菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

不安をFUNで。 『アナザーラウンド』

2021年09月19日 00時00分40秒 | 映画(公開映画)

で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1941回。


「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」

 

 

 

『アナザーラウンド』

 

 

 

中年教師仲間4人が人生の谷を血中アルコール濃度0.05%状態での能力開放理論で払拭しようとする悲喜劇。

アカデミー賞で、国際長編映画賞を受賞。(監督賞にもノミネート)

 

主演は、マッツ・ミケルセン。

共演は、トマス・ボー・ラーセン、マグヌス・ミラン、ラース・ランゼ。

 

監督は、『偽りなき者』、『セレブレーション』のトマス・ヴィンターベア。

 

 

 

物語。

デンマーク、コペンハーゲン。
真面目で冴えない高校教師のマーティンは退屈だった。彼の人生も彼自身も。
学校では生徒から授業がつまらないとクレームを入れられ、家でも妻子とは会話も減るばかり。若い頃ははじけていたのに、人生はずれていくばかり。
そんな時、友人教師ニコライの誕生日を仲間で祝ったときに、「血中アルコール濃度を0.05%に保つと人間はもっともパフォーマンスが上がる」という理論を聞く。
ある日、マーティンは現状を打破しようとお酒を飲んで授業に向かった。

脚本:トマス・ヴィンターベア、トビアス・リンホルム

 

 

出演。

マッツ・ミケルセン (マーティン 歴史教師)
マリア・ボネヴィー (アニカ)

トマス・ボー・ラーセン (トミー 体育教師・少年サッカークラブの監督)
マグヌス・ミラン (ニコライ 音楽教師・合唱部顧問)

ラース・ランゼ (ピーター 倫理(哲学?)教師)

ヘリーヌ・ラインゴー・ノイマン (アマリー)
スーセ・ウォルド

 

 

スタッフ。

製作:シシ・グラウム・ヨアンセン、キャスパー・ディシン
撮影:シュトゥルラ・ブラント・グロヴレン
プロダクションデザイン:サビーヌ・ヴィード
衣装デザイン:エレン・レンス、マノン・ラスムッセン
編集:アンネ・オーステルード、ヤヌス・ビレスコフ=ヤンセン

 

 

『アナザーラウンド』を鑑賞。
現代デンマーク、中年教師仲間4人が人生の谷を血中アルコール濃度0.05%状態での能力開放理論で払拭しようとする悲喜劇。
現状維持とそこを打破しようとするあがきについての映画であり、人生の甘みと苦みがアルコールに託される。北欧式のブラックコメディでもある。
アカデミー賞で国際長編映画賞を受賞。(監督賞にもノミネート)
トマス・ヴィンターベア×マッツ・ミケルセンの『偽りなき者』チーム。そのリアルの演出力はもはやリアル記録映像のごとし。そこからの飛躍の情緒、喜劇と悲劇のバランスは驚異的。ただ実験の部分はかなり適当です。酒好きの適当な大義名分なのでね。
マッツ・ミケルセンはしょぼくれ度合いに加えて、キャラ的でありながら袋小路にはまる人物を絶妙なラインで表現。その身体性も酔いとして発揮。ダンスもあります。(俳優前はプロダンサー)
メインキャストによる酔っ払い演技は至高。演技の刷新にはこういうカテゴリーもある。
デンマークは飲酒文化が日本よりも寛容で飲酒に年齢制限もない。(ただし18歳以下は保護者の同意が必要)お昼にワインを飲むのはけっこう普通みたいです。(だから、酒臭さも指摘されないんだろう)
あと、和を貴ぶみたい。連れション文化と言うか。ローカルな文化を用いつつ、グローバルにしているのが巧み。
原題の『DRUK』(『飲み過ぎ』)の響きからも「ドラッグ」への警告が含まれていると思われる。依存症映画は世界の一つの定番(『ビーチ・バム まじめに不真面目』も『ハングオーバー!』もその一種)。日本だと恋愛依存とか仕事依存として描かれることが多いが。アル中、ヤク中の主人公は案外少ない。
誰もがみんな傷だらけ。
教訓だらけのようで、裏をかいてくる。
根っこでは『ドライブ・マイ・カー』、『シャン・チー』と同じものを扱っている。
説明を演技や演出で察してとさりげなくやるので、見えない人には奥が見えない映画にもなっている。
さすがの撮影の的確さ。この引きの画のサスペンス。
キャラ配置も含みたっぷり。歴史と音楽と体育と倫理の教師。それらでも人生の憂さを晴らせないから、酒を呑むのでしょう。のんでのんで、のまれてのんで、のみこまれて失くすまで。
襲いかかってくる人生ってヤツをどう飲み下すのか、そして吐くのか。
毒をくらわば、反芻し、いったん開いて毒を出す傷作。

 

 

 

おまけ。

原題は、『DRUK』。
『飲み過ぎ』。

響きの似たドラッグ以外にも裏の意味もあるのではないかと。

英語題は、『ANOTHER ROUND』。
『もう一杯』。

もう一杯ずつの意味でもあるそうです。4人組なら4杯ということですね。
『アナザーラウンド』はメッセージ寄りになってます。

カンヌ映画祭での題は『DRUNK』みたいです。(欧州用の題名かも)
『酔う』。

 

2020年の作品。


製作国:デンマーク / スウェーデン / オランダ
上映時間:117分
映倫:PG12

 

配給:クロックワークス  
 

 

 

受賞歴。

2020年のヨーロッパ映画賞にて、作品賞、監督賞(トマス・ヴィンターベア)、脚本賞(トマス・ヴィンターベア、トビアス・リンホルム)、男優賞(マッツ・ミケルセン)を受賞。
2020年のサン・セバスティアン国際映画祭にて、シルバー・シェル男優賞(マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ラーセン、マグナス・ミラン、ラース・ランゼ)を受賞。
2021年のアカデミー賞にて、国際長編映画賞を受賞。

他に、約40の賞を受賞。

 

 

 

デンマークでは「16歳以下へのあらゆるアルコール類の販売禁止」「18歳以下への16.5度以上のアルコール類の販売禁止」「レストランやバーでの飲酒は18歳から」という法律はあるのだが、飲酒自体を禁止する法律はない。(ただし、18歳以下の飲酒には保護者の同意が必要)
しかも、世界ではけっこうある「公共の場での飲酒制限」がなく、周囲の人も酔っ払い行為にけっこう寛容なんだそう。(劇中にもチラっとそういうセリフがある)
劇中で高校生が飲酒することを責めないのはそのため。パーティなどでは子供にも酒が普通につがれるそう。(それでも13歳くらいからだそう)
加えて、お酒がかなり安く買える。劇中でも飲んでいるカールスバーグ(デンマークのビールメーカー世界4位のシェア)の瓶(330ml)は70円程度。しかも瓶返却で約15円戻ってくる。
(ビールレースの賞金が瓶返却代金なので、1ケース24本で20組出ているなら約7000円)

北欧が肝要なわけではなく、欧州でも、ずば抜けてデンマークが酔うことに寛容だそうです。
15歳以下の過去30日の飲酒率と言うデータで約40%だった。(欧州平均で約15%)

未成年のアル中とかありそう。

 

 

マッツ・ミケルセンはバレエ学校で学んだ後、約10年間、プロのダンサーとして活躍していた。演技学校に通ったのち、30歳でオーディションを受けて、ニコラス・ウィンディング・レフンの『プッシャー』で映画俳優デビュー。
このあたりの話は『プッシャー』シリーズのメイキングでも語られています。
(お兄さんも俳優だったりします)

 

 

アルコールの中枢神経への作用は血中濃度によって決まるため、酔いの程度も血中濃度と相関します。
血中濃度(%)が「0.02~0.04:爽快期」「0.05~0.10:ほろ酔い期」「0.11~0.15:酩酊初期」「0.16~0.30:酩酊極期」「0.31~0.40:泥酔期」「0.41~:昏睡期」というのが血中濃度と酔いの程度の目安。(厚生労働省のサイトより)

 

 

 

 

 

 

 

ややネタバレ。

撮影前に呑んではみたそうですが、呑んで撮影した部分はないとのこと。
メイクや目の充血は目薬でつくったりしたそう。

 

マッツ・ミケルセンのデビュー作『プッシャー』はメインではないが、その続編『プッシャー2』では主役(同じ役で)で、麻薬の売人でドラッグ中毒の役だった。

アカデミー賞はやはり選ぶ会員が高齢ではあるので、高齢なテーマに有利というのはないわけではないだろう。
(日本では、青春病もあるので、若い題材も強い。というか多いので良作も比例する。海外ではやはり現代や自分や目の前の問題を作家は描くのを是とするので作家と同じ目線になる)

 

劇中で呑む赤いカクテルは、「サゼラック」で、世界最古のカクテルのひとつとも言われている。(日本でも1920年代には紹介されているそう)

 

「人間は血中アルコール濃度を常に0.05%に保つことによってリラックスした状態になり、想像力を発揮できて、人生が豊かになる」(ノルウェーの哲学者・精神科医フィン・スコルドゥール)の根拠は「人間は生まれつき血中アルコール濃度が0.05%不足している」からだそう。。

wikiによると。
Finn Skårderud(1956年10月27日生~)は、ノルウェーの精神科医、心理療法士、作家、教授です。[1]彼はオスロ大学病院の心理療法プロジェクトを率い、個人開業医を経営し、エリートアスリートと協力してノルウェーオリンピック委員会の精神科医を務めています。彼はオスロ大学およびリレハンメル大学カレッジの特別支援教育学部の教授。
作家であり、映画、芸術、文学の批評家であり、フィクションとノンフィクションの両方の分野で、心理学、心理学、文化、文学、映画の分野で数多くの科学論文、本、本の章を制作している。

 

 

 

 

 

 

ネタバレ。

好みのセリフ。

「俺たちは大人だ。自制できる」

「他人や人生を愛するためには、自分が不完全だと認めるんだ」

「世の中は期待通りにならない」

 

描かれるのは、ミッドライフ・クライシス(またはミドルエイジ・クライシス=いわゆる中年の危機)だけでない。

 

『アナザーラウンド』は、『ドライブ・マイ・カー』と根っこは同じ話。
コメディとドラマとジャンルが違えども。
濱口竜介やトマス・ヴィンターベアには作家の時代が持つテーマを見抜く目があり、それでいわゆる作家のシンクロニシティが起こったんだろうな。
近い根っこは『シャン・チー』も。

その根っことは、自分をいつわることで傷口が開くのを避けている。
マーティンは妻が家庭以外で心を繕っているのを気づいているがそれを言うことができない。
妻と同じように、マーティンは酒に逃げる。これと同じことが妻に起きている。これが今作の映画的な仕掛け。
そのために自分の大事なものをやめていたが、それを再開する。
『アナザーラウンド』では酒を飲まない。
『ドライブ・マイ・カー』では俳優をやめている。
『シャン・チー』ではカンフーを封印している。

それは、自分で自分をコントロールできるという思い込みとも呼応する。
抑制できるはずだと。
だが、自分でさえ人はコントロールできない。
政治家が公の場でさえ酒で乱れる。
『アナザーラウンド』では経てきたものと減ってきたもので。
『ドライブ・マイ・カー』では喪失と創作で。
『シャン・チー』では、良心と両親で。

違いは、『ドライブ・マイ・カー』ではそれを逃げたことが永遠の後悔となっているが、『アナザーラウンド』は間に合うのがコメディなのよね。
それはマーティンが妻に傷を見せ、正直に「やり直したい」と本音を隠さずに伝えたことによって。
『シャン・チー』でもシャン・チーはケイティに自分の抱えてきた罪悪感の傷をさらして告白することで荷を下ろす。ウェンウーはそれが出来なかった。

3作とも妻を失う話。(『シャン・チー』はウェンウー視点)
『ドライブ・マイ・カー』は子そして妻という喪失の連鎖もある。
『シャン・チー』はシャン・チーとウェンウーという対立する二つの視点で喪失の連鎖を描く。シャンチーは父と妹、父は子ら、妹は兄を失い、ミニ父(のちに父と同じ座につく)となった。
そして、3作とも友が救いとなる。

もう一つの面もある。
この3作はどれもコミュニケーションについて描いている。
『アナザーラウンド』は一緒に飲むこと。
『ドライブ・マイ・カー』は複数のバーバルとノンバーバル。
『シャン・チー』は格闘。(複数言語もシームレスに会話出来ることで逆説的に考えさせる)

 

トマス・ヴィンターベアの『アナザーラウンド』はジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』の影響下にあるのではないか。(演出は真逆)
そして、濱口竜介の演出にはジョン・カサヴェテス的なものを取り込もうとしている節がある。
映画が窮屈な時代に風穴を開けるのに、ジョン・カサヴェテスが求められているのかもしれない。

 

 

妻も同じ思いでいるのに、そこに思いを馳せ、行動することができない。
トミーにはしてあげる。(トミーには家族がいないからでもある)
そのトミーに心配される。
妻は浮気をしている。酒に逃げたのと同じように。
セックスレスか、ごくまれにしかやっていなかったことがわかる。
他人は自分とは違うもので、同じ穴を埋めていることに気づけない。

原題の『DRUK』には、言葉を「飲み込み過ぎ」という意味もあるのではないか。
英語圏での受賞には、メッセージよりの『アナザーラウンド』のタイトルが影響したk農政もあるね。

 

今作が上手いのは、現代の政治への反応とも重ねているところ。
歴史(どうやら世界史)の教師であるマーティンによって、ローカルに留めないで相対的にデンマークを正当化しつつ、そのズレも見せる。
それは、現在の現状維持で保守的行動の隠喩にもなっている。(ここは日本の状態にも通ずる)

 

真面目も過ぎるという皮肉がある。
マーティンの授業は内容が濃く、専門家的な方向になり、軸の情報を脱線しつつも周辺情報で埋めていく広く深く学問という感じ。その教え方が真面目過ぎて、ついていけない生徒(授業から脱落する)をつくり出す。第二次世界大戦と第二次世界大戦を間違えるとかけっこうひどい。
それで親からもクレームが来る。受験をどう考えているんだと。
そこで、打開策が分からないマーティンは自分を殺すため(酒を呑んでも呑まなくても、マーティンは自分を殺している)に酒を呑み、授業を行う。それは狭く浅く、でも明るいバラエティショーでトリビアみたいな内容の授業を行う。そうすると大受けで、クレームはなくなる。
前者にもいいところはあり、知識としては本質になるはずだが、そもそも勉強嫌いに勉強の仕方から教えなければならないところになっており、ノリが重視されてしまう。
ある種、映画業界も映している。

 

 

 

劇中でも、出てくるビールレースでのルールにもお国柄が出ている。
単独で吐けばタイムが足されるが、チームのメンバーと同時に吐けばタイムは引かれる。
ここから、同行や相手に寄り添うのが美徳の文化も見えてくる。(ゆえに幸福度が高いのかもしれない)
マーティンたちが一緒に飲酒実験を行うのにはそういう文化も影響しているのだろう。
(誕生パーティで呑まないマーティンにが居心地悪そうなのとやっぱり呑んでしまうのはそこも影響があるのではないか。もちろん、抱えているものを相談できないからでもあるが)
ゆえに、トミーの孤独は深くもなる。トミーはいい奴で、メガネ少年の気持ちがわかるし、マーティンを応援する。繊細さゆえに酒に負けてしまったともいえる。
彼が自殺か、事故かわからないことが喪失感を強める。(たぶん、教師をやめることになるので、酒の量が増えてしまったのだろう)


ちなみに、デンマークの離婚率は高く、約46%。二組に一組は離婚してるくらいの数字。(日本は約35%)
そして、2021年のデンマークの世界幸福度ランキングは2位。(日本は56位)

アニカが別居後に喫茶店で会うとき、白ワインを飲むのも酒で壊れた夫への当てつけとかでなく、デンマークだとコーヒー代わりにワインというのはけっこ普通のことなのかも。
自分で「この国の人間はみな酔っぱらってる」と言ってたのに。

そういうことを知ってから、『セレブレーション』を思い返すと見えてくるものが少々変わってくる。
加えて、『偽りなき者』も保育園の保父である意味、教師なので、トマス・ヴィンターベアは自分の中にあるものがどうしても出てきてしまうという現実の物語の連想がある。
これもまた『ドライブ・マイ・カー』と重なるところ。

 

人生の苦痛を酒で紛らわせるしかなくても、酒は呑んでも呑まれるな。
だから、飲み過ぎはいけないけど、飲まないのではなく、適度に飲もうというゆるい教訓になる。

彼ら、ほぼ酒だけを呑むよね。酒の肴無し。二日酔いもあんまないのかな。子供の頃から呑んでいるから強いのかね。


トミーの葬式のあとでも、呑んではしゃぐのは、卒業式は祝うべきもの(自分の教えていた生徒だし)で、人生には悲劇と喜劇が同時に来る。(呑んで葬送する文化があるのかも。世界でもお葬式は明るくという問い文化があるし、日本でも地域によってあるし)
悲劇と喜劇も同時に起こる。生きていくってそういうことで、人生は暗いオプティミズムと明るいペシミズムが同居するもの。生きていくための仕方ない知恵でもある。
最後の妻との復縁は、ご都合主義に見えるが、傷をさらして、現状を打破しようとする軸への回答であり、悲劇が起きたら喜劇が起きるのが一つの作法でもあるので、ここは国ごとの物語文化の違いの部分でもある。宗教的にも、懺悔をしたら許されるという部分もあるのかも。(コメディなので教訓話の作法などでそういうことがある。西洋のTVアニメのコメディとかでこういう終わり方をちょくちょく見る)
あと、北欧にはトラジコメディの伝統があり、過剰な不幸を笑う、というのもあります。(日本でもコントにはあるし、『嫌われ松子の一生』とかがある)

これ、『ミッドナイト・スワン』も似てる終わり方です。
悲喜劇を抱えて踊る。応援してくれていた友人の死。バレエと復縁。引き換えのように成功が訪れる。
踊りも同じバレエだしね。

海に飛び込むことで、マーティンもトミーを悼んでいたことを伝えている。
勝手に家に入れるぐらいの仲だったんだもの。

 

マーティンはお酒を呑まなくなった時期に、子供ら、そして、妻に指摘され、初めて怒りを爆発させる。冒険をしたことで、傷を開いて見せることがようやくできた。
そうしてなければ、先に妻に離婚を切り出されていた可能性は高い。
(『ドライブ・マイ・カー』にはまさにその状況になったと思われる展開がある)
なので、壊れたことで直せたともいえるわけです。
スクラップ&ビルドですね。
ここにも政治的なメッセージが潜んでいる。

 

 

wikiによると。
トマス・ヴィンターベアがウィーンのブルク劇場で働いていた頃に書いた戯曲に基づいている。
さらに追加のインスピレーションはウィンターベアの娘のイーダから聞かされたデンマークの若者の飲酒文化の話から来ている。イーダは当初はヴィンターベアに映画に出演させるように頼んでおり、マーティンの娘役になった。
当初の物語は「アルコールがなければ世界の歴史は違っていただろうという説に基づくアルコールの祝祭」だった。
撮影開始から4日後にイーダが自動車事故で亡くなってしまう。
それを受けて脚本はより人生を肯定するように書き直され、「それはただ飲酒についてだけではない。人生に目覚めることについて」とヴィンターベアは説明した。
事故の翌週は共同脚本のトビアス・リンホルムが監督を務めた。
映画はイーダに捧げられ、一部のシーンは彼女のクラスメートと共に教室で撮影された。

『アナザーラウンド』ヴィンターベア監督、亡き娘に賞を捧げる…国際長編映画賞受賞スピーチ全文&受賞後インタビュー
https://moviewalker.jp/news/article/1030905/


本作のラストシーンを飾る楽曲はスカーレット・プレジャーの『What A LIfe』。
マッツ・ミケルセンの娘の高校時代、パーティ終わりの彼女をよく車で迎えに行っていた。その時に、一緒にいた娘の同級生でべろべろに酔っぱらっていた青年も送り届けたことがあったそうだが、その青年がスカーレット・プレジャーのボーカルのエミル・ゴルだと、映画を見た後の娘から聞いたミケルセンは、「あの時のあいつか!」と驚きつつ、その縁の不思議さを笑ってしまったそう。

 

劇中でも出てくる、デンマークの思想家キルケゴールの言葉がこの映画の軸となっている。

「人生の初期において最大の危険は、リスクを犯さないことにある」
「人生は後ろ向きにしか理解できないが、前を向いてしか生きられない」
「人生は、解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である」
「絶望とは死にいたる病である。 自己の内なるこの病は、永遠に死ぬことであり、死ぬべくして死ねないことである。 それは死を死ぬことである」

 

呑みまくったヘミングウェイ(享年61歳)の最後は拳銃自殺。
大して呑まなかったヒトラー(享年55歳)の最後も拳銃(または服毒)自殺。
チャーチルは脳卒中(享年90歳)で、ルーズベルト(享年60歳)も脳卒中。

 

 

 

 

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