版・2002年初版)の読後感を、紹介をかねて記したい。著者は作家であり社会学者でもあるという。
 この大判66頁の漫画スタイルの本には、アメリカ建国以来の戦争の歴史が要約されている。
 
 第1章は次のような記述で始まっている。
「2世紀前、アメリカ合衆国は、北アメリカ大陸の大西洋沿いにある13の小さな植民地の集合体にすぎなかった。それがいまでは、歴史上最強の帝国でさえ考えもおよばなかったほどの力でこの世界を支配している」
「独立を勝ち取ったこれらの植民地の指導者たちは、自分たちが、北アメリカ全域を支配するように神によって選ばれた、と信じた。このことはかれら指導者たちにとってごく明白のように思われたので、かれらはこれを明白なる運命(運命顕示)と呼んだ」
 この信念をもとに、早速アメリカ先住民(インディアン)の虐殺的な土地奪取が実行された。土地を奪われたインディアンたちは居留地に押し込められ生活様式も破壊された。
 1848年までに合衆国はメキシコの領土の半分近くを奪い取った。次はキューバやフィリピンなどのスペイン領植民地を狙って宣戦布告し、反乱軍側に味方してスペインを降伏させた後、新たな侵略者に反抗したフィリピン住民60万人を殺して征服した。
 同じ頃、ハワイの王朝を倒して大資本を投下した農場で現地人をこき使い、海軍基地を構築した。第一次世界大戦には民主主義を守るという大義名分のもとにヨーロッパに派兵し13万人を超えるアメリカ兵が戦死したという。第二次大戦(大平洋戦争)はさらに膨大な犠牲者を生んだが、原爆投下で終結した。
 ソ連との冷戦時代に入ってからは、朝鮮戦争(1950~53)でアメリカ軍の空爆や砲撃によって朝鮮半島の大部分が廃墟と化し、450万人以上の朝鮮人民が死んだ。ドミニカ共和国(1960)ベトナム戦争(1964~1973)の他にもレバノン(1982)グレナダ(1983)リビア(1986)などへの軍事介入が続く。
 さらに湾岸戦争(1991)コソボ(1999)を経て、9.11以後の対テロ戦争が自由と民主主義の名のもとに継続されている。
「テロとの戦争はテロを終結させることにはならない。もしビン・ラディンが殺されたとしても、あらたに怒りに燃えた人々が、アメリカを中東地域から追い出すための戦いに結集するだけだ。暴力の悪循環が手のつけられないほどに拡大するのだ」という記述もある。

 この本がアメリカを軍国主義と呼ぶ根拠は、上に書き並べた戦争の連続でも明らかだが、軍事予算を見れば一目瞭然である。つまり、アメリカ一国の軍事費(3960億ドル)は現在2位以下15ヵ国の軍事費の総額より大きく全世界の軍事費の36%を一国だけで占めている。(ロシア600億ドル、中国420億ドル、日本400億ドル)
 アメリカが戦争する動機は何かという疑問への回答には、建前と本音(表と裏)がある。表の答えは民主主義のため、自由のため、正義のため、平和のためであり、裏の答えは金、市場、資源、権力の確保と拡大に他ならない。
 以上、不完全な内容紹介に終わったことをお詫びするとともに、手にとって一読されることをおすすめしたい。