愛読していますブログ『内田樹の研究室』で、最近の株価に関する記事がアップされました。
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東京株式市場の日経平均株価が昨日一時的に7000円を切った。1982年以来の水準だそうである。
1982年といえば、うちの娘が生まれた年である。
育児に忙しくて、その頃の日本の経済状態がどうだったのか、あまりよく覚えていない。
でも、人々が困窮し、ばたばた倒産が続いていたというような記憶はない。
それなりに平和で豊かな時代だったような気がする。
あの時代にまた戻ったとしても、私は別に構わない。
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なるほど。1982年、私は小学生でした。小学生ですので当時の社会の状況がどのようであったかは、はっきりとした記憶はありませんが、格差とかバタバタ倒産といったような報道は多くなかったと思います。≪あの時代にまた戻ったとしても、私は別に構わない≫という文章にドキリとしました。21世紀になってから「1980年代は日本にとっては悪い時代であった」という論調の文章を私はほとんど目にしたことがありません。個々人の想いはあると思いますが、日本全体的に考えますと、昭和生まれの方々は1982年に戻ることに対して抵抗感は少ないのではないでしょうか。
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「なんと愚かな、26年前と比較しても何の意味もないではないか」と経済通は言うだろう。
その時代とは物価も国際環境も為替レートも違うんだから、比較するのはナンセンスだ、と。
いや、おっしゃるとおりだと思う。
だから、「26年前の水準まで下がった」という新聞一面の活字にも何の意味もないと私は思うのである。
株価以外の条件が違うのだから、「株価が同じであった時代」を持ち出して比較することには何の意味もない。
株価というのは「変動する」ということでのみ有意なものである。
ところが、いま見たように「株価が同じであった時代」を想起することが無意味であるというのがほんとうなら、株価が上がろうが下がろうが、当該株価を示したときの社会と比較することには何の意味もないということになる。
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これは私も同感です。現在の状態が良いのか悪いのか判断するには比較対照が必要です。何を比較対照にするのかが重要です。比較対照を誤ると、その文章には意味がなくなってしまいます。
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では、株価の高下とはいったい何と何を比較することで得られた数値なのだろうか?
株価である。
株価の高下とは株価と株価を比較することで得られた数値なのである。
株価の決定には株価以外の要素も関与している。
だが、それらの要素はすべてまぜこぜになった挙げ句に「株価」として表現されるので、それらの要素のひとつひとつがどのように株価の決定に関与したかは誰にもわからない。
サブプライムローンが今日の世界的な金融危機の原因だということは誰でも言うが、それが個々の金融機関やメーカーの株価の数値の高下とどう相関しているのかは誰にもわからない。
「なんだかよくわかんないけど、やたら下がっちゃった」のである。
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≪株価の高下とは株価と株価を比較することで得られた数値なのである。≫よくよく考えれば当たり前のことなのですが、私のような経済音痴の者にとって、あらためて気付かされた文章でした。株のことについて、私がいまいちピンとこないのは≪なんだかよくわかんないけど、やたら下がっちゃった≫からであると思います。株価全体の大きな動きのようなものはあると思います。しかし、少しだけミクロな視点で見てみますと、株価変動は金融危機が原因と言われているときもありますし、アルカイダのテロが原因と言われるときもありますし、地域紛争が原因と言われるときもあります。ようは、影響する要素が多すぎるため、日本や国際舞台で起こっている事象をすべてカバーできるような人だけしか、株価変動の原因が分らないのではないか、と思うのです。
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ご存じのとおり、株価というのは「人が『上がる』と思えば上がり、『下がる』と思えば下がる」ものである。
平川くんがよく引く喩えを使えば「誰が美人投票で一位になるかを当てる投票」のようなものである。
この投票は自分自身の美の基準とは関係ない。
「みんなは誰に投票するか」ということだけが問題なのである。
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私が株について、いまいち興味が持てないのは、これが理由かもしれません。私の知人にも株取引をしている人がいるのですが、何が楽しいのかよく分らないのです。彼らは、生活費を稼ぐために必死に株取引をしているという感じでもないです(少なくとも私の知っている知人については)。彼らが、ある株式会社の株を買い、その会社に出資する理由は何なのか。この理由を私が心の底から理解できれば、株について興味が湧いてくるのかなあ、と思います。≪誰が美人投票で一位になるかを当てる投票≫というだけでは、何だか味気ないと思います。この文章を読んだおかげで、私が「会社は株主のものである」という考え方に強い違和感を感じる理由が、かなりはっきりと明確になってきました。
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「どうもみんなはA嬢に投票するらしい」という風評が立てば、たちまちA嬢に集中豪雨的に票が集まる。
ある会社の株価が少し前に高い水準にあったのは、「人々は『この会社の株価はこれから上がる』と思っている」と人々が思っていたからである。
今下がっているのは、「人々は『この会社の株価はこれから下がる』と思っている」と人々が思っているからである。
だから、「底値」を打ったという風評が立てば「今が買い時」ということで投資家たちは買いにまわるだろう。そうすれば、株価はまた上がる。「まだまだ下がる」という風評が立てば株価は下がり続ける。
株価を決定しているのは「他人はこのように行動するであろう」という予測である。
しかるに、この「予測」そのものが「他人の行動」の決定に関与してしまう。
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株に頑張っている人が、あくせくしているように見えるのは、「株価の予想」とは「他人の行動の予想」と言い換えられるためだと思います。株に頑張っている人たち全員による、互いの予想合戦の結果が株価に跳ね返ってくるのです。他人が他人の行動を予想し、その結果が他人に影響する。すごく複雑で難しいですね。
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人間の社会というのは「幻想」の上に成立している。
貨幣は「人が貨幣だと信じるもの」のことであり、記号とは「人が記号として認知するもの」のことである。
株価というのもその点ではすぐれて「人間的」なものであるという点では変わらない。
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この結論は非常に面白いと思いました。株価のことを≪すぐれて「人間的」なもの≫と表現するとは。こんな結論に導かれるとは思ってもいませんでした。
長々と「内田樹の研究室」のブログ記事を引用して申し訳なく思っています。この記事を引用して自分の思っていることを書き足していけば、私が株や株価について思っていることをまとめられると思い、上記のようになりました。
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東京株式市場の日経平均株価が昨日一時的に7000円を切った。1982年以来の水準だそうである。
1982年といえば、うちの娘が生まれた年である。
育児に忙しくて、その頃の日本の経済状態がどうだったのか、あまりよく覚えていない。
でも、人々が困窮し、ばたばた倒産が続いていたというような記憶はない。
それなりに平和で豊かな時代だったような気がする。
あの時代にまた戻ったとしても、私は別に構わない。
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なるほど。1982年、私は小学生でした。小学生ですので当時の社会の状況がどのようであったかは、はっきりとした記憶はありませんが、格差とかバタバタ倒産といったような報道は多くなかったと思います。≪あの時代にまた戻ったとしても、私は別に構わない≫という文章にドキリとしました。21世紀になってから「1980年代は日本にとっては悪い時代であった」という論調の文章を私はほとんど目にしたことがありません。個々人の想いはあると思いますが、日本全体的に考えますと、昭和生まれの方々は1982年に戻ることに対して抵抗感は少ないのではないでしょうか。
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「なんと愚かな、26年前と比較しても何の意味もないではないか」と経済通は言うだろう。
その時代とは物価も国際環境も為替レートも違うんだから、比較するのはナンセンスだ、と。
いや、おっしゃるとおりだと思う。
だから、「26年前の水準まで下がった」という新聞一面の活字にも何の意味もないと私は思うのである。
株価以外の条件が違うのだから、「株価が同じであった時代」を持ち出して比較することには何の意味もない。
株価というのは「変動する」ということでのみ有意なものである。
ところが、いま見たように「株価が同じであった時代」を想起することが無意味であるというのがほんとうなら、株価が上がろうが下がろうが、当該株価を示したときの社会と比較することには何の意味もないということになる。
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これは私も同感です。現在の状態が良いのか悪いのか判断するには比較対照が必要です。何を比較対照にするのかが重要です。比較対照を誤ると、その文章には意味がなくなってしまいます。
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では、株価の高下とはいったい何と何を比較することで得られた数値なのだろうか?
株価である。
株価の高下とは株価と株価を比較することで得られた数値なのである。
株価の決定には株価以外の要素も関与している。
だが、それらの要素はすべてまぜこぜになった挙げ句に「株価」として表現されるので、それらの要素のひとつひとつがどのように株価の決定に関与したかは誰にもわからない。
サブプライムローンが今日の世界的な金融危機の原因だということは誰でも言うが、それが個々の金融機関やメーカーの株価の数値の高下とどう相関しているのかは誰にもわからない。
「なんだかよくわかんないけど、やたら下がっちゃった」のである。
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≪株価の高下とは株価と株価を比較することで得られた数値なのである。≫よくよく考えれば当たり前のことなのですが、私のような経済音痴の者にとって、あらためて気付かされた文章でした。株のことについて、私がいまいちピンとこないのは≪なんだかよくわかんないけど、やたら下がっちゃった≫からであると思います。株価全体の大きな動きのようなものはあると思います。しかし、少しだけミクロな視点で見てみますと、株価変動は金融危機が原因と言われているときもありますし、アルカイダのテロが原因と言われるときもありますし、地域紛争が原因と言われるときもあります。ようは、影響する要素が多すぎるため、日本や国際舞台で起こっている事象をすべてカバーできるような人だけしか、株価変動の原因が分らないのではないか、と思うのです。
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ご存じのとおり、株価というのは「人が『上がる』と思えば上がり、『下がる』と思えば下がる」ものである。
平川くんがよく引く喩えを使えば「誰が美人投票で一位になるかを当てる投票」のようなものである。
この投票は自分自身の美の基準とは関係ない。
「みんなは誰に投票するか」ということだけが問題なのである。
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私が株について、いまいち興味が持てないのは、これが理由かもしれません。私の知人にも株取引をしている人がいるのですが、何が楽しいのかよく分らないのです。彼らは、生活費を稼ぐために必死に株取引をしているという感じでもないです(少なくとも私の知っている知人については)。彼らが、ある株式会社の株を買い、その会社に出資する理由は何なのか。この理由を私が心の底から理解できれば、株について興味が湧いてくるのかなあ、と思います。≪誰が美人投票で一位になるかを当てる投票≫というだけでは、何だか味気ないと思います。この文章を読んだおかげで、私が「会社は株主のものである」という考え方に強い違和感を感じる理由が、かなりはっきりと明確になってきました。
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「どうもみんなはA嬢に投票するらしい」という風評が立てば、たちまちA嬢に集中豪雨的に票が集まる。
ある会社の株価が少し前に高い水準にあったのは、「人々は『この会社の株価はこれから上がる』と思っている」と人々が思っていたからである。
今下がっているのは、「人々は『この会社の株価はこれから下がる』と思っている」と人々が思っているからである。
だから、「底値」を打ったという風評が立てば「今が買い時」ということで投資家たちは買いにまわるだろう。そうすれば、株価はまた上がる。「まだまだ下がる」という風評が立てば株価は下がり続ける。
株価を決定しているのは「他人はこのように行動するであろう」という予測である。
しかるに、この「予測」そのものが「他人の行動」の決定に関与してしまう。
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株に頑張っている人が、あくせくしているように見えるのは、「株価の予想」とは「他人の行動の予想」と言い換えられるためだと思います。株に頑張っている人たち全員による、互いの予想合戦の結果が株価に跳ね返ってくるのです。他人が他人の行動を予想し、その結果が他人に影響する。すごく複雑で難しいですね。
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人間の社会というのは「幻想」の上に成立している。
貨幣は「人が貨幣だと信じるもの」のことであり、記号とは「人が記号として認知するもの」のことである。
株価というのもその点ではすぐれて「人間的」なものであるという点では変わらない。
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この結論は非常に面白いと思いました。株価のことを≪すぐれて「人間的」なもの≫と表現するとは。こんな結論に導かれるとは思ってもいませんでした。
長々と「内田樹の研究室」のブログ記事を引用して申し訳なく思っています。この記事を引用して自分の思っていることを書き足していけば、私が株や株価について思っていることをまとめられると思い、上記のようになりました。