about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『カリギュラ』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2009-01-30 01:38:30 | カリギュラ
・第三場、カリギュラ初登場のシーンは、髪から水を滴らせ背を丸めた、憔悴しきったカリギュラの姿を、無音のまま長々と見せる。
主人公でありながら、入ってきた時にはいつ現れたのかわからないほど影が薄いのに(憔悴しきっているのでそれで正しい)、観客に存在を気づかれてからエリコンがやってくるまでの間を一人で持たせなければならない。それも無言で。
そのためにはただ立っているだけ、ちょっとした仕草だけでも観客の目を引きつけるだけの存在感が必要となる。
難易度の高い場面ですが、小栗くんは十二分にそれをやり遂げていました。

・ほとんど狂人のような姿のカリギュラは鏡の中の自分をふと見つめる。この後繰り返し登場する「鏡の中の自分を見つめるカリギュラ」が初登場と同時にすでに示されています。
その外見や態度に反し、鏡の中の自分を意識する―自分を客観視する視点を持っているカリギュラが決して真の意味で狂ってはいないことの証明ともなっている。

・エリコンの登場とともにネオンが点灯する。皇帝の住まう宮殿が一気に裏町のような安っぽい空気を漂わせる。
貴族も神も、皇帝である自分自身も貶めようとする(神の権威を貶めるためのヴィーナスの真似事やミニスカートの踊りは、カリギュラを道化に見せる)カリギュラの再出発にはふさわしいといえるでしょう。
そのくせクラシック様の音楽は荘重で哀切な美しさがある。ネオンにしてもネオン管の光そのものはキッチュでも教会の窓を思わせるアーチの形をしている。
荘重さと安っぽさ、相反する二つのものが溶け合って不思議と静謐な空間を作り出しています。

・カリギュラはずっと俯いているため髪で隠れて顔がほとんど見えない。変貌したカリギュラの顔をなかなか見せずに引きを作っている。

・カリギュラが最初に「(欲しいものは)月だ。」と口にするとき、ト書きには「あいかわらず自然に」とある。
一見カリギュラは月を求めることを特殊なことと思っていない、普段の自分と地続きのこととしてに語っているようですが、数行前、「みつけるのが難しくてな」と月に関する話を始めるさいに一瞬「沈黙」が落ちている。
この自然な態度はそう振る舞っているに過ぎず、本心ではこれまでの自分の生き方から大きく逸脱してゆく、修羅の道へと踏み出していくことへの躊躇いがあったのがこの「沈黙」にうかがえます。
にもかかわらずあえて「自然」な振りをするところに、鏡の中の自分を繰り返し気にするところにも現れる彼の演技者的性格が滲み出ているように思えます。

・カリギュラが欲しいと言う「月」。これは不可能なものの例として持ち出されているわけですが、思えばカリギュラがここで月を出してきたのは実に順当。
もともと月は次第に欠けて完全に消えてはまた満ちてゆく性質のゆえに不死と再生の象徴とされている。その一方で『ロミオとジュリエット』の有名な台詞「不実な月は一月ごと満ちたり欠けたりするもの、あなたの愛もそのように変わりやすいものになります」(※4)に表れているように、移ろいやすいものの代表でもある。
このような月の両義性は、終盤で「本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ」と永遠性に関する矛盾した見解を示すカリギュラには真にふさわしい。

・「おれはあの人の相談相手じゃありません。見物人です。」 この言葉に反してエリコンはカリギュラにとってはもっとも信頼できる腹心であり、真っ先に「月を手に入れる」野望についても聞かされている。
この台詞のあとに「そのほうが賢明ですから」と続けるところからすると「見物人です」というのはそうありたかった、本当ならそうあるべきだ、というエリコンの願望じゃないでしょうか。
そのほうが賢明だとわかっていながら、本当にそうする気はさらさらない。これからカリギュラが乗り出そうとしている茨の道を共に歩こうと決めたエリコンの、「おれもバカだよなあ」という自嘲が感じ取れる言い回しです。

・「カリギュラは、ローマ中から見られているのよ。なのにあの人は、自分の考えしか目に入っていない。」 舞台全面の鏡が「ローマ中から見られている」というセゾニアの言葉を実感として伝えてくる。
しかし初登場シーンで鏡に目を留めるのを皮切りに、カリギュラの行動は常に鏡に映る自分や他人の目を意識したもののように思える。ここでセゾニアが言う「周囲の目を気にしないカリギュラ」はその後の彼とは別人のようです。
これまでは自分の世界の中で充足していた子供だったカリギュラが、他人の目を意識せざるを得ないだけ大人になったということでしょうか。少し後にセゾニアに「ひとりの男になるというのは、なんと苛酷で苦いことなのか!」と語っていますし。

・ドリュジラのことを素っ気無い口調で語るセゾニアに、シピオンが「(カリギュラは)あなたのことは(愛していたんですか)?」とたずねるが、ここのト書きに「おずおずと」とあるのが何だか可愛らしい。
続く「好きです。ぼくに優しくしてくれました~」のくだりも目をきらきらさせて嬉しげに語るさまが目に見えるようです。この時のシピオンはまだ醜い物など何も知らないような少年然とした輝きに満ちています。

・第一幕第六場のラスト、部屋に入ってきたカリギュラはセゾニアとシピオンを見ると、「ためらい、後ずさりする。」 
先のエリコンとの会話の時の「沈黙」同様、親しい彼らに自分の変貌を見せ付ける、それによって彼らとこれまで通りの関係を保てなくなる―そしてもはや後戻りできなくなる―ことへの躊躇が感じ取れます。

・セゾニアの膝にごろっと横になってだらしなく足を投げ出すカリギュラ。はだけた上半身にセゾニアがそっと服を着せ掛けてやる。
このくつろいだ姿が言葉の内容―国庫充実のための無差別処刑計画―の無惨さをより一層際立たせる。

・カリギュラはローマ中の人間に国を相続者に指定させ被相続者を適当な順番で処刑する新たな法を発表する。この法は史実のカリギュラが行ったものを模しています。
この時彼は「みんなお互いにおなじように罪があるんだ」と言う。キリスト教でいう「原罪」を指すものとも考えられますが、むしろ、「人は必ず死ぬ=人は生まれながらの死刑囚である=生まれてきた事がすでに罪である」という理屈なのかと思います。
それは「彼らを罪から解き放ち自由の身とするにはこの世界のルールを変えるしかない」という理論につながる。彼はこれでも本心から人民の救済を目指しているのですね。

・上の台詞に続けて「市民にとって必要不可欠な日日の食料品に間接税をもぐりこませるなんていうやり方は、市民から直接盗むのと同じくらいに、不道徳ではないか。(中略)私はあけすけなかたちで盗むことにした。」 
つまり消費税ですね(笑)。古代ローマにもあったんでしょうか。不道徳か、なるほど。
そして「あけすけなかたちで盗むことにした」。正々堂々としたやり方を好むという、カリギュラなりの正義感の表れですね。

・「今日を境に、わが自由にもはや限界はない。」 憑かれたようなカリギュラの目付き。暴君カリギュラの誕生宣言。

・「わが健康が、かたじけないと申しておる」と言いながら、カリギュラは投げ出した両足をばたつかせる。彼の駄々っ子のような幼児性を示す仕草。

・「おれは物書きは嫌いだ」とケレアに言うカリギュラ。
一つ前の「おまえの顔など見たくもない」と言う台詞、ケレアが第二場で「わたしはひとり静かに書物にいそしんでいるほうがいい」と言っていたことを考えればこれはケレアを名指したも同然の批判ですね。
同時にかつてクーデター論を書いたという第一の貴族に代表される貴族たちへの批判でもある。カリギュラが言葉、発話と書字の両方を執拗に攻撃しているとの指摘(※5)を踏まえると、彼の「物書き嫌い」は奥が深い。
史実のケレアは百人隊長→護衛隊副官という生粋の武人だったのを文人の設定に変えているのも、彼を「書字」の専門家として位置付けるためだったのかも。

・ケレアとシピオンに出て行くよう告げたあと、彼らが退場するときカリギュラはそっぽを向いている。
ここにも自分の計画を推し進めることへの、彼らと決別することに対しての、彼の躊躇いが見て取れる(※6)。椅子に座るときの背を丸めた姿にも。

・すがるようにしてセゾニアの腰に抱きついて悲痛な声で彼女を呼ぶカリギュラ。そんなカリギュラの頭を膝にのせ髪を撫でながら優しく語るセゾニア。聖母子像を思わせる切なく美しい二人の姿。
この短い蜜月はカリギュラの「無理だ!」の叫びによって断ち切られる。カリギュラが自分から愛情に満ちた時間を断ち切るパターンはこの後も繰り返し表れてきます。

・「正しいものは別にある。国の財政だ!聞いただろう。すべてはそこから始まる」と叫んだあとの台詞は戯曲では「ああ」だが、「あーあーあー」とうなるように間延びした声をあげる。
その歌うような、けれど調子はずれの声が、彼の精神の(現世的な意味での)箍が外れかけているのを感じさせて背筋を寒くさせる。
こうした抑揚が、俄かに意味の取りにくい長台詞が連続するなかで観客の注意をそらさない効果をあげている(それも計算のうえで演じている)ように思います。

・カリギュラが銅鑼を打ち鳴らすのにあわせてネオンが点滅する。その不吉な感じが、いよいよ新生カリギュラの「はめをはずした祝宴」が始まることを予告する。
銅鑼を鳴らす合間で数回床を叩く仕草をするが、カリギュラ自身ももてあますほどの衝動が彼の体を突き動かしている、これからローマを恐怖に陥れることになる巨大なエネルギーが彼の体の底で荒れ狂っているのを感じさせます。

・戯曲には「(鏡の)表面に映る姿を狂ったように槌で消す」(「槌で消す」という行為は多分に不自然ではある(※7))と書いてある場面で槌を振るうかわりにピンクのスプレーで鏡を塗りつぶす。
時代考証をあえて無視してスプレー、それもいかにも派手でパンキッシュなショッキングピンクを用いることで、現代の暴走族、不良少年のイメージとカリギュラを接続している。
このあたりにネオン使用同様の蜷川さんのセンスとテーマ性を感じます。

・カリギュラが鏡を指差し「カリギュラ」と宣言したところで、空気を引き裂くような絶叫ではじまるプログレ風の音楽が鳴り響いて暗転。
全体に荘重な雰囲気のクラシック風BGMが多い中、一際耳に残るこの幕間の曲は、まさに「パンクの王」カリギュラを象徴しています。

(つづく)

※4-ウィリアム・シェイクスピア『ロミオとジュリエット』(小田島雄志訳『シェイクスピア全集 Ⅱ』、白水社、1985年)

※5-内田前掲論文。カリギュラの死刑論をエリコンが暗誦する、貴族たちに遺言を書かせる、詩人たちがタブレットの文字を舌で消す、シピオンはタブレットを使わない、といった描写について「カリギュラ、エリコン、シピオン、つまり「子供」たちは字を書かない(原文太字部分傍点)。そして「大人」たち(貴族たち、詩人たち)の書くものは(遺言、謀反の連判状、へぼ詩)いずれも書いた当の本人に災厄をもたらし、その取り消しを求めさせる。」「エクリチュールは全く書かれないか、書かれたあと否認されるか、いずれかの形でしか戯曲のうちに登場しないのである」と解析している。

※6-調佳智雄「カミュの初期作品に於ける〝繰り返し〟(2)-「死」「幸福」「男」と『カリギュラ』」(『人文社会科学研究』45号、早稲田大学創造理工学部知財・産業社会政策領域・国際文化領域人文社会科学研究会、2005年)。「(カリギュラ)は、今後ローマ帝国に自由を広めることを宣言する。そのとき彼は、ケレアとシピオンの両者に退場を命ずる。よき理解者であるこの両者を退けることは、まず彼が過去と決別することを意味している。またカリギュラが去り行く二人から顔をそむけるのは、自由とともに試練が始まることを彼が知っていること(中略)をも表している。」

※7-内田前掲論文。「巨大なハンマーで鏡の表面を「狂ったように」こするという動作は、どう考えても不自然である。鏡を割ることはまだためらわれている。鏡を割るときは、カリギュラの自我もまた解体するときだからだ。おそらくこのとき、鏡は象徴的に、擬装的に、半分だけ割られたのだ。父を表象する臣下たちと、母を表象するセゾニアの前でカリギュラは鏡像を消してみせたが、これは「私は、お前たちの世界の中にはもう位置づけられない」というアピールと解することができる。そしてセゾニアだけは、消去された鏡像のうちにさらにカリギュラを認め、恐怖する。おそらくセゾニアはひとり、カリギュラがやがて帰還する「寸断された身体」を予兆する何かを見たのだ。」

 

追記-前回更新分に若干の追加を加えました(赤字部分)。


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『カリギュラ』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2009-01-26 00:52:47 | カリギュラ
以下、舞台の感想を例によって箇条書きで。
文中の引用文はとくに断りがない場合、岩切正一郎訳『ハヤカワ演劇文庫Ⅰ カリギュラ』(早川書房、2008年)に基づいています

 

・第一幕第一場。第一の貴族の「まだ何も」と言う台詞で幕を開ける。
この「(まだ)何も」という台詞は、その後部屋に入ってくるケレア、シピオンも真っ先に口にのぼせている。第一の貴族によれば、宮殿を出ていった時のカリギュラも同じく「何も」と口にしたという。
「第一の貴族」を演じた磯部勉さんはパンフレットで、「第一の貴族は、幕開けに「まだ何も」というせりふを言います。英訳だと「Nothing」で、それを受けてみなが「Nothing」「Nothing」と続けるそうで、何も起こっていないのか、実は何かが起こっているのか、起こりそうなのか・・・・・・とても意味が深い言葉だと思えます。」とコメントしています。
この戯曲冒頭の「何も」の繰り返しは観客に作品全体にこの先漂う(であろう)虚無的な世界感を先取りさせる(※1)
また第一の貴族とシピオンの言葉は「まだ何も」とこれから何かが起こりそうな予感を含んでいるのに対し、カリギュラはただ「何も」、ケレアは「あいかわらず何も」と、今までもこの先も何も起こらない、世の中の物事全て大したことではないのだと言っているような達観した響きを持っている。ここに彼らの性格と立ち位置の違いが現れているような。

・「女をひとり失っても、べつの女が十人みつかる。」という老貴族に、エリコンは「(カリギュラ失踪の原因が)なんで色恋の話ってことになるんだい。」と尋ねる。
その後に「肝臓のせいかもしれない。いや、毎日毎日あんたらに会うのがいやになっただけかもしれない。」とふざけるように続けていますが、戻ってきたカリギュラが「(ドリュジラの)死なら、なんでもない。」と彼女の死の痛手を否定したことを思うと、エリコンのこの発言は一種予言のようでもある。
ついでに「くえないやつ」と言いながら玉葱をかじってる(食ってる)のがちょっと笑えます。

・ケレアが入ってきた直後、エリコンは「大切なのは体裁をまもることだ。(中略)われわれが色を失ってみろ、帝国がおかしくなる。」と常に皮肉な口調で茶化したような事ばかり言う彼におよそ似つかわしくないまともな台詞を吐く。むしろケレアが言いそうな台詞。
しかし「手始めに、めしを食いに行こう。」と続く台詞は実に彼らしい。エリコンにはシピオンに言った「日々は過ぎ行く、急いで飯を食え」など食事に言及する発言が多い。
空腹は人の神経を苛立たせ、それは時に騒動を引き起こす種ともなる。だからちゃんと食べることが大切、という理屈は、裏を返せば人間の心理とは所詮食べ物に左右される程度のものということである。エリコンの達観した性格がこうした台詞回しに現れている。

・皆が笑っているときもケレアは一人真顔のまま。彼の生真面目な性格と周囲に迎合しない孤高の姿が登場初期から示されている。皆が立って話してる中、一人椅子に座ってしまうのも。

・ケレアの「あの皇帝には非の打ち所がなかった。」という発言に、第二の貴族は「うん。申し分なかった。言われたことはきちんとやるし、経験もなかったし。」と答える。
「言われたことはきちんと」はまだしも経験に乏しいのが皇帝の資質として推奨されているのは、要するに思い通りに操りやすいという意味に他ならない。
帰還後のカリギュラの所行をみると信じ難いが、ドリュジラ存命中のカリギュラは元老院にイニシエティブを握られることにさして疑問もなく甘んじていたらしい。絶対的な論理を愛しつつも、妹やセゾニアたちとの愛やシピオンとの芸術談義が彼の生活の中で重きを占めていたのだろう。
もっともそうした無垢な子供然としたカリギュラだったからこそ、その純粋さゆえに極端に走ったのでしょうが。

・上の会話に続いてカリギュラと妹ドリュジラとの近親相姦関係が明かされる。古来から国を問わず最大のタブーとされてきた近親相姦の罪を犯している男を、ケレアはなぜ「非の打ち所がなかった」と評価するのか。
おそらくは、カリギュラ同様に論理的合理的思考を良しとする彼は、皇帝としての責務に障りがなければタブーの侵犯など何ほどのことでもないと極めて実際的に判断したのでしょう(対外的に聞こえが悪いというだけでも充分皇帝として問題ありだと思うけれども)。
しかしなぜカリギュラとドリュジラを単なる兄妹でなく近親相姦の設定にしたのだろう。
確かに史実のカリギュラ帝にはそのような記録がありますが、この戯曲のカリギュラは表面的な行動以外はカミュの創作なのだから、近親相姦の話は削って後ろ指を指される要素は何一つない立派な青年皇帝の設定にしておいた方が、ドリュジラ死後の変わり様が際立ったのではないか。
あえてそうしなかった理由を推測するに、変貌前の従順だったらしいカリギュラに、実は決定的なタブーを犯しているという設定を加えることで、彼がもともと常識を易々と飛び越えてしまう苛烈な情熱の持ち主だと示してあるのでは。
(この近親相姦問題については岩切訳本の解説を書いた内田樹氏による興味深い論考あり(※2)

・カリギュラとドリュジラが「一緒に寝る、それだけでもすでに大変でした」のくだりで貴族二人が「うわー、嘆かわしい」と言いたげにそろってハンカチを振り回す。
その表情と仕草がなんともユーモラスで、場面の緊迫感をいい具合に緩和してくれる。

・第一の貴族が「(近親相姦の関係にあった)妹が死んだからといって、ローマ中を混乱させるとは、やりすぎです。」と言ったのに対しケレアは「それにしても、困ったものだ。」と続ける。
この場合、「そのとおり、困ったものだ。」とか相手の台詞を肯定的に受ける言葉が続くのが普通だと思うのだが、「それにしても」と相手の台詞をひとまず置いて話を転換してしまう。
近親相姦話を(品がないから?)続けたくなかったんでしょうが、さらっと強引なケレアの話術が感じ取れて面白い。

・「近親相姦ってやつは、どうしたって、人の耳にたつ。ベッドがぎしぎしとね。」と言いつつ、腰を前後に振って見せるエリコン。エロいっす。

・「あんたがたにしゃべってるこのおれにしても、もし自分のおやじを選べていたら、生まれてなんかこなかったよ。」 
常に醒めたような皮肉な態度を崩さないエリコンが、怒りを篭めた口調でヘビーな台詞を口にする。
この時点では明かされてませんがエリコンは解放奴隷であり、その出自(父親も当然奴隷だったはず)に少なからずコンプレックスをもっていることがこうした台詞、さらには貴族たちへの皮肉めいた態度に結実してるのがうかがえます。

・カリギュラがドリュジラの遺骸に接したときの状況を、「二本の指でそれに触りました」と表現するシピオン。わざわざ「二本の指で」と説明することでその時の情景とカリギュラが受けたショックの強さが、より具体的に観客に感じ取れるようになっている(※3)
ところでシピオンは「ぼくもあの場にいました。いつものように皇帝のあとに従って。」とさらっと発言しています。そんなにいつも当然のようにいっしょに行動してたんですか。

・ケレアは「あの男は文学を愛しすぎた」「芸術家の皇帝。冗談じゃない。」と(実にうんざりした声で)語る。この場に本人がいないとはいえ皇帝を「あの男」、さらには「皮膚病にかかった羊」呼ばわりとは不遜の謗りを免れないだろうに。
この先ケレアはその知的論理的性格において、カリギュラと議論しつつも合い通じるものを見せていきますが、精神的に近い部分、惹かれあう部分があっても元から仲がよかったわけではなさそうです。
むしろカリギュラが文学に背を向けて絶対論理の鬼となってからの方が、気持ちが通じ合うようになったんでは。

・「なにかできるんでしょうか」と尋ねるシピオンにケレアは「何もできない」とあっさり答える。ここでもまた「Nothing」である。後ろでエリコンが声を立てて笑う。虚無的なムードが漂うシーン。

・カリギュラが自分たちの思い通りにならなかった場合はクーデターを起こせばいい、とほのめかす第一の貴族に対して、ケレアは「必要なときはそうなりましょう!もっとも、わたしはひとり静かに書物にいそしんでいるほうがいい。」と答える。
この後実際にクーデターが必要なときがやってきて、関わりたくないと表明していたケレアが結局その先頭に立つことになるのだから皮肉なもの。

・「団結してもしなくても、どのみち、年はとる。」 
このエリコンの台詞は状況からしてすぐ前に部屋を出て行ったシピオン、シピオンが団結する―共感を抱く相手であるもう一人の若者・カリギュラを指している。
エリコンは後にシピオンに「日々は過ぎ行く、急いで飯を食え」とも言っていて、彼が二人の若さ、若さからくる愚かなほどの純粋さも遠からず失われるものだと思っているのが感じられます。
この唐突とも思える台詞がカリギュラが行方不明中のこのタイミングで出てくるのは、ドリュジラの死を失踪するほどに嘆いている(この時点ではそうとだけ思われている)カリギュラも、やがて鋭敏すぎる感性が摩滅し落ち着くはず(とこの時点では思われている)、という意味でしょう。

 

(つづく)

 

※1-阿部いそみ「『カリギュラ』と昔話」(『山形女子短期大学紀要』第33集、2001年)。「ここではドリュジラの死という「欠如」に加え、カリギュラの不在という「欠如」が提示されており、とりわけ、貴族たちが皆《rien》という単語を発することによって「欠如」のイメージは反復の形で強調されている。」

※2-内田樹「鏡像破壊―『カリギュラ』のラカン的読解」(『神戸女学院大学論集』第39巻第2号、神戸女学院大学研究所、1992年)。「カリギュラは父のもたらす「死の現実性」を拒んだ「子供」である。彼は成熟に逆行する。彼は法、言語、規範、近親相姦の禁止を受け容れず、母への太古的固着を経由して、最終的に自我の解体と身体の寸断を成就する。彼は遡行的に反-成熟のプロセスを踏破するのである。」

※3-調佳智雄「カミュの初期作品に於ける〝繰り返し〟(1)-「死」「幸福」「男」と『カリギュラ』」(『人文社会科学研究』43号(早稲田大学創造理工学部知財・産業社会政策領域・国際文化領域人文社会科学研究会、2003年)。「(注・カリギュラの41年版である)第1稿と完成稿の間には、「二本の指で」が入っているいないのわずかな違いしかないように見える。が、その差は決して小さくはない。重要なことは「遺骸に触れる」こと、すなわち「死」を観念ではなく感覚を通じて直接体験することである。だから「二本の指で」が加わることによって、リアリティが格段に増しているのだ。」

 

1/30追記-赤字部分を追加しました。

2/4追記-赤字部分の誤字(雑誌の号数を間違えてました。申し訳ありません)を修正しました。


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『カリギュラ』(1)-2

2009-01-21 02:29:34 | カリギュラ
私は残念ながら舞台そのものは観られなかったのですが、シアターコクーンへ出向いて無事パンフレットは入手できました。主演の小栗くんが絶頂の人気だったこともあって、上演当時品切れしたことも多々あったようです。
演出の蜷川幸雄さんやキャスト陣のインタビューのほか、舞台稽古のレポと写真、さらに古典的名作(しかもそのわりに日本では上演されたことが少なく知名度が低い)だけに『カリギュラ』という戯曲と作者カミュに関する識者の解説や評論も載っているのが出色の、実に読みどころ満載のパンフレットでした。

いろいろと感じ入るところが多かったのは蜷川さんのコメント。長く日本の演劇界を牽引してきた人だけの重みを醸しだしつつ、その一方で若々しい気概も感じさせる、教養に裏打ちされたユーモアと溢れる巧みな話術(インタビューをテキスト化したものなので)に、彼が勝地くんや小栗くんたち若手俳優たちから尊敬されつつ親しまれているのがよくわかる気がしました。
このインタビューに限った話ではありませんが、蜷川さんが小栗くんについて語っているのを見聞きするたび、蜷川さんが小栗くんをとても高く買っているのが伝わってきます。
『千の目、千のナイフ』を読むと若い頃の(今も?)蜷川さんは相当トガッてたようなので、同じく「生意気」(蜷川さん談)な小栗くんが可愛いのかも。
『演出術』でも、「若い世代に「冷静な頭と体力があるやつがいたらいいな」とは思いますよ。俳優は大体悪いのが好きなんだ。迷惑なやつが・・・・・・。行儀がいいやつよりは、問題児の方が好きかな。」(※1)と話してますしね。

カリギュラを「パンクの王」と定義し、ネオンを舞台装置に取り入れたのはご本人も言うように、大きな意味があったと思います。
ネオンというごく現代的なアイテムを持ち込むことで、古代ローマを舞台とする戯曲を遠い過去の物語ではなく「いま」の出来事として、現代に生きる我々の皮膚感覚にじかに訴えかける効果をあげていました。
これは「装置は重要ではない。ローマ風のもの以外ならば、どのようなものでも構わない」と記した作者カミュの意図にも叶ったものだったと思います(※2)

また戯曲を現代に接続する手段として、衣装を現代風にするとか現代の都市の街並みを映像で見せるとかでなく、どこか安っぽい俗悪なイメージを伴うネオンを用いたことで、カリギュラ治世下のローマ宮廷の頽廃的空気をくだくだしい説明抜きですんなり感じ取れるようになっていたと思います。
「ヤッター!古代ローマの話なのにネオンなんて発想が浮かぶんだから、俺はまだまだ大丈夫だ」と諸手を上げて喜んでる蜷川さんは、こう言っては失礼ながら、とても可愛い方だと思いました。

今回『カリギュラ』について書くにあたって蜷川さん関連の本をいくつか読んだのですが、そこで感じたのは戯曲および俳優をとても大事にする方だということ。
これまでは蜷川さんの演出というと、今回の『カリギュラ』なら上述のネオンと全面の鏡、『NINAGAWA マクベス』での仏壇と桜など、観客の意表をつくような舞台装置の印象が強くて、有名な灰皿投げ(笑)の怖いイメージもあいまって、戯曲や俳優の演技についても自身のカラーを強く押し出してゆく、舞台の隅々までに支配力を及ぼすような演出をされる方と思ってた部分がありました。
演出家は「戯曲を自分の世界観に限りなく引き寄せ、独自のスタイルと力ですべてを統一していくタイプ」と「自分のほうから戯曲の持つ世界のなかへ出かけていくタイプ」に分かれるものだそうですが(※3)、蜷川さんは前者だろうと考えてたわけです。

けれど「いつでも演出家も俳優も、他人の言葉しかいえないから、その屈折が想像力を生んでいくんだって思いがある」「違う感性、違う世界が出会って、新しいものを生んでいくんだという気がするんです」(※4)という発言を見るとむしろ後者が強いのかも。
(その裏には「他人の書いた言葉を自分のものにすることによって、新しい作品にしてしまいたいと思うからです」という前者的な自負があるわけですが(※5)

そしてインタビューや著作で、戯曲の台詞を変更すること(※6)や、俳優を物のように扱うこと(※7)(※8)(※9)への抵抗感を繰り返し語ってらっしゃるのを見て、彼と仕事をする作家さんや俳優さんは、むろん大変は大変だろうけど、その創作の苦心や演じ手としての根本的想いを深く理解し尊重してくれる蜷川さんとの仕事はとても幸せでもあるんじゃないかなと思ったものでした。

 

※1-蜷川幸雄+長谷部浩『演出術』(紀伊国屋書店、2002年)

※2-東浦弘樹「カミュの『カリギュラ』の演出をめぐって―アントニオ・ディアズ・フロリアンと蜷川幸雄―」(『人文論究』第五十八巻第一号、関西学院大学人文学会、2008年)。「カミュはまた、舞台装置について、「装置は重要ではない。ローマ風のもの以外ならば、どのようなものでも構わない」(カリギュラ41年版)と記している。彼は歴史に取材しながら、自らの戯曲を可能なかぎり歴史的現実から引き離し、特定の国、特定の時代にとらわれず、いわば普遍的な次元で、ひとりの人間のドラマを描こうとしたのである。」

※3-栗山民也『演出家の仕事』(岩波書店、2007年)。ちなみに栗山さんは後者のタイプ。「作品と出会うということは、知らない新しい世界と向き合うこと、ならば未体験の時間と空間の何かが自分のなかで必ず反応を起こします、その瞬間を大事にしたいのです。」というのがその理由だそうです。

※4-蜷川幸雄「芝居は血湧き肉躍る身体ゲームの方がいい」(扇田昭彦編『劇談』(小学館、2001年)収録)。「『真情あふるる軽薄さ』で、初めて清水(注・邦夫氏)と仕事をした時、清水とぼくが、本直しで一緒のホテルに泊まったことがある。ぼくがうたた寝してたら、清水が頭を叩きながら、だめだ、だめだ、だめだ、って言いながら、部屋中走りながら戯曲を直していた。起きるに起きられず、そういう光景を見ながら、作家っていうのは、こんなに言葉と格闘しながら書いてんだな、と。そんな原体験があるんです。いつでも演出家も俳優も、他人の言葉しかいえないから、その屈折が想像力を生んでいくんだって思いがあるものですから、少々言えないと思っても、自分の都合で本を変えるな、と。そこを想像力で埋めるから、違う感性、違う世界が出会って、新しいものを生んでいくんだという気がするんです。」

※5-「蜷川幸雄」(藤岡和賀夫『プロデューサーの前線』(実業之日本社、1998年)収録)。「 「台詞を変えるな!」と俳優に怒りながら、俺だってこんなもの認めてねェやと思いながらやるときもあるわけです。それは何とかして、出来損ないの戯曲でも、あるいは他人の書いた言葉を自分のものにすることによって、新しい作品にしてしまいたいと思うからです。」

※6-蜷川幸雄『蜷川幸雄・闘う劇場』(日本放送出版協会、1999年)。「大前提として、演出家も俳優も、基本的に「自分の言葉」は終生言えない、大事なことは「他人の言葉」を媒介にして伝えるしか方法がないと思おう、そう自分自身で決めているからだ。僕たち作家ならざるものは、日々言葉を選択しつつ書いたり、他人がしゃべる言葉として言葉を選び出しながら生きてはいない。そういう人間が、自分の言葉で世界や人間を対象化することを職業として選んだ人間に対し、よけいな手出しはすまいと決めたのである。」

※7-蜷川+長谷部前掲書。「コロスに仮面をかぶらせないで、どう演出していくか、(中略)現代の演出家として考えたときに、俳優の素顔を見せないまま、何時間も上演してしまうことはできない。そういう演出家は、俳優を物として扱っているのと同じです。そんな演出家は、必ず俳優に復讐される。俳優の復讐は何かというと、その演出家と仕事をしなくなることなんです。仮面をかぶらなかった俳優も、絶対に一緒に仕事をしなくなる。自分の顔を見てほしいし、自分の身体を見てほしいから役者をやっている。それはどんな理念や歴史的事実より何よりも、俳優の生理の絶対的なスタート地点で、僕は鉄則だと思っています。」

※8-蜷川+長谷部前掲書。「やっぱり僕が思うのは、ひとつには演出家として、俳優を機能としてだけ扱っているとは見られたくない。一人の人間として、世界を持っている人として演出したいと思っている。単にデザインで人を配置しているとすれば、俳優を物として扱っていくことになるでしょう。(中略)僕が言ったからそこにいるんじゃなくて、彼や彼女は自分の意思でそこにいるように見せたいわけです。」

※9-蜷川+長谷部前掲書。「寺山(注・修司)さんの作品は見てて面白いけれども、ぼくには、俳優がオブジェになりすぎていてね、そういうことに対する反発がいちばん大きいんじゃないかと思うんです。寺山さんの演出については、彼の理論とは別に、ここまで物として、役者扱えるかよって、それは役者にいつか逆襲されるぞって、ぼくはそう思って見ていた。」

 


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『カリギュラ』(1)-1

2009-01-17 01:20:23 | カリギュラ
2007年11月7日から30日までシアターコクーン(東京)で、12月5日から11日まで(大阪)で上演。アルベール・カミュの不条理三部作と呼ばれる初期作品の一つ。

これまで日本ではあまり上演されたことがなかったため知名度はいま一つだったのですが、蜷川幸雄演出、しかも人気絶頂の小栗旬くんの主演とあって、前売りチケットはあっという間に完売、当日券は長蛇の列、パンフレットは品切れ続出という大人気ぶりで、翌年発売されたDVDも相当な売れ行きだったようです。
勝地くんは暴君と化したローマの青年皇帝カイユス(カリギュラ)を憎みつつ慕う若き詩人・シピオンを好演しました。

勝地くんの出演情報を知ったとき、草野球チームで一緒で以前から仲良しの小栗くんとの共演をついに見られるのが一番の興奮材料でした。
二人とも長く芸能界にいるにもかかわらず、不思議とこれまで共演したことがなかった(正確には2003年の連続ドラマ『Stand Up!』で少ーしだけ共演してます)ので、どんな掛け合いを見せてくれるのか、共演をきっかけにインタビューやラジオ番組で小栗くんによる勝地くん評が聞けるんじゃないか、といろんな意味でわくわくしたものです。

小栗くんは蜷川さんの舞台には何作も出演していますがタイトルロールを演じるのは初めてで、かつ結構な難役でもあるからか、その他のメインキャストは元文学座で今は勝地くんと同じ事務所に所属している長谷川博己さん、やはり文学座に在籍していて蜷川さんの舞台にたびたび呼ばれている横田栄司さん、無名塾所属でドラマでも活躍する若村麻由美さん、と実力派の舞台役者で周囲を固めている。
その中に蜷川舞台は三度目とはいえ、小栗くん同様舞台出身ではない勝地くんが選ばれたことが何だか誇らしく思えます。
公演を見た方の感想をネットでいろいろ読みましたが、シピオン役は総じて好評で、中でも小栗くんファンの方が、
「旬くんがカリギュラを演じるこのタイミングに、勝地くんが年齢的にもスケジュール的にもシピオンを出来る環境にあったことに感謝したい」(大要)
と書いてらしたのが一番嬉しかったです。


ところで『カリギュラ』の公演情報が出るより大分前、ネット上で「2007年11月に蜷川演出、勝地涼出演で『コインロッカー・ベイビーズ』をやる」との噂が囁かれたことがありました。
『コインロッカー・ベイビーズ』は1980年に刊行された村上龍さんの小説で、生後すぐにコインロッカーに捨てられ同じ乳児院で育った二人の少年キクとハシの(生まれながらに背負ったトラウマゆえの)凄絶な生きざまを描いた物語。「勝地くんが演じるなら攻撃的な性格のキクと繊細で倒錯的なハシのどっちだろう、どっちもいけそう。(でもハシは歌手になるので歌はどうかな?)」などと思いをめぐらせていました。

まあ蓋を開けてみれば全然『コイン~』じゃなかったわけですが、思うにこれはまんざら全くの外れでもなくて、ひょっとしてある程度具体的な話は存在してたんじゃないでしょうか。
ちょうど『コイン~』の噂が出た頃、『ELLE』2007年1月号に勝地くんの記事がちょこっと載ったさいに「最近は『コインロッカー・ベイビーズ』を読破」と書かれていたこと、その後『BiDan』2007年5月号のインタビューで「井上雄彦さんの『バガボンド』は、やってみたい役があるんですよ。あと、村上龍さんの『コインロッカー・ベイビーズ』。主人公のキク。彼の壮絶な人生を演じてみたいですね」と話してたことからの想像ですが。
最近の本でもない『コイン~』をこの時期に読んだというのと、『バガボンド』の方はやりたい役の名前を明かしてないのに『コイン~』の方は具体的な話をしているのがちょっと気にかかりまして。まあ蜷川さんは村上さんのファンで、『コイン~』の文庫本を若い人たちに配ってるそう(※1)なので、たまたまこの時期に本をもらっただけなのかもしれませんが。

ちなみに蜷川さんにとってハシのイメージは「若いときの、忌野清志郎」だそう(※2)(※3)。ハシ=忌野清志郎!最初読んだときは驚きましたが、たしかに正統派の美男子ではないのにあの独特のメイクでステージに立つ清志郎さんは紛れもなく美しかった。そしていわゆる美声ではないけれど一度聴いたら忘れられない、聴き手にダイレクトに感情を伝えてくる唯一無二の天賦の歌声。言われてみると、もう清志郎さんしか考えられない。清志郎さんに匹敵するようなハシ役が見つかるまでは『コイン~』の舞台化は封印、ということなのかもしれませんね。
もしいつか『コイン~』をやるとしたらそのときは、あえて『カリギュラ』のネオンのセットや幕間の音楽を流用してほしいです。国と時代の違いを超えて頽廃的暴力的な世界観や主人公の造型に共通するものがあるように思うので。両作品のテーマ(若者の苦悩と不可能性への挑戦の物語)の普遍性を突きつける意味でもちょうどいいんじゃないかと。


※1-蜷川幸雄ほか『反逆とクリエイション』(紀伊国屋書店、2002年)。「ぼくは村上龍さんの小説が好きでほとんどの作品を読んでいる。『コインロッカー・ベイビーズ』の文庫本を、何人の若い人に贈ったことだろう。」

※2-蜷川幸雄+長谷部浩『演出術』(紀伊国屋書店、2002年)。「『コインロッカー・ベイビーズ』はやりたくてね。映画化権をとりたかった。若いときの、忌野清志郎にハシを演じてもらったらいいと思ったんですよ。問い合わせると、映画化権は、坂本龍一が持っているそうです。」 これは映画化権の話なので、舞台化する分には問題ないんでしょうが、坂本さんが権利を持ってるというのが意外です。ご自分で撮るつもりだったんだろうか。

※3-蜷川幸雄「演出ノート/悦楽的男優論」(『この人を見よ ブルータスたちの芳醇な自叙伝』(マガジンハウス、1988年)と蜷川幸雄『BGMはあなたまかせ』(サンケイ出版、1982年)に収録。初出は81年)。「ハシは忌野さんが演じたらいいと思う。これ以上の配役はちょっと考えられない。この汚辱にみち、聖なる輝きをもつ少年は、彼によって実体となるだろう。」

(つづく)


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『小栗旬のオールナイトニッポン』withカリギュラチーム!(3)

2009-01-12 02:08:41 | カリギュラ
・「みなさん18歳の頃は何をしてましたか?」との質問に、横田さんは「死ぬほどマージャンしてた」「池袋の百貨店で家具を梱包してました」だそう。
小栗くんは「デビロックって洋服屋さんでアルバイトしてた」。小栗くんは小学生の頃からエキストラの仕事をしてますが、今ほど有名じゃなかった時分に洋服屋さんのバイトもしてたというのは有名な話ですね。
そういえば『PICT MAGAZINE』の小栗くんインタビューの中で勝地くんが欲しがってたツナギがデビロックのでした。

・勝地くんが18の頃は大学行くか役者一本でいくかで悩んでた、と話すのに、「まあでも涼なあ、大学行くって言ったって、大学なんか入れるところがないもんな」(はっきり聞き取れなかったのですが、だいたいこんな内容)。
この台詞に回りからも「ひでー」「どんだけだよ」(←これは勝地くん発言)などとツッコミが。小栗くんも「自分もそう(頭悪い)だから言える」とフォローしてました。
ちなみに「変態さん」こと「会長」こと長谷川さんは18歳の頃はまだ役者ではなく、映画監督を目指してそっち系の大学に行きたいと思ってたそう。横田さんは20歳からお芝居をはじめ22歳で文学座に入ったそうです。

・今日は小栗くんと勝地くんの共通の友達である山本洋太朗さん=コンくんの誕生日ということで、彼のカラオケの十八番『ドラゴンボールZ』の主題歌「CHARA-HEAD-CHARA」を流す。
山本さんは草野球チーム「上腕二頭筋」のメンバーでもあり、小栗くんとの仲良しぶりのあれこれは、小栗くんの対談集『同級生。』で知ることができます。
ラジオ番組しかも生放送で祝ってもらえるなんてそうそうないですよね。しかも勝地くん出演の回とはなんとタイムリー。
しかし「コンくんが(カラオケに)来るとなったら、コンくんがドアを開ける前に曲を入れとかないといけない」、で、曲が始まると同時に歌いながら入ってくるのだと(笑)。すごいな。

・「旬兄ちゃん」のコーナー。うわ今日もやるんかい!しかしゲストに遠慮したのかなんか、比較的大人しめの内容だったような(ほっ)。小栗くん以外の3人は「なるほど」程度しか発言してなかったし。
小栗くんのウィットをきかせた回答が(質問メール中の比喩表現も)面白い。しかしそんな時に深夜ラジオにメール送ってていいんですかね?

・女の子からの恋愛相談。どうやってメアドや携帯番号を聞き出すか、という。「なかなか聞けないよね~」としみじみ語りあう男衆4人。
そこで勝地くんが「赤外線送ってんだけど」と冗談にまぎらわせて言ってみる、という提案?を口にすると、たちどころに小栗くんを筆頭に「やらし~」とツッコミが入る。
勝地くんはすかさず「そんなことを、聞いたことがあるよ」と笑いを含んだ声で続ける。誤魔化し方がなんかかわいいなあ。
結局「(男の方から聞く場合とちがって)女の子から聞いてもらったら嬉しいよね」というところに着地。しかし横田さんは「下心の塊」「歩く下心」なんだとか・・・。へーそうなんだ。

・『カリギュラ』にからめての、皆さんが欲しくても手に入らないものってありますか?という質問に、「1800円でパンフレットを買っていただけると」と誰かが答えて皆で笑う。
ちょうどキャストにこの内容で質問した回答が載っています。まあ皆意地悪せずにパンフに書いたとおりの答えを語ってくれました。途中から「新しい肝臓」「新品の声帯」とかギャグ系になってしまいましたが。
でも「身体に関するものだね、俺ら」「舞台やってるとどうしても体使うからね」という発言を聞くと、これもまた俳優魂なのだなと感じてしまいました。

・「みなさんにとって蜷川幸雄さんはどんな存在ですか?」との質問に、一同しばし「ああー」と溜息(なぜ)。やがて横田さんが一言「ウザい」。ちょっとちょっと(笑)。
でもこれはいい意味で悪い意味でも彼らにとっての影響力が大きいという意味ですね。小栗くんは自分にはお祖父ちゃんってものがいないから「自分が見たことない時代のことをいっぱい知ってる」「教えてくれる」人として貴重な存在だと言ってました。
勝地くんは「同じ目線で会話をしてくれる、それがすごい素敵なことだなあと」、小栗くんも「俺らのことを「戦友」っていってくれる」と話してました。
彼らの蜷川さんに対する親しみと尊敬の念が伝わってくる素敵なコメントたちでした。

・ついにラスト。小栗くんが三人に番組出演の感想を聞く。
横田さんは「普段楽屋でそんな目を合わせて話すこともない(別に仲悪いってことじゃないですよね?)四人が、こうやって、旬の番組を盛り上げようと頑張ってるってことに感動した。改めて俳優っていいなあ」(大要)。
長谷川さんは「オールナイトニッポンに出させてもらうなんて凄いこと。旬くんのまた違う一面に惚れ直しちゃった」(大要)。上述の「君のうちで二人でゆっくり見よう」を思うと問題発言、なのか?
そして勝地くんはというと、彼が何か言う前に小栗くんに髪型がヘンだと突っ込まれたのを受けて、「今日朝シャワーを浴びたら抜け毛がひどくて」と衝撃の告白が(笑)。
うわー大変。もともと細い髪で量も少ないのにー!でも「(抜け毛がひどくて)すごい落ち込んでたんですけど、そんなこと吹っ飛ぶくらい楽しかった」と綺麗にまとめてました。
『オールナイトニッポン』の公式ページでこの勝地くんのヘンな髪型、というか四人の集合写真が見られると思ってたんですが、なぜか小栗くんの変顔写真のみ。勝地くんの髪型がヘンだったせいですかー?。

 


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『小栗旬のオールナイトニッポン』withカリギュラチーム!(2) 

2009-01-07 01:17:13 | カリギュラ
・小栗くんと横田さんがお揃いで着てる(ところを若村さんのブログで写真つきで紹介されてた)「ドエス時々ドエム」と書かれたジャージにからめて、「小栗さんはドMらしいですが、横田さん、勝地さん、長谷川さんはSですかMですか?」との質問。
お芝居に関してのトークも当然聴きたいですが、雑誌やテレビのインタビューではまず聞けないこういう砕けたネタも、ゲスト出演の醍醐味ですね。
小栗くんは自分はMではなくドS、苛めるの大好きだと何故か誇らしげに(?)主張、横田さんはドMときどきドS(ジャージの通りですね)。
勝地くんは自分はMときどきSだと答えたものの、小栗くんに「涼、でもSっ気強くね?」と突っ込まれて「強え」とあっさり認め、結局ドS認定されてました。しかも「Mっぽく見せといて」「母性本能をくすぐるS」だとか。うわあ性質悪いー(笑)。
長谷川さんに至っては最初は彼はMだとかSだとか言いあってたものの「ド変態」というのが最終結論に。いったい何をやらかしたんだ長谷川さん。
2008年7月期のドラマ『四つの嘘』ではキモい(でも何かマヌケで憎めなくて、最後には美味しいところをさらってゆく愛すべき)ストーカー男を見事に演じてらっしゃいましたが、実は地だったりするのか。
そういえば、『オールナイトニッポン』の2008年4月23日放送分で小栗くんが、
「(映画『テキサス・チェーンソー』のリメイク元である『悪魔のいけにえ』を)『カリギュラ』で一緒だった長谷川くん、長谷川博己くんがひったすら「旬くん、あれは絶対見なきゃいけない。あれをね、君のうちで二人でゆっくり見よう」っつってね(笑)、長谷川くんが言ってたことを今思い出しました(笑)。」
と話してたのを聴いたとき、この「ド変態」発言を思い出しました。「君のうちで二人でゆっくり見よう」って、何か響きがアヤしげです(笑)。

・「カリギュラの現場で流行った新語はあるか」との質問に、「急にそんなことを言われても」という作中の台詞をあげる。稽古場でもどこでも使える便利な台詞だと言ってましたが、確かに使えそう。
続いて横田さんが「長谷川が旬に言う「あなたはみんなの厄介者です」っていうのもどこでも使える」と言ってましたが、使えるか?言われた人が気の毒です。
横田さんが長谷川さんを名字で呼び捨てなのに、そういえばこの二人文学座の先輩後輩だったんだよなーとふと思いました。

・他の役をやるならどれがいいかという話で、全員漏れなく「カリギュラがやりたい」で一致。激しく痛々しく、確かに演じ甲斐のある役ですよね。
しかし勝地くんがあの露出度の高い衣装でラブシーン演じたりカリギュラヴィーナスやったりするのはあまり想像できないかも(笑)。
ちなみに現カリギュラの小栗くんは他にやるならケレアがいいそう。以前、一番好きなシーンはケレアとの論理合戦だと話していたし、ケレア好きなんですね。

・上記の話題の流れで、皆に自分の家を荒らされながら「ここは私の家でもある。座ってもいいかな」と格好つけるケレアに対して、「自分の家なのに荒らされちゃう」「家でもあるって、家以外に何の用途で使われてるんだ」「ケレアは地域の会長さんみたいなもの」などとツッコミが入りまくる(このあとしばらく長谷川さんは「会長」と呼ばれていた)。
おかげでその後WOWOWで実際の舞台の映像を見たときも、ケレア邸の場面でつい笑ってしまった。常に冷静かつ論理的であろうとするがゆえにちょっとヘンな人になっちゃってるケレアが何だか可愛く思えたものです。

・ラジオの前のみなさんから寂しい体験を送ってもらい紹介する「僕も寂しいんです」のコーナー。リスナーからのメールに先立って、小栗くんが「ミートボール」ことマネージャー2号さん(妙齢の女性らしい)の寂しい体験を語る。
お風呂の中でぎっくり腰になってしまった彼女、小栗くん及びもう一人のマネージャーさんに連絡すべく必死で浴槽から手だけで這い出したとのこと。その時サーフィンが趣味の彼女は「まさか自分の家でパドリングをやることになるとは思わなかった」と思ったのだそう。気の毒な話なのにとっさの発想の面白さについ笑いを誘われます。
「私は陸(おか)サーファーじゃない!」と叫んだというのはマジなのか小栗くんの捏造か(笑)。

・本題のリスナーからのメールを次々紹介。
友達の悩みに対して意見を言ったら「あんたに励まされるようになっちゃったか」と遠い目をされた、という投稿を受けて、小栗くんが、もしケレアが「寂しいんです」のコーナーに送ってくるなら「今日カリギュラに「いつでも喋れます」と言ったら「よし、黙っていろ」と言われた」って内容になるに違いない、と言うのに全員爆笑。さっきからの話を聞いてるとケレアっていろいろ可哀想(笑)。
ところで、カリギュラのメンバー(とくに小栗くん)がこうして作品にがんがんツッコんでるのって何かいいですね。
古代ローマを舞台とする哲学的な戯曲に対しても身構えることなく、登場人物を一個の人格として肌で捉えているからこそ言えることだと思うので。そもそもそうでなければ生き生きとその人物を演じられないでしょうし。

・他の投稿が多く体験談(○○をしたら△△だった)を語る中、「妄想でしか幸せを感じられない」という異色のメール。
何とこれに「俺よくわかるなあ」と長谷川さんが共感を示す!さっそくみんなから「変態だ」「変態が食いついた」とはやしたてられる(笑)。
「その人いい人だね」「話が出来そう、いろいろと」と続ける長谷川さんに、「気持ち悪い笑顔」「にやにやして」とさらに追い打ちのツッコミが。
しかし顔良しスタイル良し頭良し演技上手しの長谷川さんが妄想でしか幸せを感じられないってどういうことよ?

・小栗くんが横田さんの淋しいエピソードを暴露。
小栗くんがお昼のテレビ番組に二日続けて生出演したさい、横田さんが二日ともそのテレビ画面を写メールで送ってきたのだけど、二枚ともアングルが完璧に一緒=つまり二日間その場所から動いてなかった、のだそうです(「定点観測」という表現が笑える)。
横田さんも否定しなかったところを見ると、本当に二日間テレビの前で固まってたってことですね?いやだってトイレとかお風呂とかー・・・。
長谷川さんといい、文学座の名優たちはどうなってるんだ?横田さんいわく「今は立ち直った」「(でも)二時間で元に戻れる」とのこと。「元」ってこれが常態なわけですか。

(つづく)


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『小栗旬のオールナイトニッポン』withカリギュラチーム!(1)

2009-01-03 00:40:00 | カリギュラ

ニッポン放送(AMラジオ)の長寿&看板番組。2007年1月3日より小栗くんが水曜日のパーソナリティをつとめています。

元より勝地くんとは同じ草野球チームに所属し仲良しの小栗くん、2007年11月に初共演の舞台『カリギュラ』があるだけに、遠からず勝地くんをゲストに呼んでくれるのでは、と期待して9月あたりから聴くようになりました。
(ネット情報では、放送第四回のゲストが『亡国のイージス』&『幸福な食卓』の脚本を書かれた長谷川康夫さんだったために、共通の知人である勝地くんの話題が出ていたそう(詳細こちら)。聴かれなかったのが無念)

しかし深夜1時から3時という放送時間帯と小栗くんの飾らない人柄のため、下ネタがんがん出まくりなのを聴くにつけ、「ゲストに来ないほうがいいかも・・・」とだんだん思いはじめ、「旬兄ちゃん」のコーナー(男性リスナー限定・性の悩み相談室)が始まった頃には、「頼む!来てくれるな!」と思うようになっていました(笑)。

などと言いつつもやっぱり本心では小栗くんとのトークを大いに期待していたわけで、一番ゲスト登場の可能性が高いのではと踏んでいた『カリギュラ』大阪公演中(キャスト一同が同じホテルに宿泊してるはず)に、ついにやってきてくれました!
それも勝地くん一人ではなく長谷川博己さん、横田栄司さんも一緒という、『カリギュラ』のいい男衆が一堂に会する美味しい展開でございました♪
以下番組を録音したテープをもとに、例によって箇条書きレビューを。改めてこの日の出演メンバーは、

小栗旬-カリギュラ(ローマの青年皇帝。最愛の妹の死をきっかけとして暴政に走る。冷徹なまでの知性と詩人の感性を合わせ持つ)

勝地涼-シピオン(若く純粋な詩人。カリギュラに父親を殺されながらも、詩的魂が共鳴するゆえに彼への愛憎の狭間で苦しむ)

長谷川博己-ケレア(青年貴族。その理知主義の部分でカリギュラと通じあうが、最終的には貴族たちの先頭に立ってカリギュラを倒す)

横田栄司-エリコン(カリギュラの側近。常にカリギュラの味方であり続け、全てを見通した上でカリギュラとともに破滅することを望む)

 

・リスナーからのメール。「エリコンが舞台で食べているのは玉葱に見えるが、玉葱なんか食べたら臭いはず、ああ見えてリンゴなのか」との質問。
この疑問は直接間接にあちこちで聞かれるのだそう。リンゴのほかに「あれは梨だ」説、「ラフランス」説まであるそうな(笑)。
正解はやっぱり玉葱。「思い出そうよこちん、初めて玉葱を食ったあの日」と誘導する小栗くんの口調が面白い。やっぱりすでに11か月生放送のパーソナリティやってるだけに喋りは上手いなあ。
ずっと年上の横田さんを「よこちん」呼びするあたりも、年齢差を越えて誰とでも仲良しモードに入れる小栗くんらしい。
(勝地くんはいくら親しくても年上の人には丁寧に話すタイプですね。4歳上の小栗くんあたりがタメ口になれる限界年齢かな?)

・玉葱話のつづき。初めて生で玉葱を食べたときは口の中がただれたと!しかもその玉葱を毎日のように食べなきゃいけないわけで。俳優さんは大変だ・・・。
小栗くんによれば「人間やめますか、芝居とりますか」くらいな状況だったそうです。
それでも(いかに原作にそう書かれているとはいえ)生玉葱にこだわった蜷川さん、なぜかといえば「玉葱を生で齧るのは下層階級のやること。エリコンは玉葱を齧ることで自分を見下す貴族たちを逆に皮肉ってみせてる」という解釈のゆえ。
しかしそれで横田さんが台詞言えないほどダメージを受けるとなると・・・。
いかに玉葱の味をマシにするか試行錯誤の結果、セゾニア役若村麻由美さんの提案で「玉葱をお酢につける」ことで何とか食べられるものになったそうです(この頃になると横田さん自身もかなり耐性が出来てたらしい)。
でも上の質問にもあるように、臭いはやっぱりキツいわけで、「エリコンのそばによると臭い」のに共演者の皆さんも大分悩まされたらしい(笑)。

・ケレア長谷川さんが、「コンタクトが外れてる(熱演のあまり取れちゃったりする)とき、エリコンと至近距離で芝居をすると息の臭いで涙が出てくる」話をしたところから、コンタクト談義へ。
勝地くんが泣きの芝居のところでコンタクトが外れてしまい、右頬にコンタクトくっついたまま演技してたというエピソードを小栗くんがバラす。『さとうきび畑の唄』のコンタクト事件(こちら参照)を思い出します。
どうやら今回のコンタクト事件は例のカリギュラとシピオンが詩を詠みあう名シーンで起こったものらしい。あの感動の場面で二人が内心「こいつコンタクトほっぺたにくっついてるのに真剣な顔してるよ」「(頬に引っついてるコンタクトを)取ってくんないかなー」なんて考えていたとは!
なのに観客席を涙の坩堝にできるんですから、役者さんとはすごいものです。

・勝地くんは稽古に入った当初、『カリギュラ』という戯曲の難解さに苦しんだそう。当時インタビューでも、「これまでの作品のうちでも、ダントツにわからない」旨を繰り返し語っていました。
実のところ私も公演が始まる前に戯曲を読んでみましたが、到底理解できたとはいいがたい。
それでも観る側は「難しい」と言ってればすみますが、演じ手はわけわからないまま演じるわけにはいかない(というより、わからなかったら演じられない)ですから、作品に向かうプレッシャーも相当なものだったかと思います。
稽古が始まる前、小栗くんがインタビューで、「心配なのはね、勝地涼という役者が、ちゃんとこの戯曲を理解したうえで稽古場に来られるのかということ」なんて言ってましたが、心配が的中しましたね。
この発言、小栗くんは別に勝地くんの知性をあなどってるわけではなく、むしろ性格的なもの――この作品が描き出す絶望や倒錯性を理解するには彼は純粋すぎる(それは純粋な詩人シピオンを演じるうえでの適性でもある)、と感じてたゆえだと解釈してるんですが、身贔屓すぎますかね。

(つづく)


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