自分で決めたテーマに合わせて本や映画を探したり、色んな意見を読んだり、発見があったりするのは、
とても有意義で夢中になれる事だと思います。
早速、家にある本から探してみたり、本屋でも興味を持ったものを1冊買ってみたり、、、しました。
(購入した本→田原総一朗著「日本の戦争」)
まず、自分が立ててみたテーマ、「太平洋戦争と日本の朝鮮半島侵略・支配について」が、かなり無理
矢理なテーマと判明。太平洋戦争は1941年~とされるのに対し、朝鮮半島の侵略・支配を、いわゆる
「日韓併合」と考えると、1910年、という事になるので、時期が違いすぎて、いきなり一緒に考える、
というスタンスはやめよう、と思うに至りました。。。
ざっと30年の開きがあるので、時間を追って、見つめていきたいと思います。
でも、やはり、学生時代に習ったはずの「日本近代史」ではありますが、社会人になって、ニュースや
時事問題で疑問を感じてから、もう一度、読みなおすと、本当に驚かされることが多く、新鮮でした。
よく、「目からウロコ」が落ちるって、、、「はぁぁ、そうだったのかぁ」みたいな時に言いますよね?
読み始めて、2日位ですが、もー、「ウロコ」10枚くらい落ちてます(笑)。
小泉風に言うと「サプライズでしょ」って感じです。
特に、印象的なのは、2代前の千円札の人・伊藤博文です。
1904年の「日韓議定書(第1次日韓協約)」、1905年の「第2次日韓協約」、、、と、日本は、軍事力を
背景に韓国への支配を強めていきます。
日本軍の駐留権、土地収用権、更には、外交権を取り上げ、日本に従属させる国、とする、、、等々。
それらの日韓の交渉は、段階的に行われていくんですが、その交渉役が、「首相」を2回も努めた
伊藤博文だったわけです。
日韓併合(植民地化)に強く反対し、韓国の保護・自立を願っていた、という伊藤でしたが、国内政府は
強行で、まさに日韓併合まっしぐら、という状態だったので、
「韓国を最も理解している自分以外に、この任務をやれるものはいない」
「他の者がやれば、強行的に植民地化に進む。韓国の独立をぎりぎり皮一枚でも残すために自ら特使に
なった」・・・と、田原総一朗氏は、伊藤の心境を捉えています。
また、伊藤が韓国・統監として行った事として、韓国富強のための1000万円(現在の価値では
約332億円)の貸付、学校の建設、病院の新設、農業の改良、道路の修築、司法制度の整備、
銀行設置などなど、、、があり、韓国の保護育成政策をとっていた、との事。
1909年10月、伊藤博文は、ハルビン駅で韓国人・安重根に暗殺されます。
「銃声が響き、伊藤の体は弾かれたようによろめき、従者達が慌ててそれをささえ、特別列車内のサロンに
飛び込んだ。伊藤は苦痛を訴える事も無く、医者達のすすめるブランデーを飲み、犯人が韓国人であること
を知ると、一言、『ばかな奴じゃ』と呻いた。それが伊藤の最後の言葉だったという。享年69歳だった。」
(上記「日本の戦争」からの引用)
この暗殺の10ヶ月後、1910年8月、韓国の主権を完全に奪う「日韓併合」の条約が調印された、
とのことです。
そう言えば、学生時代にそんな事を習って覚えたような気もするのですが、改めて本で読んで、
私は、伊藤博文の生き様に、とても感動を覚えました。
「お札の人」ではなく、悩み苦しみながらも、世界的に帝国主義だった時代に、出来るだけ平和的立場を
貫こうとした人物。こんな「近代日本」人もいたんだな、と本当に嬉しくなりました。
とても有意義で夢中になれる事だと思います。
早速、家にある本から探してみたり、本屋でも興味を持ったものを1冊買ってみたり、、、しました。
(購入した本→田原総一朗著「日本の戦争」)
まず、自分が立ててみたテーマ、「太平洋戦争と日本の朝鮮半島侵略・支配について」が、かなり無理
矢理なテーマと判明。太平洋戦争は1941年~とされるのに対し、朝鮮半島の侵略・支配を、いわゆる
「日韓併合」と考えると、1910年、という事になるので、時期が違いすぎて、いきなり一緒に考える、
というスタンスはやめよう、と思うに至りました。。。
ざっと30年の開きがあるので、時間を追って、見つめていきたいと思います。
でも、やはり、学生時代に習ったはずの「日本近代史」ではありますが、社会人になって、ニュースや
時事問題で疑問を感じてから、もう一度、読みなおすと、本当に驚かされることが多く、新鮮でした。
よく、「目からウロコ」が落ちるって、、、「はぁぁ、そうだったのかぁ」みたいな時に言いますよね?
読み始めて、2日位ですが、もー、「ウロコ」10枚くらい落ちてます(笑)。
小泉風に言うと「サプライズでしょ」って感じです。
特に、印象的なのは、2代前の千円札の人・伊藤博文です。
1904年の「日韓議定書(第1次日韓協約)」、1905年の「第2次日韓協約」、、、と、日本は、軍事力を
背景に韓国への支配を強めていきます。
日本軍の駐留権、土地収用権、更には、外交権を取り上げ、日本に従属させる国、とする、、、等々。
それらの日韓の交渉は、段階的に行われていくんですが、その交渉役が、「首相」を2回も努めた
伊藤博文だったわけです。
日韓併合(植民地化)に強く反対し、韓国の保護・自立を願っていた、という伊藤でしたが、国内政府は
強行で、まさに日韓併合まっしぐら、という状態だったので、
「韓国を最も理解している自分以外に、この任務をやれるものはいない」
「他の者がやれば、強行的に植民地化に進む。韓国の独立をぎりぎり皮一枚でも残すために自ら特使に
なった」・・・と、田原総一朗氏は、伊藤の心境を捉えています。
また、伊藤が韓国・統監として行った事として、韓国富強のための1000万円(現在の価値では
約332億円)の貸付、学校の建設、病院の新設、農業の改良、道路の修築、司法制度の整備、
銀行設置などなど、、、があり、韓国の保護育成政策をとっていた、との事。
1909年10月、伊藤博文は、ハルビン駅で韓国人・安重根に暗殺されます。
「銃声が響き、伊藤の体は弾かれたようによろめき、従者達が慌ててそれをささえ、特別列車内のサロンに
飛び込んだ。伊藤は苦痛を訴える事も無く、医者達のすすめるブランデーを飲み、犯人が韓国人であること
を知ると、一言、『ばかな奴じゃ』と呻いた。それが伊藤の最後の言葉だったという。享年69歳だった。」
(上記「日本の戦争」からの引用)
この暗殺の10ヶ月後、1910年8月、韓国の主権を完全に奪う「日韓併合」の条約が調印された、
とのことです。
そう言えば、学生時代にそんな事を習って覚えたような気もするのですが、改めて本で読んで、
私は、伊藤博文の生き様に、とても感動を覚えました。
「お札の人」ではなく、悩み苦しみながらも、世界的に帝国主義だった時代に、出来るだけ平和的立場を
貫こうとした人物。こんな「近代日本」人もいたんだな、と本当に嬉しくなりました。