菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

借り物の仮の人生/cw:ポテト・ステーキ   『ソラニン』

2010年04月10日 00時01分47秒 | 映画(公開映画)
 
で、ロードショーでは、どうでしょう? 第127回。



「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」







『ソラニン』
 


 



浅野いにおの同名漫画を原作に、実写映画化した作品。
 
宮崎あおい、高良健吾を主演にすえて、重要な音楽をent(ストレイテナーのソロユニット)とアジアンカンフージェネレーションで飾る。


ワタクシ、実は、浅野いにお作品はすべて持っています。
ファンというほどではなけども。


で、この映画は、一言で言うと、すごく普通。
もちろん、その普通の日々を描こうという物語ではある。
(ゆえに失われたときに、それを見つめなおすドラマが起こる)
しかし、それにしては、あまりにも表面的すぎる。
二次元の漫画には、精神だけが浮き彫りにできる利点があるが、生身の肉体には、重みが付加されてしまう。
それを無視することは出来ない。

まるで、4コマ漫画のように、シーンごとに奇妙なまとめをしようとするところが、うまくはまっていない居心地の悪さがあった。


演技陣にもそれは伝播していて、微妙に平坦と、やらされている感がつきまとう。
アジアン・カンフー・ジェネレーションによる原作の詩につけられた音楽のあまりにもアジアンカンフージェネレーション的な音が、すぐにそれが借り物であることを思い出す。
それぞれはそこそこによく出来ているのに、それがレンタルされたもので、彼ら自身のものではにように思わせる。



それが作品を支える視点になっていれば、傑作足りえた可能性はあるが、作品そのものが借り物のままで終わる。
最初は借り物でもよい、買い取ればいいのだ。
目的を持って、必要な道具として借りればいいはずなのに、その必要が、目的がまったく見えない。

借り物の家、借り物の仕事、借り物の音楽、借り物の主義、借り物の人生、借り物の物語になってしまう。
それが現代の若者だといわれても、まるで痛みのない事故シーンで、涙までも借り物になってしまう。
感情さえも借り物で、借り物の恋に、借り物の死のままなのだ。

その涙を誘う、クライマックスのライブシーンが、聴けてしまうわりに、映っているそれを信じることが出来ず、余計なものに逃げる。
視線をそらす。

実際の、アジアン・カンフー・ジェネレーションのバージョンを流さないことで、借り物を隠そうとしたのは最後の抵抗だったか。


宮崎あおいが、なんとか画面を持たせてくれるが、それでも借りてきたアイドルのようだ。
女優と言っても、若き国民的女優ともなるとこういうつつましさがいるのかもしれぬ。
ラストの彼女の歌声は、このアイドル映画としての極上の聴きどころではあるが、よりアイドル感を強固にしてもいる。
そのバンドのライブ・シーンは、十二分に鑑賞に堪える。
だが、ドラマとしてみると、彼女のその歌の見せ方によって、失われた者を忘れさせてしまう。
彼の生きていた証のためのライブのはずが、彼の死はドラマ上の犠牲になってしまう。

近藤洋一(サンボマスター)は実人生に近い役柄ながら、今度は借りてきたミュージシャンとなっており、唯一、桐谷健太が気を吐いているといえる。


撮影も、いくつか、ハっとする瞬間をとらえたものもあるが、全体的に寄った画に力がない。
橋の上の二人乗りの自転車をとらえた移動撮影などは、特筆すべき美しさがあるだけにもったいない。
控え室や練習スタジオの狭さをうまく切り取っている。


美術は安定しており、ロケ地との兼ね合いなど、粗が少ない。


原作には、流れる血の熱さをどう隠すか、冷ますか、覚ますかの葛藤があった。
いわば、付け合せであるジャガイモをこねて焼いて、ソースで味付けし、ステーキにしてみせよう、という創意工夫を熱があった。
そういうメニューの開発する楽しみこそ生活の喜びなのだと思う。
この映画版には、そういう発見があまりないのだ。
なんのてらいもないハンバーガーのような、飽きないのかもしれないが、別段それを目指してその店を訪れないメニューのような味わい。
定番とはこういうことを言うのだろう。
その定番の良さはあるとも言える。



平凡な毎日を描くことと平坦に描くことは、まるで違う。
日本映画、アジアの映画がもっとも得意としている日常の映画の系譜としては余る上等な方ではない。

だが、これがデビュー作であると考えれば、三木孝浩は、手堅く安定はしている。
次に期待はしてもいいかもしれぬ。


欠点は連ねたが、今の邦画では及第点の映画になっている。
それは、原作への愛情のなせる業かもしれない。
しかし、この映画は、それさえ裏に隠してしまっているから、言いたくなる。



 




あと、芽衣子のそばかすは残すべきだったと思う。
アイドル映画を分けたのは、彼女の平凡さであったはずだ。
スターが持つ魅力とは、恐ろしいものである。
そのせいで、作品が死ぬこともある。

作品としてみるのか、商品としてみるのか、それは重要な問題となる。

ただ、宮崎あおいが出てなければ、この作品をそこそこ面白いとさえ思わなかったかもしれぬのだ。







おまけ。その1
スターが良くも悪くも作品の印象を作ってしまっているのに、凡百な作品になることを、おいらは、【『ザ・メキシカン』問題】と呼んでいる。
『ザ・メキシカン』は、そう悪くない脚本が、ジュリア・ロバーツとブラッド・ピット大スター二人が主演したことによって、バランスを欠いてしまい、とても凡百の映画になってしまっている作品なのです。
キャスティングミスというほどでもなく、演出のミスと言うほどのものでもなく、脚本の悪さもそうなく、そこそこなのに、もしかしたら、この二人のスターでなければと思わせる出来。
でも、そのスターが出なければ、そこそこのヒットもせず、多くの観客の元には届かなかったかもしれない。
観人が増えれば、そこそこの作品にも好む人の数は増える。
【『ザ・メキシカン』問題】とは、そのジレンマを指す。





おまけ。その2。
おいらは“ハッシュドポテト・パイ”を目当てに店を目指すことはあっても、ハンバーガーを目当てには行かない。
だが、チ-ズバーガー目当てには行くかもしれない。
チーズだけでも、ハンバーガーだけでも行かない。
でも、チーズバーガー目当てなら、行くかもしれない。
そうか、スターはチーズなのか。
しかし、チーズバーガーのチーズだけを食うわけにはいかないのだ。




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