・どしゃぶりの中、長屋前をうろついてた犬が突然画面から消える。この演出が意味するところは後に明らかになるわけだが・・・(笑)。
ここから大家が順次長屋の住人から家賃を取り立てていくくだりはずっと大雨のまま。作中でもっとも沈んだトーンの箇所。
・吉良邸に詰めている人数を知るために、厠の肥を調べることを提案する吉右衛門。
ここでもまた糞の話が。「さすが百姓出身」と笑う面々には同士中でも身分の低い寺坂を貶める響きがあった。最初に話をふった小野寺だけはちゃんと吉右衛門を認めてる感じでしたが。
ついでに「患者だ!」と包帯を巻いた腕を強調するえらそうな態度が笑えます。
・ちゃんと家賃を払ってくれる宗左に「店子がみんな仇持ちなら取りっぱぐれがなくていい」と嫌味を言う大家。
彼が口にする「てめえの手を汚して銭を稼いだことのない奴」というのが、そで吉や重八に手紙を読んでもらった男が宗左にぶつけてきた悪意の根源なのでしょう(子供たちに手習いを教えているのだから、多少の稼ぎはあるはずなのだけど)。
そして「何とかなりませんか」と言う宗左の言葉には、長屋を追い出される皆の行く末を案じているというより、現在の長屋世界-自分にとって居心地良い空間を守りたがっているという響きを感じました。
・そで吉を女房がらみで挑発する大家は、腕っぷしの強そうな(実際強い)そで吉に凄まれても余裕で笑っている。
普段何ごとにも冷淡で投げやりなそで吉がむきになったというだけで、ここは大家の勝ちなのがわかる。大家を見送るそで吉の佇まいにも敗北感が漂っていた。
・結局大家から包丁を取り返したのは宗左のストレートな(感情論だけの)懇願ではなく貞四郎らの騙しと脅しだった。
「必ず追い出してやるからな!」と激怒しながらも、その実大家は口先だけの宗左より悪知恵をめぐらして軽々と目的を成しとげる貞四郎たちの方を人間として買っていることだろう。
・雨宿りの善蔵(平泉成さん)とお勝(絵沢萠子さん)の老いらくの恋。
語る内容は便秘の話、「こんなにむくんじゃったよ」と触らせる腕も若い娘の肌の張りとは無縁。普通なら色っぽくなりようもない場面を、二度三度腕を指先で押す仕草とお勝の表情で、ちゃんと恋のときめきを表現してみせる。
生活臭と表裏一体の逆説的な色気が効いている。
・そで吉とおりょうの悲恋のエピソードは彼らの言動、ストーリー展開の一つ一つまで陳腐に近いまでの王道パターン。おそらくは当時どこにでもありふれていた庶民の哀しみを彼らに代表させたということなのでしょう。
「俺と一緒に、どっか、遠いところでよ・・・」というそで吉の(彼らしくもなく)実効性のない言葉が、どうあがいても今さら取り戻しようもない二人の歳月を思わせて切ない。
・進之助と吉坊の友情エピソード。悪びれることなく堂々と、不敵なそれでいて正義感の強さを感じさせる吉坊がすがすがしい。重苦しい長雨が上がったあとの明るい空にふさわしい。
・吉坊の語る父の信念「喧嘩になったら逃げろ」というのは、金沢の過去を知る観客、そして宗左には重い言葉。
売られた喧嘩につい応戦しただけ、本来自分には非がなかったにも関わらず人殺しとなって相手の遺族に追われるはめになってしまった。だから喧嘩の原因の良し悪しを問わず、相手が先に手を出したとしてもなお、戦ってはならない、と。
喧嘩が弱い進之助に長屋の住人が上手な殴られ方を教えようとしたのとは別の次元での人生訓。
父の言葉に篭められた深い慙愧を吉坊が知る由もないのがいっそう痛々しさを誘う。
・「でもおいらは逃げるのは好かねえから、別のやり方考えたんだ」という吉坊。腕づくで対抗するのでなく、頭を使って相手の戦意を喪失させるやり方。
父の言いつけを尊重しながらも実に軽やかに自分の流儀を貫いている。
後に宗左は立ち退きを迫られる長屋の住人と金沢一家を救うために仇討ちのペテンをやってのけますが、力ではなく策略をもって一切を丸く収める方法論を、ここで幼い吉坊から学んだことも一因なのでは。
・宗左は「吉坊の父上はきっと強い人なんだろうね」と父の仇・金沢の人間性を認める発言をする。しかし表情と声のトーンがやや沈みがちなのは、手放しで彼を称賛できない複雑な感情のゆえでしょう。それでもこうした台詞を口にしたのは、宗左の心が次第に仇討ちの放棄、金沢との和解に向かっていることを思わせます。
・進之助が唐突に父親の似顔絵を見せると言い出すのは、吉坊がお母さん(石堂夏央さん)と父親の話をしていたのを聞いて羨ましくなったからですね。
吉坊母子を見送った進之助の表情には父のいない彼の寂しさがよく表れていました。
・進之助が父の似顔といって見せたのは人相書だった。これは二通りの解釈ができるだろう。
一つは、これまでのストーリーの中で死んだと説明されてきた進之助の父親は実は生きていて、金沢同様仇として追われる身であるという解釈。
もう一つは、進之助の父親はこの人相書の男に殺されたという解釈(こちらの場合、幼い総領息子に代わって親族の誰かが仇討ちのため方々旅しているのだろう。あるいは宗左と同じように、雑多な人間が出入りする長屋に身を潜めつつ仇と巡りあう日を待っているのか)。
前者だとすればおさえの涙は長く生き別れの夫を想ってのものであり、宗左が進之助を抱きしめたのは仇を持つ身として仇と目される側の妻子の辛さに触れて、そんな事情を知らぬまま父を慕う進之助に哀れを覚えたからということになる。
後者ならおさえは夫を殺した仇憎さに泣くのであり、宗左は親の仇を父親と思い込んで誇らしげに語る進之助を憐れんだ、ということになろう。
ノベライズや是枝監督のインタビューによると後者が正解。思えば花見の仇討ち芝居で夫の敵討ちを狙う未亡人を演じたのはおさえには残酷な役割だった。長屋の面々は彼女の事情を知らずあの役を割り振ったのか。知っていればこそあえて芝居の中だけでも仇討ちを遂げさせてやりたいという温情だったのか。
・吉右衛門が「肥溜めに落ちちまった」というのは、先に自ら提案したとおり吉良邸を厠方面から探索してたからですね。
身分が低いがために浪士中でも損な役回りを負わされているのが、夜中に一人井戸端で行水する姿に暗示されています。
・碁を打ちながら吉右衛門は自分の出自や、侍らしい死に方をしたいという意思など、聞かれもしないのにかなり際どい告白を行っている。
浪士中で軽んじられている孤独感が、れっきとした武家でありながら長屋の連中を見下したところのない、むしろ見下されてるような宗左に、仇討ちを志しているという共通項もあって親近感を涌かせたのでしょうね。
・自身の命をかけて、息子に「侍の子として」の人生を残してやりたいという吉右衛門。そこには深い親の愛と、彼なりの侍としての誇りがうかがえます。
くだらない喧嘩で命を落とし末期に仇をのみ残してくれた父を持つ宗左は、きっと顔も知らぬ吉右衛門の息子をうらやましく思ったんじゃないでしょうか。
・「剣以外にも父から教わったことがありました」としみじみした笑顔で語り、「本当に良かった」と繰り返しながら涙ぐみさえする宗左。
その後まもなく所在を知りながら長らく接触を持たずに来た金沢に会いに行っていることから、仇討ちの意思を半ば失くしている宗左がそれでも仇討ちを放棄しきれなかった理由―仇を討つこと・武士らしい生き方が父が自分に残した唯一のものだという認識―がここで崩れたこと、自分の本来の気持ちに反してここまで仇討ちを引きずったほどの父への想いの深さがここでわかります。
「よかったじゃないですか」と応える吉右衛門は宗左の感激ぶりに当惑した表情ですが、やがて彼もここで宗左が見出したのと同じものを発見することになります。
・「今度進坊に五目並べを教えてやろう」と宗左は呟く。返り討ちに合って死ぬ危険と隣り合わせの仇討ちを放棄すると決意したことで、彼は「今度」=未来の自分の姿を見つめることができるようになった。
父親を持たぬ進之助に自分が父から伝えられたものを伝えて行こうというのは、自分が進之助の父親代わりになろうという意志をもうかがわせます。
・宗左と金沢の邂逅。特に説明はないものの、金沢が宗左を青木の息子とすぐ見抜いたのが彼の表情から見てとれます。おそらく玄関前で宗左の草履を拾ったときから、遠からず自分を狙う男がやってくる(やって来たら大人しく討たれてやる)覚悟をしていたのでしょう。
二人の会話は極端に少なく、宗左は終始子供たちの話しかせず、金沢はただ質問に答え最後に深々と頭を下げるのみ。これだけのやりとりで、宗左が婉曲に仇討ちの意思はないと金沢に伝え、金沢がそれを理解して宗左に心からの感謝を捧げたのがよくわかる。
最低限の台詞と動きだけできわめて雄弁に心情を描き出す、純日本的情感に裏打ちされた演出が実に心憎いです。
・宗左の仇討ち芝居が上手くいけば百両は固い、と取らぬ狸の皮算用を始める長屋の面々。
文字の書けない留吉(千原靖史さん)が算盤をできるのは意外なようですが、彼が商売人だからこそですね。
・武士としての正論をかざしてペテンの仇討ちに意を唱える平野に反論するおさえ。
敵への憎しみを忘れたのではなく「糞を餅に変えた」のだ、という彼女の言葉は、実は仇持ちである彼女自身に言い聞かせたものでもあるのですね。
上品な美女が「糞」を連呼するミスマッチが笑いを誘う。
・貞四郎が寺の息子という意外な事実に、宗左まで驚いてる(笑)。死骸の不在をどう誤魔化すかがこの計画の肝だと思うのだが、それについては考えてなかったのか?
貞四郎は実家を利用できる当てがあったからこそ真っ先に賛意を示したのだが、宗左は・・・ツメが甘いよなあ。
「うん、浄土真宗」と言ったところで鐘の音が入るのが、「オチが付きました」という感じでくすりとさせる。
・さっきまでは武士としての義がどうのと言ってた平野が、成功の可能性が高いとわかるなり仇討ち芝居に積極的に乗ってくる。このへんの調子良さが平野だよなあ。
・検死を妨げるべく偽の腸を見せ付ける留吉たち。検死にあたった与力が気弱な性質で良かった(笑)。ここでひるんでくれなかったらおさえ母子の登場までもたなかったもんなあ。
そしておさえたちの芝居におんおん泣いてくれるようなお人よしで本当良かった(笑)。
・おさえが進之助に言い聞かせる言葉は、つまりは「糞を餅に変える」ことですね。それは彼女の本音というより「本音に変えていこうとしている」言葉。
それがわかるからこそ、彼女を見つめる宗左の目は悲しさと労わりに溢れている。
・仇討ち芝居を終えて一人感慨深げに長屋の前に佇む宗左にそで吉が声をかける。皮肉めいた口調は相変わらずだが微かな笑顔にはこれまでと違い宗左を認めている気配がある。
応じる宗左もこれまでのように腰の引けた態度でない。どちらも宗左がはじめて「てめえの手を汚して銭を稼いだ」ゆえでしょうね。
彼らの心が少し通じ合った様子がわずかなやりとりの中に表されているのが余韻を残す。
・いきなり結婚宣言する善蔵とお勝。あの雨宿りのさいのちょっぴりいい雰囲気?がこんな実を結んでしまった。
「こんなめでたい席でそんな縁起でもない」というおのぶの言い草があんまりすぎる(笑)。「雨さえ降らなければこんなことにはならなかったのに」も。まあ気持ちはわかるけれど。
・仇討ちペテンの成功に長屋が沸き返るのと重ね合わせて、赤穂浪士たちの討ち入り支度が描かれる。
「結局寝込みを襲うんかい」の台詞とおよそ勇壮さからは程遠い軽やかな音楽が、浪士たちの仇討ちをごく卑俗な、格好良くない行動として映し出す。
・走る浪士たちの最後尾で、草鞋の紐を結び直すために立ち止まった吉右衛門をカメラがはるか上方から俯瞰する。
白い雪の中に黒装束の彼が一人ぽつんと残されている姿に彼の孤立―ともかくも仇討ちへ向かう仲間たちとすでに心の持ちようが離れている―が示されているようです。
・先までは馬鹿にしていた赤穂浪士を一夜明ければ英雄として祭り上げ、脱盟した「不義士」たちには容赦ないバッシングを笑顔で(それぞれの正義感の発露として)やってのける市井の人々。
彼らはまた、先までは「はきだめ」だ「くず」だと馬鹿にしていた長屋(の面々)をも、赤穂浪士たちのアジトだった、赤穂浪士に先立って親の仇を見事討ち果たした青木宗左衛門の住処である、という点から、たちまち「聖地」扱いに昇格させた。
一般民衆の生活力・生命力と背中あわせのこうした変わり身の早さ・残酷さが端的に示されている場面。
・もっとも長屋の面々もそうした群衆心理を利用し、むしろ煽り立てて商売に利用している。彼らの逞しさはある意味長屋の外の大衆以上(本人に許可を取る前から「吉まん」を試作しちゃうし)。
ついでにこないだまで追い立てようとしていた長屋の連中とつるんで商売してる大家の要領の良さ。やはりこの人が一番の勝ち組だろうか。
・自分が脱盟した際の心情を語る吉右衛門。碁を打っていたときに宗左が取った態度に戸惑っていた彼が、草鞋の紐を結び直したのをきっかけに、武士としての矜持以外に息子に残してやりたいものに思いあたってしまった。
そこで誇りを持って脱盟を選び世間からなんと言われようと堂々と己の信念を貫く・・・といかなかったのが彼の弱いところ。
これまで自分を支えてきた武士のプライドを捨ててしまったことを思えば無理もないのだが、「息子に草鞋作りを教えてやりたい」という目的はそれを埋めるに足らなかったものか。
ゆえに彼は善蔵らが作り上げた「吉右衛門は浪士たちの活躍を遺族および後世に伝えるためにあえて仲間を抜けた」というストーリー―武士としてのヒロイズムと家族との暮らしを一挙両得できる―にすがってしまった。それも彼の幸せなのかもしれませんが。
・「人の不幸だって利用しないとね」と笑い合うお勝。かなり怖いです(笑)。旦那と気が合ってるのはいいんですけど。
・赤穂浪士の仇討ちにまつわる熱狂の中、宗左の表情は暗い。
宗左が偽の仇討ちを行ったのは、大金を調達することで皆が長屋を追い出されるのを阻止し現状の長屋世界を守ろうというのが第一の動機だった。しかし実際は赤穂浪士の仇討ち成功が、彼の愛した長屋世界の空気をがらりと変えてしまった。
役人をペテンにかけるという危ない橋を渡っても守りたかったものを、当の長屋の人間たちがあっさりとぶち壊してしまう。
仕官に執着する平野やもっと良い暮らしを望む善蔵・お勝らが、現状維持でなく生活向上を貪欲に目指すのは当然なのだが、宗左にとっては当てが外れたような裏切られたようなやりきれなさがあるんじゃないか。
また、いかにも世間擦れして見える貞四郎が仇討ち景気を利用した金儲けに走らずむしろ苦々しげな態度を終始見せているのは、彼独特の正義感のゆえばかりでなく、彼が実家の寺という「帰れる場所」を確保しながら好んで貧乏長屋でぬるま湯のような日常を送っているモラトリアム気質―真の意味で困窮していないからこそ宗左同様これまでの長屋世界を維持したいと思っている―にもよるのだろう。
・浪士全員が切腹したと聞かされたときの宗左の表情はこれまでにもまして実に重苦しい。
嘘の仇討ちを行うことで武士らしい生き方を捨て去った宗左には、武士道に振り回されるように「卑怯な」仇討ちを行い、ヒーロー扱いされながらも自死を迎えねばならなかった赤穂義士たちが、そうなっていたかもしれない自分の姿を見るような痛みがあるのでしょう。
・「でも、孫さんが言ったとおり、桜が散るのは来年また咲くためですから」「今年よりもっと美しく」。言い合って目を見交わす宗左とおさえ。
復讐に囚われていた自己を捨て、明日を見つめて生きることを選んだ二人の姿、宗左に向けたおさえの笑顔がすがすがしいです。
・寺子屋を探してやってきた吉坊を見た宗左は胸をつかれたような表情になり、やがてこぼれるような最高の笑顔を見せる。
吉坊が宗左に手習いを学ぶということは、先に宗左から切り出した「和解」を金沢が受け入れたことを意味する。彼の「仇討ち」は仇討ちバブルともいうべき変な実も結んでしまったが、本来彼が望んだ「実」も同時に結ばれていた。
長屋の雰囲気も人心も変わってしまったことに複雑な思いを抱いていた宗左が、吉坊によって「人の心も関係性も変わってゆく」ことのプラス面を実感する。
自分もこれまでの大目的だった復讐を放棄し変わってゆこうとしている宗左にとっては最高の餞と言える。その喜びがあの笑顔から実に明快に伝わってきます。
『キネマ旬報』2006年6月上旬号の是枝監督と山本一力氏の対談によれば、監督は「岡田くんとは、最後の笑顔がどう見えるかにかかっている映画だと話していた」そうですが、すべての屈託が晴れたようなこの笑顔があればこそ、作品は全きハッピーエンドを迎えることができたように思います。