最近、ある知人から入手した資料のコピーを紹介したいと思います。
それは平成4年に光人社から出版された黒木雄司著『原爆投下は予告されていた(連日・再三の予告放送)』という本の「まえがき」です。以下、著者が了解して下さることを願って原文のままコピーします。
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毎年8月6日、広島原爆忌の来るたびに、午前8時に下番してすぐ寝ついた私を、午前8時30分に田中候補生が起こしに来て、「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたとニューデリー放送が放送しました。8時15分に投下されたそうです」と言ったのを、いつも思い出す。(253頁)
このニューデリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと(158頁)。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾核爆発の実験成功のこと(214頁)。さらに8月3日、原子爆弾第一号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日つづけて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。
この一連のニューデリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長芦田大尉は第五航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告が上申されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。
敗戦の責任や情報報告が全うされなかったことを強く感ぜられた情報室長芦田大尉や上山中尉は、陛下に対し申しわけない。国民に対し顔を向けられないと、生きて国には帰れず将校全員自刃すべしとの意見の大勢の中にあって、楠木正成を手本として生き抜き、時機来らば南支において旗上げして御奉公するといって別れられた精忠無私の方々であった。その方々が脱走逃亡と誤解されるので、今日まで復員後もだれにも話すことができなかった。芦田大尉は最終日に、われわれは山の中に入り山を開墾して畑をつくり、自給自足して時機を待つといわれたが、本当に生き延びておられるだろうか。
しかも今までにこのことを発表しておれば、昭和の時代はやはり火砲機関銃などの武器をもって山に籠もっているとなれば、中国軍は(はじめの蒋介石軍にしても後の中共軍にしても)攻撃したであろう。したがって発表はできなかった。平成の時代に入り中国との関係はもちろん、全世界的にも落ちつき、もし南支の山岳地帯に今日まで生き延びておられるとするならば、拡声器でお呼び出しできるかも知れない。
この記録は私が現在の中華人民共和国南部の広東において、昭和20年3月11日付で野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和20年8月21日までの約5ヵ月間の日々を記録したものである。したがって人物名、場所名などはすべて実名実在のものである。
最後にあっけない別れをした静岡中学の田中君、静岡商業の田原君とは、生きているうちに是非会って見たいと思っている。彼らも還暦の年をすでに迎えているだろう。
私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、惚けないうちにと書くことにした。書いているうちに先ほども書いたように、原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったかということをいろいろと考えさせられる。とにかく人の殺し合いという戦争は人類の史上にはもうあってはならない。
平成4年7月 黒 木 雄 司
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それは平成4年に光人社から出版された黒木雄司著『原爆投下は予告されていた(連日・再三の予告放送)』という本の「まえがき」です。以下、著者が了解して下さることを願って原文のままコピーします。
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毎年8月6日、広島原爆忌の来るたびに、午前8時に下番してすぐ寝ついた私を、午前8時30分に田中候補生が起こしに来て、「班長殿、いま広島に原子爆弾が投下されたとニューデリー放送が放送しました。8時15分に投下されたそうです」と言ったのを、いつも思い出す。(253頁)
このニューデリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと(158頁)。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾核爆発の実験成功のこと(214頁)。さらに8月3日、原子爆弾第一号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日つづけて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた。
この一連のニューデリー放送にもとづいて第五航空情報連隊情報室長芦田大尉は第五航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告が上申されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ。
敗戦の責任や情報報告が全うされなかったことを強く感ぜられた情報室長芦田大尉や上山中尉は、陛下に対し申しわけない。国民に対し顔を向けられないと、生きて国には帰れず将校全員自刃すべしとの意見の大勢の中にあって、楠木正成を手本として生き抜き、時機来らば南支において旗上げして御奉公するといって別れられた精忠無私の方々であった。その方々が脱走逃亡と誤解されるので、今日まで復員後もだれにも話すことができなかった。芦田大尉は最終日に、われわれは山の中に入り山を開墾して畑をつくり、自給自足して時機を待つといわれたが、本当に生き延びておられるだろうか。
しかも今までにこのことを発表しておれば、昭和の時代はやはり火砲機関銃などの武器をもって山に籠もっているとなれば、中国軍は(はじめの蒋介石軍にしても後の中共軍にしても)攻撃したであろう。したがって発表はできなかった。平成の時代に入り中国との関係はもちろん、全世界的にも落ちつき、もし南支の山岳地帯に今日まで生き延びておられるとするならば、拡声器でお呼び出しできるかも知れない。
この記録は私が現在の中華人民共和国南部の広東において、昭和20年3月11日付で野戦高射砲第五十五大隊第二中隊より転属し、第五航空情報連隊情報室に勤務、情報室解散の昭和20年8月21日までの約5ヵ月間の日々を記録したものである。したがって人物名、場所名などはすべて実名実在のものである。
最後にあっけない別れをした静岡中学の田中君、静岡商業の田原君とは、生きているうちに是非会って見たいと思っている。彼らも還暦の年をすでに迎えているだろう。
私もようやく今年は数え年でいうと古稀となり、老の仲間に入ってゆくので、惚けないうちにと書くことにした。書いているうちに先ほども書いたように、原爆に関する報告をだれが握りつぶしたのか。なぜもっと早く終戦に持ってゆけなかったかということをいろいろと考えさせられる。とにかく人の殺し合いという戦争は人類の史上にはもうあってはならない。
平成4年7月 黒 木 雄 司
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