あの時カリギュラに欠けているといわれた血の匂いがそこには漂っている。
この詩を聞いて「まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている」と褒めたカリギュラに、シピオンは「まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました」と答える。
「まだ若い」と言われたのをわざわざ「若かった」という過去形で受け(※2)、いつもの「ぼく」でなく「わたし」という口調は彼らしくもなく妙に老成している。
カリギュラに心から立ち向かってゆき、彼の苦悩をわが身の痛みとして理解したシピオンは、死の教訓を知ってしまった。かつて父を失った傷を癒してくれた大自然も彼の中で死の気配と血の匂いを絶えず漂わせるものへと変貌し、もはや彼の心の傷を埋めてくれはしない。
彼はカリギュラに「あなたにも、あなたとそっくりのぼくにも、もう出口はありません」と言い、「あいつはきみの父親を殺した!」と言うケレアに「そこがすべての始まりです。でもそこは、すべての終わりでもあるんです」と答える。
父親を殺したカリギュラを憎みつつも愛し、愛しながらもまた憎しみへと心が返ってゆく。この円環の中でシピオンの魂もまた疲れ果ててゆく。ケレアは言う。「あいつはきみを絶望させた」。
セゾニアが言った「たった一つの決定的な革命」は半分は成し遂げられた(シピオンがカリギュラを憎みながら愛することは実現したが、それがカリギュラの魂を救うには至っていない)が、それはカリギュラと同じように深い苦悩を背負った青年を一人増やしただけだった。
「若さ」がそのままキャラクターの影響力の強さを示しているようなこの戯曲の中で、繰り返しその若さに言及されてきたシピオン。自分の若さを過去のこととして語ったとき、彼はその神通力を失ったのである。
そしてカリギュラの死が近いと知った(そしてカリギュラ自身も自分の死期をわかっていて、そうなることを「すでに選んでい」ると知った)、しかしカリギュラを救うにはあまりに無力なシピオンは「このことすべての理由を探しに」「遠くへ出発」する。
「あなたとそっくりのぼく」と言いつつも、彼はカリギュラのように世界を変革するために他人の命を捧げることなどはしないし出来ない(「なにか或るものをむりにけがさなくても、否定でき」るのが彼とカリギュラの違いである)。
彼は誰を傷つけることもなく彼やカリギュラの苦しみを解いてくれる(くれた)はずの何かを求めてさまよい続けるのだろうか。
ただしこの別れの場面にはかすかな希望が残されている。ケレアが「時は来た」といい、シピオンがカリギュラの方へ行こうとするときのト書きには「若いシピオン」とあるのだ。
ト書きに「若いシピオン」という表現が出てくるのは第二幕のほかはこの場面のみ。これは、自分はもはや若くない―無力な存在だと感じつつ果てのない旅に赴こうとするシピオンに対する、作者の精一杯の餞ではなかったろうか。
そしてカリギュラに愛憎双方の感情を抱きながらも、シピオンが最後に口にしたのは彼への愛だった。シピオンはいつか再び「大地の調和」に心癒される日々を見出せるのかもしれない。憎しみと愛情の拮抗の中でぎりぎり「愛」を選びとったことが、彼自身を最後の一線で救ったのである。
※2-翻訳に際して父の死に時制を合わせ過去形にした可能性もあるかと、該当部分の原文にあたってみた(原著が見つからなかったため、※1の論文に引用されていたもので確認)。「Tu es bien jeune pour connaître les vrais le
çons de la mort.」(まだ若いのに、きみは死のほんとうの教訓を知っている)、「J'e tais bien jeune pour perdre mon père.」(まだ若かったのに、わたしは父を亡くしました)。原文も父の死の時制に関係なく「若かった」と過去形(=もう自分は若くはない)だった。
追記-現在発売中の少女マンガ雑誌『プリンセスGOLD』5月号に、『蜉蝣峠』に関連して勝地涼くん・木村了くん・高田聖子さんの鼎談というかインタビュー記事が出ています。例によってフォスターさんの公式に載っていないので一応お知らせ。