消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.204 ムーディーズとS&Pとの重なり

2007-12-30 22:59:29 | 格付け会社

 一九一九年から一九二四年までの五年間、プアーズの出版物であるにもかかわらず、ムーディーズの名前が使われることがあった。ジョン・ムーディ(John Moody)自身が述懐している。

 「これは、長い期間、私たちの市場に大きな混乱をもたらしていた。人々は、プアーズの出版物を私たちの出版物と誤解するのが常であった。そのせいで、私たちの商売は著しく制限された」(一九五〇年)(Moody, John,"A Fifty Year Review of Moody's," 一九五〇年初での演説、Wilson, Richard S.[1987], p. 18に採録)。

 一九〇七年の金融恐慌に巻き込まれたジョン・ムーディは、『ムーディーズ証券年鑑』(Moody's Manual of Industrial and Corporation Securities を刊行するために自らが創設した出版社、ジョン・ムーディ&カンパニー(John Moody & Company)を一九〇八年に手放した。

 
それによって、会社名はムーディ年鑑社(Moody Manual Company)になった。ムーディの名前を残したのは、ムーディがすでにビッグ・ネームになっていたからである。年鑑の編集を引き継いだのがロイ・ポーター(Roy W. Porter)であった。そして、ポーターは、一九一四年にこの会社を買い取っている。この会社とプアーズ鉄道年鑑社(Poor's Railroad Manual Company)が一九一九年に合併してプアーズ出版社(Poor's Publishing Company)ができた。ここに、プアーズ社は、ムーディーズの名前を使う権利を手に入れたのである。

 あわてたのは、ジョン・ムーディである。ムーディ自身は、ジョン・ムーディ&カンパニーを手放したすぐに後、一九〇八年、アナリシス出版社(Analyses Publishing Co.)を作っていた。一九一三年、彼は会社名をムーディーズ・インベストメント・サービス(Moody's Investment Service)に変え、翌、一九一四年、さらに同社を同名の法人会社組織にした。そして、一九二四年、一〇万ドルでムーディーズの名前の使用権をプアーズ出版社から買い戻したのである。

 しかし、一九六二年、ムーディーズは、ダン&ブラッドストリート(D&B=the Dun & Bradstreet Corporation)に買収されてしまう。一九九八年になって、ムーディーズはD&Bからの独立を達成し、今日に至っている。

 現在のS&Pについても整理しておこう。同社のルーツは四つある。

 第一のルーツは、一八六〇年のヘンリー・V・プアー(Henry V. Poor)『米国鉄道・運河史』(History of Rilroads and Canals of the United States)を出版するH・V・アンド・H・W・プアー社(H.V.and H.W. Poor Company)である。そして、この会社は、一八六七年にプアーズ鉄道年鑑社(Poor's Railroad Manual Company)に改名された。

 第二のルーツは、すでに説明したように、ジョン・ムーディ・カンパニーである。一九一九年に、この会社の後継と合併して、プアーズ出版社となった。しかし、同社は、一九三〇年代の恐慌の直撃を受け、第三のルーツであるバブソン家の一員であるポール・バブソン(Paul T. Babson)からの資金援助を受けている。

 第三のルーツ。一九〇三年ロジャー・バブソン(Roger babson)が、株式社債カード・システム(the Stock and Bond card System9を設立した。この会社が、一九一三年、第四のルーツであるジェームズ・ブレイク(James L. L. Blake)に買収される。

 第四のルーツ。一九〇六年、ジェームズ・ブレイクが、スタンダード統計所(the Standard Statistics Bureau)を設立、一九〇七年には、ムーディーズ年鑑に所収されてい会社の資料の更新作業を引き受ける。そして、一九一三年、ブレイクは、バブソンのカード・システムを買収し、一九一四年に会社名をスタンダード・スタティスティカル・カンパニーにした。一九四一年プアーズ出版社と合併して、スタンダード&プアーズ・コーポレーション(S&P=Standard & Poor's Corporation)が誕生することになった。

 同社は、一九九六年マグローヒル社(mcGraw-Hill Inc.)に買収され、現在に至っている(Sinclair, J. Timothy[2005], pp. 24-25)。

 一九三三年のグラス・スティーガル法(the Glass-Steagall Act)によって、米国では銀行が証券業務を県営することが禁止された。これは言い換えれば、この法律以降に証券ビジネスが銀行から独立して成立したことを意味する。

 格付け業務が重要になったのは、したがって、一九三〇年代以降になってからである。それまでは、銀行の調査の方が大きな意味をもっていた。格付けは、鉄道会社債や製造会社債、金融会社債など一部の業種に止まっていたのである。

 第一次世界大戦後、米国の自治体債や外国政府債の格付けも行われるようになっていたが、両大戦間期には結構、外国債のでフォールトが多く、しかも、一九三〇年代の恐慌に懲りて、投資家たちは、米国内の一流企業債への投資に限定していた。

 こうした保守的な投資姿勢が変化したのが、一九七〇年代に入って徐々に進行したブレトン・ウッズ(Bretton Woods System)の崩壊である。ローリスク・ローリターンではなく、ジャンクボンドなどのハイリスク・ハイリターンへの投資が活発化したのである。ここに、格付けが重視される土壌が形成された。

 格付け会社が飛躍するのは、金融の国際化を迎えてからである。とくに、一九九〇年代に入って、ムーデーズにせよ、S&Pにせよ、米国の内外に拠点を急速に拡大していった。 格付け会社が、債券発行者から手数料を取るようになったのは、一九六〇年代になってからである。それまでは、顧客の投資家から会費が格付け会社の主たる収入源であった。S&Pの収入の七五%は債券発行者からの格付け手数料であるとシンクレアは、一九九三年二月、S&P副社長のジョアン・W・ローズ(Joanne W. Rose)とのインタビューによる知見を紹介している(Sinclair[2005], p. 29)。

 それとともに、収入も激増した。ムーディーズ・インベスターズ・サービスの親会社、ムーディーズ・コーポレーション(Moody's Corporation)の収入は、二〇〇〇年で六億二〇〇万ドル、二〇〇一年七億九六七〇万ドル、二〇〇二年一〇億二〇〇万ドルであった(同社の二〇〇二年の年報)。

 格付けは以下のプロセスで行われる。

 まず、債券発行者から格付けの依頼を受ける。格付け会社が自社の担当者たちを決める。担当者たちが発行者と面会する。担当者たちで協議する。格付けを決定する。さらに追跡調査が行われる(S&P[1992], p. 9)。

 こうした手順を踏みながら、データ収集が行われる。当該企業の財務内容、同業他社との比較、当該証券の法的側面、当該企業の経営姿勢、他社の経営姿勢との比較、等々である(Hawkins et.al.[1983], p. 38)。 

 個々の企業が開示している財務データは膨大すぎて一般投資家の理解範囲を超えてしまっている。格付け会社の判断が求められるのは、そのためでもある(Coffee[1990], pp. 5-8)。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。