モーリの切り絵を楽しむ!!

切り絵をやっています、モノクロに拘って作品を創作しています。
あなたも一緒に愉しみませんか?

前立腺手術のため入院します。

2013年02月18日 | 日記
◆前立腺がんの摘序のため入院

 運良く、前立腺のがんが見つかり、摘序する事になりました。

 早期発見・早期治療を実践します。

 2~3週間ですが其の間ブログをお休みします。


◆ディでの出来事

 16日まで仕事でしたが、
 ディの送迎担当でしたが、仲間内からも厳しいと評判の女性が「今日送迎変わります」と・・、
 「入院前、風が冷たいので風邪などひかないように・・」と交代を申し出てくれました。

 多分異例の事で、周りがきょとんと・・、自分は快く「ではお願いします」と返答、折角の彼女の好意に甘える事にしました、     夕方ドライバーさんから「介護職として認められた」といわれました。

 またユニット責任者から「退院祝いを計画してますので、元気になって戻って来てださいね!」ともいわれました。

 待てくれてる人がいるのは嬉しいですね・・。

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第5回ひだまり剪画(切絵)習作展

2013年02月17日 | 日記


◆ 第5回ひだまり剪画(切絵)習作展

 日時 平成25年2月24日 ~ 3月25日

  時間 平日  9:00 ~ 19:00   
     土・日 9:00 ~ 17:00  最終日 9:00 ~ 15:00

会場  カフェースペース101  TEL03-3906-3101
    http://www.geocities.jp/hyotandrum/space101/index.html

   東京都北区十条2-6-13(東十駅南口より徒歩3分・十条駅より徒歩5分)
   車でのご来場はご遠慮ください、駐車場がありませんので電車が便利です。
  仲間8人の作品を展示します。



◆自分の出展作品
●旧家の佇まい


●雪の里・五箇山


●千手観音と磨崖仏(昨年の「日本剪画美術展出展・奨励賞受賞」


●鷹と止まり木(昨年の「日本剪画美術展出展」)



一月と長い展示会ですから、お仲間と御誘い合わせてご覧いただければ幸いです。

東十駅南口より徒歩3分・十条駅より徒歩5分と駅からも近いです、駐車場は有りませんので、電車のご利用が便利です。


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入院に向けて」!!

2013年02月16日 | 日記
介護職も今日(16)まで仕事です。
仲間の職員さん達からも温かいメッセージを頂き「必ず戻って来てね!」
「利用者さんたちも待ってるからね!」  「又一緒に仕事しましょうね!」等と・・・。
ま~あこんなおじいちゃんで待ってて貰えるのは嬉しいですね・・。

◆バレンタイディ
 今年は珍しく、チョコが3つも・・?
剪画(切絵)教室の女性たちから先生と自分にと1個・・、妻から1個そしてディの女性職員個人から1個の計3個!
受け取る日はバラバラでしたが、何時もと違うバレンタインでした
全て甘味を抑えたタイプの様です。
過去の仕事の殆どが男性だけの職場でしたから、縁が有りませんでした。

◆ひだまり剪画(切絵)習作展
15日の剪画(切絵)教室で、先生から基本的に「日本剪画美術展」に出すのは未発表作日にする事といわれる。
「ひだまり剪画(切絵)習作展」への作品が大幅に変わりました。
詳しくは明日の日記に掲載しますが」、昨年の「日本剪画美術展」に出展した作品2点を出す事になりました・・・。

◆18日から入院
予定通り「前立腺手術で18日から約3週間入院します。
まだ準備が出来てませんが、17日に準備する予定です。
日記はその間お休みになりますが、皆さんの日記は携帯で観る事ができますので宜しくお願いたします。
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我が半生その⑥ 「息子と共に生きる・・」 !! 「あの時ああすれば良かった等と後悔しない生き方」

2013年02月15日 | 日記
妻は専業主婦で家庭の事を任せ、経済的にも生活費(食費と雑費)だけを渡して管理して貰う。
その他の光熱費・ローン代・保険料等の一切は自分が管理する。
その頃はまだまだ「設計事務所」で機械装置の仕事もしていましたので、資金繰り・物の手配・納期管理
行程表・打ち合わせ・図面の届け(直接担当者に届け、検図して貰い手直しする)・機械装置の設計・制御盤のハード設計・ソフト設計など
やる事が一杯です。

マンションに引っ越して、日中は自分の仕事部屋の続き間に息子は寝てじっと自分の仕事を見ています。
一段落すると座卓の上で妻と二人で息子の訓練や、マスキングなどをします。
寝返りも泣く事もできませんから置かれればそのままじっとしています。
少しずつ変化が表れ、笑うようになりました。  訓練を遊んで貰ってると勘違いしてる様です。
係わって貰える事で身体を動かす事が出来る、それが嬉しいようです。

小学校は義務教育ですが普通学校には入れず、当時の「養護学校」に通う事になりました。
住んでる江戸川地区でも一番遠い海寄りなので、学校まで1.5時間も乗車する事になります。
息子の体力が持つのか? 訓練時間が取れ無くなる?等問題も出て来ます。

◆妻が車の免許を取る
多忙な時間をやりくりして妻が自動車教習所に通い免許を取るまで5カ月掛りました。
当然です、夜もまともに寝れないし、運動神経も極めて悪い(小学校は体育は全て休み、週に3日も欠勤です)
それでも子供の為にと、教官も仕方なく免許をくれたようです。

その性で妻が学校まで送り迎えする事になり、殆ど学校で一緒に過ごす。(お昼持参)

◆息子の将来をどう考えるか?
息子の将来を夫婦で考え、今の生活環境で良いのと話し合う。
江戸川区に住んでいますが、都内でも福祉の制度は良いが、このままでは妻も息子疲れすぎるのでは・・?

妻もこのままでは無理と感じていて、息子優先で学校・福祉・病院に便利な場所を模索していました。
そして、より良い環境を求めて引っ越す事に・・・。

◆お互いに「あの時あ~あやっておけばよかった等、後で後悔したくない」様に今出来る事を確実にしよう!





◆新宿に引っ越し(昭和59年)
新宿区の養護学校は新宿区在住で、中学までしか有りません。
小学校3年の時に引っ越すが、養護学校のバス経路を教わり、一番最後に乗る場所の近くで物件を探す。
もうこの頃は、買うことは考えず賃貸です(家に拘ると息子への係わりが悪くなる)
江戸川のマンションを売り払い、自由な立場で物件を探す。
丁度神楽坂駅より徒歩1分の場所が見つかりました(2DKと手狭ですが・・)
自営の設計事務所も廃業して、生活費を稼ぐ為にサラリーマンになる。
裁判はまだ継続中です。 息子の高校を見据えて地議の引っ越しも検討中・・。

◆夏休みは1カ月息子と妻は千葉の大貫へ
妻のお兄さんのお嫁さんの実家がご両親が亡くなり空いてるので使っていいと・・?
自分は東京で一人暮らしで、炊事・洗濯・掃除はこなしています。
1カ月以上もいると、養護学校のお友達も尋ねる様になり賑やかです。
自分は2週間に一度くらい泊まりで出掛けます。

もうこの頃は真剣にドーマン法の訓練は出来なくなってくなっていました(人により効果が違う・・)
何とか楽しい事をと考えていました。


書き始めて、こんなに長くなるとは思ってませんでしたが、続きは退院してからになりそうです。
まだまだ色々有りますので続きます。
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我が半生その⑤ 「多忙すぎて廃業・・」 !!

2013年02月14日 | 日記
独立して仕事も除々に増え、図面だけでは無くて機械や装置を作って欲しいとの要望が多くなる。
知り合いの加工屋さんに頼み組立から納入据え付けまでお願する事にお願いする。

図面だけではなく機械部品の仕入れから納期管理、組立調整そして電装までこなさなければなりません。
機械装置はメカニカルだけで制御出来ないので電気のコントローラーが必要になります。
機械を一番知ってる機械屋さんが電気回路を組めば良いとの判断で、自分でハードとソフトを設計しデバッグ
(調整運転)までこなす事になりました。

先にも書きましたが朝の8時から夜の12時まで仕事してますからもう大変です。
人に任せる事が出来れば一番良いのですが、人を採用して大きくする積りが無いので当分一人で仕事をする。

どうしても間に合わない時は、出入りしている会社の設計屋さんに逆発注でアルバイトで図面を書いて貰います。
機械図面はそれで済みますが、電気は自分でハード設計して制作を先行し、合間にソフトウエアを設計する。
誰でもそうでしょうが忙しい時は幾つも頭の中で仕事が駆け巡り、色んな事を同時に考えながら次々と処理する。

●昭和51年 ロッキード疑獄 田中元首相逮捕


●昭和52年 王選手 ホームラン世界新記録


●昭和53年 成田国際空港開港


◆「建築・雪の荷重が建物にどう影響すいる」かの試験機(東大生研・建築科の依頼)
屋根にこう配が有りますので、ゴムなどに水を入れて荷重を掛けるのは無理、均一荷重を2~5週間かける。
簡単にはエヤをゴム袋などに供給すれば良いのですが、国内のエアレギュレーターレーターの設定制度が±0.1㎏/cm2と
短時間で変動してしますので何とか良いレギュレーターが無いかの相談・・・。

文献を調べると外国産で±0.002㎏/cm2の精度ある事が判り、国内販売店へ資料請求をする。
精度が良いので値段も国産の10倍・・、さてどうしますか?と返事する。
何処かで使ってる所が有れば見たいとの返事 → 国内で一カ所(大阪方面)で飛行機関連の装置で使用しているとの事。
先生と自分が現地にいき使用状態を確認し、使えるかどうかの判断をする・・。
実験データを見る限り長時間(48時間)の安定性も有り設定精度も±0.005㎏/cm2以下と・・  →  即購入する事になる。
まとめて10台購入頂く・・。
空気圧ですから外気温度の影響受けますが、実験室なら大体温度差が20℃以下なので温度勾配特性を確認済み。

油圧や空気圧もどんどん機械装置に使用されるようになり、古い機械技術屋さん達は相当苦労したようです。
物凄い勢いで自動化の考えが広がり、メカトロニクスに対応できないと生き残れないと・・。

●自動車メーカーの試験装置・性能解析システム・耐久試験気等などやはり日本初の機械装置を作りました。

そんなこんなで多忙すぎてどうにもならなくなり、息子の毎日の訓練も出来ないので、9年目に廃業する事にしました。
一年前から関連企業や学校にお願いして辞めるようにしました。(昭和58年に廃業)


◆自分が息子に何が出来るか?
自分は三度の生死を彷徨い、生かされている意味が我が子を守る事かと・・!
この世に生を受け、生後一週間で7時間の交換輸血の手術に耐え、生きたいと訴えています。
そんな息子に自分が何を出来るのでしょうか?

この頃はまだ裁判もはじまってません、例え裁判で勝っても我が子が元に戻ることなどありえません。
少しでもその子が生きやすい環境を探し求め、色んな訓練や施設・病院を探し出し、共に生きるしかない!

生後6カ月からボイタ法の訓練が出来る整肢療護園(板橋区)に通所始め、母親と息子が3カ月入院して訓練方法を教わる。
それを自宅で反復訓練して又、その後の様子を判断して次のステップに入る。

身体障害者手帳を6ケ月で申請しましたが、現状では判断できないと2歳で再申請する。
医師の診断書が有り「核黄疸の後遺症による脳性麻痺」 一種一級になりました。
ボイタ法やドーマン法などの訓練を受けるべく家族(両親と同居)で協力しました。

●ボイタ法
ドイツの小児神経学者ボイタが脳性まひ児・者に対する超早期診断・治療法として開発された治療訓練方法。
ボイタ法の種類には反射性寝返り(仰向け・横向け)と反射性腹這い(うつ伏せ)がありぞれぞれの誘発帯を治療者が刺激して
各誘発帯を圧迫していくことによって寝返り・四つ這い・立位動作に必要な筋運動を促していく訓練方法です。

●ドーマン法
ドーマン法とは、障害者・障害児を精神的・肉体的に健常者・健常児に近付けるためのリハビリの手法です。
プログラムの内容は、数人の大人が障害児の手足首を毎日何時間も強制的に動かして、体の動きを脳に学習させると主張する「パターニング」や、10分毎にビニールのマスクで鼻と口を覆い、自分の呼気を繰り返し呼吸させることにより低酸素状態にして、肺機能を活性化させる。


仕事の合間に4~5時間/日の訓練をやる、それはそれで物凄く大変なことです。
でも少しでも可能性が有るなら親としてやるしかないです。
そんな訓練を両親に手伝って貰っていましたが、やはり無理も出来ません、そして両親も引っ越す事に成りました。
母親も平屋の生活しかした事が無いので、戸建の2階屋には馴染めず、ある日階段から落ちて怪我をしました。
階段の有る生活は無理と近くのマンションに買い変える。(ワンフロアーの生活が始まる)


息子は身内の集まりの時は必ず一緒に参加して、それでも懸命に生きてる姿を親族に見続けて貰います。
お正月・春の彼岸・お盆・秋の彼岸・法事など・・・。(妻は6人兄弟ですから親族も多い)

まだまだ息子の話は続きます。
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我が半生その④ 「独立・結婚そして医療ミス・・」 !!

2013年02月13日 | 日記
転職先でも厚い保護を受け、自分のしたい事をやらせて頂きました。
電気油圧サーボを基本にどうしたらもっと販路を拡大できるのか?
その会社は商社ですが技術部門が有り、その主任待遇です。

皆さん自分よりも年上ばかり、色々大手の研修に参加させて頂きました。
とくに研修は松下電工・トヨオキ工業(トヨタの油圧部門)等へ3~6ヶ月も出掛けるのですから、楽しいです。
他の連中は結構ぶつぶつ言ってましたが、勉強出来てお給料貰えるのは最高!

この会社でも日本始めて物語が・・、世の中はどんどん自動制御に対して真剣に対応し始めていました。
昭和46年ごろから、電気部品の開発が盛んになり、モーターの制御で機械を動かす、いわゆるメカトロ(機械と電気の結合)
の考え方が出て来ました。

電気を制御する事でメカ(機械)を制御しようとの考え・・、メカトロニクスです。
まだまだ部品は少なく全産業への浸透は無理ですが、楽しい局面です。

油圧は判らなくても、電気なら多くの人が理解できるので、将来はメカトロニクスが主流になると確信しました。
モーターの周波数コントロールで回転数を制御したり、PO(シーケンサー)で機械の動作をコントロールする。
こちらの3年間でその基礎をしっかり勉強しました。

有る日業績が悪くなり、技術部門を廃止して営業部門だけにするとの事に方向性が決まり又転換期です。
仲間の技術職は、新たに会社を作る事に・・、さて自分はどうしようかなと?
26歳そろそろ結婚したいし(今の妻と6年越しの付き合い)、色々悩み独立する事になりました。
自分が「設計事務所」を作り、当面一人で仕事をする事になりました。

●昭和50年 銀座・三越


●昭和50年 SLのお別れ



◆子供が医療ミスで「脳性小児まひ」に・・。
昭和49年の12月に結婚し、昭和50年の11月に息子が生まれました・・。(産み月で3,600g)
ここでも大きな転換期が・・、その子供は医療ミスから「核黄疸の後遺症による脳性小児まひ」になりました。
病院がっ賃貸公団の中にあったので、その産婦人科で生まれましたが、黄疸が強いのに何の治療のせずに退院させられました。
翌日から息子はくしゃみが止まらず、顔も真っ黄色です。
余りに辛い表情なので違う病院を受診して、直ぐに大学病院に転院され交換輸血受ける事になりました。
血液型不適合・・、自分はA型・妻はB型・息子はA型・・。
生後一週間目で生死の境を彷徨う事に、何とか7時間の手術も終わりましたが、Drから「後遺症が残ります」との説明が有りました。
兎に角助かった命・生きたいとこの世に生を受けて来た命です!

病院も遠く、電車で1.5時間の距離・・自分は独立したばかり・・、妻は産後で動けない・・。
退院後、6ヶ月から、ボイタ法やドーマン療法へと3カ月の訓練に妻が通いました・・。
見守るしか出来ませんでした。
子供は黙っていても育つと思っていた自分には、「助かった命に、出来る限りのことをしてやろう」との思いだけです。

訓練に人手がいるので、両親と同居するために都内に戸建を27歳の時に購入しました。(勿論ローンです)
その頃は仕事も順調に増え、責任有る仕事がしたいので人には任せずに自分一人で、朝の8時から夜中の12時頃まで
毎日仕事です。(会社は休み明けに図面が欲しいので連休はもっと忙しい)
図面はドラフターで書く手書ですから、枚数をあげるにはどうするかがカギ(仕事時間を長くする・寝る時間を少なくする)
仕事をやり過ぎて図面を書く腕が上がら無く成る事もしばしばで、鍼灸などにも通いました。




◆裁判へ
医療ミスとの事で裁判をする事になりました。(昭和53年)
色々調べるとその担当医師は、軍隊の医師で戦後の救済措置で医師免許を取得している。
軍隊に産婦人科が必要かと疑問を持ちました・・、兎に角医学はこちらも全く素人ですから、弁護士さんと一緒に
猛勉強で、図書館へ通い資料を作り、当時は既に「核黄疸」は治療するのが当たまえと証明する・・。
多くの現役の先生のアドバイスを受け、付け焼刃の勉強で裁判で相手と立ち向かうのですから大変です。
息子は生涯、首も座らず・呼吸も出来ず・寝返りも打てない・食べる事も喋る事も出来無いスーパー重度障がい児です。
仕事の合間に家族で訓練しての生活が5年ほど続きましたが、両親も段々年を重ねもう少し広い部屋に行きたいと・・。
その頃まだ父も船橋方面に勤めていたので、その近くにマンションを買い引っ越して貰いました。(承継ローンで・・)

裁判も7年目に裁判所から和解勧告が・・、他にもその病院2件も訴えられているらしいと・・。
息子の為に闘い、裁判で和解したお金です・・、有効に使いたいですね。
いつも笑顔で・・、そんな息子に何かを残したいと・・。
出来る事を出来る範囲で精一杯やるしかない・・。
一番大変なのは母親です、何時も息子と一緒ですから精神的に休まる時が無いのですから・・。
男は仕事に逃げ道が有りますが、妻は24時間息子と係わって生きている、物凄いエネルギーです!
夜も30分毎に寝返りさせないと呼吸が苦しい・・、それを毎日続けるのですから・・感謝です。

まだまだ転換期が続きます。
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我が半生その③ 「日本で初めの機械・装置」 !!

2013年02月12日 | 日記
会社に勤めても多くの研修が時間外に有り、本当に楽しい時間を過ごせました。
貪欲に吸収し、自分の知識として実践しながら身に付ける・・。
基礎から学び、自分の知識として会得できるまで・
・。(この時代は人を育てる事を大切にいしていました)
今回は少し愚か者の自慢話にお付き合いください。

◆自動制御は未知なる学問
多くの大企業でも自動制御は学問としか考えて無く、それを商品化しようとはまるで考えていませんでした。
まだ20歳前後の若造の自分がそんな大企業の研究室や開発室へ出向いて20~30人の前で講師変わりをするのです。
本当に優秀な人達ですが、大学でも自動制御の学問を学ばないで世に出た人達です。
そんな前で自動制御の話しや、電気油圧サーボの話をする・・それでも真剣に聞いて下さる。
優秀な人達だからその理論は判るし、大いに将来性の有る事も理解出来ます。

この頃から工業用ロボットの開発が強まり、人に変わって仕事をする考えが出て来ました。
塗装や溶接など環境の悪い所を無人化出来ないかと・・?  そこで工業用ロボットが有効では・・。
機械の見本市など行くと各社が毎年進化した工業ロボットを展示し、どんどん実用化されて行きました。
会社では機械屋と電気屋はまるで違う職種で、互いに理解し合うことすら有りませんでした。
機械屋は電気の事が判らない、電気は機械の事が判らない、まして油圧などもっとわからない!

昭和45年ごろの日本


テレビアニメ「アッタクNO1」



◆日本で初めて・・?
丁度所得倍増案が出てどんどん量産品を作り利益を上げる方向に社会全体が進んで行きました。
どうしたら人手に頼らずに、より高品質で量産できるか?
●造波装置
波を起こして船体にどの様な影響が有るのかを調べる。
今迄はモーターの回転数を替えたり、振幅を機械的に替えたりした手作業で大変な作業でした。
電気油圧サーボの導入で、周波数や振幅などを手元で簡単に替えられ、波にさらに細かい振動をプラスする事で
より現実に近い波を再現できるようになりました。
東大の生研ではこの設備の導入により、より新たなデータ―の取得に造船会社から期待されました。
●プレスブレーキの自動化
プレスは大きな駆動力(電気モーター)で材料に大きな力を加えて加工する。
どうしたら、左右の位置決めが出来るかが難しい・・。(長いプレスは3~5mも有り機械的に左右同時に降ろすのが難しい)
傾きを検出するセンサーを取り付け、左右2本のシリンダーを制御する事で安定した制御が出来る。
●載荷シュミレーション装置
船の揺れで船内の荷物がどの様に影響受けるかをテストする。
4本のシリンダーを設置して其々に位相の違う信号を入れると載荷台は船の内部と同じ様な状態になります。
ここで問題がでました、納入するメーカーの天井が低く全体高さを低く抑えなければならない・・・。

シリンダーも従来のもでは使えないので、設計のやり直し・・、メ―カ―と何度と打ち合わせしてもこちらの希望通りの図面が出て来ません・・。
「どうしてるのですか・・」 「いえ無理です・・」 「どうしてこちらの図面通りに作れないのか?」
「実績が無いので・・・」 「実績はこれから作れば良いのでは・・・」 「図面書いて頂けませんか?」
その会社の設計室へ出向き、自分が図面を書く事になりました。
従来の発想を捨てないと無理では・・、座屈計算や応力計算・安全率を考慮しながら3日掛りで図面を作成し、責任はこちらが持つからと、やっと製作へ・・。
完成したと連絡が入り下見に行き、「サーボブロックの穴加工の確認はしたの?」 「やってません・・」「どうしてやれないのですか」「やり方が判らない・・」 「タバコ吸う人いますか?、煙を入れて出てくる所を確認すれば、通路が判るのでは・・」
やってみると違う位置から煙が出て来ます・・、調べると加工穴の深さが深いようです」 「作り直さずに、盲プラグでふさいでは・・」
そんなやり取りでやっと製品が出来、無事に納入できました。

◆その他
同時3軸制御プレス・ブレーキ圧力制御・超低摺動シリンダーの開発などその当時で日本で初めてでした・・。

20代の若者が恐れも無く、仕事出来た環境と失敗しても恐れない本当にバカ者でしたね。
天狗にもなりますよね・・、次から次とアイデアがどんどん出てくるのですから・・、怖いもの無し。
余りにも恵まれすぎた環境で、怖いくらいでした。

◆工場移転計画(第2の転換期)
そんなおり、手狭になった工場全体を名古屋へ移転する話が出て来ました。
あの頃「東京でダメなら名古屋が有るさ」という歌が流行っていました。
工場部門は名古屋へ営業部は現在のまま・・、社内は多いに割れますよね・・。
あちこちで色んな噂が出始め・・、辞める人も出て来ました。

自分も東京にいたいので、東京に残りたいですが、技術部も名古屋へと言われています。
丁度協力企業から「内に来ないかとの誘いが・・・・」
男23歳ここでも人生の分かれ目ですね・・。  色々悩み・考えてそちらに移る事になりました。

会社からも慰留されましたが辞める事に、自分の仕事を同期に引き継ぎました。
その同期が後日「お前凄い仕事してたな!」 「慣れれば大丈夫と・・」 「俺には出来ないな・・」 「やるしか無いってね!」
この日記を書き綴っていると意少しづつ当時の事が思い出され、記憶が呼び戻って来ます・・。

そしてまたまた転換期が来ます・・。
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我が半生その② 「やれば出来る・何時やるのか」!!

2013年02月11日 | 老後の生活費(年金など)?
勉強などしませんから当然、高校も進学校では無く工業か商業へ・・。
自分なりに、これからの日本は機械化が進み産業も大きく変化しそうと思っていました。

ま~あ勉強できなくても入れる工業高校へが本音かもしれません。
団塊の世代の競争が激しく、高校入試も大変な競争でした。
何せ小学が12学級(55人)、中学は15学級(55人)と物凄い生徒の数です。

でもどういう訳か・・、工業高校の機械科だけが定員割れして無事に入学しました。
他の学部はもう3~4倍の狭き門・・、やはりその時から自分は運が良いと思いました。

1年・2年と最低線で時には赤点を取りながら、何とか進級して来ましたが・・・

有る日先生が「お前ら、自分はやれば出来ると思ってるだろう・・。 そう思って一生終わるやつも大多数!
やっても出来なくてもいいじゃないか・・、本当に死に物狂いで何かを一生に一度くらいやってみろ!」
この言葉にガクーンと頭を叩かれた思いがしました。

「では本当に自分は何時やるのか?」 「やらないでこのまま一生を終えてしまうのか・・」
今しかやる時が無いと・・、復習からやり始めました・・、その内に予習もやりだす・・。

段々と内容が判るようになり、勉強が楽しくなって来ました。
でも暗記ものの社会・歴史・地理・国語・倫理・英語等には全くダメでしたが、工業ですから専門教科の「機械力学」
「機械材料」「応用力学」「機械製図」「数学」「熱力学」「自動制御」等の全12教科のうち7教科が好きになりました。

試験の結果が上位10名が貼りだされるのですが、自分にはまるで縁の無かったのですが、有る時から専門教科に名前が出るようになりました・・。
周りもそうなると友達が変わり、進学組の優秀な仲間が増え始めますから不思議です。
「お前最近変わったぞ?」「どうした・・?」  「自分でも判らない・・、有る日突然神が降りた様だ・・」


仲間と賭けをするのです・・、「今度の試験で6教科100点を取る!」と学食のパンを賭ける事もしばしばでした・・。
当然答えが一つしかない数学や専門分野は自分の得意な範囲ですから・・、判ってくると試験問題も自分で作れるようになる物ですね。
仲間と想定問題を作りあって事前勉強をする・・、その甲斐あってか見事6教科100点を取る(4回連続)。 勿論学食のパンを御馳走になる。
実は自分は小使いなど貰ってないので、負けると大変だったのですが・・?  それが3年の2学期から急変して無事に卒業できました。
この頃は高一の夏休みからアルバイトし、夜は郵便の速達などの配達などもしていました。

●ダッコちゃん(昭和35年)


●昭和30年代の街の様子


●ローラー絞り付機能付きの洗濯機(昭和37年)



◆人生の転機

まさにそれは「自動制御」を卒論に選んでからです。
その頃は工業の機械科を卒業しても、東京や大阪などの大都市に出て現場要員(機械工)になる人が殆どで、設計等には携わらない。
でも「自動制御」は我が人生を切り開いてくれました。
簡単にいえば、人間が行う動作を機械に代わりに行って貰う事になりますが、自動制御の学問自身がまだ新しく、大学でもごく一部でしかやってませんでした。

人は歩く時「何処は行くか」「どの道を通って行くか?」「所要時間はどのくらいか?」「そこで何をするのか?」「歩く速度は?」「寄り道するのか?」等を
自然に考えて行動しています。 それを機械にやってもらうには大変なことです・・。 常に現状をフィードバックして現在地を確認する事が必要です。
駆動部は機械か電気か?、検知部は何を使うか? 応答範囲は? その精度は?などなど問題が山積でしたが・・?
お陰で多くのチャレンジをする事ができました。

そんな学問との出会いが「卒論」になり、当時の高校の先生でも判る人も無く、図書館で必至に勉強しました。(図書館に入り浸り)
国内でもこの「自動制御」を活かせる職場も一つしかなく、その求人が来るのをじっと待っていました。
他の人達がどんどん決まって行くのを横目に、求人が来る保証もないのに・・・、でも自分には求人が来ると確信が有りました。
夏が終わり9月の末に先生から「求人来たぞ!」、やっと求人が来ましたが当然合格する積りでいました。 


昭和41年3月に上京して会社の近くに下宿生活(2人で一部屋・6畳)です。  同期で12名採用(学卒も)されました・・。
初めは研修で機械加工やドリルの穴明け、部品の組み付けなどの試雇期間3カ月が過ぎ、いよいよ配属部署の決定です。
自分はこれまた運よく「設計部技術課」に配属となりました。  本人の希望通りですが、学卒でも現場に配属される人もいました。

勿論あの頃は残業が当たり前で毎日8時頃まで仕事、休みも日曜日だけそれも休日出勤し残業が100時間を超すのが当たり前でした。
給料は本給の倍になりましたが、多忙で使う場所もないほどでした。  土曜日は半どんでしたネ!
ときどき同期と下宿で一升瓶やビールを買いこんで騒ぐのが楽しみでした。

有る時課長が「学校で学ぶ3・4年なんて初歩の初歩、これから学ぶ事がどれだけ多く有り大切か、それが自分の血や肉に成り自分を形成出来れば大きな財産になる!」と・・。
「電気油圧サーボ」、自分は機械科ですから、電気や油圧は全くの未知の分野、それでもこの時期に本当の多くを勉強し学びました。
その時は毎日が学ぶ事が多く楽しく、貪欲に一生のうちで一番多くを学んだ時期でした!(東大・東工大卒の人達からも多くを学びました)

会社の顧問が東大の機械工学部(自動制御)の学長さんで、良く色んな事を教わりました。  
その息子さんが社員で営業(6歳年上)でしたので、良くご自宅(世田谷)にも遊びに行きました。

◆3度の死にぞこない(一歩間違えば死かも・・)
●3歳の時の腸チフス
●小学校の時、引潮に流されて
 夏休み町内会の主催で毎年 雨晴海岸へ出掛けます。 その時に浅瀬で遊んでいた自分他3名が凄い引潮にのみ込まれ沖へ沖へと流される。
 自分は泳げないので、じたばたしないで力を抜いたら、自分だけ不思議と元の場所に戻され、後の3人は監視員に無事救助され病院へ行きました。
●冬の自転車がバスの下へ
 通学に自転車を使っていましたが、冬の北陸は雪が多いです、有る日バスを追い越そうとして自転車がスリップしてバスの下に入り込んでしまう。
 バスの運転手が直ぐに気付いて急停車・がりがりと音がしたと・・、おっかなびっくり降りて来た運転手の顔は真っ青?
 所が自分は何もなっかったように這い出てきたそうです。 自転車も何処も傷もなく・・?(ハンドルが少し曲がってましたが)

それでもまた転機が来ました・・・、まだまだ続きます・・・。
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我が半生その①!!

2013年02月10日 | 日記
昭和22年11月15日に、富山市内の某所で生まれる。
家は貧乏で兄弟4人(自分は三男)で父・母・おばあちゃんの7人家族。

父は会社員で家では下駄屋の商売をしていました。(父の収入では一家7人の生活が厳しい)
兄弟は大きくなるに連れ、必ず仕事を割り当てられます。

朝の雑巾がけ、外の掃き掃除(お隣の家の前まで)、風呂が有ったので薪割り、冬は雪かき(これもお隣の前まで)
それが終わらなければ朝食を食べる事が出来ません。
それを順繰りに下へ伝えられますが、弟と自分には下が無いので、商売を止めるまで続きました。

学校へ行ってもまだズックを履いているのはお金持ちの子供だけ、下駄ばきで学校では素足です。(冬は足袋)
周りがみんな貧乏でしたからそれが当たり前・・。
教科書やランドセルは兄からのお下がり、着る物もつぎの有ったものばかりです。
お正月だけ新しい衣類一揃え貰えるのが嬉しかった。

昭和20年代の姿・・下駄ばきで子供は素足が当たり前でした。


懐かしい下駄職人さん



◆3歳で腸チフス・・。
3歳の時腸チフスになり、生死の境を彷徨いました。
その時自分は不思議な体験をしました・・。
多分三途の川を1人船に乗って、遠くの音曲の聞こえる対岸に向かって進んでいました。
音曲も賑やかに、綺麗な黄色いお花畑の中で数人の美しい娘さんが、音曲に合わせて踊っています。
それに吸い込まれるように船はどんどん進みます。

そんな時誰かに名前を呼ばれ、振り返りました・・・。
目が覚めたのは病院のベッドの上?  何が何だか判らない自分に母が泣いていました。
先生からもうダメだと宣告されていたとか・・?  それが呼び戻されて生かされています。

小学校までは身体が弱く、近所の子供達と遊び事も出来ずに、羨ましそうに外を見ていたとか・・?
人ごみに行くとそれだけで酔ったように倒れてしまう・・。

小学の5・6年でやっと外で遊べるようになり、鬼ごっこや野球を楽しんだようです。
何せ戦後のベビーブームですから同じ町内でも15名も同級生がいました。


◆中学生の出来事
中学に成ると掃除当番で、班が順番で掃除をします。
椅子・机を片付けて・・、雑巾で床を拭き、又机や椅子を元に並べ直す。

有る日自分の帰りが遅いので、兄が中学まで様子を観に来たら一人で黙々と掃除をしていたとか・・?
最後に先生の確認許可が出るまで帰れません・・、他の生徒はずるをして帰ってしまった・・?
勿論サボった生徒はつぎの日は大目玉で叱られ、それから先生も途中でチェックに来るように成りました。

その頃から責任感だけが有り、融通の効かない性格の様です。
でもそれが不満でも無く、受け入れて生きていきました・・。

勉強が好きではなく、成績もまあ普通・・、家でも勉強しろと言われた事が無かった。
むしろ家の手伝いを優先させられていましたから・・?
下駄に鼻緒を取り付けるのは、高下駄の歯を交換するのをやっていました。
又店番もやり、冬など良く練炭火鉢で煮豆などを煮ながら、その香りをかぐのも好きでした。

あの頃はみんなが貧しかったですね! おア互いに助け合って生きていました。
懐かしくも遠い思い出ですね(笑い)

自分の人生での転換期は高校の時に来ましたがそれは後日に書き綴ります・・。
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エル・グレコ展他!!

2013年02月08日 | 日記
◆エル・グレコ展
ベラスケス、ゴヤとともに、スペイン三大画家と呼ばれる巨匠エル・グレコ。
本展では代表作の他、初期のイタリアでの修行時代の作品や、流行画家として多くの注文に応えたトレド時代の作品、
教会建築全体の空間演出も手がけていた最盛期の巨大な祭壇画も紹介します。

高さ3メートルを超す大作にして最高傑作の一つ「無原罪のお宿り」(1607~1613年)をはじめ、
肖像画の傑作「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」(1611年)、聖人像の傑作「悔悛するマグダラのマリア」(1576年頃)など、
エル・グレコの代表作が世界中から日本に集結します。

8日は東京も寒くて都美術館は大混雑ではなくゆったりと観る事が出来ました・・。
中学生の団体が一組だけで、順番に並んで「止まらないでください」という状況では有りませんでした。

大作が多いので後方からじっくりと眺めながら鑑賞できて楽しめました。

●「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」


●「悔悛するマグダラのマリア」


●「無原罪のお宿り」



◆古代オリエント博物館(池袋・サンシャイン60)
上野を出て池袋まで戻り、昼食を済ませてからサンシャインへ・・。

昼食は12時30分頃、池袋でワンコインランチを二人共食べました・・。
これはいつも不思議ですが繁華街の方がランチの場所も多くて安い・そして美味しい!
やはり昼の絶対人口が多いから、色んなお店がしのぎを削ってサービスいてくれるのでしょう。

古代オリエント博物館では常設展示も「タイムスリップ!古代オリエントの世界」です。
古代オリエントに関する資料を収集・展示するとともに、古代オリエントに関する調査研究も行っており、シリアやウズベキスタン(ダルヴェルジン・テペ遺跡)における発掘調査を行った。
1978年に日本最初のオリエント専門の博物館として開館し、西アジアや中央アジア(シルクロード)の考古資料や美術品など約4000点を収蔵している。

触れるほどに神秘的な古代オリエント。 人類の文化を探る壮大な歴史への旅へあなたを誘います。

東京は肌寒く冬に逆戻りした天候でした。 
お陰でエル・グレコ展は、ゆったりと観る事ができました。


●美術館から帰宅後施設にお展示して有る作品を引き取って来ました。
「旧家の佇まい」 「雪の里・五箇山」 12日に剪画(切絵)教室が有るので、その作品他4点を持参します。
2月25日から3月24日までの「ひだまり剪画(切絵)習作展」のグループ展をします。
どの作品を展示するか持ち寄って確認します。

そして施設には「ひだまり剪画(切絵)習作展」もチラシと写真を貼りだして頂きました。
ご自由にお取り下さいの「案内状」と一緒に・・・。
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2回目の「自己血採血」へ!

2013年02月07日 | 日記
7日はこれから、2回目の「自己血採血」へ出掛けます。
10時20分には病院へ・・・、午前中は血液検査の採血とたいおんと血圧の検査のみ・・。
14時30分を過ぎないと、自己血採血が始まらないので、のんびりと本を読んでいます。

今回も日帰りに成る様子です、状態を再確認してDrの判断です。
では行って参ります・・。


◆ディの雪の日の送迎
6日は雪との事で、事前に送迎車にはチェーン付けて出発しました。
当初の予定より雪が少ないので、車内の振動が激しく利用者さんに負担になりそう・・?
念の為脇道屋路地裏を走るが、積雪が見られず、2便以降はチェーンを外す事にしました・・。

2便も順調に送迎でき、定時の送迎でした。
帰りも問題なく送迎できました。

ディではいつも通りの楽しい時間を利用者さんにお過ごし頂けました・

インフルエンザがまだまだ流行しています・・、今度はB型とか・・?
施設でもまだ厳戒態勢です。

皆さまも手洗い・うがい・消毒にご注意ください!

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2月の男の料理教室!!

2013年02月05日 | 男の料理教室
2月5日は2班(我が班)のオリジナル料理です。
冬には根菜料理を食べて温まろう!




◆主食  ごはん    胚芽精米   150gとして  251kcal  塩分0g

◆主菜  豚肉の生姜焼き   235kcal  塩分 1.2g


●材料
材 料 (4人分)
豚生姜焼き用肉 … 400g    小麦粉 … 大さじ1程度
A調味料
 酒 …大さじ3   醤油 …大さじ2   生姜のすりおろし…大さじ1   砂糖 …小さじ2
植物油 …  大さじ1

●作り方
①  生姜をすりおろし、Aの調味料を合わせておく。
②  豚肉は筋を切り、茶こしで薄く小麦粉をまぶす。
③  フライパンに油を熱し、②の豚肉を入れて焼く。きれいな焼き色がついたら裏返し、さっと焼く。
④  ③に①の調味料Aを加えて煮からめる。
⑤  器に盛る。


◆副菜  付け合わせ野菜   17kcal    塩分 0g
●材 料(4人分)
キャベツ …… 4枚(300g)
ミニトマト …16個(1人4個)

●作り方
①  キャベツは洗って新を取りせん切りにする。
②  ミニトマトはヘタをとり、洗う。
③  生姜焼きと同じ皿に盛り付ける


◆汁物:いため豆腐と根菜の味噌汁  107kcal   塩分 0.9g



●材 料(4人分)
木綿豆腐…200g   ごま油 …小さじ2  ごぼう …30cm(160g)  大根…直径8cm位で厚さ6cm (200g)  
人参…直径4cm位で厚さ8cm(80g)  干ししいたけ…3枚  ねぎ…20cm(40g)   じゃがいも・・・小2個
だし汁 … 3カップ(600ml)干しシイタケの戻し汁を入れても良い
味噌  …… 小さじ4(32g)

●作り方
①  干ししいたけは水につけて戻す。戻ったら、水けを絞り、石づきを除き、半分に切ってから薄切りにする。
②  豆腐はさいの目に切るか、お鍋の中で木べらでつぶす。
  ごぼうは薄い斜め輪切り。  大根は5mm厚さのいちょう切り。
  人参は薄いいちょう切り。  じゃがいもhs2mmほどの半切り。
  ねぎは小口切り
③  鍋にごま油を熱し、ごぼうを入れて炒める。そこに豆腐を加え、木べらなどでつぶしながら炒める。
さらに残りの野菜と干ししいたけを加えて炒め、だし汁を注ぎ、煮る。
野菜に火が通ったら、味噌をとき入れる。ひと煮立ちしたら器に盛る


◆デザート   イチゴ2個



合計 610kcal   塩分 2.0g

一食あたりの野菜量合計 150g
(緑黄色野菜:30g / 淡色野菜:120g)
1日に必要な野菜量350gの43%


今回は割と簡単な料理にて、誰でも簡単に作れて、具沢山の味噌スープ風にしました。
「豚の生姜焼き」が大嫌いなひとも美味しいと食べて下さいました。

◆ 来月の予定と報告
 3月は年度末で自分の都合により参加できません。
 副会長さんと会計さんにお願いしてますが宜しくお願い致します。
 皆さんから「早く元気になって戻ってきて下さい」と激励されました。

 特に会員を増やす件で、良いご提案が有ればお教え頂きたい。
 3月にはアンケートを取りますので、ざっくばらんに書きこんで下さい。

◆「剪画(切絵)「ひだまり剪画(切絵)習作展」
 自分が入院中ですが、是非ご覧頂きたいと、案内状と写真を閲覧する。(案内状は各自取る)
 1カ月展示されてますんので、後半は自分も会場に行けると思います。
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4日も多忙な一日に!!

2013年02月04日 | 日記
4日は立春ですね・・、春が待たれますネ!

◆妻が2カ月の一度の定期受診
 何時もなら妻が1人で車で出掛けるのですが、自分が色々と車を使うので、朝病院に送って行きます。
 朝の8時30分頃には病院へ、月曜日は混雑しますので早目に出掛けます。
 混雑してるので9時の予約でも、終わる時間が未定・・、一応終わる頃にTELが入ります。
 男の料理教室の食材購入後、迎えに行きます。


◆男の料理教室の食材の調達
 今回は2班(我が班)の当番でオリジナル料理を作ります。
 その食材14人分を担当の班が前日に購入し揃えます。
 男の人にも食材の買い物を楽しんで貰う事が目的です。
 10時20分には健康福祉センターでリストをもらい買い物に出掛けます。
 班にもよりますが、2班は他の会員さんがまだ在職中で、いつも自分が1人で買い物しています。
 買い物して、冷蔵庫にしまう所までが本日の予定です。
 5日は「男の料理教室」で担当班は9時頃から準備して、10時~12時30分までに食事を作り・片付けまでします。

 手術の関係で3月は会を休む事になりりますので、色んな書類の準備を終えて5日に副会長さんに手渡します。
 会員募集の草案・アンケートの草案・会計の処理など有りますね・・。
 「ひだまり剪画(切絵)習作展」の案内も渡して、1人でも多くの人達に見て欲しいです。(案内パンフは作成済み)
 
 

◆前立腺の手術前の受診
 13時30分の予約で、手術前の検査を受けます、時間がどの位になるのか不明です・・。
 検査内容があらかじめ知らされていないので・・?
 特に緊張も無くリラックスして病院へ出掛けています。(待ち時間にはゆっくり本を読んで過ごします)


◆林檎が届く(15キロ)
 注文しておいたリンゴ(この冬3箱目)が届きました。 
 蜜入りの美味しいリンゴ、今年も沢山のリンゴを食べる楽しみがあります。
 時間があれば4日中に送金しておきたいです。

立春とは言えまだまだ寒い日が続きますので風邪やインフルにご注意ください。
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美術館巡りと妻の誕生祝い!!

2013年02月02日 | 日記
良い天候にも恵まれ静かに美術館巡りをする事ができました。
平日で何処も混雑が無く、ゆったりと観る事ができますね。

◆ 泉屋博古館
http://www.sen-oku.or.jp/tokyo/program/index.html
泉屋博古館は住友家が蒐集した美術品を保存、展示する美術館です。

◆ 国立新美術館
http://www.nact.jp/
作品展時も多様で会場も広く観るだけでも疲れてしまいます。
平日はそれでもゆっくり観る事ができました。

◆妻の誕生祝い
帰り駅で別れて、花とケーキを買い求めて帰ると妻がまだ帰っていません。





洗濯物を取り込み、花とケーキを食卓のテーブルの上に置いておきました。

妻が帰り「何か置いてあるよ?」  と 「誕生祝いだよ!」と・・「ああ嬉しい!!」

花はスイートピー3輪とケーキは3個(亡き息子の分も)・・。
早速仏前にケーキをお供えする。
「明日は帰りが遅いから今日食べて良い・・」 「いいよ・・」
そんな事でその日に又一日早い誕生祝いに成りました。


時には奥さんに花をプレゼントしてますか?

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もう2月・今日は美術館巡りへ!!

2013年02月01日 | 日記
早い物でもう2月ですね、一年中で一番寒い季節ですのでご用心下さい。

折角の臨時のお休みですから、美術館巡りに妻と出掛けます。
●アジア創造美術展(国立新美術館)と吉祥のかたち展(泉屋博古館)へ・・。
共に六本木です。

●8日は「エルグレコ展」(東京都美術館)と「タイムスリップ!古代オリエントの世界」(オリエント博物館)の予定です。

何時も結構日程的には先の日記の通りですから、折角の空いた時間を有効に使いたいです。
これくらいの予定が毎月ですから、特に頑張ってる意識も無く楽しんでいます。






◆「自己血輸血」で入院
昨日の入院も採血後、血液のデータが良いので入院の必要なしとの判断でした。
「自己血採血」に5人一諸でしたが、他の人も帰りたいと相談しましたが、データが悪いので、一泊して翌朝退院ですと・・。


自己採血も1回に400cc・2回で800ccと判り、それならこれまで献血してるので、一度も体調不良が無いので
帰っていいですかと冗談に聞いてみました。

午前中に検査用の血を取ってるので、そのデーターを見て直ぐに入院の必要なしとなりました。
「自己血採血」は午後からですが、早い対応でした。
美味しいお昼を食べてのんびりと本を読んで過ごし、14時45分頃そろそろですと声をかけられ、15時頃検査室へ、
採血台に寝て採血が始まり8分で終わりました、自分より先にやってる人はまだまだの様子。

採血後点滴を入れてるのですが、その落下速度が(全開)物凄く違います。
前の人は血管が細くてゆっくりの様で採血も遅い様子。

自分の血液は30代との嬉しい結果でした(長く献血してるので、血がまだまだ若いようです?)
7日の自己血採血も日帰りになる様です。
部屋に戻り医師の判断で点滴も必要なしと退院の手続きをして16時30分頃に退院しました。

その足で近くの税務署(徒歩5分)で確定申告を済ませ、又近くの区役所(徒歩5分)で高額医療の申請も済ませて帰宅しました。


●もう2月です、一番寒い季節ですから風邪やインフルエンザにご注意ください!
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