about him

俳優・勝地涼くんのこと。

『花よりもなほ』(2)-4(注・ネタバレしてます)

2007-11-03 02:10:05 | 花よりもなほ
・長屋の前で子供たちと遊ぶおりょう。「けんけんぱ」で鮮やかな赤い湯文字?と白い脛が覗くのが色っぽくて、地味な着物を着て側に立つおのぶとのコントラストになっている。

・どしゃぶりの中、長屋前をうろついてた犬が突然画面から消える。この演出が意味するところは後に明らかになるわけだが・・・(笑)。
ここから大家が順次長屋の住人から家賃を取り立てていくくだりはずっと大雨のまま。作中でもっとも沈んだトーンの箇所。

・吉良邸に詰めている人数を知るために、厠の肥を調べることを提案する吉右衛門。
ここでもまた糞の話が。「さすが百姓出身」と笑う面々には同士中でも身分の低い寺坂を貶める響きがあった。最初に話をふった小野寺だけはちゃんと吉右衛門を認めてる感じでしたが。
ついでに「患者だ!」と包帯を巻いた腕を強調するえらそうな態度が笑えます。

・ちゃんと家賃を払ってくれる宗左に「店子がみんな仇持ちなら取りっぱぐれがなくていい」と嫌味を言う大家。
彼が口にする「てめえの手を汚して銭を稼いだことのない奴」というのが、そで吉や重八に手紙を読んでもらった男が宗左にぶつけてきた悪意の根源なのでしょう(子供たちに手習いを教えているのだから、多少の稼ぎはあるはずなのだけど)。
そして「何とかなりませんか」と言う宗左の言葉には、長屋を追い出される皆の行く末を案じているというより、現在の長屋世界-自分にとって居心地良い空間を守りたがっているという響きを感じました。

・そで吉を女房がらみで挑発する大家は、腕っぷしの強そうな(実際強い)そで吉に凄まれても余裕で笑っている。
普段何ごとにも冷淡で投げやりなそで吉がむきになったというだけで、ここは大家の勝ちなのがわかる。大家を見送るそで吉の佇まいにも敗北感が漂っていた。

・結局大家から包丁を取り返したのは宗左のストレートな(感情論だけの)懇願ではなく貞四郎らの騙しと脅しだった。
「必ず追い出してやるからな!」と激怒しながらも、その実大家は口先だけの宗左より悪知恵をめぐらして軽々と目的を成しとげる貞四郎たちの方を人間として買っていることだろう。

・雨宿りの善蔵(平泉成さん)とお勝(絵沢萠子さん)の老いらくの恋。
語る内容は便秘の話、「こんなにむくんじゃったよ」と触らせる腕も若い娘の肌の張りとは無縁。普通なら色っぽくなりようもない場面を、二度三度腕を指先で押す仕草とお勝の表情で、ちゃんと恋のときめきを表現してみせる。
生活臭と表裏一体の逆説的な色気が効いている。

・そで吉とおりょうの悲恋のエピソードは彼らの言動、ストーリー展開の一つ一つまで陳腐に近いまでの王道パターン。おそらくは当時どこにでもありふれていた庶民の哀しみを彼らに代表させたということなのでしょう。
「俺と一緒に、どっか、遠いところでよ・・・」というそで吉の(彼らしくもなく)実効性のない言葉が、どうあがいても今さら取り戻しようもない二人の歳月を思わせて切ない。

・進之助と吉坊の友情エピソード。悪びれることなく堂々と、不敵なそれでいて正義感の強さを感じさせる吉坊がすがすがしい。重苦しい長雨が上がったあとの明るい空にふさわしい。

・吉坊の語る父の信念「喧嘩になったら逃げろ」というのは、金沢の過去を知る観客、そして宗左には重い言葉。
売られた喧嘩につい応戦しただけ、本来自分には非がなかったにも関わらず人殺しとなって相手の遺族に追われるはめになってしまった。だから喧嘩の原因の良し悪しを問わず、相手が先に手を出したとしてもなお、戦ってはならない、と。
喧嘩が弱い進之助に長屋の住人が上手な殴られ方を教えようとしたのとは別の次元での人生訓。
父の言葉に篭められた深い慙愧を吉坊が知る由もないのがいっそう痛々しさを誘う。

・「でもおいらは逃げるのは好かねえから、別のやり方考えたんだ」という吉坊。腕づくで対抗するのでなく、頭を使って相手の戦意を喪失させるやり方。
父の言いつけを尊重しながらも実に軽やかに自分の流儀を貫いている。
後に宗左は立ち退きを迫られる長屋の住人と金沢一家を救うために仇討ちのペテンをやってのけますが、力ではなく策略をもって一切を丸く収める方法論を、ここで幼い吉坊から学んだことも一因なのでは。

・宗左は「吉坊の父上はきっと強い人なんだろうね」と父の仇・金沢の人間性を認める発言をする。しかし表情と声のトーンがやや沈みがちなのは、手放しで彼を称賛できない複雑な感情のゆえでしょう。それでもこうした台詞を口にしたのは、宗左の心が次第に仇討ちの放棄、金沢との和解に向かっていることを思わせます。

・進之助が唐突に父親の似顔絵を見せると言い出すのは、吉坊がお母さん(石堂夏央さん)と父親の話をしていたのを聞いて羨ましくなったからですね。
吉坊母子を見送った進之助の表情には父のいない彼の寂しさがよく表れていました。

・進之助が父の似顔といって見せたのは人相書だった。これは二通りの解釈ができるだろう。
一つは、これまでのストーリーの中で死んだと説明されてきた進之助の父親は実は生きていて、金沢同様仇として追われる身であるという解釈。
もう一つは、進之助の父親はこの人相書の男に殺されたという解釈(こちらの場合、幼い総領息子に代わって親族の誰かが仇討ちのため方々旅しているのだろう。あるいは宗左と同じように、雑多な人間が出入りする長屋に身を潜めつつ仇と巡りあう日を待っているのか)。
前者だとすればおさえの涙は長く生き別れの夫を想ってのものであり、宗左が進之助を抱きしめたのは仇を持つ身として仇と目される側の妻子の辛さに触れて、そんな事情を知らぬまま父を慕う進之助に哀れを覚えたからということになる。
後者ならおさえは夫を殺した仇憎さに泣くのであり、宗左は親の仇を父親と思い込んで誇らしげに語る進之助を憐れんだ、ということになろう。
ノベライズや是枝監督のインタビューによると後者が正解。思えば花見の仇討ち芝居で夫の敵討ちを狙う未亡人を演じたのはおさえには残酷な役割だった。長屋の面々は彼女の事情を知らずあの役を割り振ったのか。知っていればこそあえて芝居の中だけでも仇討ちを遂げさせてやりたいという温情だったのか。

・吉右衛門が「肥溜めに落ちちまった」というのは、先に自ら提案したとおり吉良邸を厠方面から探索してたからですね。
身分が低いがために浪士中でも損な役回りを負わされているのが、夜中に一人井戸端で行水する姿に暗示されています。

・碁を打ちながら吉右衛門は自分の出自や、侍らしい死に方をしたいという意思など、聞かれもしないのにかなり際どい告白を行っている。
浪士中で軽んじられている孤独感が、れっきとした武家でありながら長屋の連中を見下したところのない、むしろ見下されてるような宗左に、仇討ちを志しているという共通項もあって親近感を涌かせたのでしょうね。

・自身の命をかけて、息子に「侍の子として」の人生を残してやりたいという吉右衛門。そこには深い親の愛と、彼なりの侍としての誇りがうかがえます。
くだらない喧嘩で命を落とし末期に仇をのみ残してくれた父を持つ宗左は、きっと顔も知らぬ吉右衛門の息子をうらやましく思ったんじゃないでしょうか。

・「剣以外にも父から教わったことがありました」としみじみした笑顔で語り、「本当に良かった」と繰り返しながら涙ぐみさえする宗左。
その後まもなく所在を知りながら長らく接触を持たずに来た金沢に会いに行っていることから、仇討ちの意思を半ば失くしている宗左がそれでも仇討ちを放棄しきれなかった理由―仇を討つこと・武士らしい生き方が父が自分に残した唯一のものだという認識―がここで崩れたこと、自分の本来の気持ちに反してここまで仇討ちを引きずったほどの父への想いの深さがここでわかります。
「よかったじゃないですか」と応える吉右衛門は宗左の感激ぶりに当惑した表情ですが、やがて彼もここで宗左が見出したのと同じものを発見することになります。

・「今度進坊に五目並べを教えてやろう」と宗左は呟く。返り討ちに合って死ぬ危険と隣り合わせの仇討ちを放棄すると決意したことで、彼は「今度」=未来の自分の姿を見つめることができるようになった。
父親を持たぬ進之助に自分が父から伝えられたものを伝えて行こうというのは、自分が進之助の父親代わりになろうという意志をもうかがわせます。

・宗左と金沢の邂逅。特に説明はないものの、金沢が宗左を青木の息子とすぐ見抜いたのが彼の表情から見てとれます。おそらく玄関前で宗左の草履を拾ったときから、遠からず自分を狙う男がやってくる(やって来たら大人しく討たれてやる)覚悟をしていたのでしょう。
二人の会話は極端に少なく、宗左は終始子供たちの話しかせず、金沢はただ質問に答え最後に深々と頭を下げるのみ。これだけのやりとりで、宗左が婉曲に仇討ちの意思はないと金沢に伝え、金沢がそれを理解して宗左に心からの感謝を捧げたのがよくわかる。
最低限の台詞と動きだけできわめて雄弁に心情を描き出す、純日本的情感に裏打ちされた演出が実に心憎いです。

・宗左の仇討ち芝居が上手くいけば百両は固い、と取らぬ狸の皮算用を始める長屋の面々。
文字の書けない留吉(千原靖史さん)が算盤をできるのは意外なようですが、彼が商売人だからこそですね。

・武士としての正論をかざしてペテンの仇討ちに意を唱える平野に反論するおさえ。
敵への憎しみを忘れたのではなく「糞を餅に変えた」のだ、という彼女の言葉は、実は仇持ちである彼女自身に言い聞かせたものでもあるのですね。
上品な美女が「糞」を連呼するミスマッチが笑いを誘う。

・貞四郎が寺の息子という意外な事実に、宗左まで驚いてる(笑)。死骸の不在をどう誤魔化すかがこの計画の肝だと思うのだが、それについては考えてなかったのか?
貞四郎は実家を利用できる当てがあったからこそ真っ先に賛意を示したのだが、宗左は・・・ツメが甘いよなあ。
「うん、浄土真宗」と言ったところで鐘の音が入るのが、「オチが付きました」という感じでくすりとさせる。

・さっきまでは武士としての義がどうのと言ってた平野が、成功の可能性が高いとわかるなり仇討ち芝居に積極的に乗ってくる。このへんの調子良さが平野だよなあ。

・検死を妨げるべく偽の腸を見せ付ける留吉たち。検死にあたった与力が気弱な性質で良かった(笑)。ここでひるんでくれなかったらおさえ母子の登場までもたなかったもんなあ。
そしておさえたちの芝居におんおん泣いてくれるようなお人よしで本当良かった(笑)。

・おさえが進之助に言い聞かせる言葉は、つまりは「糞を餅に変える」ことですね。それは彼女の本音というより「本音に変えていこうとしている」言葉。
それがわかるからこそ、彼女を見つめる宗左の目は悲しさと労わりに溢れている。

・仇討ち芝居を終えて一人感慨深げに長屋の前に佇む宗左にそで吉が声をかける。皮肉めいた口調は相変わらずだが微かな笑顔にはこれまでと違い宗左を認めている気配がある。
応じる宗左もこれまでのように腰の引けた態度でない。どちらも宗左がはじめて「てめえの手を汚して銭を稼いだ」ゆえでしょうね。
彼らの心が少し通じ合った様子がわずかなやりとりの中に表されているのが余韻を残す。

・いきなり結婚宣言する善蔵とお勝。あの雨宿りのさいのちょっぴりいい雰囲気?がこんな実を結んでしまった。
「こんなめでたい席でそんな縁起でもない」というおのぶの言い草があんまりすぎる(笑)。「雨さえ降らなければこんなことにはならなかったのに」も。まあ気持ちはわかるけれど。

・仇討ちペテンの成功に長屋が沸き返るのと重ね合わせて、赤穂浪士たちの討ち入り支度が描かれる。
「結局寝込みを襲うんかい」の台詞とおよそ勇壮さからは程遠い軽やかな音楽が、浪士たちの仇討ちをごく卑俗な、格好良くない行動として映し出す。

・走る浪士たちの最後尾で、草鞋の紐を結び直すために立ち止まった吉右衛門をカメラがはるか上方から俯瞰する。
白い雪の中に黒装束の彼が一人ぽつんと残されている姿に彼の孤立―ともかくも仇討ちへ向かう仲間たちとすでに心の持ちようが離れている―が示されているようです。

・先までは馬鹿にしていた赤穂浪士を一夜明ければ英雄として祭り上げ、脱盟した「不義士」たちには容赦ないバッシングを笑顔で(それぞれの正義感の発露として)やってのける市井の人々。
彼らはまた、先までは「はきだめ」だ「くず」だと馬鹿にしていた長屋(の面々)をも、赤穂浪士たちのアジトだった、赤穂浪士に先立って親の仇を見事討ち果たした青木宗左衛門の住処である、という点から、たちまち「聖地」扱いに昇格させた。
一般民衆の生活力・生命力と背中あわせのこうした変わり身の早さ・残酷さが端的に示されている場面。

・もっとも長屋の面々もそうした群衆心理を利用し、むしろ煽り立てて商売に利用している。彼らの逞しさはある意味長屋の外の大衆以上(本人に許可を取る前から「吉まん」を試作しちゃうし)。
ついでにこないだまで追い立てようとしていた長屋の連中とつるんで商売してる大家の要領の良さ。やはりこの人が一番の勝ち組だろうか。

・自分が脱盟した際の心情を語る吉右衛門。碁を打っていたときに宗左が取った態度に戸惑っていた彼が、草鞋の紐を結び直したのをきっかけに、武士としての矜持以外に息子に残してやりたいものに思いあたってしまった。
そこで誇りを持って脱盟を選び世間からなんと言われようと堂々と己の信念を貫く・・・といかなかったのが彼の弱いところ。
これまで自分を支えてきた武士のプライドを捨ててしまったことを思えば無理もないのだが、「息子に草鞋作りを教えてやりたい」という目的はそれを埋めるに足らなかったものか。
ゆえに彼は善蔵らが作り上げた「吉右衛門は浪士たちの活躍を遺族および後世に伝えるためにあえて仲間を抜けた」というストーリー―武士としてのヒロイズムと家族との暮らしを一挙両得できる―にすがってしまった。それも彼の幸せなのかもしれませんが。

・「人の不幸だって利用しないとね」と笑い合うお勝。かなり怖いです(笑)。旦那と気が合ってるのはいいんですけど。

・赤穂浪士の仇討ちにまつわる熱狂の中、宗左の表情は暗い。
宗左が偽の仇討ちを行ったのは、大金を調達することで皆が長屋を追い出されるのを阻止し現状の長屋世界を守ろうというのが第一の動機だった。しかし実際は赤穂浪士の仇討ち成功が、彼の愛した長屋世界の空気をがらりと変えてしまった。
役人をペテンにかけるという危ない橋を渡っても守りたかったものを、当の長屋の人間たちがあっさりとぶち壊してしまう。
仕官に執着する平野やもっと良い暮らしを望む善蔵・お勝らが、現状維持でなく生活向上を貪欲に目指すのは当然なのだが、宗左にとっては当てが外れたような裏切られたようなやりきれなさがあるんじゃないか。
また、いかにも世間擦れして見える貞四郎が仇討ち景気を利用した金儲けに走らずむしろ苦々しげな態度を終始見せているのは、彼独特の正義感のゆえばかりでなく、彼が実家の寺という「帰れる場所」を確保しながら好んで貧乏長屋でぬるま湯のような日常を送っているモラトリアム気質―真の意味で困窮していないからこそ宗左同様これまでの長屋世界を維持したいと思っている―にもよるのだろう。

・浪士全員が切腹したと聞かされたときの宗左の表情はこれまでにもまして実に重苦しい。
嘘の仇討ちを行うことで武士らしい生き方を捨て去った宗左には、武士道に振り回されるように「卑怯な」仇討ちを行い、ヒーロー扱いされながらも自死を迎えねばならなかった赤穂義士たちが、そうなっていたかもしれない自分の姿を見るような痛みがあるのでしょう。

・「でも、孫さんが言ったとおり、桜が散るのは来年また咲くためですから」「今年よりもっと美しく」。言い合って目を見交わす宗左とおさえ。
復讐に囚われていた自己を捨て、明日を見つめて生きることを選んだ二人の姿、宗左に向けたおさえの笑顔がすがすがしいです。

・寺子屋を探してやってきた吉坊を見た宗左は胸をつかれたような表情になり、やがてこぼれるような最高の笑顔を見せる。
吉坊が宗左に手習いを学ぶということは、先に宗左から切り出した「和解」を金沢が受け入れたことを意味する。彼の「仇討ち」は仇討ちバブルともいうべき変な実も結んでしまったが、本来彼が望んだ「実」も同時に結ばれていた。
長屋の雰囲気も人心も変わってしまったことに複雑な思いを抱いていた宗左が、吉坊によって「人の心も関係性も変わってゆく」ことのプラス面を実感する。
自分もこれまでの大目的だった復讐を放棄し変わってゆこうとしている宗左にとっては最高の餞と言える。その喜びがあの笑顔から実に明快に伝わってきます。
『キネマ旬報』2006年6月上旬号の是枝監督と山本一力氏の対談によれば、監督は「岡田くんとは、最後の笑顔がどう見えるかにかかっている映画だと話していた」そうですが、すべての屈託が晴れたようなこの笑顔があればこそ、作品は全きハッピーエンドを迎えることができたように思います。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『花よりもなほ』(2)-3(注・ネタバレしてます)

2007-10-30 01:44:30 | 花よりもなほ
・宗左とおさえの密談を覗き見すべく、切腹の傷も癒えない平野を乱暴に転がす貞四郎たちがひどい(笑)。
もっとも平野は平野で自分も覗き見しようとして、貞四郎たちが来るとことさら痛がって見せてたあたり、単に同情を引きたくて怪我人ぶってるぽいので、どっちもどっちというか。

・皆の予想(期待)に反しておさえの目的は「盲木の浮木、優曇華の花」の意味を確認することだった。そもそも宗左があのメイクをしてる時点でロマンスを期待したのが間違っている気もするんだが。
しかし「早く押し倒しちまえよ」って、皆が二人をくっつけたがってるようなのが意外。
おさえさんあんな美人なんだから長屋中が狙ってそうなのに。みんな若いおのぶちゃん狙いなのか?

・「盲木の浮木、優曇華の花」の意味を知らない宗左。武家の出で手習い師匠もやってるわりに物を知らないな(笑)。
そしてやはり武士の平野はともかくあの芝居の台本を書いた人間(ノベライズによれば重八)の意外な教養に驚く。さすが代書屋。

・いざ仇討ち芝居の本番。おさえの「盲木の浮木~」の台詞まわしが、いかにも「意味わかってないんだな」という感じなのが上手い。
しかし助太刀にやってきたお侍たち、あのメイクの宗左を見てよくお芝居と気づかないもんだ。美人の後家さんにいい格好見せたさで頭がいっぱいだからか?
(←ノベライズを読むとこの侍たちは鈴田ら赤穂浪士の変装。仇討ちを茶化すような芝居をする彼らが気に入らず、邪魔に入ったのだそうです。全然気づかなかった・・・)

・脱兎のごとくに逃げまくる宗左。軽快なテーマ音楽とあいまって実にテンポの良い楽しい場面。
孫三郎の今さらな「ちょっと待ったー!」や、宗左が駆け抜けていった側でどこ吹く風といった面持ちで団子を食べてる貞四郎がいい味。
宗左の長屋の戸の張り紙に「にげあし」の文字(+足型)が書き加えられるというオチまでが実に無駄のない見事さ。

・貞四郎は、宗左が首尾よく仇を討てる方法をあれこれ提案してみせるが、一見たきつけるような言葉とは裏腹に、彼は宗左が内心に抱いている仇討ちへの逡巡をよりはっきり自覚させることで遠まわしに仇討ちを止めようとしてるように思えます(ノベライズだといろいろ内心の計算があるんだそうですが)。
直後に「おまえさてはあの美人の後家さんに惚れたな?」とからかってみせるのも、軽くふざけたふりで上手く相手の心を掴む彼なりの手管なのでは。勝手に「この後家殺しが~」と盛り上がり、あまつさえ「ごけごろし」と紙に書こうとするのが笑えます。
結果的に、以前に宗左が貞四郎に関連して「ふみたおし」と進之助に文字を書いてみせたことへの「復讐」になってるし。

・縁日で金沢の一家を見かけた宗左は、ひょっとこの面で顔を隠してそっとやり過ごす。
本来追う立場の宗左の方が顔を隠すという逆転。すぐ前の場面で貞四郎に突っ込まれた「仇討ちできない本当の理由」の解答がここで再び描かれる。
この前後のシーンで一緒にいるおさえ・進之助はやはり夫・父を失くしており、宗左自身も父を失った息子である。それだけに父の仇を憎みながらも残される妻子の気持ちを思わずにいられない。そんな複雑な心情をあえて剽げた面で包んでみせる。
宗左の正面で回る風車、後ろをスローモーションで行き過ぎる金沢一家の見せ方、面を外した後金沢を見送る宗左の表情などなど、切々とした日本的情感に満ちた、この映画で一番好きな場面です。

・宗左の叔父・庄三郎(石橋蓮司さん)が進之助を宗左の隠し子だと誤解する展開。
年齢の矛盾などものともしない思い込みっぷりが笑えますが、確かに宗左を甘えるように見上げる進之助といい、当然のようにお茶を入れてくれるおさえといい、どう見ても夫婦親子だものなあ。

・庄三郎の登場を機に宗左は久々に里帰りすることに。庄三郎の一種武家らしからぬさばけた人柄は、郷里の生真面目な人々(宗左の母親・弟)といいかげんな長屋の住人のちょうど中間といった感じで、江戸編と松本編の橋渡し役にふさわしい。
しかし「なか」(=吉原)という言葉は若い観客に通じたろうかとちょい心配。

・おさえが「筆」の意味を勘違いしたことからどんどん広がってゆく誤解(笑)。おのぶちゃんの話が出たあたりで宗左が小刻みに首を横に振ってるのが可笑しいです。
この一連のシーンは宗左の表情の変化(最後は肩を落として諦めモード)が楽しい。岡田くんの力量を感じた箇所。

・父親の法事のため松本へ。宗左の月代姿は別人のようで、一瞬「誰?」と思ってしまった。
松本の景色は一面の緑といい、透き通る湖水といい実に色鮮やかもしくは透明感に満ちて美しく、薄汚い長屋の情景と見事なコントラスト。

・宗左のもう一人の叔父・庄二郎(南方英二さん)の大仰な喋り方や扇子で宗左の肩を打つ所作がいかにもな時代劇調。
現代劇とあまり言葉の変わらない江戸編とは雰囲気が全然違っていて、裃でしゃっちょこばってる宗左が実家でありながらいかにも居心地悪げなのが強調されている。

・道場で門弟たちに武士の心構えを説く宗右衛門(勝地くん)。発声にやや(時代劇としては)甘さがあるものの凛として通る声は堂々たる若武者にふさわしい。
出番が短いわりに長台詞が出てくるのは、勝地くんの声質を買ってのことかな、と欲目気味に思ったりします。

・父の墓へ向かう青木兄弟。この二人、並ぶと勝地くんがえらく背が高く見えて驚いた。「フレンドパーク」を見たときも「172cm(当時の公式データ)より高いんじゃ?」と思いましたが、それをここでほぼ確信。
ちなみに岡田くんはわりにバタ臭い顔立ちなので月代があまり似合わない。月代の伸びた、よれた着物姿はよく似合っているのに。
対する勝地くんは和風の顔立ちなので武士らしい装い(着崩さずにぴしっとした感じ)が様になる(まあ彼も前髪立ちもしくは『里見八犬伝』の時みたいな月代なしの方が似合いそうですが)。
岡田くんを宗左に起用したのはそのバタ臭さ―武士らしさが似合わない感じを狙ったんじゃないでしょうか。そして勝地くんを弟役にしたのは対照的に若武者らしい風貌でもって、宗左の武士らしくなさを際立たせるためだったんでは。

・金沢の一家に同情する発言をして宗右衛門の怒りをかってしまう宗左。
松本藩、武家社会という枠組みから離れて、長屋の人々と交流し、金沢親子の暮らしも垣間見た宗左は、武士としての視点からしか物を見られない(宗左もかつてはそうだったろうし、今でもその名残りを引きずっている)弟よりはるかに広い視野を持てるようになっている。
もし江戸に出てきたのが宗右衛門のほうだったら、石頭でなまじ腕にも覚えのある彼は長屋の住人や金沢親子にどう対処していた(するようになった)だろうか・・・。

・早朝から藁人形を仇に見立てて稽古に精を出す宗右衛門と母親。とくに老母は気合からしてヒステリック。
武家の息子と女房のあるべき姿を体現したかのような二人を冷めた目で見つめる宗左は、すでに武士として生きることから心が離れているのがわかる。

・「仇討ちだけが親孝行ではないでな」と話す庄三郎。
実際、父親が不慮の死を遂げることがなければ、長男の宗左が道場を継ぎ、次男の宗右衛門は冷や飯食いだった可能性が高い。宗左の腕の立たなさと宗右衛門の腕の立ち方を思えば、宗右衛門が父の跡を継いで道場主になる方が明らかに本人たち及び門弟たちのためになる。
宗左が江戸に出たことである意味誰にとってもいい形になっているわけで、今さら宗左が故郷に帰っても迎える側も当惑するだけだろう。
ラストで宗左は表向き見事仇を討ち果たしたことになってしまったが、どうやって江戸に残る理由を作るのだろう。故郷に凱旋するのが当然だし、平野など彼にくっついての仕官をあてにしているし・・・。ちょっと心配。

・五代綱吉政権を象徴するようなお犬様の姿。
「俺だって立派な生き物だぜ。もうちっと優しくしてほしいもんだよな。」という台詞は笑いどころのようでいて、犬が(結果的に)人間より優遇される社会のいびつさを言い当てている。
時代の閉塞感を伝えるこの場面が挿入されたことで、以降の物語に微妙な陰影が加わったのでは。

・河原でのそで吉とおのぶ(田畑智子さん)の会話。ここでおのぶがそで吉にほのかな恋心を抱いていたことが明らかに。
思えば強気だけど初心なおのぶのような娘は、ちょっと悪くて影のあるそで吉みたいな男に惹かれるのは必然かも。
子供たちが流した葉っぱの舟が、一つは流れてゆき一つは石にぶつかって止まる。結局は擦れ違ってゆくのだろう二人の行く道を暗示する演出。
音楽も水の透明感もおのぶの淡い慕情に似合っていて、とても好きな場面の一つ。
このシーンに始まるそで吉をめぐる恋模様のサイドストーリーは、宗左を核に据えた本編からやや浮いてしまってる感は否めないのですが、宗左とおさえが天然同士だけに恋人未満のままエンドマークを迎えてしまうので(あの二人はそれでいい)、やさぐれたフェロモンをふりまいているそで吉を中心に、かたや初々しい少女の恋、かたや大人の男女の悲恋を描いたことで、作品全体に「艶」がもたらされたように思います。

・長屋の井戸替え。進之助に誘われて宗左も武士であるにもかかわらず参加する。
故郷に戻ったさいに剃った月代が半端に伸びてるのも合わせ、宗左が武士らしさから(嬉々として)逸脱してゆきつつあることが示されている。
故郷にいた間は重苦しい空気を漂わせてにこりともしなかった宗左の生き生きした笑顔が眩しい。

・大家の新しい女房おりょう(夏川結衣さん)登場。
そで吉と彼女のわけありげな様子を見て、勝手に二人の会話をアフレコする長屋の連中に笑う。思い切りふくれっつらのおのぶちゃんもキュート。

・そで吉とおりょうの会話。かつての恋の余焔をくすぶらせながら、相手への負い目や恨めしく思う気持ちもあるゆえに、つい毒を含んだ言葉ばかりを吐き出しつつ互いの心を探りあうような態度を取ってしまう。
二人が離れてから過ごしてきた時間の重みと苦味が濃厚に漂ってくる。

・朝っぱらから父親の「糞」の悩みを聞かされつつ食事を取るおのぶ。
彼女が不機嫌なのはもちろんそで吉とおりょうの仲が気になるからでしょうが、同時に、しどけない大人の女の色香に満ちたおりょうに比べて、ボロ長屋で下世話で猥雑な日常に浸かっている自分が虚しく思えたためでもあるのでしょう。
おりょうに言わせれば、そうやって子供らしい怒りや不満、憧れを持っていられるうちが華なんでしょうが。

(つづく)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『花よりもなほ』(2)-2(注・ネタバレしてます)

2007-10-26 02:01:03 | 花よりもなほ
・子供たちにいじめられた進之助(田中祥平くん)に剣術を教える平野。
「はいー!」という尻上がりの掛け声の裏返りっぷりに、彼の情けないキャラクターが見事に表されている。香川さんさすがの名演技です。

・そで吉が進之助に喧嘩術を教える→宗左と勝負する場面は、形骸的な面子にこだわる侍二人(宗左・平野)の役に立たなさと実際的な庶民の対比として描かれている
(そで吉だけでなく「痛くない殴られ方」を習得してる乙吉のほうが宗左よりずっと実戦では有効だろう)。まあ宗左個人が弱いのも確かでしょうけど。
しかしそで吉はなぜああも宗左につっかかるのか。単に武士階級が嫌いというより、仇討ち、道場剣法といったいかにもな「武士らしさ」が嫌いなのかな。

・宗左を厠へ投げ込むそで吉を「卑怯者」と一言罵った平野がすぐ人垣の後ろに隠れてしまうのが(笑)。自分が卑怯なんじゃ。

・そで吉にこてんぱんにされた翌日?の朝、長屋を出た宗左が進之助と顔をあわせる。
お互い言葉が出ない様子に「進坊に不甲斐ないところを見せてしまった」「宗左にとって都合の悪い現場を目撃してしまった」ことによる気まずさが十二分に表れている。
戸に「暫く休みます」(そで吉に負わされた怪我のせい)の紙が貼ってあるあたりの芸が細かい。この後も「にげあし」の場面などで戸の貼り紙は小ネタとして活躍します。

・河原で人足として働く金沢(浅野忠信さん)を物陰からうかがう宗左。
いつになく殺気だった凶悪な顔つき(家を出る場面からだけど)は目の回りの痣と無精髭のせいばかりではないだろう。岡田くんグッジョブ。

・ついで家の前で遊ぶ仇の息子・吉坊(田中碧海くん)を蔭から見つめる宗左。
金沢の家に先回りしていることから、宗左が以前から仇の家を突き止めていたのがわかる。そして知りながら仇を討てなかった理由も・・・
(ここの場面で宗左が土をいじってるのは何故だろうと思ってたんですが、ノベライズによるとそで吉を見習って土での目潰しを考えていたとのこと)。
仇が帰ってきたと知って泡を食って隠れたのは、物陰から親子を見る表情からして斬りかかるタイミングをはかるためかと一瞬思ったが、根の優しい宗左はやはり(腕を抜きにしても)仇討ちを挑むことはできなかった。
落とした草履だけが仇の手にわたる場面には、日本映画ならではの澄んだ余韻を覚えた。

・ほぼ真っ暗な部屋の中、一人(仇を討てなかったことに)悩む宗左。
背後に子供たちのヘタクソな習字を映すアングルは、父の仇討ちという重責を背負った武士としての宗左の姿に、現在の手習い師匠として生きる(その方がよほど幸せそうな)宗左の日常をダブらせる効果をもたらしている。

・隣家の平野が切腹未遂を。宗左が自分本来の性格に反して武士道を貫くべきか迷うところに、武士らしさの戯画化というべき(武士らしくあろうとするほどに情けなさが露呈する)平野が切腹=いかにも武士らしい行為を結果的に地に堕としめる。
宗左の心が次第に「武士らしくあること」から離れてゆくきっかけであり、この映画の全編に流れる武士道批判を象徴するイベント。

・平野の切腹事件に宗左は腰も抜けそうな勢いで動揺する。
この手の騒ぎに慣れてる長屋の連中とは気の持ちようが違うとはいえ、武士のくせに血に弱いというか急場に弱いというか。
このへんの情けなさが宗左の可愛さなのだけど。

・すでに仇を突き止めていたことを貞四郎に語る宗左。今まで黙ってきたことをこのタイミングで打ち明けたのは、先の平野事件の際に武士としての矜持が揺らいだ結果なのかなと思います。
そして貞四郎がもう少し様子を見るよう宗左を諭すのは、金沢の命と残される家族を案じた以上に、宗左が仇討ちなどするには気が優しすぎるのを慮ってのことだったんじゃないでしょうか。

・「何か見えんのかい」と聞かれて、屋根の上の孫三郎は「夜だよ」と答える。冒頭の「朝だ朝だ~」と対になる台詞。
単に長屋の皆に朝夜の訪れを知らせているというより、孫三郎が長屋に昼夜を手招いている、この映画の中の時間の流れを掌っているような印象を受けました。

・小鳥の死を契機に進之助が父親の死を知っていたことが語られる。
母を悲しませたくないからとそれを黙っている、利発で大人びたこの少年の健気さがかえって哀れを感じさせる。
一方おさえの方もあえて夫の死を進之助に隠している。母と子の互いを思い合う気持ちが暖かくも切ない。

・仇討ちしようとする動機は武士の面子よりも、純粋に父への愛情に基づいているのだと話す宗左。
おさえは「お父上が残してくれたものが憎しみだけだったとしたら悲しすぎる」と反駁するが、後に彼女も仇持ち(夫が殺されたらしい)であると明かされるのを思うと、おさえ自身が何年間も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。

・代書屋の軒先の明かりがちらちらと揺れている。いかにも本物感があって、演出の細やかさに驚いた。
この代書屋の名前が重八なのはやはり赤穂不義士の鈴田重八(郎)を思わせます。
ちなみに、医者(というふれこみ)の小野寺(中村嘉葎雄さん)の家に集う赤穂浪人の一人が鈴田という設定である。
鈴田の下の名前が出てこないのは代書屋の重八とややこしくなるからでしょうが、貞四郎といい、あえて忠臣蔵好きならすぐピンとくる不義士の名前を長屋の住人に用いているのは、長屋の連中と赤穂浪士を対比して描く(長屋の面子の中ではっきり武士道を批判するような発言をしているのは学のある貞四郎と重八の二人)ためなのでしょう。

・昔の手紙を何度も読んでもらいにやってくる男。今の彼には手紙をくれる家族も友人もすでにないことが婉曲に示されている。宗左にことさら悪態をつくのにも男のやりきれなさ、孤独感が滲み出ている。
そして「商売あがったり」にもかかわらず、苦笑しながら繰り返し男の「芝居」に付き合ってやる重八の優しさが、ほんのりした温かみを醸し出す。


前回のおまけクイズ、正解は、『六番目の小夜子』(NHK教育、2000年)、『藤沢周平の人情しぐれ町』(NHK総合、2001年)、『盲導犬クイールの一生』(NHK総合、2003年)、『ちょっと待って、神様』(NHK総合、2004年)、『forget me not-忘れな草-』(NHK-FM、2004年)でした。
『篤姫』と答えられた方、まだ放送されていません(笑)。『フレンドパーク』出演時の勝地くんのように、「あーもうー!!」と叫んでくださいませ♪

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『花よりもなほ』(2)-1(注・ネタバレしてます)

2007-10-23 01:36:13 | 花よりもなほ
・黒い画面にマンガみたいなフキダシの形でサクッと状況説明。
いかにも瓦版調の文面と陽気なメインテーマが、作品のカラーを象徴しているかのようでワクワク感をあおる。

・立ち並ぶ長屋は今にも崩れそう+匂ってきそう。
大半の長屋の住人の衣装(屑屋の乙吉(上島竜兵さん)などそのままゴミに同化しちゃいそう)も含め、雑誌やメイキングでも言及されていた美術さんの「汚し」技術に感服。

・たてつけの悪い障子の開け閉めに難儀する宗左衛門(岡田准一くん)。
話が進むにつれこの障子は滑らかに開くようになってゆきますが、それは宗左の精神状態に呼応してるのだそう。同時に彼が次第にオンボロ長屋の生活に馴染んでゆく過程を表してるようにも思えます。
ちなみに貞四郎(古田新太さん)に仇の所在を知っていると打ち明けた直後の場面で、障子に刀が引っ掛かる演出は岡田くんのアイディアなのだそう。
「あれがあることで宗左自身、自分が刀を差している意味がわからなくなっている状況が見事に伝わりました。」(是枝監督談)。
岡田くんの役柄及び作品に対する理解の深さが感じられます。

・「仇を残して亡くなるなんて本当にいい父上を持たれましたなあ」。酷い言い草だが、宗左は特に怒らない。
仕官の当てもないまま虚勢を張り続ける平野(香川照之さん)を哀れむ気持ちがあるからだろう。宗左の人の良さがわかる場面。

・飯屋での宗左と貞四郎のすっとぼけた会話。
仇らしい男が見つかったといわれては体よくたかられてる宗左が、すでに貞四郎を信用していないのが目付きと冷め切った口調から伝わってくる。
ところでこの貞四郎という男だが、ストーリーに赤穂浪士の仇討ちが絡むと聞いていたので、てっきり赤穂不義士の田中貞四郎かと思っていた。
実際は全然違ってたわけですが、貞四郎の口から赤穂浪士を批判するような言葉がたびたび出てくるので、田中貞四郎にちなんでのネーミングだったのかな、と思ったりもします。

・作品の要ともいうべき「糞を餅に変える」の台詞が孫三郎(木村祐一さん)の口から出る。
難しい会話の流れが理解できない分原因と結果をストレートに結び付けてしまう彼の台詞は、それゆえにしばしば本質をつく。

・貞四郎と大家(國村隼さん)の会話。相手への反感を隠そうともしない皮肉を含んだ、そのくせ軽口めいた口調の応酬は、大人の男の洒落っ気を感じさせる。

・宗左の元に故郷からの手紙が届く。文体からするに書いたのは母親(女性)ではなく弟ですね。
「送るべき金子がない」という内容が嘘だったことは後の里帰りの場面で明らかになるんですが、あの弟がそういう姑息なやり方をするのはちょっと意外。
「いつまでも仇を討てん、不甲斐ない兄上に送る金なぞない」とかきっぱり言ってよこしそうな感じなのに。

・そで吉(加瀬亮さん)にどうやって仇に勝てるつもりかと嫌味を言われた宗左は、「かなわなければその時は潔く桜の花のように散るだけです」と答える。
それに対するそで吉の反論は、宗左を批判しているのみならず、死を観念的に捉え美化する武士道そのものを批判してるのでしょう。

・「ツケって何?」「ごはんが食べたいんだけど今お金がないから支払いは今度にしてください、って意味だよ」「貞さんのは(中略)どっちかっていうと踏み倒しかしら」 
子供の疑問に大真面目に解答する(「踏み倒し」の書き方まで教えてる)大人たちがどこかトボけていていい味。
このへんの天然ぷりを見るに宗左とおさえ(宮沢りえさん)は結構お似合いなんでは。

・「踏み倒し」の字を教える場面から、宗左が子供たちに手習いを教える場面に転換。その流れのスムーズさが心地好い。

・子供たちに丁寧に文字を教え、口の汚れまでぬぐってやる世話焼き宗左の表情はとても優しい。
到底仇持ちの男の身過ぎ世過ぎとは思えない。侍より手習い師匠の方が天職だよなあ、と一分たらずで納得させられてしまう名シーン。

・宗左が吉良方の間者ではないかと疑って、あれこれ探りを入れる赤穂浪人たち。
「青木さま、趣味は何かおありか」がいきなりすぎて怪しくなってるのが笑える。
赤穂浪人たちの口から出てくる大石や同志についてのあれこれが、ちゃんと史実(として伝わっている出来事)に基づいているのが『忠臣蔵』もの好きとしてはちょっと嬉しかったり。

・宗左と寺坂(寺島進さん)が碁を打つシーンでやっと明かされる宗左の父の死の経緯。
いさかいの馬鹿馬鹿しいきっかけをぽつぽつと話す宗左の姿は、そんなくだらないことで命を落とした父とそのために仇討ちしなくてはならない自分の両方を少し嘲っているように見えた。

・長屋の連中は基本的に宗左にタメ口。
身分制度のかっちりしていた当時、浪人同然とはいえ武士階級の宗左は本来こんな口を聞かれる立場ではないのだが、それを当然のように許している(逆に自分の方が敬語だったりする)あたりに宗左のなめられがちな人の良さがよく出ている(平野も相当ないがしろにされてるけども)。宗右衛門だったら青筋立てて怒鳴るところだろう。


♪おまけ♪

『東京フレンドパーク2』のコーナー「ボディ&ブレイン」風お題を一つ。
「NHKで放送された勝地くん出演のドラマを5つ挙げよ」。正解は次回で。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『花よりもなほ』(1)

2007-10-19 01:44:53 | 花よりもなほ
元々ドキュメンタリー製作からキャリアをスタートさせ、実際に起きた事件を元にした『誰も知らない』で一気に世界的評価を受けた是枝裕和監督初の時代劇。しかもコメディ。

『誰も知らない』が至極重苦しい内容(当時は未見だったので、あらすじや世間の評判からそう類推していました。実際に観てみたら悲痛なうちにもほんのりした暖かさと微かな希望の光が感じられる、それゆえになおさら悲痛さがつのるような透明な美しさに溢れた作品でした)であり、浅野内匠頭の辞世の句から取ったタイトルも武士道の美学を想像させただけに、どんな作品に仕上がってるのだろうと思っていたら、実に軽快で小気味良い、それでいて時に哀切な、日本的な情緒に満ちた傑作でした
(会話の流れやエピソードの組み立て方が落語っぽいなと思ってたら、やはり是枝監督は落語を意識してストーリーを練ったそうです)。

主人公・宗左衛門(岡田准一くん)が暮らす長屋の住人は、貧乏という共通点こそあれ、浪人あり遊び人あり、掃き溜めにツル的な美人の後家さんありの雑多な面子(赤穂浪士までまぎれていたりする)。
それがみんな仲良しというでもなく、時には対立もしながら、何となく認め合って暮らしている。その懐の深さに何だかほっとするものを覚えます。

長屋の住人や周辺のキャラクターはわかりやすい個性付けがしてあるわけではなく、むしろそで吉(加瀬亮さん)を中心とするサイドエピソードを除いてほぼ完全に宗左メインでストーリーが進んでゆくため、彼らのバックボーンも個々の性格もほとんどわからない。
にもかかわらず一人一人が生気に満ちているのは、その台詞や表情、間の取り方の中に彼らの考え方・生き方が凝縮されているからなのでしょう。
それはお笑いの人を多く起用したキャスティングの絶妙さ(お笑いの人ではないけれどコメディからシリアスまで幅広くこなす貞四郎役古田新太さんの飄々たる存在感はさすが)、狡さも弱さも含めた人間の在り方に対する監督の愛があればこそだったと思います。

この作品では終始「糞」の話題が繰り返されてますが、化学肥料と水洗トイレの普及にともなって現代社会では単なる汚物扱いにされがちな糞を、排泄と摂食(堆肥として農作物の栄養源になるという意味で)という人間の営みの根源として捉え直しているのも、上述の「愛」ゆえなのでしょう。

さて勝地くんについてですが、本人の近作情報には大分前からこの作品が載っているにもかかわらず、映画のメイキングでも関係者のインタビューなどでも一切勝地くんのことに触れてないので、
「思いきりチョイ役なのか、あるいはひょっとすると影の重要人物なのであえて伏せてあったりするのか」
とかあれこれ想像してたんですが、まあチョイ役のほうでしたね(笑)。
とはいえ主人公の弟なので出番が少ない(それでも想像よりは多かった)わりには大事な、それも彼の個性を活かした役柄だったのでファンとしては嬉しかったです。

2006年1月放映の『里見八犬伝』同様、やや台詞回しがぎこちない部分はありましたが(収録は『花よりもなほ』が先)、衣装の着こなしや顔の造作、声質自体は時代物によく似合っていました。
2007年夏の舞台『犬顔家の一族の陰謀』の劇中劇?パートでは時代調の台詞回しも自然にこなしていたので(ただしときどき台詞が若干聞き取りにくくなる傾向あり)、来年大河ドラマでその成長ぶりを見るのが今から楽しみです。

ところで映画の公開にあわせて是枝監督自らの手になるノベライズが出版されています。撮影よりも後に書かれたもので、映画ではわかりにくかった演出の意味やキャラクターの心情を知ることができました。
その代わり映画では全編通して感じられた、多くを語らず行間を読ませる手法によって生じていた情緒がすっかり薄らいでしまっていた。
当然ながら一作品としての魅力は完全に映画に軍配。ノベライズはあくまで映画を補完する副読本として楽しむのがおすすめです。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする