消された伝統の復権

京都大学 名誉教授 本山美彦のブログ

福井日記 No.118 非力な学者を追放できた暴力ある簑田胸喜

2007-06-08 23:20:15 | 福井学(福井日記)

 「『蓑田胸喜!』あゝこの名は軍の抬頭以来学界の泰斗たちの間で如何に恐れ戦(おのの)かれたことだらう。彼は蛇蝎の如く嫌はれた。何故なら、この慶大教授はひどい神憑りの右翼の御用学者で大変な精神家。(中略)軍部のファッショ派から莫大な機密費をせしめて、雑誌『原理日本』を発行し、この雑誌で学界の気に喰はぬ有名な自由主義者の著書やプリントの一章・一句を補へて、やれ『赤化教授だッ』やれ『不敬罪を構成する「学匪」だッ』と勝手なレッテルを貼りつけ、右翼のごろつきどもを嗾かして軍へ売りつけ、学界の泰斗を次から次へと屠り去った元凶であるからだ。(中略) 彼の最初の槍玉に挙げられ、反動派の犠牲に供せられた学者は彼の有名な京大事件の発端となった瀧川教授であり、後には三卅年来唱導せられて来たわが憲法学界の権威、美濃部博士を社会的に葬つたものも、彼蓑田胸喜が火つけ人である」(森正蔵『旋風二十年』(上)、鱒書房、1945年、143~44ページ)。

  簑田胸喜(明治27(1894)年~昭和21(1946)年、首つり自殺)。五高、東大法、文学部に転学、宗教論、慶応大学国士舘大学教授。ドイツ語ができ、流布されているマルクスのカウツキー版批判、エンゲルス版を元に日本のマルキストたちの浅薄なマルクス理解を批判した((『暗河4号』蓑田胸喜小伝;http://www2s.biglobe.ne.jp/~fdj/minoda.html)。

 慶応での講義ぶりは、名物であった。

 「人類の歴史は民族闘争の歴史であって、階級闘争のそれではない!マルクスは、民族闘争を、階級闘争に詭弁を似て変えたのである。何故かというと,彼は、ユダヤ人であったからである」(「学園名物教授を描く、三田、慶應義塾」、『国民新聞』、昭和6年5月11日)。



 昭和5年、東京駅で浜口雄幸首相が狙撃され重傷を負ったことを聞き、あちこちの教室の黒板に「狂喜乱舞」と書き記したと言われている(慶大予科の同僚・奥野信太郎「学匪・簑田胸喜の暗躍」、『特集・文藝春秋』昭和31年12月号)。



 簑田が京大で講演した時の模様を、松本清張は『昭和史発掘6』(文春文庫、2005年)で述べている。



 学生が、簑田の講演があると学生主事が言っているが本当かと滝川幸辰教授に聞きにきた。簑田を恐れていた滝川は、主事に詰め寄った。主事は、軍部の圧力で総長がやむなく引き受けたと解釈できる話をした。滝川は、講演担当であたので、講演の承諾書を書かなかった。しかし、講演予定当日、簑田は現れ、第四番教室で講演をした(経済学部が使用していた教室)。

 彼は演壇に登る時からすでに芝居がかっていた。助手のような青年に十数冊のドイツ書を壇上に運ばせ、口を開くなり、

 「河上肇氏の資本論の訳はカウツキー版によるからいけない。カウツキーはエンゲルス版を故意に変更して宣伝に利用した通俗本である」と切り出し、マルクスを論ずる以上は、この本を度外視するのでは話にならない、といって、カール・ムース著『カール・マルクス』を右手で高くかざし、河上攻撃をはじめた。

 
聴衆は騒ぎ、その罵声のために蓑田の言葉は一語も聴きとれなかった。滝川は、いうだけのことはいわせるがよい、と司会者に注意したが、いきり立っている聴衆は司会者の言葉にも耳をかさなかった。蓑田は小一時間も立往生したのち講演場を去った。

 そのあと座談会を開いたが、学生たちは分担を決めて蓑田理論を追求し、蓑田をいじめつけたため、蓑田は「抑留されている人が監視者の眼を偸んでこそこそ逃げるようなかたちで」京大を出ていった。



 その後、滝川は京大を追われ(1933年)、美濃部達吉は東大を追われた(1935年)。

 1933年7月14日の東京朝日新聞の投書欄「鉄箒」に「先憂子」という名で「学者の態度」と題した投書が載っている。

 「天下を論議する政客はいくらでも転がっているが、一身を国家に捧げる志士はない。諸学説を講義する教授はざらにあるが、真理に殉ずる学徒は少ない。常に動揺せる文部当局に比し、真理の忠僕、正義の使徒として終始一貫微動だもせず所信に生き、大学のために玉砕されし京大法学部諸教授の態度に私は満腹の敬意を表し、その立派な最期に近来になき感激を覚ゆる。
 滝川氏の学説が真に国家に有害ならば、京大法学部の閉鎖は云うもさらなり、これに和する全大学の全滅もまた厭うべきではない。また法学部の主張が是なりとせば、文相の即時辞職も内閣の更迭も避くべきでない。大学の自治と云い、研究の自由と云うも、滝川問題より派生したものである。かくも重大な問題となったにもかかわらず、本家本元の京都大学ですら問題の核心たる滝川氏の学説についての批判を聞かないのは吾人の深く遺憾とするところである。
 私は『刑法読本』を一読し、これが何故にかほどの問題を起したかを怪しむ。文部当局によって盛んに宣伝された滝川氏の内乱激成、姦通奨励の説のごときも、その実は吾人の常識に一致している。この書の発行当時、牧野前大審院長が本紙の読書頁でこれを推奨した事実よりみても、その危険思想でないことくらい見通しがつくと思う。
 今日の社会の通弊とするところは、正邪善悪の判明せざるということよりも、判明しながらこれによって去就を決せず、長きものには巻かれよという態度をとることである。滝川氏の学説の危険性を認めず、文部省の処置の不当を百も承知しながら、立って京大法学部を助けようとしない大学教授は救われざる輩である。
 学者の真理に対する態度はあくまで厳粛でなければならない。眼前を糊塗するは政治家の常であるが、学者のすべきことではない。今となっては致仕方なしなどとは学者として云うべきことではない。事件の根本に眼を向け、滝川氏の学説の正邪を明らかにして、あくまでも良心的に行動すべきである」。




 この「先憂子」と名乗った投書の主は、実は岩波書店主の岩波茂雄だった。

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