MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯953 無常ということ

2017年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム


 気が付けばクリスマスもとうに過ぎ、2017年も今日で終わろうとしています。齢を重ねるにつれ月日が流れるのが早く感じるという言葉が、私も実感として理解できる年代になってきました。

 とは言え、1年365日は、誰にも平等に巡ってくるのも事実です。振り返れば、この1年間だけでも社会のあちこちで様々な出来事が起こり、時間は決して止まっていてはくれないことを(年末のこの時期)改めて痛感させられます。

 「還暦」という言葉が現実のものとして見えてくる年代になり、同世代の友人からは、「孫が生まれた」というような嬉しい便りがちらほらと届くようになりました。

 しかし、新たな命を授かるということは、「世代が移る」ということの裏返しに外なりません。その一方で、家族を亡くしたという「喪中」の便りも(この時期)たくさん舞い込んできます。

 葉書に添えられたそんな言葉のひとつひとつから、私も時の移り変わりを強く感じさせられているところです。

 一人の人間として生きていく中で、今年も、泣いた人、笑った人、年頭には思いもしなかったような良いことがあった人もいれば、こんなはずではなかったと挫折感に膝を折った人もいるでしょう。

 「無常」というのは、そんな変化に身を置いて、その辛さを何とか耐え忍ぼうと涙ぐましい努力を重ねてきた先人の知恵が生み出した、宝物のような言葉なのかもしれません。

 Wikipediaは、「無常」を「生滅変化してうつりかわり、しばらくも同じ状態に留まらないこと」と定義づけています。

 平安時代末期から鎌倉時代にかけての動乱の時代に生きた随筆家、鴨長明は、「方丈記」の冒頭に「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と記しました。

 形あるものはいつかは壊れ、この世に生を受けたものはいつか必ず死んでいく。欧米人の文化の下では、その感性を「ネガティブ」と評するかもしれません。しかし、この世の本質はそんなに単純なものではないというのが、日本伝統の「無常観」の立場です。

 「はかない」ものであればこそ人生や物事はまさに有難く、そこにはかけがいのない「価値」や「美しさ」がある。無常であるからこそ、一瞬一瞬が貴重で味わい深いと肯定的に解釈するこの逆説的なポジティブさが、日本人の生んだ「無常観」の真骨頂と言えるかもしれません。

 今なお日本人が桜を愛してやまないのは、そこに「常なき様」、すなわち無常を感じるからとされています。「永遠なるもの」を追求し、そこに美を感じ取る西洋人の姿勢に対し、日本人の多くは移ろいゆくものにこそ美を感じる伝統を根強く持っているということでしょう。

 とは言え、無常を感じる人の心の多くの場所が、「思い通りにならない」悲しさで占められているのも恐らく事実です。大切な人を失ったり、幸せを壊されたり、そのはかなさに涙を流しながら人は無常を語ってきたのでしょう。

 永遠の命や絶対に失わないものがあるならば、人はそれをよすがに快適で安楽な人生を送れてきたはずです。しかし人生は、21世紀の現代に至ってもそんなに盤石なものにはなりませんでした。

 今年の1年間だけでも、世界には病気や災害、犯罪や権力による収奪、そして戦争などにより、(本人の意志や責任などとは全然関係のないところで)悲しい方向に人生が大きく転換した大勢の人たちがいました。

 ある出来事をきっかけにして、幸せな生活が失われ大きく変わっていく。様々なものや状況や人の心が大きく壊れ、思いがけない方向に移ろっていくのを目の当たりにするのは本当につらいことです。

 そんな時、「それさえなかったら…」と悔やんでみても恨んでみても、もう取り戻すことはできません。そこに生まれた悲しみが人の心を虜にするのですが、しかし、もしもそこで「それ」が起こらなかったら何も変わらなかったのかと言えば、恐らくそういうことでもないでしょう。

 時というのは残酷なもので、どこかで違う形の「何か」が起こって、暮らしを現在(の安定した状況)とはまた違う形に変えていくのが人生というものなのかもしれません。

 姿かたちを変えながら、時間は流れ世代は移っていく。

 そうした大きな力の中で、悲惨な争いや悲しい別れを少しでも減らしていけるのは、時の流れから取り残された者たちが積み上げてきた(悲しみの残骸から生まれる)「叡知」(wisdom)だけなのではないかと、ふと思います。

 絶望の淵に立たされた人も、移ろいゆく未来があると思えばこそ生きてゆける。そんな「無常」の世界を両足でしっかり踏みしめて、私たちの誰もが日々を暮らしていかなければならないということでしょうか。

 人生、いつ何時、何が起こるかは分かりません。しかし、そうしたできごとがあればこそ、人は前に進んで行くことができるのでしょう。

 どうか、来るべき2018年が充実した良き年でありますよう、心からお祈りしています。