消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.139 必要な非人口論的処方箋

2007-07-30 08:53:14 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 それにしても、人口論も様変わりをしたものである。初期の人口論は、過剰人口を解消するのに、出移民と産児制限のどちらが効果的かという発想からの経験論的研究であった。そして、産児制限の方が過剰人口対策には効果があるというのが、初期の一般的な結論であった。それが、ここにきて、人口減少を止めるために移民を呼び込もうという人口論が出現することになった(人口論の系譜については、Feichitinger & Steinmann[1990])。 

 しかし、少なくともヨーロッパ諸国では、人口減少をそれほど気にしていない。
 英国などは、公的文書で、人口増加の停止を歓迎したほどである(UK[1973])。英国では、出生率が高まり、移民依存の度合いを急速に小さくしているのである。

 オランダ王室人口委員会(the Dutch Royal Commission on Population) は、「出産率低下による人口の自然増の停止は望ましいことである」とまで言い切った(Netherlands Staatscommissie Bevolkingsvraagstuk[1977])。

 ロシアでは、1999年新生児の数が志望者数を93万人上回った。
 ドイツでは、低出生率による人口減少を補うには、年間30万人の入移民が必要であると試算されていたのに、それよりもはるかに多くの入移民があって、ドイツの人口は増加してしまった。ドイツでは、大量の入移民が国内の人種構成を大幅に変えてしまうとの議論すら出ている。人口に占める自国民の比率は、急速に低下している。

 
1998年、ドイツ人の自然減は15万4,000人であった。しかし、外国生まれの母親が生んだ新生児は8万6,000人であった。その上に、30万人を超える入移民があったのである(Coleman D. A.[2001], p. 5)。

 ドイツで生じた問題は、かなり以前からEU委員会では危惧されていた。EUでは、補充移民で人口構成を調整することの危険性がつとに意識されていた。

 通常、入移民の出生率は、移民先の国民のそれよりも高い。それゆえに、補充移民受け入れ国では人種構成が激変する。移民の数の方が受け入れ国民よりも大きくなる可能性がある(Colman, D. A.[1994])。しかも、移民の出生率は、移民が出てきた母国の出生率をも上回るのである(Steinmann & Jäger[1997])。

 米国では、2050年には、ヒスパニックではない白人は、現在の多数派から転落するであろうとの公式推計が出されている(US Bureau of the Census[1992])。

 ただし、入移民が、移民先の人口構成に大きな影響を与えることはないだろうとの、上記とは正反対の展望も出されている。

 これは、流入する移民の年齢が、移民先の年齢構成を変えるほどの若さではなく、移民先の中位年齢よりもほんの10歳程度若いだけであることを重視する立場である。それに、持続的な大規模移民はなく、アトランダムな移民であったことによる。

 しかも、移民が低出生率の国に流入したところで、移民自体の出生率が早期に現地に適応してしまうという統計結果すら出されている(Coleman D. A.[2001], pp. 7-8)。

 重要なことは、依然として、人口高齢化が不可避であるという事実である。20世紀後半、先進諸国は、人口の年齢構成で異例の好条件に恵まれていた。

 
生産年齢人口が扶養しなければならない幼年者数も高齢者数も少なかったからである。しかし、その好条件も、20世紀末から急速に失われることになった。人口構成が変化する過渡期の初期には、年少者の扶養負担が増え、その後に老年の扶養負担が増えた。第3世界も出生率低下がすでに始まっているので、21世紀半ばには先進国と同じ悩みをもつことになるだろう。

 19世紀初頭、1家族当たりの子供の数は5~6人であったが、いまでは2人ないしはそれ以下にまで減少している。平均寿命(expectation of life)は35歳から75歳にまで伸びている(Coleman D. A.[2001], p. 5)。

 最近の先進諸国では、新生児の98%が50歳まで生きると計測されている。これは人口の平均年齢(average age of the population)を超えている。また、死亡率も年間1~2%の比率で低下し続けている。出生率と死亡率の低下が人口の高齢化を加速させるのは不可避である(Kannisto et al[1994])。

 高齢化社会をもたらす要因のうち、死亡率の低下の方が出生率の低下よりも大きなものであるという研究がある。以前よりも晩婚傾向があり、高齢出産の比率が増えているために、出生率の低下が高齢化社会をもたらす影響は、一般に信じられているほどには大きくはない。出生率の一時的な大きな低下は、過去、幾たびも見られたが、早期に回復し、持続的な低下傾向があっても、その比率は緩やかである。それに対して、死亡率の低下は持続的に大きなものである(Calot & Sardon[1999])。

 人口構成には、一種の惰性がある。出生率が死亡率を下回った最初の年からほぼ60年後に、出生率が死亡率を上回るようになるという傾向がある(Coleman D. A.[2001], p. 6)。

 こうした人口減少過程の中で、まず出生率の低下が効いてくる。そして、出生率の低下が緩和された後も、死亡率の低下効果が持続的に効いてくる。

 結局、人口構成を以前の有利な状態に戻すには、高い出生率を実現しなければならないが、これが実現したとしても、実効が生じるには20年間はかかる。しかし、それも人口爆発という負の側面をも生み出してしまう。つまり、人口論的には、解決策などないのである。移民で人口構成を維持するという政策を採用してしまえば、もとからの国民は少数者になり、移民のみがはびこる社会になってしまうだろう。国民のアイデンティなどすっ飛んでしまうだろう(Coleman D. A.[2001], p. 8)。実際には生じないであろうが、理論上は、人口の年齢構成を維持するために必要とされる補充移民の数は、天文学的な数値になるという研究が、国連報告が出されるよりずっと以前にあったのである(Lesthaeghe et al[1988]。)

 結局、人口論的に問題を解決することは不可能であるとの結論を出さざるをえない。人口減少という事実に社会体制を適合させるしかないのである。人口構成からくる社会的な困難さは、人口論的ではなく、口論的に解決されなければならない。

 1つは、生産人口を現実的に増やすことである。たとえば、英国では人口論的な生産年齢人口のうち、実際に働いているのは78%にすぎない。引退が早期に行われる、大学進学率が高い、等々の理由からである。つまり、人口論的には年金受給者を支える納税者は、年金受給者1人に対して4.1人であるが、現実には3.2人にすぎない。しかも、15歳以上の働いていない人数は、働いている人数の1.67倍もある。そして、この数は、傾向的にますます大きくなる。これをまず下げなければならない。

 子育て中の女性が育児と勤務とを両立させているスカンディナビア諸国のような施策を講じることも重要である。EU内では、オランダの労働参加率がもっとも高いが、この水準にEU諸国が達すれば、それだけで労働者数は大幅に増える。男性の労働力化率を1971年の水準にまで戻し、女性の労働力化も65歳にまで延長させる。こうしたことによって、生産者数を84%にまで増やすことができるし、15歳以上で働いていない人数の、働いている人に対する比率を1.54に下げることができる(ただし、2050年、Coleman「2000], Table10)。

 兎にも角にも、労働意欲を高め、働ける環境を改善することである。陳腐すぎる処方箋ではあれ、これ以外には解決策はない。



福井日記 No.138 国連の移民論=「世界は1つ」

2007-07-29 15:09:35 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 先進諸国が、出生率と死亡率の低下によって、軒並み世代維持に困難を覚えるとした国連報告は、かなりセンセーショナルな受け取られ方をされた。

 たとえば、India Abroad という新聞には、「ヨーロッパはもっと多くの移民を必要とする、国連報告」というタイトルの記事が掲載されたし(January 14, 2000)、イマニュエル・ウォーラスティンは、自らのホームページで以下のように書いている。

 「富裕な国は、自国の引退者(それも空前の比率で増大している)の生活水準を引き下げるか、貧しい国からの異例なほどの膨大な数の移民を認めるかの選択に直面している」(Wallerstein, Immanuel,"Comment" No. 32, 2000)。

 EU閣僚会議では、フランスの内務相が、国連報告の線に沿って、EUは2050年までに5,000万~7,500万人の移民を受け入れなければならないと発言した(Guardian, July 28, 2000)。

 国連報告は、必要補充移民という概念について、政策提言ではなく、単なる数値的な算定作業を行っただけであると幾度も弁明してはいるものの、国連の常設機関には、人々は好む所、どこでも移り住む権利を認められるべきだとの考え方が強くもたれている。

 一般に、「世界は1つ論」(one-worldism)と呼ばれる思想がそれである。

 富と人口を地球的規模で再分配すべきであるというのである。たとえば、国連環境計画の報告は、かなり、直截的に人と富の再配分の必要性を訴えている。

 「人はすべて、自分の好む所に自由に移り住み、そこで働くことが認められるべきである」、(そうすることによって)「現在の不安定をもたらしている諸国間の経済・社会面における格差を急速に削減することができる」(UN[2000])。

 国際連盟時代の初代ILO理事(director)のアルベール・トーマ(Albert Thomas)は、かつて次のようなことを言った。

 「優れた一種の超国家的権力ができて、移民の動きを管理し、それぞれの移民の流れに対して、ある国に門戸を開かせ、別の国には門戸を閉ざさせることによって、人口を合理的に、公平に再配分することができるようになればいい」(Thomas, Albert[1927])。

 人種の拘束を離れて、国籍を選択することができ、世界のどこにでも住むことができ、どこでも公平に扱われるという社会は人類の究極の夢である。EUにそれに似た社会が出現しつつあるが、まだまだ夢のほんの入り口でしかない。

 もし、そうした夢のような社会が出現すれば、現在、世界中で展開されている殺戮は陰を潜めるようになるであろう。

 こんなことを言えば、リアリストたちは、移民を生み出す社会的混乱と移民がもたらす社会的緊張を、まったく無視する素朴な議論であると一笑に付すであろうが、現実に移民は増えているし、歴史的にも、移民がもたらした文明化作用は巨大ななものであった。移民自身が異国の地でその才能を鍛え上げることができたという事実は否めないことである。

 実際、世界では、すでに異民族の混在が普通のものになっている。
  1999年時点で、オーストラリアでは、外国生まれの人々が人口の23.6%を占めている。しかも、その比率は大きくなりつつある。1990年では、23.4%であった。

 米国でも、1990年では7.9%であったのに、1999年では10%前後にまで高まった。
 カナダも1910~30年代の15%から、いまでは15.5%になっている。

 スイスも、1990年の16%台から現在は19%台に高まっている。スイスのこの高まりは、今では人口の4.5%を占める旧ユーゴからの逃避者の激増のせいである。スイスは、2000年9月に外国生まれの人口を18%以内に抑えようとした移民削減法の成立を目指したが失敗した。

 主要都市人口で見ると、その比率はぐんと大きくなる。1990年のデータでは、ニューヨーク28%、ロサンゼルス38%であった。1996年のデータでは、シドニー32%、メルボルン30%であった。しかし、日本は0.7%、ハンガリーは0.3%でしかない(数値は、UN[1996]のシリーズより)。

 もちろん、移民の増大をもって、単純にそれはいいことだと言い切ることはできない。高度な技術をもつことから競って世界から招聘される恵まれた一群の人々がいる一方で、故郷を追われて異国の地に移り住んでも、そこでまた苛酷な生活に打ちのめされる人々の群れがある。

 「世界は、すでに2つのカテゴリーに分かれている。コスモポリタンの考え方をもち、世界を我が家と見なすグローバルな人々がいる。その一方で、どの地に行こうとゲットーに住まねばならず、自らを閉ざし、他から排除されるさまよう人々がいる」(Bauman, Zigmunt[1998])。

 たとえば、1989年以降、ブルガリアから100万人が国外に出た。ブルガリアの人口は800万人であったのだから、人口の16%も国外に移住した。

 ブルガリア人の海外移住には、2つの流れがあった。1つは、1990年から99年にかけてのものである。

 
この時は、ベルリンの壁の崩壊によって、国外に新天地を求める若者たちが海外に流出した。18歳から20歳の若者が自己実現を目指して流出した。その後、30歳から40歳の高等教育を受けた専門家たちが流出した。彼らは、より高い地位を求めて海外に移住した人々であった。比較的恵まれた層であった。

 2つめの流れは、社会主義の崩壊とともに、企業破産が続き、職を失ったブルーカラーの海外脱出である。

 
この層は、29~40歳の男性であった。第1陣は成功組であったが、第2陣は脱落組であった(Reytan-Marincbesbka, Tania[2006])。 

 「他から排除されるさまよう人々」の悲惨さを直視しないかぎり、単純な移民賛美論を云々することは犯罪である。

 研究者の多くは、国連報告のような、安易な補充移民依存論には否定的である。

 
そもそも移民は、社会の緊張から生み出されるものであって、先進国の都合によって引き起こされるものではない。難民も含めて、移民は、移出国と移入国との政府間協定で行われるものである。そうした社会的制約を無視して、単に人口変動という要因からのみ、必要な補充移民を算定するというのは、あまりにも「手前勝手な人口論」(privileging demography)であると退けるのが、一般的な反応である(McNicll, Geoffrey[2000], p. 1)。

 確かにそうである。しかし、私は、世界の貧困を直視する国連の良心的な研究者たちが、「世界は1つ論」を出したくなるせつない気持ちを理解できる。研修員制度という、まやかしの建前論の裏で、膨大な移民が生み出されている。彼らは法の保護もなく、企業のむき出しのエゴの犠牲にされている。いまは、現実に増大している移民という「現実」を直視し、彼らの人権を保護する方策を模索すべきときなのである。移民が必要か否かという牧歌的な議論はもうよそう。現に目の前で悲鳴をあげている外国人に手をさしのべようではないか。

 ここで、少し横道に逸れて、ILOの事務局長について説明しておこう。
 ILO(国際労働機関、the International Labour Organization)は、第1次世界大戦が終結した1919年、最初にパリ、次いでベルサイユで開催された平和会議において誕生した。1901年の国際労働立法協会(本部バーゼル)の理念を継承するものである。ベルサイユ平和条約第13編が後のILO憲章になった。

 労働者の数が増え続けていたにもかかわらず、彼らの健康、その家族の生活、発展には何の配慮も払われず、搾取が続けられ、その状況はもはや見過ごせなくなっていた。そのことは、ILO憲章前文に「不正、困苦及び窮乏を多数の人民にもたらす労働条件が存在」していると明記されている。さらに、労働者に対する使用者側の不正が、「世界の平和及び協調が危うくされるほど大きな社会不安」を起こすと憲章前文にはある。しかし、社会改革を行う国や産業は、それが生産コストに直結するため、競争相手より不利になることから、社会改革を政府が行わなくなることを怖れたILOは、同じく憲章前文に、「いずれかの国が人道的な労働条件を採用しないことは、自国における労働条件の改善を希望する他の国の障害となる」と記している。

 そして、憲章冒頭には、「世界の永続する平和は、社会正義を基礎としてのみ確立することができる」とある。

 ILO憲章は、1919年1月から4月にかけて、パリ平和会議の設置した国際労働立法委員会によって起草されたものである。米労働総同盟(AFL)のサミュエル・ゴンパース、Samuel Gompers、1850~1924年)会長を委員長とするこの委員会は、日本(落合謙太郎オランダ駐在公使と農商務省前商工局長の岡実が参加)、ベルギー、キューバ、チェコスロバキア、フランス、イタリア、ポーランド、英国、米国の9か国15名の代表から構成され、執行機関に政府、使用者、労働者の代表が参加するという唯一の三者構成の国際機関を生み出した。

 1919年10月にワシントンで開会された第1回ILO総会では、労働時間、失業、母性保護、女性の夜業、労働者の最低年齢と年少者の夜業を扱う6本の条約が採択さた。

 総会によって選出されるILOの最高執行機関である理事会は、半数が政府の代表、4分の1が労働者の代表、そして4分の1が使用者の代表で構成されているが、ILOの常設事務局である国際労働事務局の初代事務局長としてアルベール・トーマ(Albert Thomas、1878~1932年)を選出した。彼は、戦時政府で軍需を担当したフランスの政治家であった。

 1920年の夏、ジュネーブにILOの本部が設置された。しかし、ILOを推進する世界の熱意は急速に冷め、一部の政府から条約が多すぎ、出版物は過度に批判的で、予算が高すぎるとの批判が出たため、すべてが縮小された。それでも、1926年のILO総会では、重要な画期的展開として今日まで存続する基準適用監視機構が設けらた。こうして誕生した専門家委員会は独立した法律家で構成され、毎年、基準の適用状況に関する政府報告を審議し、委員会自体の報告を総会に提出している。

 13年にわたりILOの存在を世界に強く印象づけた後で、1932年にトーマ事務局長が急死した。後継者は、ILO創設以来事務局次長を務めてきた英国のハロルド・バトラー(Harold Butler)であるが、着任早々大恐慌下の大量失業の問題に直面した。この時期、労使団体は労働時間短縮の問題で対立したが、大した結果は得られなかった。それでも、1934年にルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt、1882~1945年)政権下の米国が、国際連盟非加盟のままでILOに加盟した。

 1939年に、辞任したバトラー事務局長の後任として、ニュー・ハンプシャー州知事、米国社会保障庁初代長官を務め、当時ILOの事務局次長であったジョン・ワイナント(John G. Winant、1889~1947年)が第3代事務局長に着任した。

 1940年5月、戦火が広がる欧州の中心にあって孤立し、脅威にさらされていたスイスの現状を見た事務局長は、ILOの本部を一時的にカナダのモントリオールに移転させた。

 1941年、ワイナント事務局長は米国の駐英大使に任命され、ジョゼフ・ケネディ(Josef Kennedy、1857~1929年)の後任としてロンドンに赴任した。

 1941年に第4代事務局長に任命されたアイルランドのエドワード・フィーラン(Edward J. Phelan、1888~1967年)は、憲章起草に関わった人である。

 
第2次世界大戦のただ中の1944年5月、41か国の政労使代表が出席してフィラデルフィアで開かれたILO総会で採択されたフィラデルフィア宣言(国際労働機関の目的に関する宣言)は、ILO憲章の重要な付属文書となっている。その最初の部分には以下のようなことが記されている。

 「総会は、この機関の基礎となっている根本原則、特に次のことを再確認する。
 (a) 労働は、商品ではない。
 (b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
 (c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
 (d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する」。

 さらに、フィーラン事務局長時代の1948年のILO総会では、結社の自由と団結権に関する第87号条約が採択されている。

 1948年にトルーマン(Harry S. Truman、1884~1972年)政権で重要な役割を演じていた米国人デイビッド・モース(David A. Morse、1907~1990年)が第5代事務局長に就任した。モース事務局長は1970年まで在任しが、その22年間で、加盟国数は倍増し、先進国は途上国に埋没した少数派となり、予算は5倍に増え、職員数も4倍になった。

 ILOは、1960年にジュネーブの本部内に国際労働問題研究所を、1965年にはトリノに国際研修センターを設置した。

 1969年、創立50周年を迎えたILOはノーベル平和賞を受賞した。
モース事務局長時代に、ILOは本格的な技術協力に乗り出した。

 第6代事務局長となった英国のウィルフレッド・ジェンクス(Wilfred Jenks)は1970年に就任し、在任中の1973年に死去したが、この間、東西問題から生じる労働問題の政治化に直面することとなった。フィーラン第4代事務局長共々フィラデルフィア宣言の起草者の1人であり、著名な法律家でもあったジェンクス事務局長は人権、法の秩序、三者構成主義、そして国際問題に関するILOの道徳的権限を強く擁護した。ジェンクス事務局長は基準並びにその適用監視機構の開発、とりわけ、結社の自由と団結権の推進に多大に貢献した。

 ジェンクス事務局長の後任となったのは、フランスの上級政府職員であったフランシス・ブランシャール(Francis Blanchard)。ブランシャール事務局長は1974年から1989年の15年間、事務局長を務めたが、任期中、米国が脱退(1977~80年)により、予算の25%の削減を余儀なくされた。米国は、レーガン(Ronald Wilson Reagan、1911~2004年)
政権初期にILOに復帰した。この間、ILOは、ポーランドの労組「連帯」を支持した。

 1989年、冷戦後の初の事務局長としてベルギーの雇用労働相、公務相を務めたミシェル・アンセンヌ(Michel Hansenne)が第8代事務局長に就任した。アンセンヌ事務局長のもとで、ILOは、積極的パートナーシップ政策を採用し、活動や資源のジュネーブからの分散を図った。

 1999年に、第9代事務局長として就任したチリ出身のフアン・ソマビア(Juan Somavia)は、社会と経済の開放は、「普通の人々とその家族にもたらす真の利益が均衡する限り」認めると、開かれた社会と開放経済の推進に条件をつけた。初の南半球出身の事務局長として、ソマビア事務局長、「世界の新たな現実の中で、ILOの価値を普及させるため、政労使の三者体制を刷新し、その舵取りを支援」していくと言明した(http://www.ilo.org/global/lang--en/index.htm)。



福井日記 No.137 従属人口比率

2007-07-28 12:05:19 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 平成2(1990)年6月に「1.57」ショックが日本に起こった。平成元(1989)年の合計特殊出生率が昭和41(1966)年の異常に低かった出生率1.58をさらに下回って1.57になったのである。

 合計特殊出生率とは、正確には期間合計特殊出生率のことである。女性の出産可能な年齢を15歳から49歳までと規定し、年齢ごとの出生率を出し、それを足し合わせることで、人口構成の偏りを排除し、1人の女性が一生に産む子供の数の平均を求めることができる。これを期間合計特殊出生率という。

 死亡率が不変で、合計特殊出生率が高ければ、将来の人口は自然増を示し、低ければ自然減を示すことになる。

 仮に、調査対象における男女比が1対1であり、すべての女性が出産可能年齢以上まで生きるとすると、合計特殊出生率が2であれば人口は横ばいを示し、これを上回れば自然増、下回れば自然減となるはずである。 しかし、実際には生まれてくる子供の男女比は男性が若干高いこと、出産可能年齢以下で死亡する女性がいることから、自然増と自然減との境目は2.08とされている。

 一方、期間合計特殊出生率は、ある年における全年齢の女性の出生状況を、1人の女性が行うと仮定して算出する数値であるから、調査対象のライフスタイルが世代ごとに異なる場合には、その値は「1人の女性が一生に産む子供の数」を正確に示さない。具体的には、早婚化などにより出産年齢が早まると、早い年齢で出産する女性と、旧来のスタイルで出産する女性とが同じ年に存在することになるので、見かけ上の期間合計特殊出生率は高い値を示す。逆に、晩婚化が進行中ならば、見かけ上の期間合計特殊出生率は低い値を示す。

 厚生労働省が発表する「人口動態統計特殊報告」によると、終戦直後の第1次ベビーブームの頃には期間合計特殊出生率は4.5以上の高い値を示したが、1950年代には3を割り、1975年には2を割り込むようになって将来の人口減少が予測されるようになった。

 さらに、2004年の合計特殊出生率は1.2888で、2003年の1.2905より低下し過去最低を更新し続け、2005年の期間合計特殊出生率も、1.26となり2004年の水準からさらに低下した(ウィキペディアより)。

 昭和41(1966)年の出生率が1.58と異常に低かったのは、その前年が丙午(ひのえ・うま)だったからである。

 丙午(「へいご」とも読む)は干支(えと)の1つである。干支とは、十干(じっかん)の甲(きのえ)、十二支(じゅうにし)の子(ね)の組み合わせから始めて(甲子、きのえ・ね)、乙丑(きのと・うし)、丙寅(ひのえ・とら)と続き、癸亥(みずのと・い)で終わる、60通りの組み合わせで年を表記する方法である。丙午は43番目に当たる。また、西暦年を60で割って46が余る年が丙午の年となる。陰陽五行では、十干の丙は火、十二支の午は火で、火が重なる(比和)のが丙午年である。

 五行には、「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という関係のあり方が配置されている。

 「相生」は、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
 「相剋」は、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
 「比和」は、同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。

 「相侮」は、相剋とは異なり、互いに侮り合い、ともに駄目になっていく、反剋する関係にある。

 「相乗」は、互いに陵辱(乗)する、相剋が度を過ぎて過剰になったもの(ウィキペディアより)。

 丙午の年は、このように、火性が重なることから、「この年は火災が多い」、「この年に生まれた女性は気が強い」などの迷信が生まれた。

 さらに、「八百屋お七」が丙午の生まれだと言われていた(実際には戊申の生まれという説が有力)こともあって、この「迷信」がさらに広まることとなった。


 この年生まれの女性は、気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(「ひのえうまの女は、男を食い殺す」)との迷信があった。弘化3(1846)年の丙午には、女の嬰児が間引きされたという話が残っている。

 明治39(1906)年の丙午では、この年生まれの女性の多くが、丙午生まれという理由で結婚できなかったと言われている。

 この迷信は昭和時代にも尾を引いており、昭和41(1966年)の丙午では、子供を設けるのを避けた夫婦が多く、出生数は136万974人と他の年に比べて極端に少なくなった。その余波により1966年の前年、翌年の出生数は増えた(ウィキペディアより)。

 1990年の「1.57ショック」を受けて、政府が少子化の問題を初めて公にしたのは、1992年の『国民生活白書』(経済企画庁[1992])であった。副題に、「少子社会の到来、その影響と対応」という文言が配置されたことからも分かるように、政府は、少子化傾向に対して危機感を強めていた。

  この危機感に追い打ちをかけたのが、国連の補充移民報告だったのである。

 しかし、日本の実際の人口減少・高齢化社会の進展ぶりは、国連報告よりも深刻である。年齢別の人口と比率を列挙しよう。

 まず、15歳未満の年少者人口。1995年では2,003万人で総人口に占める比率は16.0%であった。2000年には1,851万人、14.6%に下がっている。いずれも国勢調査による実績である。ところが、国立社会保障・人口問題研究所が発表した「日本の将来推計人口(平成18年12月推計)」(http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/suikei07/suikei.html)によれば、出生率の中位推定で見たとき、2050年の15歳未満の人口は、1,084万人、10.8%にまで激減する。

 15歳から64歳の生産年齢人口は、1995年8,726万人、69.5%、2000年8,638万人、68.1%、同研究所の推計で、2050年5,389万人、53.6%となる。
 そして、65歳以上の高齢者人口は、1995年1,828万人、14.6%、2000年2,204万人、17.4%、2050年3,586万人、35.7%である。

 総人口は、1995年1億2,557万人、2000年1億2,693万人、2050年1億59万人にまで減少する。

 2050年の推計値は出生率を中位と見たもので、特殊合計出生率は、2012年から1.5台になり、2019年から1.6台に回復するとの条件で、この数値は、推計されたものである。

 出生率の低位推計では、総人口は、2050年に1億人を割り込み、9,200万人程度にまで減少する。中位推計では、総人口は2006年の1億2,774万人をピークにしてその後は減少する。生産年齢人口は、すでに1995年をピークつぃて、すでに減少している。

 2050年には、生産年齢の人1.1人で年少・高齢者を養うことになり、事実上不可能なことである。2100年になると日本の総人口は、現在の半分の6,700万人にまで激減する。

 65歳以上の高齢者人口比率は、1980年代前半までは、先進国の中で日本がもっとも低い数値であった。しかしいまや、先進国中もっとも高い20%台に達している。

 高齢化の進行を測る指数として「倍化年数」というものがある。65歳以上の人口比率が、たとえば、7%から14%台に到達するまでの年数である。日本は、7%から14%になるのに、1970年から1994年までの24年かかった。これは世界最短時間である。先進国の中では、日本のつぎに倍化年数の短いドイツでもこの水準の変化に1932年から72年までの40年を要した。フランスにいたっては、1864年から1979年まで115年もかかっている。日本の高齢化の進行が際だって早かったことをこの数値は示す。ただし、この数値は実績値であり、推計値で見れば、シンガポールは16年、韓国は17年と予測される(石川達哉「ニッポンの内と外で始まる人口減少」、http://www.nli-research.co.jp/report/econo_eye/2005/nn051107.html)。

 「従属人口比率」という考え方もある。15歳未満の年少者人口と65歳以上の高齢者人口は、消費には関与するが、生産には従事せず、生産年齢人口によって、これら2つの層が支えられているという側面を重視して、社会における相対的な扶養負担を測ろうとする尺度が、この「従属人口比率」である。年少人口と高齢者人口の合計を生産年齢人口で割った値がこの比率である。高齢者人口を生産年齢人口で割った値を、ニッセイ基礎研究所の報告(ニッセイ基礎研究所[2005]、http://www.mof.go.jp/jouhou/kokkin/tyousa/1708dankai.htm)は、「老年従属人口比率」と呼び変えている。おなじく、年少者人口を生産年齢人口で割ったものが、「幼年従属人口比率」である。

 それによれば、2050年の日本の老年従属人口比率(1人の若者が何人の老人を養うかの比率)は67%と推計される。これは、1人の若者が0.67人の老人を養う姿である。生産年齢人口のすべてが労働者ではないので、実際の労働者の老人扶養負担は非常に大きいものになる(同報告、16ページ)。2005年時点の水準でさえ、30%であるから67%という数値のもつ意味はとてつもなく怖ろしい。

 同報告の調査によれば、この比率は、米国では、2030年代半ば以降は上昇せず、32%という水準で安定化する。米国も高齢化が進行し、日本よりも幅広い世代のベビー・ブーマーたちの引退が間近であるとはいえ、長期的に見た米国の人口構成は他の諸国に比べて非常に安定したものになっている(同、17ページ)。

 老年従属人口比率とは反対に、日本の幼年従属人口比率は、1960年以降、APEC諸国の中では低位グループに属している。

 
出生率が急速に低下して、幼年従属人口比率が低下傾向を示し、しかも、老年従属人口比率も低いまま安定的に推移した1950年代から1970年代までは、生産年齢人口の、他の2つの層を支えなければならぬ負担は小さいままであった。同報告は、これを「人口ボーナス」と呼び、1960年代の高度成長は、このボーナスがあった時期と重なると指摘している(同、18ページ)。

 しかし、2000年を過ぎた頃から、生産年齢人口が減少する。幼年人口比率が低下し続けても、それよりも生産年齢人口比率の減少幅が大きくなる。つまり、幼年従属人口比率が上昇するのである。老年従属人口比率も急速に高まるのだから、両者を含めた従属人口比率は急速に高まり、生産年齢者層の扶養負担は、非常に大きなものになる。こうした推計値を踏まえて、同報告は、補充移民の導入に前向きな姿勢を示している。



福井日記 No.136 補充移民

2007-07-27 22:15:18 | 老齢化社会を生きる(福井日記)

 補充移民(Replacement Migration)とは、出生率の低下がもたらす高齢化社会を回避するために必要とされる国際人口移動のことを指す。

 2000年3月、国連経済社会局人口部(Population Division, Department of Economic and Social Affairs, United Nations)が、『補充移民:人口減少・高齢化の解決策か?』という報告書を出している(公刊は2001年、UN[2001])。

 それによれば、1995年から2050年の間に、日本とヨーロッパのほとんどの国が人口減少に直面する。イタリア、ブルガリア、エストニアなどでは、人口が、現在よりも4分の1から3分の1ほど減少するであろうと推計されている。

 加えて、高齢化が急速に進行する。それは、中位数年齢に表現される。たとえば、イタリア。中位数年齢は2000年には41歳であったが、2050年には52歳にまで伸びると予想される。高齢者を65歳以上、若者を生産年齢人口(15~64歳)と定義しよう。高齢者人口に対する生産年齢人口の比率を扶養人口指数とする。つまり、それは、高齢者1人を何人の若者が支えているかという数値である。イタリアの現在地は4~5である。これが2050年には2になる。つまり、高齢者を支える若者数が半減するのである。

 国連人口部の報告書は、少子化で悩む8か国と2つの地域の推計を行ったものである。8か国とは、フランス、ドイツ、イタリア、日本、韓国、ロシア、英国、米国であり、2つの地域とは、ヨーロッパ、欧州連合(EU)である。

 これら諸国は、低出生率と寿命の伸びによって、急速に高齢化が進行する。ただし、米国だけは、今後50年間に人口は4分の1ほど増加する。1995年時点で米国の人口を1億5,000万人ほど上回っていたEUの総人口は、2050年には1,800万人ほど下回る。

 ヨーロッパの中では、イタリアがもっとも深刻な人口減少に見まわれる。総人口は、1995年から2050年にかけて28%ほど減少しそうである。

 少なくとも、かなり長期にわたって、先進国では人口が増加する展望はほとんどない。それゆえに、国連報告書は、補充移民なしに将来の人口減少を回避することができないと主張している。ただし、必要とされる補充移民の規模は、国、地域によって異なる。

 EUでは、1990年代の移民の純流入を維持することによって、人口減少を十分阻止できる。しかし、ヨーロッパ全土では、この倍近い移民の流入が必要となる。

 韓国は、必要補充移民数は多くはないものの、これまでの移民送出国から移民受入国に転換する。イタリアと日本の必要補充移民数はかつてないほど大規模なものである。フランス、英国、米国は、近年の水準の入移民数をやや下回る数で人口規模を維持しうる。

 高齢者を支える若者を増やすためには、人口規模を維持するのに足りる補充移民数だけでは足りない。より大規模な補充移民を必要とする。

 その結果、総人口に占める入移民とその子孫たちの割合は、日本、ドイツ、イタリアでは30~39%にも達すると推計されている。

 補充移民なしに、扶養人口指数を現在のレベルに維持するには、生産年齢人口の定義を変えなければならない。15歳から75歳までを生産年齢人口としなければならない。つまれい、10歳上限を引き上げなければならなくなる(同報告書に関するプレス・リリース、http://www.un.org/esa/population/unpop.htm)。

 もちろん、報告書は、補充移民だけでこと足れりとしているわけではない。定年の年齢を引き上げ、高齢者の医療保障を充実させ、労働力を保護し、年金・医療保険を拡充させるべく、雇用者・被雇用者の負担を増大させる、等々の施策を呼びかけている。しかし、移民と地元民との共生が可能となるような社会建設を、報告書は、もっとも重視しているのである。ただし、容易に想像されるように、ことはそれほど簡単なものではない。

 人口減少と高齢化の進展という2つの流れを摘出するのに、この報告書は、6つのシナリオ(ケース)を置いている。

 シナリオ1は、1998年の『国連人口予測』(UN[1998])の想定に基づく推計値。これは、入移民を含めた単なる人口推計値である。2000~2050年までの推計であるが、ここでは、日本は、50年間にわたって入移民ゼロと想定されている。入移民は米国とヨーロッパに集中する。米国では、50年間で3,800万人、年平均76万人の入移民がある。ヨーロッパ全体では、50年間で1,880万人、年平均37万人強の入移民があると想定されている。

 シナリオ2は、シナリオ1に、1995年以降は入移民ゼロという想定を加えたものである。当然、人口減少・高齢化の進展はシナリオ1よりも急激になる。

 シナリオ3は、2000年時点での人口規模を維持するために必要とされる補充移民数である。米国を除き、シナリオ1で推計される入移民の数よりも、必要とされる補充移民の数の方がはるかに大きい。たとえば、イタリアでは、シナリオ1の50年間の入移民数30万人、年平均6,000人に対して、シナリオ3では、必要補充移民数は、それぞれ、1,260万人、25万1,000人と格段の大きな数値になる。EUで見ると、シナリオ1ではそれぞれ1,300万人、27万人に対して、シナリオ3では、4,700万人、94万9,000人になる。

 シナリオ4では、生産年齢人口数を維持するのに必要な補充移民数である。この数値は、シナリオ3よりも大きい。たとえば、ドイツでは、シナリオ3の1,700万人、34万4,000人から、シナリオ4では、2,400万人、48万7,000人になる。生産年齢人口100万人を維持するためには、イタリアはもっとも多数の補充移民を必要とし、年平均6,500人が必要である。次がドイツで6,000人、もっとも補充移民を必要としない米国ですら、100万人の生産年齢人口当たり、年平均1,300人を補充する必要がある。

 シナリオ5では、高齢者1人を支える若者(生産年齢人口)の数が3人に維持するのに必要な補充移民数である。こ数値は、シナリオ4よりも大きい。たとえばフランス。50年間に必要な補充移民数は、シナリオ4の500万人に対して、シナリオ5では、1,600万人になる。日本も、3,200万人から9500万人になる。

 シナリオ6では、1人の高齢者を支える若者の数を2000年時点のその国数値を維持するのに、必要な補充移民数である。この数値は、シナリオ5よりも格段に大きい。たとえば日本では、5億2,400万人(年平均1,050万人)という、とてつもない巨大な数値になってしまう。EUでは、6億7,400万人(年平均1,300万人)。もちろん、報告書は、こうした想定は非現実的なもので、単なる例証だけだとことわっているが(UN[2001], p. 3)、2000年時点の高齢者人口を支える生産年齢人口比を将来50年間にわたって不変とするためには、こうした天文学的数値となるのである。


 日本のみを抽出すれば、以下のようになる。

 総人口は、1995年の1億2,547万2,000人から2050年には1億492万1,000人にまで減少する(ibid., p. 126, Table A.8)。同時期、生産年齢人口は、8,718万8,000人から5,708万7,000人に減少する(ibid.)。高齢者人口は、1,826万4,000人から3,332万3,000人に激増し(ibid., p. 127, Table A.8)、総人口に占める高齢者人口の割合は14.6%から31.8%に激増する(ibid.)。高齢者人口に対する生産年齢人口、つまり、扶養人口指数は、4.77から1.71に下がる(ibid., p. 126)。

 そして、2050年、必要な補充移民とその子孫が総人口に占める割合は、人口規模を2005年現在の水準に維持するというシナリオ3では17.7%になり、同じく2005年水準での生産年齢人口を維持するというシナリオ4では30%、扶養人口指数を3.0の水準に維持するというシナリオ5では54%、1995年の扶養人口指数4.8を維持するというシナリオ6では87%にもなる(ibid., pp. 53-54)。