哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年11月11日号)

2014-08-31 17:53:17 | 時事
今回の書評対象は、茂木健一郎著『「脳」整理法』(ちくま新書)であった。茂木氏が出てくるとすれば、池田晶子さんはこの本をばっさり斬るんだろうな、とわかる。茂木氏を最近テレビで見ることも減っているが、以前NHKのシリーズ番組で、どんなことでも「脳はこうなっているので」というように、なんでも脳に還元して説明することに辟易した記憶がある。同じように脳科学者とされる養老孟司氏とは随分言っていることが違うようだ。


上記の本の紹介を池田さんの文章から引用すると、「脳開発のハウツーに没頭する現代人は、狭隘な自己主義に陥っているのではないか。もっと広い視野で人生と世界を考えよう、そのように脳を使おうと提唱している」のだそうだ。まずは、池田さんはこの趣旨について、「誠実な姿勢であり、かつ必要な方向性であるに共感する」として一応肯定的に書いている。しかし、「哲学者として、あえて意義を唱えたい」として、「著者言うところの「世界知と生活知の統合」、すなわち科学的世界観と代替不能の一人称のの人生観との統合を、「脳によって」行なうことは不可能である。」とばっさり斬っている。


ここのところの説明は、池田さんの文章をそのまま確認していこう。

「一般に科学は、そして日常の我々は、客観的世界というものが先に存在し、主観的意識すなわち「私」がそれを認識していると思っている。しかしこれは誤りなのである。なぜなら、当たり前だが、世界とは、私によって見られている世界だからである。私が存在しなければ、世界は存在しないのである。ゆえに、私が世界なのであり、主観が客観なのである。主観すなわち客観なのだから、世界すなわち「私」を知るために、脳に言及する必要はないからである。」

「素朴に感じても、物理的宇宙の歴史のどこかで脳が生まれ、その脳から意識が生まれたなんて、どうも実感できない。意識はいつどこで生まれたのでもない、「私」は初めから存在した、したがって「私」とは宇宙である。と、こう考える方がよほど自然である。これこそが世界知と生活知との完全な統合ではなかろうか。」


ちょっとコアな文章だけ拾うと、かえってわかりにくいだろうか。「私が存在しなければ、世界は存在しない」ゆえに「主観すなわち客観」とつながる過程は、論理的なようで、やっぱり随分と飛躍しているように思える。一般の常識では、自分が存在しなくなっても、世界は存在していくと考えるからだ。しかし、池田晶子さんのいう「私」は各個人の自分のことを指すのではないことに注意が必要である。「私」は池田某ではなく、たまたま池田某の体に宿っているように見えるが、あくまで個人の体に限定されたものではなく、普遍的な精神のことを指しているのだ。だから2つ目の引用の通り、「私」と「脳」では、「私」が先に存在し、初めから存在した、と言っているのだ。


「私」とは宇宙である、とわかったら、随分とものの見方が変わってきそうだ。




この人に訊け!(週刊ポスト2005年10月7日号)

2014-06-09 02:30:00 | 時事
今回の書評対象は、大峯顕著『宗教の授業』であった。実はこの書評をきっかけにして、あの『君自身に還れ 知と信を巡る対話』という、大峯氏と池田晶子さんの対談本が企画されたそうだ。そして初版の『君自身に還れ』が出版されたとき、池田晶子さんのあとがきの日付は、2007年3月になっていたが、その前月に池田晶子さんは亡くなった(後の版では2007年2月に訂正されていたように思う)。

対談本が企画されるだけあって、この書評は対象の本を全面的に肯定した内容になっている。端的に言えば、“宗教に走る”という形でいかがわしく思われるような「信じる」宗教ではなく、根源に哲学的反省を持つような「気がつく」宗教に変わってゆく、というような言い方をしている。以下に書評の文章を少し引用してみよう。


「おそらく、従来の宗教がとってきた、超越的なものを「信じる」という意識の形態が、もう無理なのだ。人はそんなものを「信じられない」。人生とは自分が生まれて死ぬまでの一定期間のことであり、自分とは自分以外の何ものでもないと思い込んでいるからだ。しかし、ふと気がついていれば、自分が生まれ、自分が死ぬというこのこと自体は、自分の意志を超えている。すなわち「超越的」事態なのである。それならば、超越的なものは、「内在する」。神仏を外に求める必要などない。神仏は、自分の内に、自分を超えて、あるいは自分そのものとして、今まさに存在している。」


そうすると「気がつく」宗教とは、哲学と同じ次元となっていくことになる。ここでいう哲学も、アカデミズムとは異なる、池田さんが本当の意味で言う哲学のことである。

このあたりの話はむしろ上で紹介した『君自身に還れ』を読めば、より面白く、そして深く知ることができると思う。この本は事実上、池田晶子さんの遺作と言っていいだろうし。

この人に訊け!(週刊ポスト2005年4月15日号)

2014-02-08 10:16:05 | 時事
今回の書評対象は、『哲学の冒険-「マトリックス」でデカルトが解る』(集英社インターナショナル)という本で、哲学入門的な本に対してはいつも手厳しい池田晶子さんが、本書については好評価であるのが珍しい。


いつものように池田さんは、哲学を易しく解説するかのような本には注意を促す。しかしこの本は本物だと言う。

「・・・謎を捉えもせずに語り口のみ易しくしてごまかした「易しい哲学本」なるものも出回っているので、偽物に注意したい。解説に終始して、自ら考えられていないもの、真贋は一目瞭然である。
 その点、本書は本物である。映画好きの著者、イギリスの哲学教授らしいが、この人はSF映画に世界の謎を見る。優れたSFとは、世界の謎そのものである。我々がふだん現実と思っているもの、時間あるいは自己というもの、それらがどのように単なる思い込みであるかを示すものである。哲学することを好む者なら、触発されないはずがない。」(掲題書評より)


確かに映画「マトリックス」を最初に見たときは衝撃的であった。コンセプトの斬新さはもちろんのこと、映像の革新性も話題になったようにに思う。例の、飛んでくる弾丸をのけぞって避けるシーンをスローモーションで表現するあれだ。確かビールかなんかのCMでもパロディ化されたし、最近でもアポロシアターだったかで日本人ダンサーが舞台で表現して話題になったりしているので、やはりあの映像の革新性についてはパイオニア的存在と言っていいのだろう。

さて、哲学としては映像の革新性は問題ではなく、現実と思っていたものが実はまったくバーチャルなものであったとする斬新なアイデアが秀逸だといえる。いやアイデア自体はもしかしたら以前からあったのかもしれないが、映画としてその世界を完璧に表現したことが凄いのかもしれない。池田さんの言葉を再度引けば、「現実とは、自分がそれを現実だと思っているだけのものではないのか。まさしく「マトリックス」の世界ではないのか。」ということになる。


映画を見て哲学するという、映画とコラボした哲学というのも案外良いかもしれない。





この人に訊け!(週刊ポスト2005年3月18日号)

2014-01-19 18:20:00 | 時事
今回の書評対象は、玄侑宗久著『死んだらどうなるの?』であった。しかし、池田晶子さんの文章は、書評とも言い難い、「驚き」の言葉から始まる。

いきなり冒頭から、「禅僧が科学を使用して死後を説明するのを、私は初めて見た。びっくりした。はたして、本気だろうか。私はますそれを疑った。」とある。そして、読み終えた後の感想として、「読者は本書を本気で読んではいけない。これは禅僧である著者が、現代科学の愚鈍を笑いつつ、読者をだまくらかしてやろうと諧謔で語った本である。言われていることすべて、ひっくり返して読むがよろしい。それが著者の本意であるに違いない。」と書いているのだ。

池田晶子さんのこの後者の文章は、まさにそれこそ諧謔であることは明らかであろう。この本の著者が実際には徹頭徹尾“諧謔”で本を書いているわけがないので、池田さんは内容が全く信じられないとして驚き、この本は読むに値しない(とは明言していないが)と暗に言っているのであろう。そのように池田さんが思う大きな原因が、著者が禅僧であるにもかかわらず、禅の本来の考え方で書いていないからのようだ。池田晶子さんの文章をもう少し引用してみよう。


「「意識は脳が生み出す」とも、平気で言われている。大したもんである。どうせ嘘をつくのなら、ここまで徹底してつかなければならない。話というのは、どっかから始めなければ、始まらないからである。全くのところ、意識は脳が生み出したものなら、全宇宙が脳の産物であるわけで、それならやっぱり死後なんてものも脳による妄想である。今さら何が問題であろう。
 こういったことを説明し始めると収拾がつかなくなるから、だから禅というのは説明をしないのである。黙るのである。黙って、観るのである。宇宙を、存在を、生と死の謎を、問いと答えが同一である地点を、永遠に観ているのである。」


禅の考え方は、科学の狭い考え方よりはるかに広く根源的で、だからこそ哲学と親和性があると池田晶子さんは考えている。だから、禅僧の書いているにもかかわらず、まったく禅的でない上記の本を池田さんは許容しがたかったのだろうと思う。




靖国神社参拝

2013-12-28 07:49:49 | 時事
報道では、安倍首相の今回の靖国神社参拝は国際社会に理解を得られず、同盟国の米国からも批判を受けているという。結果的に大きく日本の国益を損ない、まるで国際社会からの孤立を招いた今の状況は、過去の国際連盟脱退のような孤立感さえ思い起こさせる。相手の立場を思いやることができない姿勢を世界に発信してしまった日本の態度は、いくら説明して理解してもらうといっても無理なのは明らかだろう。ここでいう説明とは、相手に自分の立場を理解してもらうことだろうが、当の日本国自身が相手の立場を思いやっていないのだから、身勝手にも程があるということになる。


さて、靖国神社参拝に関する池田晶子さんの文章を取り上げてみよう。

「霊を慰め、霊を弔うとは誰でも言うが、その霊の何であるかを人は理解しているものだろうか。いやそもそも、そんなものが存在すると思って、人はそう言っているのだろうか。
「あなた、霊は存在すると思うか」。真正面から尋ねてみるなら、誰もが一瞬は答えに窮するに決まっている。誰か総理に質してみればよい。総理、霊を弔うとおっしゃるけれども、霊は存在するとお考えなのですか。もし存在しないとお考えなら、靖国参拝とはナンセンスな行為なのではないですか。」(『41歳からの哲学』「弔うとおっしゃるけれど-霊」より)


池田晶子さんは、霊が存在しないと言っているのではなく、この後の文章で「霊の存在が、なんでそんなに不思議なことなのか。霊の存在ばかりを不思議がる人は、自分が存在するということの不思議を知らないのである。」と、いつもの謂いへ展開していく。


このように考えてくると、靖国神社参拝がこれだけ世界で取り上げられるということは、日本ばかりでなく、世界においても霊の存在を信じていることになるし、世界においても霊を弔うことは共通に行われることと考えていいのだろう。そこで、最初の話に戻るが、そのように霊を弔う場合に、重大な戦争犯罪人も死んでしまった人も皆一緒だとして弔うことは、世界においては考られていないということになる。他国がそれをどうしているかは知らないが、日本においても天皇陛下がA級戦犯が靖国神社に合祀されたことを知って以降参拝されていないということも、むしろ世界と認識を共有しているかのように見える。







出生直後取り違え事件

2013-12-09 06:59:57 | 時事
掲題に関しては、映画やドラマで話題になっていたように思うが、50数年経って出生直後の赤ちゃん取り違えが判明して、病院を訴えて賠償金を得たとの内容の報道に接した。このケースでは、記者会見を開いた人の実の両親は他界しているという。映画やドラマでは、取り違えが子供の頃に判明して、親同士が元に戻そうと努力する話だったが(これも実話だそうだが)、50年以上経って分かった今回のケースでは、既に育ての家族との関係は確立しており、容易に元通りになれる関係とも思えない。

過去にも同じような話が報道されているらしく、池田晶子さんも同様の話題を取り上げている。

「折しも、四十年来親子として暮らしてきた人たちの間に、血縁関係がなかったことが発覚した。お互いに「実の」親子探しに懸命になっているというニュースがあった。
これなどにも垣間見えるのは、四十年という歳月より、見も知らぬ血縁の方を価値とするという心性である。四十年も一緒にいれば、「自然に」親子の情は発生するはずである。しかし、人はそれではなぜか納得しない。「親子の情」が自然なものではないことの端的な証明である。だからそれは何かの幻想なのではないか。どうも私にはそう思える。さらに決定的には、自分の子供は、自分ではなくて他人だということだ。人はこれを見事に忘れている。」(『人間自身考えることに終わりなく』「子供がほしい」より)


この文章の後ろの方では、「氏より育ち」という言葉を取り上げて締めくくっている。つまり、血のつながりよりも、育ての親とのつながりの方が深いのが普通に思われるのだが、今の世間では血のつながりを重視する風潮が強いようである。そして、池田晶子さんも指摘するように、現代においては親子の情はまるで幻想のようでもある。

冒頭の判決の話では、取り違えられた一方は生活保護で貧しい暮らしを強いられ、もう一方は裕福な家庭で大学にも進学したという。結果としてのこの50年の生活は、入れ替わるのが正しかったとマスコミ報道は言いたかったのだろうか。しかし、もちろん過去を変えることはできない。実の親に会えなかったという無念は、当事者以外には分からないものでもあろうが、育ての親との関係が容易になくなるものでもないことは、報道での会見から伺えた。氏より育ちというのは、やはり変わらないように思う。





「養老孟司の大脳博物館」最終回

2013-04-30 22:05:05 | 時事
アエラという雑誌に連載されていた、養老孟司氏の掲題コラムが最終回になったという。池田晶子さんも一目置いていた方でもあり、アエラのこのコラムは必ず読んでいた。

最終回において養老氏が端的に言うには、「人は結局、世のため人のために生きている。」というものだった。

「あの世のことは知らないが、この世では死んだ本人は死んでも困らない。困るのは、生きている人である。私が講演の直前に死んでも、困るのは講演の主催者なり聴講者であって、私は何も困らない。」(掲題連載コラムより)

養老氏の言葉は、当たり前のことをユーモアっぽく語っているように思えるのだが、これをユーモアと捉えると、事の本質をなにもわかっていないということになるのだろう。自分が死んでしまえば、自分は無になってこの世にいないのだから、自分が困るということはありえない。あの世から自分の魂が、申し訳ないと思っているかもしれないが、そんなことはこの世ではわからないし、あの世のことは我々はわからない。

上の文章の後、養老孟司氏は、「自分の命は自分のものではない」ということが、最近の教育から抜け落ちていると指摘する。かつてそのことは、キリスト教が自殺を悪としていたように、宗教が補っていたとする。確かに、宗教に依拠することにより生きることは、ある意味精神的な支えを得ることができよう。しかし、哲学は何故そうなのか、を考える。

人は世のため人のために生きている、自分の命が自分のものではない、ということはどういうことか。人のため、というのは自分以外の人のため、ということだろう。だが、自分とは何か、すら答えはなかったはずだ(nobody)。自分とは何かがわからないのに、自分以外の人のためというのは、一体誰のためなのか。同じように、自分の命とは誰の命なのか。そもそも、人間は命を作ることさえできない(蚊さえ作れない)。人間は単に自然の摂理により、命をつないで子を作っているだけだ。自分とは、命とは、というこの当たり前の不思議さに、考えがどこまで及ぶのかわからないが、考えるしかないのである。


「みんなちがって、みんないい」のか

2013-03-03 10:51:51 | 時事
金子みすずさんの詩はどれもすばらしいと思うのだが、久しぶりに中島義道氏の『私の嫌いな10の言葉』を読んでいたら、「わたしと小鳥とすずと」という題の詩の表題部分に関連して批判をしていた文章があった。。

「小学校の国語の教科書に(私の小学生時代にはなかったのですが)「みんな違ってみんないい」という言葉で終わる詩があり、テレビでその授業風景を見たことがあります。肌の色が白くても黒くても、男でも女でも、背が高くても低くても・・・・みんな違うけどみんないい。でも、それってウソなんじゃないかなあ、と画面を見ながら私はずっと呟いていましたし、子供のころ授業を受けたとしてもやはりそう思ったことでしょう。
じゃあ、殺人者も放火魔も強盗殺人も「みんないい」のかなあ。テストがいつも零点でも、殺される間際までいじめられても、親から毎日虐待され通しでも、「みんないい」のかなあ。そうじゃないから、生きるのがこんなに苦しいのに。」(『私の嫌いな10の言葉』より)

中島氏の言い方は、詩に対するというよりも、授業での取り上げ方をあげつらっているように思うが、金子みすずさんの詩そのものの批判にも聞こえる。「みんないい」とは、存在も行為も善も悪も全て肯定する意味なのか。いやそうではないだろう。詩はあくまで詩なのだから、全てをくどくど説明したりはしない。しかし中島氏は、暗黙の前提や空気を読むことを嫌うから、説明のない詩の内容を、教師が勝手に普遍化することを批判したのだろう。

同じ詩の内容を違った風に取り上げた本も最近読んだ。『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』(清流出版)という本で、ジャーナリストと物理学者の対談本なのだが、意外にも哲学的で面白い内容であった。

「「わたしと小鳥と鈴と」というタイトルなのに、最後の部分で語順がひっくりかえって「すずと、小鳥と、それからわたし」になっている。これは数学的なレトリックですね。「みんなちがってみんないい」だったらみんな勝手にしてもいいになるけれど、「ほかのものがあって、それからわたし」とわざわざひっくり返しているところがポイントです。私の存在は、あなたがいてからこその存在、だという視点ですね。金子みすゞの詩には数学的手法が入っているからおもしろい。」(『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか?』より)

やはり、こちらの詩の捉え方の方が素直で良いと思うのだが。




アルジェリア人質事件

2013-01-27 19:30:20 | 時事
日本人10人死亡という表題の事件は、改めて衝撃を覚えるものであった。ビジネスとして海外に行く日本人は多いし、アフリカにいる日本人ビジネスパーソンも少なくないだろう。現地は軍事地域とされていたというから、アルジェリア軍が守っているという安心感が今まではあったのであろうか。もちろん翻ってみれば、日本に住んで居るから絶対安全という保証もないのだが。

ところで、マスコミや政治家の話ではこの事件をきっかけに憲法と自衛隊も絡めて論じる向きもあるが、憲法改正論議をどうのというつもりはないものの、以下の憲法前文を思い返すと現実との乖離の大きさに言葉もない。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

国際社会は冷戦時代以上に混迷を深めており、諸国民の公正と信義に信頼することは果たしてできるのか。いや、しかしこの前文は人類の理想を表明しているはずであった。人類共通の理想ではなかったか。池田晶子さんの文章は明快に指摘している。

「じっさい憲法の前文など、読むほどに深く安心させられる。お経のようなものである。あれは般若心経である。専制と隷従、圧迫と偏狭に苦しみ、ひとしく恐怖と欠乏から免がれることを希求する我々地上の人類にとって、あのような崇高でありがたいものが存在しているということは、よいことだ。それが現実に即さないからといって、それを現実に即して変えることの理由にはならない。お経が現実的でないといって、人はそれを変えようとするものだろうか。」(『勝っても負けても』「憲法は象徴である」より)

憲法前文は般若心経である、という名文句はもっと知られていいように思う。お経を唱えて死者を弔うように、憲法前文を唱えて世界平和を希求する。日本人にはわかりやすそうな話であるが、世界人類にはどうだろうか。通用しないはずはないが。



似るということ

2013-01-21 23:30:23 | 時事
書類を整理していたら、古い新聞記事が出てきて、冒頭に『正法眼蔵随聞記』の一節が紹介されていた。それは、「霧の中を歩けば、知らないうちに、衣が濡れる。それと同じように、立派な人に近づき接していると、知らない間に、立派な人になる。」というものだ。

確かに、どういう人と交流しているかにより、その人物を見定めるというようなことも、ビジネスの世界などでよく言われる。つまり、衣が濡れるのも、良い意味と悪い意味と両方あるというわけだ。「朱も交われば赤くなる」という言葉も、同様の意味だろう。

かつて警察官が暴力団と間違われて射殺された事件があったが、暴力団対策の警察官はなぜか暴力団員風の風体になってしまう。暴力団に舐められないようにするためだと聞いたことがあるが、しかしそのあまりにも似た雰囲気は、自然にそうなっていってもおかしくないと思わせる。

ところで、 実は以前に読んだ『寅さんとイエス』の一節にも、対象と似てくるという意味の話があった。
「自己にとって最も価値あるもの、大切なものを愛情込めて見つめていると、取るに足りない自分自身もおのずからにその価値あるものに類似してくる。・・・・キリスト教を一言で言えば、神倣いの宗教である。神に倣うこと、神を見つめることによって、人間が神に似た者となってゆく。」(『寅さんとイエス』P.173)

確かにキリスト教は、聖書からキリストの言葉を神の言葉として倣い、神のごとく生きようとするのであろう。そうであれば、自らが見るもの、価値あると思うものに似るということは、書物を通じても同じことが起こるように思える。池田晶子さんが、ソクラテスのように、あるいは小林秀雄氏のように語り得たのは、まさに書物からの神倣いのようではないか。