MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯946 幸福の後ろ姿

2017年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム


 今日は2学期の終業式。子供たちは明日から楽しい冬休みです。

 街は既にクリスマスモード全開で、デパートやショッピングモールはパートナーや子供などへのプレゼントを買い求めるお客さんたちで賑わっています。

 時節柄、昨今ではAmazonなどのネット通販を通じて(子供にせがまれた)ゲームソフトなどを調達する向きも多いようですが、やはりお店できれいにラッピングしてもらった大きなプレゼントを抱えて家路を急ぐパパやママの姿は、年末の木枯らしの吹く雑踏にほんわかした気分を与えてくれるものです。

 思えば、ゲーム機や野球のグローブ、天体望遠鏡や自転車などをプレゼントされて喜んでいた子供の時分は、「プレゼントしてくれる」大人がいることが当たり前の前提として生活が成り立っていました。

 だからこそ、プレゼントが自分が欲しかったものとは少し違ったり、周りの友達よりもみすぼらしかったりしてがっかりしたり、すねて見せたりすることもできたのでしょう。

 しかし、大人になって、自分を(無条件に)愛してくれる人がいるという状況が(どうやら)「当たり前」ではないらしいことを思い知るようになると、人々はようやくそうした存在の大切さに気づき、自分が幸せになるための(そして人を幸せにするための)努力を始めるのかもしれません。

 アメリカの心理学者アブラハム・マズローは、人間の基本的欲求をピラミッド型の階層構成で理論化しました。

 「欲求5段解説」として知られる彼の理論では、人間の欲求を低次元のものから順に、(1)生理的欲求(Physiological needs)、(2)安全の欲求(Safety needs)、(3)社会的欲求(Social needs)、(4)承認の欲求(Esteem)、そして(5)自己実現の欲求(Self-actualization)、の5つに分類しています。

 マズローは、低次の欲求が一定程度満たされてはじめて、次の欲求が生まれると説明しています。

 優しく保護してくれる大人がいない子供は、まず初めに親や家族に安全と安心を求めます。そうした子供たちももう少し大きくなれば、子供のグループの仲間に入って一緒に遊びたいと思うでしょう。

 小学校に入り集団遊びに目覚めれば、クラスの中で活躍したい、人気者になりたいと感じることもあるでしょうし、思春期になれば一人の大人として扱ってほしいと親に反抗する機会も増えるでしょう。

 そして、もしもマズローの説が正しく、欲求の形が(段階ごとに)異なるとすれば、人間が「幸せ」と感じる瞬間も(恐らく)このような「状況の次元」によって幾重にも変化するものと考えられます。

 例えば、砂漠で道に迷った旅人には(ダイヤの指輪よりも)一杯の水が至上の幸福をもたらすでしょうし、戦争に巻き込まれた難民には、ひと時の安らぎの時間が何事にも代えがたい貴重なものに感じられることでしょう。

 仲間内からハブられ無視されているいじめられっ子にとっては、クラスの中の誰か一人からでも自分が必要とされたり、果たせる役割が与えられたりすればそれが光明に映るでしょうし、野球部で(いくら努力しても)万年補欠から抜け出せない高校球児にとっては、レギュラーになって活躍できればこんなに幸せなことはないはずです。

 さらに、音楽家を志し一心に努力してきた若者が海外の国際コンクールなどで優勝し、自分の持つ能力や可能性が称賛されることになれば、天にも昇る気持ちになることは想像に難くありません。

 しかし、究極の幸せというものは、本当にそうした自己実現の中に(だけ)あるものなのでしょうか。

 私自身の(半世紀以上の)人生を振り返っても、「幸せを感じる瞬間」というものは確かに年代とともに変わってきているのが実感として判ります。

 何か新しいことを始めたり、新しいことが身に付いたりする機会が減ったこともありますが、(例えばクリスマスひとつをとっても)「何を手にしたか」よりも次第に「何をしたか」が大切になり、さらに現在ではそれが「誰と過ごしたか」そして「どんな話したか」などに移ってきているような気がします。

 それは裏を返せば、それだけ(自分が幸せになるためには)自分を認めてくれる他者や自分のしたことで喜んでくれる他者の存在が、人生において何物にも代えがたい大切なものとして映るようになってきたことの証左なのかもしれません。

 誰か好きな人と一緒に、どれだけ楽しい充実した時間が過ごせたか。共通した経験を積んでどれだけ理解しあえたかということが、人の心を安らがせ、「幸せの形」として心の中に像を結ばせているということでしょう。

 パートナーと一緒に南の島に出かけ、日差しの下で青い海を見ながら1日中過ごし、夕食の後は涼しいコテージに戻って糊のきいたシーツに包まれたベッドに日に焼けた身体を横たえる。

 あとは誰もが一様にただ眠るだけに存在しているようなリゾートの夜。

 そんな時、明かりを暗くして眠たい目をこすりながら、隣にいるパートナーに「今日は楽しかったね。」「明日また今日と同じように楽しければいいね。」と声を掛け、「お休みなさい」と眠りにつく瞬間がどれだけ希少で幸せなことかは、ある程度年齢を重ねていかないと分からないことなのかもしれません。

 この地球に生きている人達は、どこの誰かれの区別なく一日をこのような形で終わりたいと願っているはずです。でも、実際にそのような時間がいかに尊いものであるかに気づくのは、悲しいことにそれが失われた時だったりするわけです。

 幸せは、実は今、眠りにつくこの瞬間にあるのかもしれないし、さっき家族と食べた夕食の中にあったのかもしれません。

 幸せのサンタクロースが、いつ、どんな姿でやって来るのかは人それぞれ違うとしても、日常生活の中の本当に何気ない時間の中にこそ人生の究極の幸せの形が体現されていることを、その瞬間に気付ける人は(残念ながら)本当に少ないのでしょう。

 もうすぐクリスマスイブ。今年も、店先で楽し気にクリスマスプレゼントを選ぶ人々の様子に、振り返ってしか見ることのできない「幸福」の後ろ姿を見たような気がしました。