トップを徴用されたゴールドマン・サックスは、命令系統の細分化を急いだ。トップがすべてを決定するという従来のシステムを、経営委員会(Management Committee)システムに替えた。初代の議長は、グス・レビー(Gus Levy)であった。彼は、のちに、ニューヨーク証券取引所社長になる。グス・レビーの加入によって、ゴールドマン・サックスは投資業務と証券業務とが二大柱になった。
1956年11月フォード・モーターズが株式の公開に踏み切った。それまでは未公開株だったのである。ゴールドマン・サックスはフォード株式を1020万株、7億ドルで販売した。大商いであった。これもワインバーグの功績であった。この年、ワインバーグの強い進言もあって、ゴールドマン・サックスは投資部門を独立させた。1950年代は投資部門のワインバーグと証券部門のレビーが同行を牽引した。
1967年10月、アルカン・アルミニウム(Alcan Aluminum)株の市場外取引(ブロック・トレーディング)の大商い。115万株2650万ドルと史上最大の取引であった。これは、レビーの功績であった。
シドニー・ワインバーグは1969年11月に逝去。会長にはシニア・パートナーであったグス・レビーが就任した。レビーは「長期的視点」(Long-term greedy)という有名なスローガンを掲げた。短期的な損失などたいしたことではない。つねに、長期的視点でことに望めという意味である(Weinberg, Neil, "Short-Term Greedy?," Forbes, May 15, 2000, p. 170)。 しかし、1970年ペン・セントラル鉄道(Penn Central Railroad Company)が、コマーシャル・ペーパー残高8000万ドルを残して倒産した。このCPの大半はゴールドマン・サックスが引き受けたものであった。現在と同じく、このときも、格付け会社への批判が沸き上がった(Hahn, Thomas K.. "Commercial Paper". in Timothy Q. Cook and Robert K. Laroche editors (PDF). Instruments of the Money Market (Seventh Edition ed.). Richmond, Virginia: Federal Reserve Bank of Richmond. http://www.richmondfed.org/publications/economic_research/instruments_of_the_money_market/ch09.cfm. Retrieved on 2007-01-17)。
1970年、シニア・パートナーのスタンレー・ミラー(Stanley R. Miller)によって、ロンドンに最初の海外支店が設立された。1974年には、インターナショナル・ニッケル(
International Nickel)とゴールドマン・サックスのライバルであるモルガン・スタンレーが仕掛けたエレクトリック・ストーレイジ・バッテリー(Electric Storage Battery)の買収劇を阻止すべくホワイト・ナイトの役割を演じた。このことがゴールドマン・サックスの評判を高めた。敵対的買収に与することがないという信頼を勝ち得たからである(Rosenkrantz, Holly; Newton-Small, Jay (2004-11-23). "Bush Economic Adviser Friedman to Resign, Aide Says". Bloomberg.com. http://quote.bloomberg.com/apps/news?pid=10000103&sid=a5PUdvzX0pXc&refer=news_index. Retrieved on 2007-01-17)。
1976年、レビーの死後は、シドニー・ワインバーグの息子のジョン・ワインバーグ(John L. Weinberg)とジョン・ホワイトヘッド(John Whitehead)がシニア・パートナーズとなった。またホワイトヘッドは、レーガン政権下の国務次官補になり、ジョン・ワインバーグがチーフ・パートナー兼会長となった。
ゴールドマン・サックスは、1981年末にアロン(J. Aron & Company)という商品取引会社を買収し、業務の多様化を図った。アロンは、希少金属、コーヒー、外国為替取引を得意とする会社であった。この会社の買収によって、ゴールドマン・サックスは南米で地歩を強固にした。
1982年5月には、ジョン・ワインバーグの指揮下でロンドンのマーチャント銀行のファースト・ダラス(First Dallas, Ltd)を買収した。
1985年、史上最大のREITを実現させた。ロックフェラー・センターの所有者であるリアル・エステート・インベストメント・トラスト(Real Estate Investment Trust)の発行する証券を引き受けたのである。また、この頃から世界の政府系企業の民営化のコンサルタント業務に乗り出した。
1986年、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(Goldman Sachs Asset Management)を設立し、ミューチュアル・ファンドやヘッジファンドを顧客にするようになった。同年、マイクロソフトのIPOを保証した。さらに、RCAを買収するGEのアドバイザーを務めた。さらに、ロンドンと東京の証券取引所の会員になった。
1986年8月日、ゴールドマン・サックスは、住友銀行からの約5億ドル(当時で約770億円)の出資を受け入れることで合意した。しかし、銀行と証券業務を分離しているグラス・スティーガル法があったために、住友出資分には議決権はつけず、役員派遣もしないという内容であった。住友側は、責任範囲を限定したリミテッド・パートナーという地位に甘んじる低姿勢だったが、FRBは厳しい条件を付けた。
住友のパートナーシップ取得は25%未満にする、住友の名称使用を禁止する、役員派遣は禁止、議決権行使はしない、つまり、純然たる投資に限定するというものであった。この結果、1986年12月4日、住友はニューヨークに100%出資の子会社、スミトモバンク・キャピタル・マーケッツ(SBCM)という投資銀行を設立(グラス・スティーガル法に抵触しないため)、翌5日に出資契約に調印、同日付でSMBCを通じて12.5%分に当たる4億2500万ドルの出資を完了した(http://y-sonoda.asablo.jp/blog/2008/09/23/3780469)。
1990年、ロバート・ルービンとスティーブン・フリードマン(Stephen Friedman)が、共同シニア・パートナーズに就任し、本格的なグローバリズム展開を目指すことになった。ルービンは、1993年経済担当大統領補佐官としてクリントン政権入りして、その後はフリードマンが単独会長になった。主としてM&A仲介業務であった。1991年、ゴールドマン・サックス・コモでティ・インデックス(GSCI=Goldman Sachs Commodity Index)を創設した。