戦争を語りつぐ証言ブログ

<戦争を語りつぐ60年目の証言>サイトの管理人・スタッフから、
取材の近況や関連情報をお届けします。

映画「紙屋悦子の青春」を観ましたか?

2006-09-30 10:18:28 | Weblog
 これほど素晴らしい反戦映画はないと、ぜひ観るようにすすめられていたので、大阪で上映最終日に映画館へかけこみました。日本語のわかる外国人が、この映画を観てすごく感動したという話も聞いていました。
 この作品は、今年4月75歳で急逝した黒木和雄監督が最後に制作したもの。黒木監督は満州で幼時を送り、敗戦前後の辛酸を体験したに違いなく、晩年は戦争レクイエム三部作をつくっています。
 映画を観ながら、やはり私も感動しました。とはいえ、反戦平和をテーマにしながら戦場も爆弾も血なま臭い場面は一度も出てこないのです。
 最初に老夫婦が病院の屋上で二人きりで何気ない会話を続ける場面。昭和20年の戦争末期の鹿児島の古ぼけた田舎の屋内での紙屋夫婦とその妹・悦子(原田知世・主演)の、粗末な食事をしながらの会話。その家へ訪ねてくる2人の青年将校の対話──そうした会話の場面が殆どで、それ以外は僅かに空ばかりの風景や波の音しか出てこない映画です。いわば芝居の舞台でも演じられる場面しかないのです。
 にもかかわらず、悦子が泣き崩れるシーンでは、私も一緒になって泣いてしまいました。
 性と愛の見分けもつかない今の若者に、薬にしたいくらいの感動的な作品であったことを報告しておきます。
 蛇足ですが、当サイトの<市民の証言集>を読んで涙が止まらなかったというメールを頂いていることも付け加えておきたいと思います。
 

2日遅れの情報ですが・・・

2006-09-20 11:57:10 | Weblog
 2日前の9月18日は「敬老の日」で休日でした。
 新聞には、総務省の推計として65才以上の高齢者2640万人で総人口に占める割合は20.7%と発表されていました。
 65才以上といえば昭和20年の終戦時に5才ですから、微かに戦時中の記憶があり戦後の混乱期を幼少期に体験しているのです。そうした高齢者が20%以上生存しているということは心強い気がします。なにしろ国内に百才以上の超高齢者が2万人以上いるという時代ですから「戦争を語りつぐ」ことができる可能性はまだまだあるからです。問題はご本人自身はネットと無縁なので、若い世代が高齢者の証言を引き出す作業にもっと関心をもってほしいものです。

 ところが、9月18日は単に「敬老の日」だけではなかったのです。終戦よりさらに15年さかのぼった75年前、満州事変の発端となった柳条湖事件が突発した日なのです。その当日に当たることをマスコミは殆ど報道しなかったので、私も<戦争を語りつぐメーリングリストno~more~war>の会員投稿で初めて知ったのです。「満州事変」をネットで検索すると、
「世界恐慌の影響で日本経済は深刻な不景気にみまわれ,軍部らの間に,満州を植民地化して危機をのがれようとする動きが強まった。一方,中国では二十一か条の要求以来,排日運動が高まっていた。こうしたなかで,1931(昭和6)年,関東軍(満州にあった日本軍)が奉天(今の瀋陽・シェンヤン)郊外で鉄道爆破事件(柳条湖事件)をおこし,これを中国軍のしわざだとして強引に開戦した。日本政府の不拡大方針にもかかわらず,関東軍はこれを無視して戦争を広げ,全満州を占領した。」 とあります。

 さらにメーリングリストから得た情報として、Yahooのニュースサイト
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060918-00000057-jij-int
に出ている時事通信によれば、「柳条湖事件75年、各地で行事=100都市でサイレン-中国」と報じられています。
 この事件をきっかけに、日本軍は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと拡大し15年戦争に突入していくのです。一方、被害国の中国にある瀋陽市柳条湖近くの「918歴史博物館」には、開館から7年で日本人約8万人を含む計700万人以上が来館し「勿忘国恥」と若い人たちにも語り継いでいます。ここにも日中の歴史認識の差が生まれる原因があります。
http://j.peopledaily.com.cn/2006/09/18/jp20060918_63128.html
「九一八歴史博物館」 7年で700万人以上が来館」
 終戦後中国人が「9/18」を「チュー イーパー」「チュー イーパー」と叫びながら、満州に取り残された日本人に迫ってきた話もあるそうです。
 このブログでは上記のURLを自動的にリンクできないので不便ですが、関心をおもちの方はコピーしてアクセスしてみられることをおすすめしたいと思います。






『英霊の言の葉』(靖国神社 編)について

2006-09-16 11:56:06 | Weblog
 戦死した父をもつ知人から標記の『英霊の言の葉』を貸してもらった。彼は現在50代だから幼時に父を戦争で亡くし、母の手一つで弟とともに育てられたと聞いている。

「靖国神社 社頭掲示集 第一輯」と銘打ったこの書物は、平成7年に刊行された130頁の本で、第二輯以下も順次刊行予定と記されている。内容は靖国神社に合祀されている戦死者の内73名の遺詠、日記、遺書、手紙などを編集したもので、遺族の手記や歌も幾つか収録されている。
 いずれも死を前にした切実な心境が表されていて「御国のために」「靖国の神」として祀られる名誉を心の支えとしている。

 その目次を見ながら気づいたのだが、英霊の大半が尉官以上の将校で占められている。73名のうち下士官が5名、兵長6名、上等兵1名、軍属3名で、あとは大将から少佐までの将官・佐官を含めて大尉・中尉・少尉の尉官が最も多い。将校の中で尉官が多いのは最前線で指揮する立場だから当然といえる。
 最も階級が低い一等兵・二等兵の遺稿はなく、上等兵1名だけしか入っていないのは、恐らく最前線の戦場にあって、遺詠や遺書を書く余裕がなかったからだろう。現に南方戦線では過半数の兵士が戦闘ではなく餓死したといわれている。もし仮に書き残したとしても、遺骨さえ帰ってこない状況の中で保存できるはずはない。

 その意味でこの『英霊の言の葉』は、戦死者全体の心境を表しているとは言えず、英霊の一部である将校の「言の葉」である。軍隊全体から言って将校は少数であり、その多くは自ら進んで職業軍人となった人々であり、赤紙1枚で強制的に召集された大多数の国民や当時の敵国に対して加害者の面をもっていることは否定できない。
 とはいえ、英霊は私利私欲のために戦ったわけではなく、日本の国を護るためと信じて靖国神社に祀られる名誉に命を賭けた犠牲者である。次に『英霊の言の葉』の中から、将校ではなく数少ない兵士と下士官の心境を表した遺詠と手紙の一つを引用したい。(原文のまま)

                          陸軍軍曹 蜂 谷 博 史 命 
                             昭和19年12月24日
                             硫黄島にて戦死
                             岡山市船頭町出身 23歳
 爆音を 壕中にして歌つくる あはれ吾が春 今つきんとす
 硫黄島 いや深みゆく 雲にらみ 帰らむ一機 待ちて日は暮る
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 [妻に遺す最後の言葉]子供の養育をたのむ     陸軍兵長 志 水 正 義 命
                              昭和20年6月30日
                              レイテ島にて戦死
                              熊本県天水町出身 35歳
 
 政子その後元気ですか。私も至極元気にて戦地に向ひます。男子の本懐これにすぎざるは無し。
 海上無事に行き着いたれば希(のぞみ)も半分は達し得たのだ。戦地は覚悟の前、病気で倒れるのは残念に思ふから充分身体には注意し、花々しい戦死を希(のぞ)んでゐる。地球上に生を得て、一度は死なねばならぬお互だ。御国の為に戦死致し、神として靖国神社に祭られ同胞より拝しられるとはなんたる幸福であらう。お前の名誉とも思ふ。しかし其の半面には、いゝ知れぬ淋しさ、悲しさがあると深く信じ切ってゐる。これも定まった運命なのだ。人間の力では如何とも出来ないのだ。願くは志水政子となった以上、可愛い子供の養育に務め成長するのを楽しみに志水家を立派に立てゝくれる様に願ひたい。
 淋しいから又再婚すると申せば俺は何ともいはず九段の花の下よりお前の幸福を祈ってゐる。然し子供の事は末々まで幸福で暮す様願ひたい。
 一人の子供は台湾の兄様に貰ってもらひなさい。この度の子供が男の子であればと何時も願ってゐる。
 ご両親様の事はくれぐれもよろしく頼む。お前も充分身体に気をつけて元気にて暮しなさい。
 ではこれにてお別れ致します。 
                               志 水 正 義
  政 子 殿
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「憲法九条を世界遺産に」を読む

2006-09-08 10:04:40 | Weblog
 著者は人気タレント「爆笑問題」の太田光と民族学者・中澤新一の対談による集英社新書の1冊。最初は“タレントと憲法”“憲法と世界遺産”というイメージが結びつかなかったが、ユニークな発想に感心しながら読み終えた。
 次に心に残った文節を幾つか引用したい。

大田「ただのお笑いが自分の正義感を語ってどうするんだと言われれば、確かにそのとおりで、それをコメディに出来ずにストレートに言葉で言うしかないのは僕の芸のなさとしか言いようがないんですけど、今、憲法九条が改正されるという流れになりつつある中で、十年先、二十年先の日本人が、「何であの時点で憲法を変えちゃったのか。あの時の日本人は何をしてたのか」となった時に、僕達はまさにその当事者になってしまうわけじゃないですか。それだけは避けたいなという気持ち、そうならないための自分とこの世界に対する使命感のようなものがすごくあるんです」(16~17p)

中澤「この間、舛添要一さんの書いた憲法草案というのを読みました。土台の問題は全部考えないでおこうとしている、バランスいいだけのただの作文だなあ、と思いました。それは、平和憲法を守れ、だって、問題なくいいものなのだから、とにかく守れと言っている人たちも同じことで、土台の問題にたいしてはまったくの無思考といっていい。ー(中略)ーつまり、憲法を支えるべき土台の部分で、すでに分裂がおこってしまっているわけです。なにかがこんがらがってしまっています。このこんがらがった糸玉をほぐす努力を今しておかないで、現在の国際情勢などというものに押されるようにして憲法を改正してしまうと、僕たちの時代は将来の日本人にたいしてひどい汚点を残すことになってしまうでしょう」(17p)

太田「イラクの人質事件では、それ(注:感情的な判断)を強く感じましたね。あのとき、自己責任という言葉がわーっと吹き荒れて、人質の家族の、自分の子供の命を救ってほしいという願いですら、口に出せなくなってしまった。国ではなく、国民が率先して、人質になった人や家族をバッシングしましたよね。そんな空気に違和感を抱いているひとも、下手なことを言うと、自分もバッシングを受けるんじゃないかと黙ってしまった。あの空気は、ある一方向にワーッと流れていく戦前の雰囲気にすごく似ているんじゃないかと思いました。素直に自分が思っていることを表現すると、世の中から抹殺されることにもなりかねない。その意味ではかなり怖い状況になっていると思う」(19p)

中沢「世界遺産というと、イリオモテヤマネコみたいな感じがしますね。野生動物の最後の珍品として守っていかなければいけないという感じ。たしかに僕も、平和憲法は世界の憲法中の珍品だと思います。ところがいま、この世界の珍品を普通のものに変えようとして改憲論が吹き荒れているわけです」(53~54P)

太田「戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、十五年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかという次元を超えたものだし、国の境すら超越した合作だし、奇蹟的な成立の仕方だなと感じたんです。アメリカは、五年後の朝鮮戦争でまた振り出しに戻っていきますしね」(55P)

 引用しているとキリがないので、あとは結論的な部分だけにしておきます。関心を持って下さった方は本を手に取ってみて下さい。一読の価値は十分にあると思います。
 
中澤「世界遺産に指定された場所の多くは、現代社会の中で、なかなかほかにはあり得ないようなあり方をしています。美しい景色も、そこに残された精神的な価値も、現代の価値観からするとあり得ない場所です。そのあり得ない場所を持続しようというのが世界遺産の考えでしょう。………」(126p)
「……だから、その意味でも日本国憲法を世界遺産にというのは、最高の表現なんですよ。太田光、よくぞ言った(笑)。きれいな表現だし、正しいし。日本国憲法の構造は、やっぱり特殊ですからね。その特殊さは、普通の国家の考え方からすれば、政治学的にはとんでもない考え方かも知れないけれど、それがあることによって、崇高な何かがそれでもまだ存在するかも知れないと言う希望をあたえる。それは、日本を普通の国に戻すことより、ずっとよいことだし、政治学の常識を超えてみれば、正しいことでさえある」(127P)

太田「世界遺産をなぜわざわざつくるのかといえば、自分たちの愚かさを知るためだと思うんです。ひょっとすると、戦争やテロで大事なものを壊してしまうかもしれない。そんな自分たち人間の愚かさに対する疑いがないと、この発想は出てきません。人間は愚かなものだから、何があってもこれだけは守ることに決めておこうというのが、世界遺産の精神ですよね」(127p)

中沢「ただですね、こういう日本国憲法を守っていくには、相当な覚悟と犠牲が必要となるということも忘れてはいけない。
太田「たとえば、他国から攻められたりしたときですね。
中沢「そうです。犠牲が出る可能性がある。理想的なものを持続するには、たいへんな覚悟が必要です。覚悟のないところで、平和論を唱えてもダメだし、軍隊を持つべきだという現実論にのみ込まれていきます。多少の犠牲は覚悟しても、この憲法を守る価値はあるということを、どうみんなが納得するか」(144P)
   …………………………………………………………………………
太田「僕は、軍隊を持とうと言っている側のほうが、覚悟が足りないと思うんです。それを強く感じたのは、イラクの人質事件です。……」(145P)

ブログと新聞の情報

2006-09-04 09:59:12 | Weblog
「きっこの日記」で知ったのですが、阿部晋三著「美しい国へ」のネタ本について貴重な情報が提供されているブログがあります。
「反戦な家づくり」というタイトルで、URLは下記の通りです。
http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-170.html

 なお毎日新聞9/4付朝刊27面のトップに次のような長い見出しの記事が出ています。
「捨てられた元日本兵」
  「中国に取り残され/内戦に巻き込まれ/逃亡兵扱いされ/恩給は支給されず/  
     裁判にも敗れ/仲間は次々と死んでいった」
 兵庫の石原さん「国を今も許せぬ」
 記事をコピーすると長くなりますので、見出しだけにしておきます。



今朝のネット情報から

2006-09-01 08:12:25 | Weblog
今朝ヤフーのサイトで<社会ニュース>の項目を見たら、次の見出しに気がつきました。

<薬害エイズ>事件後に旧厚生省幹部39人が天下り

 前回「エリート軍人とエリート官僚」で書いたことがそのまま実証されたような気がします。
 すでに高級官僚は戦争中の軍部と等しく権益に目がくらみ、国民を見下し愚弄しているとしか思えない。下記に記事のURLを記しておきますので、アドレスをコピーして詳しい事実を確認して下さい。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060901-00000016-mai-soci

 なお、同じ記事は毎日新聞9/1付朝刊2面にも掲載されています。